京都北山細野の神主

日々感じる事を想いのままに書き綴っています。神主として品位に欠ける表現が有るのはボケが始まったとお許しください

「神様が見てはるよ」現代の困りごとを解決する魔法の言葉(2)

2020年01月31日 | 信仰(宗教)

昔もそうだったが特に最近は子供が親の言うことや学校の先生の言う事を聞かなくなりましたね。

子供の一生で一番大切なのは生まれてから小学校に入るまでです。この間の親の教育(躾け)がその子供の一生を決めてしまうと私は思います。

社会構造が変わったと言えば変わったのは確かです。だけど男女が結婚して子供を作るのは変わりません。

大きく変わったのは親が幼児の教育(躾け)を放棄した事だと私は思っています。

特に母親の役目は大切だと思っています。

戦後産業の発展に人材が必要になり農山村から働き手を都会に集め地方を過疎化を通り越して壊滅状態にしてきました。

それでも足らずに女性(母親)の仕事への進出を男女平等という甘言で掻き集めて家庭の崩壊の元を作りました。

まだ足らずに今はグローバル化と言う都合のいい言葉と移民という労働奴隷を世界から掻き集めようとしています。

世界の歴史を見てもわかるように移民の氾濫(反乱)で元の民族国家は崩壊してしまっています。

2800年の間先祖たちが営々として築いてきた日本の国はこの70数年で崩壊に向かっています。

この三つの原因はすべて戦後日本人の飽くなき金儲け主義に原因しているのではないでしょうか?

企業経営者、政治を任された議員たち、それに金を稼ぐことだけが幸せに通づると錯覚した日本人。

その原因は「神様、仏様、ご先祖様」に対する信仰心を失った戦後の日本人の心が原因しているのです。

国民の鏡にならなければならない人たちの不祥事の報道がなされない日はありません。

議員や公務員の、警察官や学校の先生方の不祥事がこんなに我が国に頻発することは国家崩壊の前兆と思います。

原因は道徳教育がなされていない事につきます。今慌てて学校での道徳教育が急がれていますが今の学校での道徳教育は成果を生むことはありません。

本来、道徳教育とは信仰心の裏付けなしには効果はないのです。それも幼少の頃からの。

それがタイトルの「神さまが見てはるよ」です。

人が見ていないところでも悪いことはできない。なぜなら「神様が見ておられる」からです。

戦後、連合国の日本統治で徹底的に神道に対する排斥が行われた結果、家庭内でもこの言葉は聞かれなくなりました。

先祖を祀らない、家に神棚もない、そんな家庭で子供をどうして躾けることができるのでしょうか?

幼児の頃から悪いこと、いけない事をする子供に「神さまが見ておられるよ」と見えない眼を意識させる習慣が大切です。

私も子供の頃は悪戯でしたのでよく母や祖母からは叱られていました。その言葉が「神さんが見たはるよ」でした。

少なくとも毎朝一度で良いから神棚に向かい手を合わす習慣をつける事で子供たちは変わってきます。

神や仏の存在を子供の心に植え付けることが出来れば子供が成人しても心の拠り所として幸せに過ごすことが出来ます。

子育てに苦労しているお母さん方にも安心感を与えられることは間違いありません。

神棚など今更という人も住まいの氏神様のお札をタンスの上にでも祭って毎朝子供の見ている前で手を合わすだけでも子供の心は変わってきます。亡くなった祖父母の写真に手を合わすことでも良いのです。

神道では「人は神様から御霊を頂いてこの世に生まれてきて、亡くなれば御霊は神の元に帰る」と信じられています。

ご先祖は神になられて子孫をお守りしてくださるのです。

先祖の霊の祟りなどと言って脅かす宗教もありますが可愛い子孫に祟る先祖などあるわけ無いですよね。

なお、神道は宗教では無いと私は考えています。では何か?「信仰」なのです。

信仰とは、信じ敬う対象を持つことです。その対象は「神さま。仏さま。ご先祖さま」なのです。

幼少の頃から「神さま、仏さま、ご先祖さま」に手を合わす習慣をつけて「神様が見てはるよ」という事を教えるのがより良い家族を、日本国民を育てる上で一番の基本になる言葉なのです。

