京都北山細野の神主

日々感じる事を想いのままに書き綴っています。神主として品位に欠ける表現が有るのはボケが始まったとお許しください

イジメ問題はイジメル側からの解決が大切である

2015年03月03日 | 教育(家庭教育を含む)

今年もまた痛ましいイジメが起こりマスゴミが連日報道をしています。

平成24年に下記のようなブログを書きました。もう一度読んでいただきたいと思います。

イジメ問題は弱者の立場からでは解決しない

2012年10月12日 | 教育(いじめ問題も含む)

こんなにイジメ問題が次々と出て来て未だに無くならない。解決しないのには原因がはっきりしていると思うのです。

いじめ防止のどの案も「虐められる側に立った解決方法」弱者の立場からなのです。

「虐める側(強者)からの解決方法」をとらなければ永遠にイジメ問題はおこって来ます。

弱者はイジメに遭います。イジメに遭ったものの解決方法を今まで一生懸命に考え、実行しようとして来ました。

イジメがおこらなければイジメ問題はありません。イジメがおこってからではイジメを無くすることは出来ません。

イジメに遭った子供(弱者)の教育(?)しか出来ていないのでは?

まず最初にしなければならないのは、虐める子(強者?)の教育ではありませんか。

昔、私たちは「ヨワイものイジメは卑怯な奴のすることだ」だから、ヨワイものイジメはやれば大人から、友達から制裁を受けて来ました。

「卑怯な奴」と言う言葉は「キタナイ奴」と同じように男の子(勿論女の子も)にとっては一番侮辱的な言葉でした。

何時の時代からか大人の世界でも「卑怯者」とか「キタナイ奴」は政治家や金儲けが人生と考える人たちにとっては「卑怯でもキタナイ手段を使っても」金さえ儲ければ、地位さえ得ることが出来るのならすすんで取り入れられる手段として褒め言葉になってしまったのではないでしょうか?

強い者は弱い者を守る義務があると言う道徳,宗教を子供の心に植え付けなければ永遠にイジメは無くならないと思うのですが。

「神様が見てはるよ!」と言える大人が増えないことには、告げ口ばかりで自分で解決出来ないヨワイ子供たちと、ヨワイものイジメをする「卑怯な子供」が今後も増え続けるのではないでしょうか。

まず,大人が「卑怯な手段」「キタナイ手段」を戒めなければ、子供たちの手本は大人の行動なのですから。

神に誓っても嘘をつく、近隣敵国の国民性に近づいてきましたね。(神を信じている周辺敵国民はいませんね)

イジメをする子供の側からのイジメ防止策をとらなければイジメは永遠に無くならないと思います。平成24年の私のブログから

イジメル側からの防止策とは?上記のように「弱いものイジメは許さない」という日本国民の合意が大切です。

教育現場で解決出来ないのは先生方、教育委員会、、マスゴミ、テレビに出てくるコメンテーターなどの人達が子供の頃は勉強一筋の「いじめられ児」だったから「いじめられる子供の立場」は良く判るのです。だからいじめられる側の報道やコメントばかりなのです。

