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女優列伝Ⅴ  北林谷栄   最低賃金引上げ「目安」

2017-07-27 21:40:13 | 日記
A.女優列伝Ⅴ 北林谷栄
 原泉さんも「おばあさん女優」といわれたが若い頃はふけ役ばかりやっていたわけではない。そこへいくとこの北林谷栄さんこそ、30代からおばあさん役で当たりをとった人で、演技としてふけ役を演じ、ほんとにおばあさんになってからも数々の名演技を残した女優であった。原さんも北林さんも、戦前の新劇の老舗、新協劇団で舞台に上がり、一緒に活動した仲間だったし、戦後もいろいろな舞台や映画で共演している。

「私はよく、おばあさん俳優などといわれる。おばあさんになる苦心は? おばあさんにふんするのにどんなふうに研究してますか? インタビューといえばかならずといっていいほど受ける質問はこれだ。苦心は、しているといえば苦心だらけだし、してないといえばしていないことにもなる。研究といってもこれという研究なんてりっぱなことはしたことがないし、また物心ついたときからじっと目を注いで研究しつづけてきたともいえる。私は祖母に育てられ、その祖母を深く、強く、切実に愛しつづけたからである。
  話によれば祖先は増田右衛門尉長盛という豊臣方の大名で、これはだいぶん遠いが、祖母の父は金沢丹後藤原義久というアンチ幕府派の小大名であった。江戸幕府との間に双方無言の了解のようなかたちが成り立って、この曽祖父は表向き徳川の御用達の菓子司という体の、武家の格式だけをゆるされた一種の変則的な商人と改まった。私の祖母はこの家の二女であり、当時、渡来中であった西洋医ヘボンの門弟である尾台某に嫁した。その祖母が若い蘭学医の夫に早く死別し、実家に戻り、心ならずも二度目の夫を迎えさせられた。それが私の祖父にあたる人で、これは美濃の貧農の五男で江戸に奉公に出、口入れ桂庵からこの店に連れてこられて、何年となく汗水たらして働き、その労苦と商才を買われて三番番頭までのし上がったという塩原多助タイプの人間なのである。
  つまり女大学式の武家的教養と、加うるに多少の洋楽風の啓発を若い蘭医の先夫から受けた祖母にとっては、立身出世と、蟻のような動物的勤勉と拝金を志とする祖父との結婚がどんなに苦痛であったか察しられる。
祖母は生涯を夫を厭いぬいて終った。私が幼くて、まだ祖母のひざの間に足をさし入れて暖めてもらいながら寝つくほどの幼さであったにもかからわず、祖母は私の頭をなでながら、自分にともなく、私にともなく、よく言ったものだ。「この方のところへならお嫁に行きたいと思う方のところへでなきゃ、決してお嫁に行っちゃいけませんよ」
  私は恋愛というものを非常に大事に、というより捨て身に考えずにはいられないが、その底にある一服の清涼の感じは、祖母がわずか四、五歳の私に倦かずささやきつづけたあのことばによるような気がする。私はこの祖母を愛し、一挙手、一投足も、哀憐の情なしで見ることはできなかった。この祖母は昭和二十年の夏、終戦を見ずに八四歳でこの世を去ったが、その間の三十年あまりの歳月を、私の内部に生活印象として蓄積されたこの祖母の言行は、強烈に生きている。私は、そういう祖母に育てられた。私はまだ乳をのむころから母を失ったので、祖母の真の子どもといってもいいほどであった。
  例の勤倹力行型の祖父は、明治初年の舶来文明がお先走りの時代人にもてはやされ、封建的な土壌の上に形式上の異国趣味が急激に取り入れられはじめたその時流にのって、明治初年、やっと開化した銀座通りに洋酒輸入の問屋をひらいた。商売は機運にめぐまれ、数年後には間口九間、倉庫にはトロッコを通わせた店舗を、レンガ通りにデンとかまえた。そして、私の父は一粒種としてほしいままに育てられながら、いっぽう祖母の方針で、加納治五郎の塾に幼少から入れられ、厳格な教育を受け、そのためでもあるまいが、娘の私のみるところ、生活的なもろさと、狂気じみた癇癖との両面を持つ、精神のコントロールのへたな人間に仕上がってしまったようだ。
  彼は当時の慶應義塾を出て、サンフランシスコの商科大学まで修め、パリパリのハイカラ紳士としての押し出しを持っていたが、私の子ども心の印象を、いまの私の感覚でいってみるなら、ハイカラさと伝法さをいっしょくたにしたようなダンディだったような気がする。父はアメリカから帰ると横浜の商館番頭の娘である私の母と、母がまだ十七歳であったにかかわらず結婚した。母は虎の門女学館の生徒で、いうなれば彼女も時代の先端を行く娘だったらしい。
  焼けてしまったこの亡母の写真のなかに、髪はマァガレットふうにあげ、手に一輪の造花のバラを構えた一枚があるが、ういういしいおとがいや、胸元に反して、そのまなざしに不敵な老成した趣があったのをおぼえている。
  しかし、私は母のもっていたときく、その人を人とも思わぬようなギリッとした強さ、よい意味でも悪い意味でも、一歩もゆずらぬ精悍さを受けつぐことはできなかった。生まれたときから祖母のももでアンヨを暖めてもらい、祖母のあとばかりを追ってさびしがっていた、人恋しがりやが私である。“ばあさん子は三百値がやすい”であり、“きょうだいのうちで、いちばん抜けているのが大きいねえちゃん”と呼ばれる、私であった。」北林谷栄『蓮以子八〇歳』新樹社、1991.pp.28-31.

