〇辻田真佐憲『文部科学省の研究:「理想の日本人像」を求めた百五十年』(文春新書) 文藝春秋 2017.4
本書は、文部省(文部科学省)と「理想の日本人像」を通じて、明治維新このかた約百五十年の教育史を明らかにする試みだという。趣旨は分かる。文部省(文部科学省)というのは、学校教育を受けて育ってきた多くの日本人にとって、なじみ深い官庁であるが、私は、さらに大学時代に教員免許を取得するため、教育史などを履修した。そのとき、「期待される人間像」(1966年)などの存在を知り、文部科学省の掲げる「理想」が、あちらこちらに揺れながら、進んできたことをはじめて知った。もっと遡って、明治維新以降の「学制」→「教育令」→「改正教育令」という流れも、このとき知った。結局、私は教員にならなかった(なったけどすぐ辞めた)が、この国の近代教育史を大づかみに理解できるようになったのは、ありがたかったと思っている。
明治新政府では、当初、1869年に設置された大学校が最高学府と教育行政機関を兼ねており、洋学派の牙城だった。1871年、文部省が設置され、翌年、中央集権的教育制度を掲げた「学制」が頒布された。しかし、壮大すぎた「学制」の理想は見直しを迫られ、1879年、地方の裁量を広く認めた「(自由)教育令」が制定される。折しも巷間で自由民権運動が盛り上がりつつあったことが保守派の危機感を招き、1880年、再び干渉主義的な「改正教育令」が発行される。教育行政は復古的な儒教主義が強まった。
そこで、啓蒙主義でも儒教主義でもない「第三の道」を具現化したのが「教育勅語」(1890年)である。執筆の立役者は、絶妙のバランス感覚の持主だった井上毅で、元田永孚などと相談しながら「その介入を絶妙にかわしつつ」執筆した、というのが本書の評価である。うーむ、現代人から見ると儒教主義(日本化した)が目立って見えるが、当時の感覚は違うのかもしれない。
その後も文部省の掲げる「理想の日本人像」は、普遍主義と共同体主義の間で、よく言えば柔軟に、右往左往してきたが、1930年代半ば以降、共同体主義に偏りすぎ、『国体の本義』や『臣民の道』を生み出すに至る。これを著者は「マルクス主義の幻影に怯えすぎたのかもしれない」と批評する。
以下、戦後。1947年「教育基本法」が公布される。法令にしては平易で美しい文章だと思うが、当時食うや食わずの国民は関心を払わなかったとか、普遍主義を強調しすぎて空虚であるという著者の批判には、頷ける点もある。私は自分の趣味が日本固有の文化や歴史に偏っている分、法令などは普遍主義でいいと思うのだが、社会の標準的な感覚は違うんだろうなあ。普遍と共同体主義と、どちらかに偏れば必ず反動を招くというのは、現実の歴史を見て理解できる。
高度経済成長期に突入すると、文科省は日教組に連戦連勝の体制となる。このあたりから私自身が見てきた時代なのだが、私は日教組に縁のない学校生活を送ってきたので、どこか違う国の話のようで、逆に興味深かった。しかし日本の社会は、文科省と日教組の対立をよそに経済成長に未来を見出していた。1966年の「期待される人間像」に示されたのは「愛国的な企業戦士」だった。
80年代、経済成長の鈍化を受けて、がむしゃらな企業戦士像の見直しが迫られ、知識の詰め込みから「ゆとりある日本人」への転換がうたわれた。90年代には、日本は政治社会の両面で未曽有の変化に直面し、これ以降、日本の教育は「グローバリズムとナショナリズムの間を彷徨する」。まあひとことでいえば、この状態が2017年の今日になっても続いている、という認識には同意できる。どうすればいいかといえば、必要なのは理念の「実装」であると著者は答える。