彼らの言う対策は先生や親や警察にお願い(いじめる子供からしたら告げ口)するしか方法が無いのです。

いじめる立場の子供の心理、そのリーダーに従う弱い手下たちの心理を判らないマスゴミの報道だけでは今現にいじめに会っている子供たちや親たちには救いになりません。

実際にいじめに遭っている子供たちの心理だけを繰り返し報道していますが「誰にも、親にも打ち明けられない」弱い子供たちが沢山いるのです。

イジメル側に立った対策は、ハッカー対策にヒントを得ることが出来ます。世界のハッカー対策はハッカーを利用することから始めています。

いじめ対策はイジメをして来た元リーダー、現リーダーから学ぶことです。

いじめられる子供にもいじめられる隙があるのです。それは現にイジメのリーダーが一番知っています。

いじめられ児を救うのと同時にいじめっ子をも再生させる方法でもあるのです。

子供の頃真面目だった大人には子供のワルの気持ちが理解出来ないのです。

思い切ってワルから解決方法を学んで下さい。

追伸

残念なことに特亜の子弟がイジメル側に絡んだ場合は民族の特性から残忍なイジメに発展することがあります。

この場合はいち早く親が休学なり転校なりさせて庇ってやらなければ悲劇的な結果になってしまいます。

在日の子弟が重大ないじめ問題を起こした場合は親も含めて母国への強制退去を行なわない限り少年法で解決することは出来ません。

短い補導では再犯率が極端に多く少年院出所後にはよりひどい犯罪を犯すことがありますから。

大和の国は日本人が国民だったから大いなる和の国だったのです。

日本人に成れない民族が共生出来る国ではないと世界に知らせなければなりません。

わが国は昔から日本人に成りたい人は受け入れて来た大らかな国でした。

これからも世界に開けた大らかな国でありたいと思いますが反日思想を持つ者を受け入れることは子孫に対する負の遺産ですから許すべきではありません。

 

子供はあそびの中から生活の知恵を学びます・子供たちを遊ばせてやってください

2014年03月07日 | 教育(家庭教育を含む)

子供たちを遊ばせると言う事は「ゆとり教育」を推奨するものではありません。義務教育では知識は詰め込まなければなりませんが同時にあそびの時間を大切に過ごさせる事によって友情やチームワークを育てる元を作る事です。

受験勉強やサッカーや野球のプロを目指す倶楽部に入れる事ではなく学校や地域の倶楽部で楽しめるスポーツを覚えさせる事です。

何が何でもプロを目指す、甲子園を目指す、野球部員が1つの高校で100数十人、それが野球名門校の過当競争の現状を見るにつけこんな状態が学校教育の場でイマダに行われている事こそ異常です。

チームワークを育てるのではなく、仲間を蹴落とす方法を教えている、周囲は皆ライバルと言う状態ではマトモな学校教育とは思えません。

昔の中国の悪しき科挙の制度がよみがえって来たようです。明治以後の帝国大学を頂点とする学校教育の悪しき部分が今蘇ったようでこの先の日本の子供たちの心の廃れが心配です。

<子供の学習はあそびの中から始まります。ライオンもチンパンジーも昔の日本の子供たちも。

世界一の長寿国になったのに現代の子供たちは勉強から始めています。

「三歳児教育」どころか「胎教」など馬鹿げた、愚かなことを真剣に実行する親もいます。

仕事に就く年齢が少しぐらい遅れても良いのでは「子供の頃にしか体験出来ない楽しみ」や「青春時代しか体験出来ない悦び」があることを。

20年以上長寿になった今、少しぐらい仕事のスタートが遅れても良いのではないか。

青春が短く、老後が長いのが今の日本の現状です

子供時代に群れて思い切りあそび、人生経験を豊かにして、長くなった人生を悔いのないものにしてほしいものです。>

上記文章は30年ほど前に子供たちに伝承あそびを教えるグループ「日本野あそび協会」を立ち上げた時に書いたものです。

今も考えは変わりませんですがあの頃の親と今の親達は少しですが変わって来ました。

あまり変わっていないのが当時も今も親が日本の良き習慣の伝承を受けていない事です。

しかし、変わって来たのが今の親達が当時の親に比べて日本人としての自覚が出て来た事です。

これからは小さな子供たちに伝えるだけではなく、今の親達にも日本の良き習慣、伝承文化を伝える事だと思います。

それが戦前から生きている我々年寄りの最後のご奉公では無いでしょうか?蓄えた老後の資金をもっぱら自分のためだけに浪費するのではなくて。

(私には蓄えは無く少ない年金と子供からの仕送りで生活していますので、偉そうな事は言えませんが)

 

 

 


教育について思うこと ⑷ 師範学校制度の復活を

2014年02月23日 | 教育(家庭教育を含む)