続きはまた次回にでも書きます。

 

 


龍神様の住める池に掃除を始める

2020年01月30日 | 信仰(宗教)

掻き回したの濁っていますが

九頭神社の境内に小さな池があります。20年ほど前に枯れ枝や切り株が捨ててあって見えなかった池を発見してユンボでそれらを撤去してもらい、濁った水や泥を水中ポンプで綺麗にしましたがその後枯葉や枯れ枝がまた積もっていたので今朝のうちに掻き出しておきました。

水は濁っていますがそのうち澄んでくると思いますがそこに積もった泥を吸い出したり溝を広げたりして綺麗にしてゆきます。

ちっぽけな池ですが

池の周囲も広げて整備して雰囲気作りをすれば良い場所になると思います。何時までかかるか?


困った時の神頼み(2) 氏子10軒・過疎地活性化は神祭りから

2020年01月30日 | 信仰(宗教)

こんな素敵な神社の宮司です

最近都会では神社ブーム(?)と言うより多数の外国人の観光客で信者はお参りもままなりません。

政府、国を挙げて観光立国に精を出していますが長年の日本国民の信仰の上に維持されていた神社仏閣は今や見世物になって消耗し始めています。

信仰心の無い人々の目に晒せば腐ってきます。戦後70数年復興の後押しをしてきた神々は信仰心を持たない外国人の目にさらされて離れつつあります。

その一方田舎の神社は過疎化が進みお祭りもままなりません。お祭りをしないから過疎化が進むのではと私は考えました。

私がこの地域に引っ越してきて40年、ここのお宮さんの宮司を引き受けて18年。お宮参り七五三は一件もありません。

子供が生まれないからお宮参りがないのではありません。元々地元の神社での人生儀礼と呼ばれるお参りは無かったようです。

人生儀礼の最初のお宮参りは本来「氏子入りの儀式」ですがこの辺りの人たちは街の大きな神社でお宮参りをするのが習慣になっています。だから成人したら皆街へ出てしまいます。街の神社で氏子入りのお参りをするのですから。

これは言い訳になりますがこの過疎地の神社を引き受けている宮司の責任でもあるのですが、これまでは仕方がないと諦めていました。

その訳は10軒しかない過疎地の集落にお寺と神社があるのです。お寺も住職はおりません。遠くのお寺から法事に来てお経を読んで帰られます。神社もそのように考えられていて一人の神主が数社のお宮さんの宮司を一人で兼ねています。

だから、お祭りの時だけに約束の時間に来て祝詞を読んで帰るだけです。それも年に2日だけ、私は3社のお宮さんを掛け持ちで回ります。

自宅から一番遠い神社から朝の8時から、終われば次の神社に9時半から、最後に私の住む集落のお宮さんは11時から。

普段はどのお宮さんも無人です。建物は立派でも実態は野辺の祠かお堂と変わらないのです。

私は神主の資格を取ってまだ20年余りですが我が家は代々神主の家で神社で育って来ましたので神職とはどう言うものかは知っていましたので私の考える神職になろうと努力しましたがことごとく挫折してしまいました。

引き受けた18年前も過疎化が進んでいましたので地域で一番の中心になる神社で毎月子供達に「野あそび」(伝承遊び)を教える日本野あそび協会の仲間たちに手伝ってもらい催しを境内で始めました。

ところがその時の神社の総代が「神社を使う時は総代にことわれ」と言われて頭にきて即すべての催しをやめてしまいました。

田舎では神社も境内も神社の山林も氏子の私物と考えているのです。宗教法人と言う法人格を持った組織だと言うことが分かってないのです。

報酬も無いに等しい神職を引き受けてくれる後継者は内容を知ったらヤル気を失ってしまいます。

だから過疎地の神社の宮司はほとんどが定年退職後の生活の心配のない人が名誉職と思ってやっているのです。

過疎化が進む前なら氏子もそこそこいて神社も祭りも氏子だけで維持できたのですがもう10軒を切りますと年2回の祭りだけでも負担になり神社の建物や境内の維持管理は無理になってきています。