確かにそのとおりだと思う。大胆な改革とか革新的な政策というのは、字面はカッコいいが、それだけのことだ。「安定的かつ中立的に教育に取り組む組織」「抽象的なイデオロギーを(略)現実的な制度に組み立て直す役回り」こそが重要なのであり、少しくらいフットワークが悪くても、舵取りが時々左右にぶれてもいいのだと思う。変に偏った方向にアクセルを踏んで、かつての二の舞にならないよう、願いたい。

明治新政府では、当初、1869年に設置された大学校が最高学府と教育行政機関を兼ねており、洋学派の牙城だった。1871年、文部省が設置され、翌年、中央集権的教育制度を掲げた「学制」が頒布された。しかし、壮大すぎた「学制」の理想は見直しを迫られ、1879年、地方の裁量を広く認めた「(自由)教育令」が制定される。折しも巷間で自由民権運動が盛り上がりつつあったことが保守派の危機感を招き、1880年、再び干渉主義的な「改正教育令」が発行される。教育行政は復古的な儒教主義が強まった。
そこで、啓蒙主義でも儒教主義でもない「第三の道」を具現化したのが「教育勅語」(1890年)である。執筆の立役者は、絶妙のバランス感覚の持主だった井上毅で、元田永孚などと相談しながら「その介入を絶妙にかわしつつ」執筆した、というのが本書の評価である。うーむ、現代人から見ると儒教主義(日本化した)が目立って見えるが、当時の感覚は違うのかもしれない。
その後も文部省の掲げる「理想の日本人像」は、普遍主義と共同体主義の間で、よく言えば柔軟に、右往左往してきたが、1930年代半ば以降、共同体主義に偏りすぎ、『国体の本義』や『臣民の道』を生み出すに至る。これを著者は「マルクス主義の幻影に怯えすぎたのかもしれない」と批評する。
以下、戦後。1947年「教育基本法」が公布される。法令にしては平易で美しい文章だと思うが、当時食うや食わずの国民は関心を払わなかったとか、普遍主義を強調しすぎて空虚であるという著者の批判には、頷ける点もある。私は自分の趣味が日本固有の文化や歴史に偏っている分、法令などは普遍主義でいいと思うのだが、社会の標準的な感覚は違うんだろうなあ。普遍と共同体主義と、どちらかに偏れば必ず反動を招くというのは、現実の歴史を見て理解できる。
高度経済成長期に突入すると、文科省は日教組に連戦連勝の体制となる。このあたりから私自身が見てきた時代なのだが、私は日教組に縁のない学校生活を送ってきたので、どこか違う国の話のようで、逆に興味深かった。しかし日本の社会は、文科省と日教組の対立をよそに経済成長に未来を見出していた。1966年の「期待される人間像」に示されたのは「愛国的な企業戦士」だった。
80年代、経済成長の鈍化を受けて、がむしゃらな企業戦士像の見直しが迫られ、知識の詰め込みから「ゆとりある日本人」への転換がうたわれた。90年代には、日本は政治社会の両面で未曽有の変化に直面し、これ以降、日本の教育は「グローバリズムとナショナリズムの間を彷徨する」。まあひとことでいえば、この状態が2017年の今日になっても続いている、という認識には同意できる。どうすればいいかといえば、必要なのは理念の「実装」であると著者は答える。
確かにそのとおりだと思う。大胆な改革とか革新的な政策というのは、字面はカッコいいが、それだけのことだ。「安定的かつ中立的に教育に取り組む組織」「抽象的なイデオロギーを(略)現実的な制度に組み立て直す役回り」こそが重要なのであり、少しくらいフットワークが悪くても、舵取りが時々左右にぶれてもいいのだと思う。変に偏った方向にアクセルを踏んで、かつての二の舞にならないよう、願いたい。
イデオロギーの問題より、いっぱい勉強させるか、あまり勉強しなくていいようにするか、それが「実装」の実質になっているのは、今いい感じなように思いました。
いろんなジャンルを勉強させていただきありがとうございます。誤植、1971年。