鎮守の森の学校(京都北山細野の神主)

日々感じる事を想いのままに書き綴っています。神主として品位に欠ける表現が有るのはボケが始まったとお許しください

我が家の今朝の気温・外の気温マイナス6度・寝室の気温0度

2019年01月30日 | 健康

今年は暖冬だと言えここ2〜3日は寒さが応えます。

朝6時に玄関先の温度計を見たらマイナス6度・マアマア毎年このくらいですから驚かない。

 外の気温

私の寝室(3畳ほどの小さな部屋)にもどって枕元の温度計を見ると0度。寒むー!

枕元の気温

とてもじゃないがこの部屋でそのまま着替えるわけには行きません。パジャマの上から分厚いセーターやズボンを羽織って風呂に点火スイッチ。

居間に行って(この時の居間の温度は6度・昨夜のストーブの温もりで)・石油ストーブと湯沸かしのスイッチを入れて薪ストーブに火をつけます。

ストーブが暖かくなってきたら石油ストーブは止めます。湯沸かしが沸騰したら生姜紅茶をマグカップ一杯作ってビスケットを少し一緒に頂きます。

生姜紅茶を飲み終わる頃には体も暖かくなり風呂も沸いていますので私の寝室に戻りパンツ一枚で風呂場に行き、びわの葉の煎じた薬草ぶろに浸かります。

生姜の威力はすごいですね。裸になっても寒さを感じないほどポカポカします。近頃は味噌汁にも生姜の粉末を少し入れていただいています。

風呂はぬるめに沸かしていますので入ってから追い焚きをしながら両手、両足の指もみをして10分ぐらい浸かって体が温まったら出ます。

白い作務衣に着替えて神棚や祖霊舎、お地蔵さんに日供の用意をして朝のお参りをして私の一日が始まります。

以前は(もう少し若い時)マイナスの部屋でも布団だけで耐えられたのですがここ数年前から冷えた体は自力では温まらず湯たんぽを抱えていました。

昨年からは母が使っていた電気アンカを抱えています。あまり暖かくはないのですが夜中からでもスイッチを入れられるので。

夜は寝る寸前に風呂から上がってすぐに布団に入るので湯たんぽでは熱すぎるので途中から寒くなった暖められる電気アンカを重宝しています。

やはり歳を取ると寒さに対する順応性がなくなります。

次は寝室の温度を少し上げる工夫をしなくては朝起きたとき鼻が詰まっていたり喉が痛い事があるので冬の間だけでも居間で寝るか?

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イノシシの兄弟愛にホロリ!放してやる・武士の情け(猟師のナサケ?)

2019年01月29日 | 狩猟

一昨日夕方オリの見回りに行ったら2年目くらいの小振りなイノシシが入っていました。

もうこの日には解体できないので餌を少し入れてから帰りました。昨日は大阪に出たのでパス。

今日朝から仕留めて運び出そうと銃を構えてオリに近づきました。ガタガタと複数の音がします。

オリの側を一生懸命に掘る2匹のイノシシ・オリに捕らえられた兄弟を救おうと必死に掘っていたのです。

大分手前から掘り始めているのが良くわかります。

オリの底にもメッシュがある

私が近づいたのに気がつくと2匹は小高いところに逃げて、それでも気になるのかこちらを向いて立ちどまっている。

この時期もう親離れしていますので子どもたちだけが一緒に行動しているのです。生まれて2年目でこの兄弟を思う心に私もホロリ。

上にいる2匹に声で「バーン」、ビックリして逃げてゆきました。もう檻の中のイノシシは撃つことが出来ません。

オリの入り口を持ち上げてやったら兄弟たちが逃げていった方に向かって一目散に駆け上がっていきました。

今頃は3兄弟揃って「良かったな!良かったな!」と言っているかどうか?