私も今年は82歳、もう何年も祭りだけでもしんどい歳になり始めています。

集落もあと10年したら5軒ぐらいになります。折角の文化財の本務社の九頭神社も朽ち果ててしまいます。

本殿が文化財

本殿には覆屋があるがガタガタ

拝殿は丸太でつっかえ棒

大きな鳥居も傾き始めました

あと何年元気でいられるか?最後のご奉公を始めます。

以前に作った大絵馬

だいぶ色褪せてきたので年末までに作り直します。

今日本は大きな変わり目です。神祭りを各地で復活して神様のご加護を得て復興事業を進めたいと思っています。

氏子だけの神社ではなく崇敬者も含めた神社運営をしていかなければ過疎地の神社と信仰は消滅します。

明後日2月1日に私の方針を氏子総代に集まってもらって説明して了承を得た上で実行する予定です。

 


困った時の神頼み! (1) 過疎地活性化はこれしか無い。

2020年01月26日 | 信仰(宗教)

頼みの綱の氏神様

私がこの京都北山の集落に移り住んだ40年前はこの余野には16軒ほどの所帯がありました。

その時、古老から50年前には50軒の家があったと聞かされました。今は私を入れて11軒になってしまいました。

昨年は2所帯が消滅しました。1軒は町に住む子供の家へ移りました。1軒は老夫婦が間を置かず亡くなりました。

もう何時から姿を見ていないか?老人ホームや病院に入院中の人も、時間の問題です。その他もほとんどが年寄りばかり。

10年以内には半分になるのは確実です。その中には我が家も入っているのは間違いない。

私の妻でさえ、一人でも街に住みたいといつも言っています。今年は暖冬のせいで車で街に出られるから良いのですが。

「私は一人でもここでクタバルまで居る」と頑張っていますが病気で入院にでもなればその日から空家です。

国や行政が何と言おうが?何をやろうが?地方の消滅は目に見えています。少数の成功例をテレビやマスゴミは大層に報道しますがこれらはニュースになる程少ない例なのです。

補助金を出したりして1時は人は動いても補助金を使い果たしたら過疎地からは逃げ出してしまいます。

補助金がなければ生きてゆけない業種はありますがその全ては補助金のお陰で自立出来ている業種はどれだけある?

地方の過疎化も補助金だけでは解決できません。こんなに美しい国土を持ちながら海抜0メートルの津波の被害に確実に会う都会のゴミダメに人は集中するのでしょうか?

私のように自然の中で住まうことに満足している人間に地元の人は「街には住めないから」と言いますが、ではなぜ田舎から街への移住は無くならないのでしょうか? 答えは「田舎には現代人は住めないから」なのです。

この「現代人は住めない」と言う問題の解決なしに国は過疎地対策をしてきたのが原因です。

題にも書きました。「困った時の神頼み」本業の神主に立ち返って老い先短い私ですが今年からは真面目に神様に「良いアイデアを授かりますように祈願して実行してゆきます」

私が18年前にこの地の氏神様「九頭神社」の宮司を引き受けた時に古老が「この神様は恐ろしい神様ですが願い事は聞いてもらえる」と言われました。

この言葉が昨日のように蘇ってきました。大きな目標が出来て生きがいを感じる今年の年の初めです。

 


川西市の九頭(クズ)神社にお参りする

2020年01月25日 | 信仰(宗教)

私の本務社「九頭神社」と同名の神社が川西市にあるのを見つけてお参りに行ってきました。

神社の敷地全部(正面から)

由来書

 

