○加藤徹『京劇:「政治の国」の俳優群像』(中公叢書) 中央公論新社 2002.1
昨年、同じ著者の『西太后』(中公新書 2005.9)を読んだときから、次はこれを読みたいと思っていた。しかし、この「中公叢書」というシリーズは、小さな本屋では、なかなか置いていない。先日、神田の東京堂書店で、竹内洋の『大学という病』(中公叢書 2001.9)を探していて、同じ並びに本書を見つけた。嬉しくて、すぐに一緒に買って帰った。
本書は、著者によれば「京劇および関連劇種をめぐる人間ドラマを取り上げたノンフィクション」である。結果的に、清初から現代までの三百数十年にわたる京劇の歴史を概観することができるが、個々の演目や技について、詳しい解説があるわけではない。しかし、本書を一読すれば、そんな瑣末な知識をむさぼる以前に、京劇という芸術の「人間味」に圧倒され、まだ見ぬ京劇のファンになること請け合いである。
いつも思うのだが、中国人の「激烈な人生」というのは、日本人の考える限界をはるかに超えている。本書に登場する京劇の名優たちも、皆(男も女も)目の醒めるような個性を持ち、途方もなく激烈な人生をおくっている。
近代初期の俳優たちは、時々の権力者たちと意地で戦い抜いた。西太后の気まぐれな「京劇改革」に従うと見せてこれを利用し、芸をみがいた俳優たち。袁世凱の誘いをはねつけ、身を売らず、芸を売る態度をつらぬいた女優・劉喜奎。秘密結社「青帮」にたてついた余叔岩。抗日戦争期には、多くの俳優が、日本人のための舞台に立つことを拒否し、女形の梅蘭芳は髭をのばして抵抗した。しかし、満州国の名優・程永龍のように、国共内戦の混乱によって困窮し、瀋陽大戯院の楽屋でひっそりと餓死した者もいる。
中華人民共和国の成立から文化大革命の前夜まで(1949-1965)の17年間は、国を挙げての京劇改革が行われた。それも束の間、中国は文革の混乱期に突入する。
1966年8月23日、造反派は文芸界の幹部たちを北京の孔子廟に連行し、暴行を加えた。このとき、暴行を受けたのは、作家の老舎、蕭軍、京劇俳優の荀慧生、馬富禄など。これを「孔廟事件」と呼び、映画『さらば、わが愛』にも描かれているのだそうだが、認識していなかった(映画も見てるのに)。北京の孔子廟といえば、4年前に行ったところだ。昨年、中国で聞いた話では、北京オリンピックに向けて、孔子廟一帯では、古きよき北京の面影を復活させる計画が進んでいるらしい。歴史は遠くなりにけりか。否、忘れたように見えて、彼ら(中国人)は忘れないんだろうな、一度起きた歴史を。
文革の犠牲になった俳優たちの逸話は、どれも涙なしには読めない。名優・蓋叫天は80歳近くして造反派の暴行に遭い、半身不随になった。それでも舞台復帰を諦めず、上半身の鍛錬を続けたが、83歳で没した。彼の座右の銘は「学到老(死ぬまで勉強)」だったという。合掌。
概括的な知識では、京劇のルーツが安徽省の地方劇であるというのが興味深かった。清の乾隆年間、安徽省と湖北省の地方劇が北京で出会って融合し、次第に北京化して、京劇が成立したのだという。これで、安徽省に行ってみたい理由が、また1つ増えた!