来シーズンまで生き延びて大きくなって脂をタップリつけて戻ってこいよ。ボタン鍋にしてやるから。

 

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畑も雪の下に・小屋はわた帽子をかぶる・今が一番寒い時期

2019年01月27日 | カントリーライフ

一昨日から断続的に降る雪は

モンベル小屋も

 

夢想庵も

わた帽子をかぶって寒そう

窓にはツララが

畑への道

畑に上がる道は40センチほどに積雪があってラッセル

畑は一面の雪の原

一番寒い時期が始まりました。と言っても昨年のこの時期に比べたら暖かい方ですが朝の気温はマイナス5度

もう1週間で立春(2月4日)です。立春が過ぎてもまだ寒い日や雪の降る日はありますが気持ちの上ではもう春ですね。

冬には冬の楽しみがあります、歳をとると季節の楽しみを楽しまずに(楽しめずに?)次の季節を迎えるようになる気がします。

我が国の折角の四季を味わわずに歳だけ重ねてゆくのは勿体ない気がします。

朝からガレージから道までの雪かきに汗をかきましたが昼からは畑の雪の下から夕食の鍋物に入れる野菜を掘り起こしてきます。

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やっと北山の冬らしくなってきた・昨夜から積雪30センチ

2019年01月26日 | カントリーライフ

今朝の我が家

昨年末から暖冬気味の我が家京都北山にも昨夜遅くから本格的な降雪で朝には除雪車も入って道路の雪かきをしてくれました。

昼間も断続的に強い風と雪が舞っていますが時々陽の光もさして除雪した道路には積もっていません。

この天気は明日の午前中まで続くようですから夜中に温度が下がったら明日の朝は道が凍って危険です。

今日は(今日も)予定が何もないので先日買った薪ストーブに薪をくべながらパソコンを覗いたり。

狩猟用のナイフ類を研いだり時々テレビのニュースを見たり、のんびり過ごしています。

気が向いたら愛犬を散歩に連れ出し30センチほどの積雪を踏みしめながら自宅近くの山を歩いたり、

いつもは犬の散歩は朝夕しかしないのに、犬は降雪の中迷惑顔で付き合ってくれています。

居間からの景色

山登りを続けてきた私にとって齢をとってもこの雪山風景と環境のある生活を楽しんでいます。

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阪神淡路大震災から24年・「備えよ常に」(昔のBSの標語?)

2019年01月17日 | 自然災害復興祈願

私の長い人生の中でも衝撃的な思い出は阪神淡路大震災です。毎年この日になれば当時のことが思い出されます。

義援金集めのTシャツ

日頃はほとんど当時のことは頭に浮かびませんがこの日にはタンスに保存している1枚のTシャツを引っ張り出して当時をしのびます。

昨年亡くなった諸口あきら氏に原稿を書いてもらってプリントして売上を義援金にしていたTシャツです。

戦後70年戦争被害のなかった我が国ですが人の力では止めることの出来ない自然災害による被害は毎年続いています。

災害被害を最小限に留めることは個人の日頃の用心です。Dont forget Jan.17,95 「1995年1月17日を忘れるな」です。

昔(私の中高生時代)のボーイスカウトの標語「備えよ常に」(今もこの標語は使われていますか?)

今の子供(だけでなく大人も)の無防備さは私達の年齢の年寄りには「恐ろしい」ほどの無神経。

戦争中は子供でも暗闇の中でも着られるように枕元に衣服をすぐに手に取れるように整えておいたものでした。

素早く衣服を着て防空壕に逃げ込める訓練をしてきました。

それによってアメリカによる無差別爆撃による国民の被害を少なくするように幼児まで訓練をさせてきたのです。

これは自然災害に対しても同じように必要なことです。常に万一に備える心構えを持つことが大切なのです。

マスゴミはこの時期災害の悲惨さはこれでもかこれでもかと報道しますが学者の浮世離れした小難しいコメントはありますが。

家族が、親が子どもたちに戦争中の例のような指導こそが自然災害から被害を少なくすることに大切なことだと思います。

人間も動物です、野性味を失ったら自分を守ることも出来ません。子供をペット化する日本人は絶滅危惧種になるのでは?