鳥居は平成30年昨年建てられた

小さな手水鉢とお社

元々周囲は畑や田んぼだったようです。最初の写真がお宮さんのすべてです。

周囲はすべてマンションや住宅にギリギリまで取られています。境内は枯葉一つも落ちていませんでした。

近所の方にお伺いしました。年に一度だけ近郊の大きな神社から来てお祭りをするそうです。

枯葉などの境内の掃除は近所の方がやっているそうです。氏子ではなさそうです。

もちろん社務所やトイレなどはありません。小さなお社も沢山の人達の寄進で建ったようです。

入口の真新しい鳥居は平成30年と書いてありました。昨年に建ったようです。

元々あったところが住宅の進出でお宮さんはどんどん敷地が狭められてこのようになるのですね。

大阪府豊能郡余野におなじく九頭神社があると言う情報でした。地元の食道屋さんで昼食(うどん定食)を食べながら店の方に尋ねてもこの豊野町の余野にはお宮さんはないとの答えでした。

店の娘さんがスマホで検索してくれて出てきたのが私のお宮さん京北細野町の九頭神社でした。

京都にはこの他の九頭神社はないようです。この次は多くありそうな奈良県に行ってみます。

奈良には天理から名阪沿に針インターの近くなどに数社あったと思いますが。

 


すべての復興は神祭りから・教育・道徳・商店街・過疎地・何にでも効く神頼み

2020年01月24日 | 信仰(宗教)

「日本の国は神の国」と言って首が飛んだ総理大臣がいた。この首相は心から信じていなかった。単なるリップサービス。

昔から「神を信じ敬う人々が集まり祭りをすると必ず良い結果を得ることができる。」と信じられてきました。

神道では「神さま。仏さま。ご先祖さま」はすべて神さまです。アラーの神、イエスキリスト、ブッダも異国の神々の一柱として尊敬してきました。

神の御霊を頂いてこの世に生まれてきた人は死ねばまた神のもとに帰ると信じられています。

九頭神社・余野のお宮さん

戦後アメリカが日本の国民の強さを恐れる余り日本国民の支柱であった神道を徹底的に排斥してきました。

本来神道は和を尊び他の宗教も尊重する穏やかな信仰の一形態でした。

宗祖もなく、かた苦しい教義も無い八百万の神や先祖を尊ぶ信仰でした。

大東亜戦争が始まるまでは神社を中心に商店街が栄え、村々は氏神さまの祭りを中心に家族や地域の人々の結びつきがありました。

道徳教育は特別な教育をしなくても家庭の中で「神様が見てはるよ」と言う一言で他人が見ていなくても神様の目を感じて悪いことは謹んでいました。

今学校で行われている道徳教育は何が抑止力になっているのでしょうか?

「信仰心」無しには道徳教育は効果がありません。法律に違わなければ何をしても良い。他人が見ていなければ大丈夫?

汚い手を使い。卑怯な方法で、人の裏をかくことが正当化される今の世の中は間違っています。

もう一度家庭から神祭りの原点に戻り地域に広げてゆけば神様のご加護と人々の信仰によって穏やかな国民性を取り戻して不安は払拭されます。

神社信仰について私の感じる神道観を書いてゆきます。

教義や信者としての義務などは無い、本来の神道を一緒に考えて広めてゆきます。

信仰とは人々が幸せになるためのものです。きつい修行や多額のお布施など何の意味もないことを知ってもらえれば良いと思います。

ご質問やご意見があればコメント欄に書き込んでください。私の感じる範囲で返事を書かしていただきます。

また、コメント欄に書きずらいことは封書で下記の宛名に送ってもらえれば返事をさせてもらえます。

郵便番号 601−0262 京都市右京区京北細野町・余野 

九頭神社 宮司 宛

お断り、

差出人住所氏名の書いていないものは開封せずに焼却します。

今年82歳になりますがまだ人間ができていないので直ぐにカッカしてしまいますが返事が過激になってもお許しください。直ぐに治って反省はしますので。

 

 


恒例1月14日千里の上新田天神社のとんど祭りを手伝いに行く

2020年01月15日 | 信仰(宗教)

毎年1月14日は千里の氏神上新田天神社のとんど祭りを神主として手伝いに行ってます。

小雨降る中燃え上がる

今どき街の中でこんなに燃え上がるとんど祭りを斎行する神社はここ上新田天神社ぐらいではないでしょうか?

