見もの・読みもの日記

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信濃路紀行:松代、真田宝物館と海津城

2007-11-26 23:03:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
○真田宝物館 企画展示『川中島の戦いを科学する』第2期「伝承の中の川中島の戦い」

 松代は2度目である。前回は清水寺の千手観音菩薩立像(平安中期、重要文化財)の拝観を目的とする見仏ツアーだった。そのとき、真田宝物館も見ているはずだが、戦国時代に無関心だった私は、真田氏のことを、ほとんど何も知らなかったと思う。

 けれど、2005年に池波正太郎の『真田太平記』を読んだ。これは面白かった。世に真田氏のひいきが多いわけがよく分かった。さらに今年の大河ドラマ『風林火山』で、真田氏の実質的な初代である幸隆という人物を知り、海津城(松代城)が武田氏によって川中島合戦の備えとして築かれたことを知って、感慨深い再訪となった。

 松代藩は、元和8(1622)年、真田信之(昌幸の長男)を藩主に迎えて以来、幕末まで真田氏9代が領有した。ただし、7代幸専は彦根井伊藩からの婿養子であり、幸専の養女に迎えた婿養子が8代幸貫(松平定信の息子)である。そうかー真田氏って、ちゃんと幕末まで持続したんだなあと思っていたが、幸隆から始まる真田氏の血筋は切れているのだな。実は武家のお家相続って、こうやって養子や養女で繋いでいるところが多いのではないかしら。それをしないのは(近代の?)天皇家くらいか。

 当然、真田家には、多数の古文書が残っているわけだが、江戸中期まで、これを2つの文書箱に入れて、参勤交代のたび、江戸-松代間を持ち歩いていたというのにはびっくりした。1例として展示されていたのは、信玄の書状で、海津城に居た幸隆に、謙信が飯山に出陣するという噂を伝えたもの。なぜか信玄の署名と花押が切り取られているのが不審だったが、天保4年に作られた文書目録でも「御判切ぬき」云々と注記されていた。

 企画展のコーナーでは、川中島合戦図を多数見ることができて面白かった。千曲川の流れは今と違っていて、海津城はもっと川岸に接近していたようだ。ある合戦図には、比較的新しい由来書が付いていた。明治35年5月22日、川中島に行啓した皇太子(のちの大正天皇)のために、真田家門外不出の合戦図を写し、説明に用いた模本だという。どうやらこれが、同系統の合戦図が世に広まる機縁となったらしい。意外と伝統は新しく作られるものだ。

 古いものでは、文化13(1816)年の川中島絵図があった。千曲川の流域は今の姿に近いが、山本勘助塚のそばに諸角豊後守虎定の塚があって、今の伝承とは異なっている。また、幕末の松代藩家老・鎌原桐山(かんばらとうざん)の著『朝陽館漫筆』には、江戸時代半ばに勘助の墓を移転したときの顛末が記されているという。開かれた箇所に勘助の名前は見つからなかったが、飴色の壺とか骨片五枚とか(絵入り)、墓前に干菓子を供えたなどの記述があった。

 宝物館を出て、線路の反対側の海津城(松代城)に向かう。千曲川の河川敷を控え、はるばると視界の開けた気持ちのいい城址だ。ここ来たっけ?と記憶に自信がなかったが、Wikipediaを見ると、平成16(2004)年に太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されたとある。前回、松代に来たのは、善光寺ご開帳の平成15(2003)年だから、たぶん工事中だったのだろうと納得。

 それにしても11月の信州は寒い。正面の戸隠山はもう真っ白である。近くの空は青く晴れているのに、高山の真上だけは、魔物でも住んでいるかのように灰色の雲の笠に覆われている。まだ3時台というのに、風が冷たくなってきた。今日は明るいうちにバスの中から川中島を眺めることにし、松代を後にした。

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