義務教育の徹底強化によって日本の教育は立て直すことが出来ると考えます。

昔の学校の先生は師範学校と言う先生専門の養成学校卒業生が多く居られました。後の学芸大学や教育大学と名を変えて今も存続していますが。

今はどこの大学の学部でも教職課程をとれば先生になる資格はとることが出来ます。だから、学生達は立派な先生になることを目指して教職課程をとっているのではありません。単なる労働の報酬を得るために教職者になるのです、始めから先生と言う聖職を目指して学んだ人ではありません。

特に、義務教育期間の先生はその子の一生に大きく影響する重大な役割があるのです。

人生の始めの部分で反日的な日教組やカルト教団大学の出身者に我が子を託すと言うことは現実を知れば親として耐えられないことです。

特に小学校の場合は担任の先生の影響は大きなもがあります。私にとって小学校と中学校の最終学年の担任に良い意味で人生を変えられました。

小学校の久保先生、中学校の芦川先生のおかげでその後の私の人生が形成されたと思って感謝しています。

何が違うか?簡単なことです。お二人の先生方は子供の個性を見抜き、理解してくださいました。

子供にとって自分を理解してくれる人が親以外に居ると言うことは大感激であり、大安心なのです。

今では1学級の生徒の数が多すぎるだの、30人学級や35人学級にしろと先生達はおっしゃっていますが当時は1学級50人以上が普通でした、そのうえ中学校の時には1学年12組もありました。そんれよりも驚くことには補導を担当されている先生はほぼ全校生徒を把握されていました。

それでも子供の一人一人の個性を把握して教育されていたのです。今もそのような立派な先生は居られるし、目指す先生も居られるでしょう。

一時流行った「デモ、シカ先生」(懐かしい言葉ですが)では無くて聖職者としての先生の養成を世の親たちは国に要請すべきです。

それには単に大学を出て知識の切り売りをするのではなく立派な子供を育てると言う使命感を持った先生を養成する「師範学校」の復活を検討して欲しいと思うのです。

「出藍の誉れ」と言う言葉こそ教える者の誇りとして欲しい。

能力ある弟子の梯子を外したり、弟子の業績を自分の手柄にする大学教授の見苦しさを見聞きるにつけ、初等教育者の聖職者としての地位を確立することの大切さを感じるのです。


教育について思うこと ⑶ なぜ多くの若者が大学に進学して青春を浪費するのか?

2014年02月22日 | 教育(家庭教育を含む)

神道では人は神のミタマを頂いてこの世に生まれて来ます。そして、一生を終えればミタマは神の元へ戻ります。

前世も来世もありません、今生(コンジョウーこの世に生きている間、この世)が総てなのです。

だから、人は一生を大切に生き抜かねばなりません。それが神さまの御意思なのです。

人の命は限られています。人それぞれに歩む道も違います。戦後、大学さえ出れば楽な生活が出来ると錯覚してしまい大学に進学するようになりました。

大卒という看板が効果があったのでしょうか? 戦前でも「大学はでたけれど」という嘆き節はありました。

親の見栄、本人の見栄、肩書きの好きな日本人になってしまったのです。肩書きで飯が食えたのは昔の話で、今や大卒も非正規社員やパートタイマーになるしか仕事がないのでしょう。

この現象は大卒者の質が落ちたことを意味しているのです。専門知識も会社の将来を託せるような能力を身につけずに卒業して来た大卒者が多いことを意味しています。

人間として、日本人として神さまからのミタマをもらって生まれて来たものは、自分の人生に責任を持って進まなければなりません。

しかし、現状は本人も親も、将来を他人の手にゆだねているのです。一流大学にさえ入れば、一流企業に入れて、人生は安泰だと言うはかない神話に騙されて。

昔から、自分の能力以上に出世した奴は居ません。一時は羽振りが良かっても、能力以上のポジションや報酬を得ても、人生の途中で挫折してしまうものも、晩節を汚してしまう者も沢山居ることも大人は経験していることなのです。

なぜ、親や祖父母はそのことを子供たちに教えないのでしょうか?