毎年1月14日午後8時点火しますのでぜひ来年のこの日にはお参りしてください。

お祭り自体は午後7時から本殿で神主6人によって始まり8時ごろローソクの火を氏子の差し出すたいまつに移して

始まります。(神主6人の内訳は私たち兄弟3人,甥が一人、近郊の神職2人)

竹を支柱にし、大量の藁で覆われた古いお札の塔がが勢いよく燃え上がります。

藁の塔が燃え落ちたころから神主が前年のとんど祭りの後1年間書き溜められた護摩木を一掴みずつ火中に投げ込みます。

この役目がまた大変なのです。本殿から段ボールに入った胡麻木を抱えて石段を下りて投げ込むのですが。

沢山お出での参拝者をかき分けて燃え上がる炎の中に投げ込むのはハードな労働です。

昨年までは私もこの役をやっていましたが雨でぬれた石段に不安を感じて今年は遠慮させてもらいました。

とんどの勢いも落ちてきた午後10時ごろ横浜から来ていた娘を載せて我が家に向かって2時間、午前0時に我が家へ。

 


この冬は本当に暖かい・地球温暖化? 暖冬異変? どっちですか? 

2020年01月13日 | カントリーライフ

今年の冬は本当に暖かい。と言っても我が家は山の中だから京都市内に比べれば寒いが。

京都北山に引っ越して40年ほどになりますがこんな暖かい正月は初めて。積雪はゼロ。

昔は運道具屋をやっていたので正月前後に雪が降らないとスキーが売れずに冬の気温と降雪には敏感でした。

その頃は今のようにスキー場には降雪機が無かったので暖冬異変は致命的でした。

京都北山に引っ越してきて以来地球温暖化と言われながら寒さと雪に「これが本当に地球温暖化?」と何時も思っていました。

キノコまで出始めキクラゲ?

薪ストーブも暑過ぎ

キイチゴがあちこちに

今年は高緯度地域からの寒気団のニュースはまだ聞けません。

これだけ暖冬なのに「地球温暖化」のニュースはあまりマスゴミでは話題にはなっていませんね。

氏神様の祠

家の前の道を通る山仕事や登山者の安全をお守りして貰おうとお祭りした氏神様の祠の周囲に白い石を敷きました。

ホームセンターで八袋買ってきましたがまだ足りません。もっともっと敷いて綺麗にします。

 

 


今生きる日本人たちは後世に何を残せるのでしょうか?

2020年01月13日 | 日本人が幸せになるには

無駄遣いしなくてはならない社会っておかしい?
いつからだったでしょうか消費は美徳のように言われ出したのは。
日本の国力がつきだしアメリカとの貿易不均衡が話題になり出した頃から首相自らが国民に無駄遣いをすすめ始めました。
それまでの日本は質素倹約をむねとして派手な生活や無駄遣いはせず慎ましく生活をして老後の生活のために貯蓄つすことを美徳としていました。
そのための郵便貯金や銀行があり預金者に安全で十分な利息が支払われていました。
郵政民営化の前までは曲がりなりにも日本式の資本主義が行われていました。
なぜ、最近の日本人はアメリカの金融資本にじゅうりんされるのがわかっているのに次々生け贄を差し出すように言いなりになって行くのでしょうか?。
我々日本人は弱い羊の群になってしまったのですね。
我々の代表として送り出した国会議員も群のリーダーにはなり得なかったのです。
党利党略私利私欲の為に巨額の選挙費用を浪費させて恥じない政治家に主権者である我々国民はどう対処すれば良いのか?