「この日を忘れるな」ということは「次の災害にどのように対処するかを忘れるな」ということです。

 

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京都北山の神主の新年神職会(新年会)が美山の「まるや」(民宿と食事)であった

2019年01月16日 | カントリーライフ

午後2時集合で南丹市美山町中の料理旅館「まるや」で京都府神社庁北桑田支部(京都府右京区京北町と南丹市美山町)

の神主が10名集まって会議にあと新年会でボタン鍋を腹いっぱい頂いて帰りました。

お昼前に家を出たので神職会の始まるまでに先日亡くなった大野安彦さんの江和ランドによりましたがまだ営業は再開していないのか?

江和ランド(貸し農園やぶどう園、コテージ、野外料理など)の敷地内にある大野安彦さんとの思い出の「江和猟師小屋」に寄って

来ました。小屋の看板は10数年前に私が電動彫刻刀で彫って作ったものです。(まだありました・小屋の主が亡くなって開ける人が居るのか?)

江和ランドの猟師小屋

会議の始まるまでだいぶ時間があったので以前大野さん達と一緒に猟をしていた藤原さんの田歌舎のレストラン

で軽い食事でもと思い寄りましたが冬場は予約だけしか営業していないと言われて帰ろうとしたら藤原さんが出てきて

これからスタッフと一緒に昼食を取るので一緒に食べてゆけばと言ってもらいご馳走になることにしました。

田歌舎

スタッフの昼食

シカのタンシチューと猪肉の煮物と漬物。シカの舌や猪肉をたっぷり使ったオカズと漬物・美味かった。

雪が降り始めた五波から今日の会場の美山町中の「まるや」に行って会議の後「ボタン鍋」をまた腹いっぱい頂きました。

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新しい薪ストーブを購入・鉄板は薄いが安くて温かい

2019年01月12日 | カントリーライフ

今まで10数年使ってきた分厚い鉄板の薪ストーブは暖かくなるまで時間がかかり効率も悪いので買い換えることにしました

これまでのストーブ

野外料理などで使っている時計型のホンマ製作所の薪ストーブをもう1台購入予定でしたが

今使っている煙突をそのまま使うつもりでしたが太さが合わず。

アマゾンでいろいろ調べた結果同じホンマ製作所の多目的簡易丸型ストーブSKS-410

下の写真のストーブに決めて発注しました。

正月休み明けの8日に着き早速使い始めました。

焚き口

 

ガラス越しに火が見える

これまでのストーブに比べてこれで大丈夫か?と思うくらい鉄板は薄く(ブリキ?)

焚き口や下の灰のかき出し口兼空気調節窓の留め金など薄くて大丈夫か?って感じ。

重量もこれまでのストーブは50キロ以上はありましたがこれはたったの13キロ。

値段も1万6千円ほどですから2〜3年も使えれば良しとしなければと思っています。

使ってみて驚きました!鉄板が薄いだけあってすぐに暖まります。

以前のストーブは分厚い鉄板を温めるのに時間がかかり大量の薪をまず燃やさなければならなかった。

この新しいストーブははじめにたくさんマキを入れると燃えだしたら熱くなりすぎて汗が出ます。

何よりガラス窓がついて中の火が見えるようになり燃えグワイがイチイチ開けなくても確認できます。

最初に着火させるのが簡単でまず焚き口にマキを入れて下の灰の掻き出し口を開いて新聞紙を丸めて入れて着火する。

焚きつけようの細い薪を下に入れとけば本当に新聞紙だけで燃え始めます。

ただ前のストーブ用にマキを40センチに切ってあるので少し長すぎたようです。これからは30センチぐらいにしておきます。

まだ新しいストーブには慣れていませんがこれから本格的に寒い時期に入りますがストーブの前に座るのが楽しみです。

 

