見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

信濃路紀行:長野善光寺、山本勘助墓

2007-11-27 23:44:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
○長野善光寺~金井山~柴阿弥陀堂~山本勘助墓~胴合橋

 11/24(土)は、朝から善光寺に参拝。本堂の周囲をまわって、松代藩真田家の供養塔群や、森永乳業寄贈の乳牛のオブジェ(善子さんと光子さん)を見つける。前回は前立本尊ご開帳の最中で混雑していたが、今日は人が少なく、百五十畳敷の本堂内陣が寒々しく感じられる。お戒壇巡り(ちゃんと”極楽の錠前”に触れた)のあと、宝物館を見学。NHKの『風林火山紀行』に出た”武田信玄と上杉謙信の位牌”が見たかったのである。銘によれば信玄の位牌は、嘉永5(1852)年に旧臣・藤井石見守の末裔が納めたもの、謙信の位牌も同時期か、と解説にあった。なんだーずいぶん新しいんだなあ。

 それから参道に出て、1本奥の通りにある世尊院に寄る。ご本尊は等身大の銅造釈迦涅槃像だ(善光寺公式サイトにお写真あり!)。厚く重ねたお布団の上に横たわったお姿は、不謹慎だが、気持ちよさげである。けれども、涅槃像の頭と足元には、なぜか毘沙門天と不動明王という物騒な取り合わせがかしこまっている。普通、涅槃像に取り合わせるなら、仏弟子の阿難と迦葉だろうに。このお寺には、摩利支天像もあり、イノシシの背に立ち乗りして弓を引く姿がカッコよかった。絵姿のお札をいただく(お札のイノシシは大狸みたいだったけど)。

 善光寺下から長野電鉄に乗車、松代の1つ手前の金井山で下りる。駅前から柴阿弥陀堂を経て、山本勘助の墓まで徒歩5分。「風林火山」の幟(のぼり)に従えば、迷うことはない。土手を越えた草ぼうぼうの河川敷に、いくぶん高い木を目印にした墓石が立っている。当節の人気を反映して、案内人や土産物屋のテントも立ち、ちょっとした流行神の風情があった。

 墓の由来については、長野市「信州・風林火山」特設サイトの説明が詳しい。生前の勘助そのひとを思わせるような流転の運命を辿っており、現在は、吉池家が墓守りをしている。イベント『川中島の戦い2007』に登場した内野聖陽さんが、ステージ上から「あっ、吉池さん」と嬉しそうに手を振って、あの墓を見たとき、勘助が、大地に生まれ、大地を這うように生きた人間であったことが実感できた、と語っていたのが印象的だった。

 更埴橋を渡って、川中島古戦場(八幡原史跡公園)まで歩く。太陽が高くなって、だいぶ空気が暖かくなった。千曲川の対岸にも、やはり高い土手(堤防道路)が築かれている。土手の内側の河川敷は、農地には使えても家は建てられないのだろう。地味豊かな黒土の畑、曲がりくねった畦道、葉の落ちた柿の木、畑を焼く白い煙。冬の桃源郷とでも呼びたい光景が広がっている。土手の外側は、近代的な舗装道路と住宅地なのに、不思議な対照である。

 大型飲食店のパーキングエリア内にある胴合橋は、「戦死した山本勘助の首と胴を合わせた」という血なまぐさい伝説の場所。観光バスで訪れるツアー客たちが、引きも切らずに立ち寄っていた。

 以下、もうちょっと続く。



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1 コメント

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トリヴィアルなことですが、 (Wako)
2007-11-28 07:42:57
お邪魔します。日付、24日(土)ですよね。
珍しく4連休になったとのこと。いつもながらの精力的な旅の興味深い報告を楽しませてもらってます。
読んでますよ、という証拠(!)のため、書いてます。
でも、実は今年の大河ドラマの方は、私、熱心には観ていません。たぶん、俳優さんが余り好きではない、のが理由です。
ほんとうに、つまらないコメントで、申し訳ありません。(自嘲!)

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