団塊の世代以後の親達は完全にその辺りの判断力を失っています。

今、20歳から40歳代の子育て真っ最中の親達は子供たちがこれからの日本で、世界で、生き抜ける教育をしてやって欲しいと思います。

総ての子供たちが大学を出て大企業に就職したり、国家公務員になれるわけでもありませんし、この道がこの子のために最適な道ではないことは本人と親が一番判断出来るのですから。

義務教育は中学校で終わっているのです。中学校まで学んだら大人の仲間に入れて実業の道に進める資格が着いたと判断しているのです。

そのための義務教育期間なのです。大人としての資格を得たのです。昔は15歳で元服式を迎えたのです。この歳に大人の仲間入りをしたのです。

武士の子は戦いの場に出る歳になったのです。だから、子供の頃から人生に正面から取り組んだのです。

身も心も大人だったのです、今の子供も15歳で成人になっているのです。それを、20歳まで成人になるのを延ばしたばかりに幼児還りしてしまって成人式では暴れるぐらいの事しか出来なくなってしまったのです。

一番学ばなければならない時期、一番身体を鍛えなければならない時期を「ユトリ教育」などというバカ学者のホザクことを真に受けて進めて来た文科省や日教組の怠慢を今改めなければ日本人は腑抜けたままになってしまいます。

義務教育期間を有効に、知識を学び、身体を鍛えることに専念しなければ、府抜けた若者を軍隊に入れて鍛え直さなければというバカな発言をする大人がまた出て来ます。(本来はそんな発言をする奴を鍛え直したら良いのですが、税金の無駄か!)

府抜けた大人を無理に鍛えれば、どうなるか?ぐらいは考えなくても判ることでしょう?

気が狂うか、身体を壊すか、朝鮮や支那のように親が賄賂を贈って我が子を腑抜けのままにしてもらうのが結論です。

勉強が好きな子には進学して勉強をさせば良いし、能力のある子供には国が金を出してでも勉強出来る環境を用意してやれば良いのです。

手先の器用な子供や商売に関心の有る子には専門学校で技術を習得出来る道に進ませてやることが大切です。現場ではたらいて地道に経験を積みたい子にはそのような道に進ませてやれば良いことです。

子供にも自分の進む道を15歳までに決定させてやれば良いのです。途中で意思が変わってもまだこの歳なら変えること可能なのです。

悔いない人生は自分の意志を達成することです。親が子供の人生を勝手に決めつけることは控えるべきだと私は思うのですが。

成人になったら子供に自分の意志で決定させる(巣立ちさせる)のが動物としての親の勤めではないでしょうか?

巣立ち出来ない子供のことを人間社会ではニートと言うのですか? 

巣立ちさせることが出来ないのは動物の親としては失格ではないでしょうか。

 

 


教育について思うこと ⑵ 子供は母親に育てられる

2014年02月21日 | 教育(家庭教育を含む)

結婚相手を決める時にはその母親を見て決めろと良く言われますが、私は少し疑問を持っています(私の苦い経験から?)

父親が何から何まで決めつけるような家庭では娘は父親の影響をモロに受けて育ちますから、子供にも亭主にも自分の父親と同じ態度で臨みます。

母性の欠如した攻撃的な母親を最近は見受けられます。こんな母親に育てられたら男の子はイジケルか、グレルか、しかありません。

女の子は母親と同じように攻撃的な女になります。近頃男言葉(それも下品な)で大声でしゃべる女の子を良く見受けるでしょう。

テレビでも時々元女プロレスの何とか言うのが品のない男言葉でガナッていますが、(コマーシャルまでも出て)あんなのです。

食事中などに見たら食っているものが不味くなってしまいます。

全く最近は日本人までが観光地で大声でガナル品性下劣な支那人や朝鮮人のレベルまで落ちてしまいました。きっと、支那や朝鮮では昔から母親の地位が低いのでしょうね。

戦後、高学歴が就職に有利と言うことと、経済的に皆が豊かになり大学に行くことがアタリマエのようになり、駅弁大学(懐かしい言葉です)が乱立して大学にすすむものが圧倒的になりました。