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美山の江和ランドの大野安彦さんが亡くなる

2019年01月10日 | 死について

一昨日(1月7日)お昼過ぎに美山の大野守宮司から江和ランドの大野安彦さんが亡くなったと連絡があり

夜には通夜の時間と葬儀の時間を知らせてくださいました。(大野守宮司と故人はいとこ同士)

葬儀の会場である園部のセレマに行くのに8時半に家を出ました。今朝はこれまでの暖冬気味から一変してマイナス5度でした。

告別式は10時ですから40分位で行けますから所々凍っていても十分余裕は見ていたのですが八木で国道9号線に出て東の亀岡に向かってしまいました。

園部は西に向わなければ行けません。慌ててUターンしてましたが又々葬儀場の手前の橋を渡ってしまい自動車教習所のコースに入ってしまいました。

朝でまだ教習場は練習は始まっていませんでしたがコースからの出口を見つけるのに一苦労、教習場のコースを走り回って見つかる前に脱出することが出来ました。

と言うことで式の開始少し前には到着できましたがこんなヘマの連続は珍しい(でも無いか)

式場には入りきれずに通路にまで椅子を並べ、それでも立っている人もあったくらいですから故人の人徳が偲ばれます。

私と故人との関係は江和ランドを始められたときからの付き合いでキャンプ用品などを収めさせてもらったり、

冬の佐々里峠越えツアーで丸太小屋に泊めてもらってボタン鍋をご馳走になったりして交流は昔からありました。

何と言ってもその後の20年ほど前に狩猟免許(銃猟)を取って大物猟(シカ、イノシシ)をやるときに江和の猟友会に参加させてもらった。

今でも覚えているその時は芦生の演習林の中でした。初心者の私に川の合流点で「支流から獲物が来るからここで待って撃て」と指示されました。

支流を正面に見る本流の右岸で今か今かと獲物の現れるのを待っているといきなり左手の本流の上流からシカが飛び出してきました。

何しろ初めて獲物に発泡するのですから、その上来ると思っていた違う方角からですから慌てて引き金を引きました。

当たったか当たらなかったかはわかりませんがシカは本流に飛び込みました。泳ぎ始めたところへ2発目を撃ち込んで仕留めました。

初めての猟で初めての発泡で仕留められたことでもう猟に夢中になり毎日のように1時間かけて江和の猟師小屋に通うようになりました。

江和の猟はいつもスタートが遅くお昼頃からなので江和ランドの中にある猟師小屋に帰るころは日が落ちてからが多かった。

小屋に帰ると故人が薪ストーブに火をつけるのですが、マキを何本もぶち込んで灯油をポリタンクから直接ブッかけて火をつける。

豪快と言うのか?よく火事を起こさなかったなあ。と今でも思っています。

小屋の入り口に「江和猟師小屋」の看板を私が下手な彫刻をしてつけました。まだあるかどうかわかりませんが?