 北林谷榮(きたばやし たにえ、1911- 2010、本名安藤令子/蓮以子)さんは、劇団民藝の創立以来のメンバーで、30代から数多くの老け役を演じた「日本一のおばあちゃん女優」として知られた。1911(明治44)年、東京市銀座の洋酒問屋「大野屋」に生まれ、父方の祖母の手で育てられる。山脇高等女学校を卒業後、築地座の舞台を見て演劇に惹かれ、新劇女優を志し1931年に創作座の研究生となる。1935年に「温室村」で初舞台。1936年、新協劇団へ入団し築地小劇場の『どん底』ナスチャ役(ルカ役は滝沢修、ペペル役は宇野重吉、錠前屋役は小沢栄太郎)で注目を集める。久保栄を「お師匠さま」と仰ぎ、以前から知り合いだった宇野重吉や、信欣三[9]とともに3人でサークル「文殊会」を組む。1940年、新協劇団は強制的に解散させられ、戦時下は移動劇団・瑞穂劇団で各地を巡演。
  1945年に画家の河原冬蔵と結婚し1男1女を儲けたが、北林が仕事で地方に出かけている最中に幼い娘が火傷で不慮の死を遂げ、夫とは後に離婚。画家の河原朝生は長男。1947年、宇野重吉や滝沢修らと民衆芸術劇場を設立。1950年には劇団民藝創立に加わり、以後幹部女優として『かもめ』、『泰山木の木の下で』など多くの舞台に出演した。多くの映画・テレビなどで老女を演じた。
  2010年4月27日、肺炎のため死去(永眠)。満98歳没。北林谷栄の芸名は20歳の頃に長野県を旅した時に、林、谷川の美しさに感動してつけたという。



B.最低賃金と原発汚染
 最低賃金が都道府県単位で決められていて、その金額は地方に行くほど安い、ということは知られている。その決め方は、各都道府県でそれぞれ検討して決めるのだが、政府が全体的な引き上げの「目安」を示してそれに近づけるよう努力する、という形になる。少しでも高くなる方が労働者にはありがたいわけだが、支払う企業側には最低賃金が上がることは負担が増えるからいやがる、という構図になる。東京の大学生ならアルバイトの時給は千円以上は当たり前でも、沖縄の大学生はそんな時給をくれる求人はない。地域による物価や生活のコストは多少違っても、賃金は生活の必要から産出されるわけではない。