その割には、戦後「教養」という言葉が無視され、品のカケラもない先生方を輩出して来ました。大学を出ても受けた教育が「教養」まで高まっていないのですね。

高校の受験レベルの知識で停まってしまっているのです。最高学府で学ぶだけの教養が会得されていないのです。

私は戦後の教育の失敗は家庭で教育がなされなかった結果だと思います。躾や道徳、日本人としてのしきたりが教えられるのは家庭教育しかないのです。

学校で先生の言うことを聴かない子供が増えているのは、学校に行くまでの親の教育がなされなかったせいなのですから。

ろくに家庭教育をやれなかった親が学校教育のせいにすることは本末転倒です。(日教組と言う癌のせいもありますが)

我が家の末永い繁栄を望むのなら母親が母性豊かに子供を育てなければなりません。母親が真剣に子供を育てるようになればニートや登校拒否やイジメも無くなるのは確かです。

結婚して、子供を作ったら、自分の生活は犠牲にしても子育てに専念することは、動物でもやっているのです。

親の役目は生んだ子供を自立させることだけなのです。動物の世界でも子供を育てるのは母親の役目なのです。

そのために、女性として生まれて来たのです。昔から日本の女性は一家の中心だったのです。だから力があったのです。丈夫だし、長生きだし、男はかなわなかったのです。

昔から女性が虐げられていたとか、戦後は女性の地位の向上とか、ジェンダフリーとか言い出してからですよ、女性の地位が下がり出したのは。

平等、平等と騒ぎすぎたから格差がひどくなったでしょう。

平和、平和とお題目を唱えるだけでは支那や朝鮮に好き放題にされているでしょう。

家庭の安泰があって、地域の安泰があり、地域の安泰が、日本の安泰に、日本の安泰が、世界の平和に繋がるのです。

家庭を安泰に出来るのは母親(女性)なのです。

戦後、団塊の世代は誤った教育を受け、子供たちを誤って育てました。(家庭での教育を放棄して、学校や塾に丸投げしました。)

今の子供たちの親です。

親達は子供たちと一緒にもう一度正しい勉強をしてください。特に母親は、今ならまだ間に合いますから。今母親が手抜きしたなら日本の国は抜き差しならないところまで落ち込んでしまいます。

日本の国を取り戻せるのは政治家でも学者先生でもないのです。総ては母親の子育てにかかっているのです。

(と言って男として逃げているわけではありません、本当のことですから)

 

 

 

 

 


教育について思うこと ⑴ 家庭教育

2014年02月18日 | 教育(家庭教育を含む)

教育とは<教え育てること、望ましい知識、技能、規範などの学習を推進する意図的働きかけの諸活動>(広辞苑)

 

我が子の教育は親の仕事です。動物の中にも群れで教育をするのもいますが。人も同じことです。いや、人の方が身内で立派に育て上げなければなりません。

子供を育てると言うことは子供を自立させることのはずです。生んで大人にするだけでは親の責任を果たしたことにはならないのです。

それが何時の時代からか(主に戦後ですが)共産圏や全体主義の国々のように親から子供を引き離し、独裁国家の言いなりの人間に育てるようになりました。

本来、義務教育とは(義務とは=自己の立場に応じてしなければならないこと、また、してはならないこと)まず、一義的には教育は本人、また保護者の義務ではなかったのでしょうか?

義務教育を受ける、受けさせると言うことは。本人、保護者の責任で日本国民として生きて行く常識の教養を身につけさせると言うことであったはずですね。

それが、いつの間にか国家の義務にすり替わったのではありませんか?