故人との思い出はまだまだありますが切りがありませんから思い出として仕舞っておきます。

地元美山の活性化に熱心で自転車のイベントでブラッキー中島さんに紹介されて手伝ったのも大野安彦さんから頼まれたからでした。

3年6ヶ月前に発病、入院や手術を繰り返し、美山に行ったときには江和ランドに見舞ったのですがほとんど入院中で会ったときには車椅子でやつれて痛々しかった。

やはり酒好きが原因だと思いますが。今の日本人には珍しく、私の知る限りでは一番「男気のある人」でした。

69歳でしたがもう少し元気で生きていてほしかった人です。

ナゼ、良い人は早く死ぬのか?惜しい人でした。

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私の初詣・生まれ育った地の氏神様と実家のお宮さんへ

2019年01月03日 | カントリーライフ

 正月は宮司を引き受けている京都北山山中の四社のお宮さんの歳旦祭を元旦と二日にすまして三日に生まれ育った実家の西大路八条の若一神社と

氏神様で社家として先祖が御奉仕していた松尾大社に初詣して御札を受けるのを恒例にしています。

自宅の北山は朝から雪が降ったりやんだりでしたが市内に入ったら雪も降っていませんでした。

松尾大社本殿前

何故か?いつもの正月と違う雰囲気の本殿前でしたが何が違うか?はっきりしないのですが毎年の正月風景に比べて違和感を覚えました。

他の大きな神社の正月風景に比べて演出が下手なのかも?派手な演出をしていないといえば聞こえが良いですが。

本殿と南側に祀ってある数社の末社にいつものようにお参りをして帰りました。

やはり自宅近くになれば雪がちらついていました。明日は我が家の神棚の今まで祀っていた古い御札を新しい御札に交換します。

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京北田貫町のお宮さん最後のお祭りをすませる

2019年01月02日 | カントリーライフ

田貫の白山神社

この田貫のお宮さんは数年前に前任宮司が高齢のため私が後継者ができるまで兼務で宮司を引き受けていました。

昨年暮れに後継者が資格を取られましたので年度末の3月末でお返しすることにしました。

私が神社庁に退任届を出して新たに任命証が来るまでですがお祭りはその間はありません。

今月27日に新宮司予定者と氏子さんたちを引き合わすことになっています。

ホッとしました。あとは細野のお宮さん三社の私の後任を探すだけですがなり手がありません。

私も細野の三社の前任宮司が急に亡くなって弟たちの神社を手伝うために神職免許を持っていた私がリリーフで十数年前に引き受けました。

それ以後祭りのごとに後継者をと氏子さんたちにお願いしているのですが成り手がありません。

昨年も神社庁に「私ももう傘寿を過ぎたので引退させてくれ」と相談に行ったのですが「後継者が出来れば」と言うツレナイ返事。

「後継者が出来なければ何時までですか?」と聞いたら「死ぬまで!」と堂々たる返事。

地方の神社は定年退職後の名誉職のようなもので神職とは名ばかりで収入は年間数万円です。

月にして五千円弱、神主の経費にも足りません。とてもではないが若い人らが引き受けてくれるような魅力はありません。

引き受けた直後から少なくとも地元の若い人らに関わってもらいたいと神社を人々の集まるところにしたいと思い。

その頃まだメンバーの揃っていた「日本野あそび協会」や野外活動のメンバーに手伝ってもらい神社で毎月イベントをはじめました。

少ない地元の子供や街からも人が呼べる見通しがついてきたら時、総代から「神社を使うときには総代の許可を得ろ」と言われてキレてしまいました。

それ以来地元の神社の境内でのイベントは諦めました。この地へ移って四十年近くなりますが私は未だに「街の人」なのです。

この差別感は無くなることはありません、最近「田舎暮らし」がテレビなどでもてはやされています。

「田舎暮らし」に成功している人は自分を捨てて田舎に同化している人たちだけです。

今進められている「地方の活性化」は成功しません。補助金だけ湯水のようにつぎ込んで使い果たした後には「地方の消滅」だけです。

正月早々過激な書き出しになりましたが「古い体質の組織は消滅しなければ次の健全な組織は生まれません」

街に住んでいる人たちが自然の中で生活することに喜びを感じて過疎地に自分ながらの仮の住まいを作ることです。

その第一は「生活の糧を地方で求めないこと」です。

いろいろありますが自然の中で住むことは良いですよ! 特に健康のためには抜群です。京都北山山中に移って風邪で寝込んだことはありません。

自分の生き方を持って住むことです。「田舎に来たらなんとかなる」は悲劇です。

田舎の人は「街には住めないから田舎に来た」と思っています。私もそう思われていましたからよく分かるのです。

まあ、こんな調子でこれからも年寄りが愚痴ってゆきますので我慢して読んで下さい。

 

 

 

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