「社説 最低賃金 底上げを早く広く 
 今年度の最低賃金引き上げの目安額(時給)が決まった。全国平均では25円で、時給は今の823円から848円になる。時給で決めるようになった02年以降で、最大の増額だ。
 安倍首相が掲げる「年3%程度ずつ引き上げて、時給1千円を目指す」という方針に沿った決着である。今年の春闘で中小企業の賃上げが好調だったことも追い風になった。
 とはいえ、主要国のなかでは千円を超えるフランス、ドイツなどと比べてまだまだ見劣りする。経済が順調で人手不足感が強い今は、引き上げの好機だ。もっとペースを早めたい。
 今回の目安をもとに、これから都道府県ごとに引き上げ額を決める。昨年度は、47都道府県のうち6件で目安を上回った。地域の実情を踏まえつつ、さらに多くの県が「目安プラスアルファ」をめざしてほしい。
 今後の大きな課題は、地域間の格差をどう縮めていくかだ。
 全国平均で最低賃金が848円になるとは言うものの、実際にこれを上回るのは東京や神奈川、大阪など大都市部に限られる。働く人が多く、最低賃金自体も高い大都市部が平均を押し上げており、むしろ地方との格差は広がる傾向にある。
 国は所得水準や消費実態などの指標をもとに都道府県をA~Dの4ランクに分け、ランクごとに引き上げの目安額を決めている。Aランクごとに引き上げの目安額を決めている。Aランクの中で時給が最高額の東京(現在は932円)とDランクで最低額の宮崎、沖縄(同714円)の差は現在、218円だが、目安どおりに増額が実施されるとこの差が222円に広がる。
 時給が700円台前半では、1日8時間、月に20日働いても月給は12万円に満たない。これで生活を支えるのに十分な水準と言えるだろうか。
 地域間の格差を是正しつつ、より広く底上げを図るにはどうすればよいか。下位のランクで引き上げを手厚くする。より上位のランクへの区分変更を柔軟に行う。そうした具体的な方策について、国の審議会で議論をさらに深めてほしい。
 最低賃金のアップを定着させるには、体力に乏しい中小・零細企業への経営支援の強化や、大企業と下請けの取引条件の改善など、環境作りも欠かせない。「下請けいじめ」で公正取引委員会が指導した件数は、昨年度、過去最多の6302件にのぼった。監視体制の強化が必要だろう。
 社会全体の底上げを実感できるよう、歩みを加速させなければならない。」朝日新聞2017年7月27日朝刊14面社説。

 これは朝日の社説だから、まあ常識的な見解と格差是正をコメントして終り。もうひとつ、これは東京新聞の「本音のコラム」から。

「核と政治的正統性:竹田茂夫
 今年五月、米国北西部のハンフォード核処理施設でトンネル崩壊事故があり、放射能漏れを恐れた現場の数千人が退避した。大戦中の原爆製造計画で設けられたこの施設は、冷戦期に九基の原子炉と五基の処理施設で核爆弾用のプルトニウムを生産した。長崎の原爆の原料もここで作られた。
 八〇年代終わりの操業停止後には米国で最も汚い跡地と呼ばれ、残滓処理工場や二億リットルに上る地下タンク内の汚染物質や膨大な汚染地下水をめぐって、技術的・政治的論争や政府を巻き込む訴訟を引き起こしてきた。
 四十年間の核物質生産が労働者や近隣住民に及ぼした健康被害が問題化したのは、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故がきっかけだった。米国でも軍事機密のベールに隠れて、多くの核施設で杜撰で非人道的な政策が行われてきたのだ。
 K・ブラウン『ブルートピア』は、米国と旧ソ連が合わせ鏡のように、核の生産・廃棄や労働者管理で互いに模倣したことを描いている。
 米国政府から生産を請け負った大企業が独裁者のように秘密都市の住民を統制したり、旧ソ連が労働者の士気を鼓舞するために個人消費万能主義を推進するといった具合だ。
 原発事故や核兵器がもたらした環境汚染は米国と旧ソ連の政治的正統性を揺るがせた。日本はどうか。 (法政大教授)」東京新聞2017年7月27日朝刊、27面こちら特報部。

 原発運転と核兵器は、使い道は違うが仕組みは同じで、東西冷戦時代は米ソの二大大国が開発を競った。スリーマイル島とチェルノブイリで原発事故が起きたことは、ある意味で予期された範囲内のことだったかもしれない。
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