誰が主権者であるか? もう一度日本国民は考え直す時期なのです。今は。
政治が自浄作用を無くしたら腐敗と独裁に進むのは目に見えています。
行き着く先はテロかクーデター、そして外国勢力による介入の末の内乱です。アラブの国々のように。
日本は外国人の為にあるのではないのです。紀元二千六百八十年築いてきた日本の文化は政府のほざく「観光立国」などと言う方針で消耗させられています。

特に都会の神社などは地域の信仰で成り立ち、維持されてきたものが、信者は今や外国人の観光客のためにお参りも儘ならぬ状態です。

信仰で維持されてきた宗教施設が観光の対象としてのみ扱われるようになれば先は見えています。信仰の対象として護持されてきた神社の将来はこのままでは消滅します。

日本人が長年築いてきた日本国は日本人のためにあるのです。
我々の代で外国人に売り渡すことは出来ません。

仏教寺院も含めて本来の信仰に立ち返らなければ将来日本に残る宗教は「新興宗教」のみになってしまいます。

日本人の子孫に残す努力は今を生きる我々がやらなければなりません。

正月早々ムカつく事ばかり、歳をとったせいか? 日本人はこんなんはずでは無かった。今年は思い切りグチってみます。(年寄りのグチは醜いものですが、誰かが不合理を愚痴らなければ現状を肯定することになり、もっと悪い方向に進んで行きます。)

 


すべてを解決する魔法の言葉。「神さまが見てはるよ」

2020年01月10日 | 信仰(宗教)

今年私は82歳になります。戦前生まれで小学校1年の夏休みに敗戦を経験し、今まで沢山の経験をさせてもらって来ました。一生でこんなに沢山の世の移り変わりを体験できたことはラッキーな事と感謝しています。

しかし、終期高齢者のこの歳になって心配なのは今の世の中と日本の行く末です。(若者には「要らぬお節介」かも?)

日本の古き良き時代を全否定する戦後の風潮が現在の退廃的な現象を生んで来たのではないか?

信仰、教育、道徳。日本人にとって(世界の人々にとっても)最も大切なこれらは「神様が見てはるよ」この一言で解決出来るのではないか?

私は神主ですがあえて神道は宗教でないと考えています。

宗教とは宗祖(その宗教をはじめた人)仏教では釈尊、キリスト教ではイエス、イスラム教ではマホメットなどの教え(仏典、聖書、コーランなど)が基本となっていますが神道では宗祖も教典もありませんから宗教ではないと思っています。

では神道とは何か? それは信仰です。信じ、敬う対象を持つことです。

信仰の対象は何か? 神さま仏さまご先祖さまです。「日本では近い先祖を仏として祭り、遠い先祖を神として祀って来ました。」

お釈迦さんやエホバの神、アラーの神と日本の神々を一緒にするなと言う声もありますが、神道ではお釈迦さまはインドの神の1柱であり、エホバの神やアラーの神は中近東の神の1柱として敬っているのです。

人々に信じ敬う対象(神さま仏さまご先祖さま)を持つことを子供のうちに教え込まないで学校で道徳教育などしても単に絵に描いた餅の役割も果たせないのです。

私は神社で育ちましたから子供の頃から祖母や母や叔母などから事あるごとに「神さんが見てはるえ」と諭されました。

だからいつの間にか神さま仏さまご先祖さまの目を意識するようになり、人が見ていないところでも違法なことをするべきでないと思うようになりました。

人が見ていないところでも悪いことをしたらいけないと言う意識だけでなく、子供心にでもいつも神さま仏さまご先祖さまに見守られていると言う意識も感じるようになりました。

生きて行く中での安心感なようなものも感じるようになって来ました。

子供のうちの家庭での教育(しつけ)はやはり母親や祖母など女性の家族の役割は大きいと思います。

父親や祖父の役割も男の子にとっては特に大切です。私の祖父は私の生まれる前に亡くなっていましたが近所に住む叔父が祖父代わりでした。

父や叔父が私に言うことは「弱いものいじめはするな」「汚いことはするな」=「卑怯な行動はするな」でした。

ワル(悪)より「汚い=卑怯な行動」の方が我が家では罰が上でした。

汚いことは人の目を誤魔化せるが神様の目をごまかすことはできないよ。「神様が見てはるよ」と言うことです。

今年から「神さまが見てはるよ」を世に広めて道徳と教育の向上に役立ててください。

ブログで続けて書いてゆきます。