それから、万事に「早熟」な中国文明において、演劇は例外的な「大器晩成」だった(歴史が浅い)という指摘は、言われてみれば、なるほどと思った。また、近代中国は「意外と二次伝統が乏しい」というのも面白い。近代国家に「二次伝統」(共同体のアイデンティティーとして自覚的に再創造された伝統)は、つきものである。アメリカ然り、日本然り。けれど、中国の場合、一次伝統が過剰に存在したためか、二次伝統の再創造よりも、一次伝統を創造的に破壊することに重きが置かれた。だから、京劇には女優が進出できたし、マイクや電子楽器を使うことにも中国人は躊躇がないのである。この観点、中国文明論として、かなり鋭いと思う。
昨年、同じ著者の『西太后』(中公新書 2005.9)を読んだときから、次はこれを読みたいと思っていた。しかし、この「中公叢書」というシリーズは、小さな本屋では、なかなか置いていない。先日、神田の東京堂書店で、竹内洋の『大学という病』(中公叢書 2001.9)を探していて、同じ並びに本書を見つけた。嬉しくて、すぐに一緒に買って帰った。
本書は、著者によれば「京劇および関連劇種をめぐる人間ドラマを取り上げたノンフィクション」である。結果的に、清初から現代までの三百数十年にわたる京劇の歴史を概観することができるが、個々の演目や技について、詳しい解説があるわけではない。しかし、本書を一読すれば、そんな瑣末な知識をむさぼる以前に、京劇という芸術の「人間味」に圧倒され、まだ見ぬ京劇のファンになること請け合いである。
いつも思うのだが、中国人の「激烈な人生」というのは、日本人の考える限界をはるかに超えている。本書に登場する京劇の名優たちも、皆(男も女も)目の醒めるような個性を持ち、途方もなく激烈な人生をおくっている。
近代初期の俳優たちは、時々の権力者たちと意地で戦い抜いた。西太后の気まぐれな「京劇改革」に従うと見せてこれを利用し、芸をみがいた俳優たち。袁世凱の誘いをはねつけ、身を売らず、芸を売る態度をつらぬいた女優・劉喜奎。秘密結社「青帮」にたてついた余叔岩。抗日戦争期には、多くの俳優が、日本人のための舞台に立つことを拒否し、女形の梅蘭芳は髭をのばして抵抗した。しかし、満州国の名優・程永龍のように、国共内戦の混乱によって困窮し、瀋陽大戯院の楽屋でひっそりと餓死した者もいる。
中華人民共和国の成立から文化大革命の前夜まで(1949-1965)の17年間は、国を挙げての京劇改革が行われた。それも束の間、中国は文革の混乱期に突入する。
1966年8月23日、造反派は文芸界の幹部たちを北京の孔子廟に連行し、暴行を加えた。このとき、暴行を受けたのは、作家の老舎、蕭軍、京劇俳優の荀慧生、馬富禄など。これを「孔廟事件」と呼び、映画『さらば、わが愛』にも描かれているのだそうだが、認識していなかった(映画も見てるのに)。北京の孔子廟といえば、4年前に行ったところだ。昨年、中国で聞いた話では、北京オリンピックに向けて、孔子廟一帯では、古きよき北京の面影を復活させる計画が進んでいるらしい。歴史は遠くなりにけりか。否、忘れたように見えて、彼ら(中国人)は忘れないんだろうな、一度起きた歴史を。
文革の犠牲になった俳優たちの逸話は、どれも涙なしには読めない。名優・蓋叫天は80歳近くして造反派の暴行に遭い、半身不随になった。それでも舞台復帰を諦めず、上半身の鍛錬を続けたが、83歳で没した。彼の座右の銘は「学到老(死ぬまで勉強)」だったという。合掌。
概括的な知識では、京劇のルーツが安徽省の地方劇であるというのが興味深かった。清の乾隆年間、安徽省と湖北省の地方劇が北京で出会って融合し、次第に北京化して、京劇が成立したのだという。これで、安徽省に行ってみたい理由が、また1つ増えた!
それから、万事に「早熟」な中国文明において、演劇は例外的な「大器晩成」だった(歴史が浅い)という指摘は、言われてみれば、なるほどと思った。また、近代中国は「意外と二次伝統が乏しい」というのも面白い。近代国家に「二次伝統」(共同体のアイデンティティーとして自覚的に再創造された伝統)は、つきものである。アメリカ然り、日本然り。けれど、中国の場合、一次伝統が過剰に存在したためか、二次伝統の再創造よりも、一次伝統を創造的に破壊することに重きが置かれた。だから、京劇には女優が進出できたし、マイクや電子楽器を使うことにも中国人は躊躇がないのである。この観点、中国文明論として、かなり鋭いと思う。