だから、本人にとっては嫌なことをやらされていると言う感覚を持って受け止めているのです。

本人も親も義務教育の間は無料で子供の世話をしてもらって当たり前だと思っているのです。

それが最近では義務教育以前の幼児まで国が面倒見るのがアタリマエのようになって来ました。

結婚して(結婚しなくても)、生んだ子供を自立するまで育てるのは親の義務だと言うことを放棄してしまっている輩が増えて来ています。

子育ては大変です、だから親がまず真剣に取り組んで行かなければならないのです。

国も母親(女性)を企業の労働力と見るのはやめるべきです。次世代の子供を育て家族の基礎をシッカリ固める大黒柱として母親(女性)を見て行かねばなりません。

馬鹿な母親が仕切っている家族は崩壊しています。しっかりした、賢い女性が中心の家族は安心です。

日本の国は昔から「女ならでは夜の開けぬ国」でした、一番偉い神さまも女神さまなのです。

ジェンダフリーなど騒ぐ輩は女性の地位を貶めているのに気がつかないアホなのです。

日本は「男尊女卑」の国柄ではありません、昔から「女尊男卑」の国柄だったのです。

だから今も家庭では亭主の居る場所もないでしょう。(私のように。冗談です)

学校教育より、まず、家庭教育が大切です、次回に続けます。

 

 

 

 


政府は道徳教育に力を入れると言ってるが?

2014年02月14日 | 教育(家庭教育を含む)

世の中、道徳心のカケラも無い支那人や朝鮮人の攻撃を政府が反撃を出来ないのにわが国の子供たちに通り一遍の道徳教育を増やしても効果があるのか?

だます奴よりだまされる方が悪いと言うような価値観しか無い輩が隣の国から反日的マスゴミや日教組を使って日夜攻撃を仕掛けているわが国の学校でどれだけやれるか?

税金の無駄使いになるのと違いますか?

戦後日本の道徳心の低下は家庭から信仰心が奪われたことが原因と思います。

神仏を信ずること無しに道徳教育をしても、絵に描いた餅、受験勉強のようなものだ。

「神さまが見ておられるよ」と言う言葉が子供たちの心に植え付けなくてはいくら道徳教育を学校でやっても、表面的には良い子ができても、真の道徳教育は出来ないと確信します。

まして、道徳心を持ち合わせていない日教組に牛耳られているわが国の教育界では。

人間にとって最初に必要なことは信仰心です、神仏を敬い恐れる心を持たないでしつけや道徳教育など出来るはずがありません。

信仰心を持たない人間のモロサが現実に現代社会に出ています。

日本最大のカルト集団(政党?)が経営する学校の卒業生が日本の中枢に深く浸透して来ていることでも証明出来るでしょう。

信じ敬う対象を持つ者の強みを、例えその教えが反日的であり間違っていても信じて疑わない強さがあるのです。

日本の国にも宗教教団の経営する学校は沢山あります、どれだけの学校が本当の信仰まで教えているのでしょう?疑問です。

わが国の学校では意識的に政治と宗教から遠ざけられて来ました。そのために大学生になっても免疫性が無く簡単にカルト教団に入信することになってしまうのです。

信仰心は学校では身に付きません、家庭での雰囲気で子供に伝えなければなりません、親や祖父母が無神論者を自慢するようでは道徳的な子供は育ちません。

文部省も道徳教育は学校でするものだと勘違いしているのではありませんか?


イジメ問題は弱者の立場からでは解決しない

2012年10月12日 | 教育(家庭教育を含む)

こんなにイジメ問題が次々と出て来て未だに無くならない。解決しないのには原因がはっきりしていると思うのです。

いじめ防止のどの案も「虐められる側に立った解決方法」弱者の立場からなのです。

「虐める側(強者)からの解決方法」をとらなければ永遠にイジメ問題はおこって来ます。

弱者はイジメに遭います。イジメに遭ったものの解決方法を今まで一生懸命に考え、実行しようとして来ました。

イジメがおこらなければイジメ問題はありません。イジメがおこってからではイジメを無くすることは出来ません。

イジメに遭った子供(弱者)の教育(?)しか出来ていないのでは?

まず最初にしなければならないのは、虐める子(強者?)の教育ではありませんか。

昔、私たちは「ヨワイものイジメは卑怯な奴のすることだ」だから、ヨワイものイジメはやれば大人から、友達から制裁を受けて来ました。

「卑怯な奴」と言う言葉は「キタナイ奴」と同じように男の子(勿論女の子も)にとっては一番侮辱的な言葉でした。

何時の時代からか大人の世界でも「卑怯者」とか「キタナイ奴」は政治家や金儲けが人生と考える人たちにとっては「卑怯でもキタナイ手段を使っても」金さえ儲ければ、地位さえ得ることが出来るのならすすんで取り入れられる手段として褒め言葉になってしまったのではないでしょうか?

強い者は弱い者を守る義務があると言う道徳,宗教を子供の心に植え付けなければ永遠にイジメは無くならないと思うのですが。

「神様が見てはるよ!」と言える大人が増えないことには、告げ口ばかりで自分で解決出来ないヨワイ子供たちと、ヨワイものイジメをする「卑怯な子供」が今後も増え続けるのではないでしょうか。

まず,大人が「卑怯な手段」「キタナイ手段」を戒めなければ、子供たちの手本は大人の行動なのですから。

神に誓っても嘘をつく、近隣敵国の国民性に近づいてきましたね。(神を信じている周辺敵国民はいませんね)

イジメをする子供の側からのイジメ防止策をとらなければイジメは永遠に無くならないと思います。

 


孫達が京都北山山中で学んだことは

2012年08月06日 | 教育(家庭教育を含む)

先月22日から31日まで娘に連れられて孫達が京都北山山中の我が家に滞在しました。日頃横浜市中のコンクリートのマンションに住んでいる孫達が10日間の山ん中の体験は初めてです.毎年数日は来ていましたが市内に出ることの方が多く、そのうえまだ小学校にも行っていませんでしたから山の中でと言う実感は無かったと思います。

今年は兄妹そろって小学生ですから,出来るだけ山の中での体験優先にしました。

先日2回ブログに載せましたので今回はまだ書かなかった体験させたことを書いてみます。

この側に直線で2キロほどのところに京北の名所の一つ滝又の滝があります。三段に連なって落ちる滝は梅雨明け後のせいか水量が多く何時もより豪快でした。

自宅から歩いて滝上に出て滝の脇を下る道が有るのですが,小さい子供には危険なので車で国道に出て下から近づくことにしました。

家から5キロほど行くと滝から流れ出てくる沢の合流点に車を止めて歩きました。先日は自転車で来て少し奥まで入りましたので「500メートルほどで滝だ」と行って歩き出しましたがナカナカ着かず。後で標識を見たら「滝まで1、2キロ」と出ていました。

また「嘘をついてしまった」。もと山屋のお爺ちゃんとしては恥ずかしい。

小さな丸木橋を渡ったりしながら沢沿いの道を2年生の孫が滑ってヒックリ返り足を打って泣きべそをかきながら、それでも何時もなら泣くのにお爺ちゃんはそんなこと無視してどんどん先に進むので必死に付いて来ました。

突然滝の全容が見えると感激していました。兄妹そろって滝壺に近づき冷たい滝ノ水を満喫していました。

帰り道沢沿いに歩いていると娘が突然に「大山椒魚と違うか?」と言うので対岸の岩の下に黒いモノが見えましたが最近目が悪くなっていてよく確認できませんでした。突然娘が沢に入ってゆき帽子で上から黒いモノを掴んで持って来ました

まぎれも無く30センチほどのオオサンショウウオでした。親の私には似合ず、娘の度胸に驚きました。

特別天然記念物ですから捕獲は禁止されていますので沢の浅瀬に放して孫達は真剣に見ていました。2~3分でオオサンショウウオは沢の深みに帰って行きました。水族館でしか見ることの出来ないオオサンショウウオを自然の中で見て触れられた体験でした。

昼は毎年お中元に頂いている素麺を毎回皆で頂いていましたが流し素麺の要望がありましたので近所の竹やぶで孟宗竹の太いモノを5メートルほど切って持ち帰り,縦に割って節を抜き,流し素麺のセットを仕立てました。

高い方から冷たい井戸水を流しながらそうめんを流し、皆が途中で箸ですくって食べて楽しみました。

何時も食事の遅い下の孫も最近はだんだんピッチを上げて来たようです。

今年の梅雨明けは日照りが続き幸いヤブ蚊の発生も少なくなっているのでアウトドアでは助かります。

蒸し暑くて,風がなくて、ヤブ蚊に襲われる。夏の3大苦からはほとんど免れています。


「お爺ちゃん家は森の中」 孫達を自然の中でを体験させるために

2012年08月03日 | 教育(家庭教育を含む)

孫達は先月22日の早朝について31日のよる京都北山を発ちました。この10日間小学2年生と1年生の兄妹はこの京都北山の祖父(私)の家で何を学んで帰ってくれたのでしょうか?

私自身30年ほど前にここに移り住んだ時は数年住んだ後は又京都市内に戻るつもりをしていました。その後はここは別荘として週末に利用しようと考えていました。

京都市内中心地までは25キロ、1時間以内で通勤も出来るし,冬雪が降っても四駆の車で問題は無いし、マイナス5度平均の朝の気温もマキストーブを焚けば身体の芯まで暖まり、冬は狩猟に、春からは渓流釣りを楽しめ、夏は日中30度にはなるが木陰や家の中では過ごせる気温です。勿論クーラーも無いし,数年前までは扇風機も使わなくてもすごせました。 今は地球温暖化のセイではなくて年のセイで扇風機もあれば良いという程度です。

横浜のマンションに住む娘に子供が出来、東京の都心に比べまだ周辺には緑のある横浜でも日頃コンクリートのマンションに住みっぱなしではどんな大人になるか?

碌な育ち方はしないと思い、長期休暇の間だけでも自然豊かな京都北山の山中で過ごさせてやりたいと思いました。

幸い自宅は山中の15軒ほどの小さな集落の外れに建てましたので隣の家までは150メートルほど離れていますし,家の後ろ,北側は山で北山杉や桧の植林、南は広がって前は道を挟んでダンボがありその先は杉の植林と山が連なっています。

山好きで自然が友達という男としてはここは最高なのですが女(妻)は違うのですね。又今年の冬も「寒い、寒い、不便だ」と一万回聴かされそうです。

話しが脱線してしまいましたが、人間自然から遠ざかれば人間(動物)では無くなってしまいます。と言っても、今の時代田舎に住んでいる人たちも心はテレビを通じて街に飛んで行ってしまっていますが。

又脱線しましたが、孫達に一時期でも自然の中で育ててやりたいと思い、ここ数年「お爺ちゃん家は森の中」というテーマで樹々を高く育てて来ました。(妻の抵抗に遭いながら)

4本ある栗の木も10メートルほどの大木になり、それと競って紅葉も2階の屋根より高く育ち、植えた覚えの無いトチの木も、楠、イチョウ、桃、ビワ、なども競争するかのように背丈を争っています。

200坪ほどの敷地ですがこの他、桜の木も、ビワの木も、プラムも,姫リンゴも、柿の木も、ザクロもその他好き放題に植えた木々が私の意向を汲んでか勝手に大きくなってくれました。

今年は南側にネットを垂らせてゴーヤやマメ科の蔓性の植物を植えて日除けを試みました。これで我が家を離れて見ると少しは「森の中」という感じにはなって来ていると思います。

こんなに密集している樹々も秋の終わりには楠と一部を残して皆紅葉の後落ちてしまい、陽の光の妨害にはなりません。

今年の夏には間に合いませんでしたが古い物置小屋をつぶしてテントサイトを作ってやろうと考えましたが春にギックリ腰になってしまい、この秋に解体してこの冬のマキ代わりに焚いてしまいます。

あれも、これも、やりたいことは一杯ですがヤハリ、年のセイですね遅々としてハカドリマせん。