イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

らせん形をイメージし希望を持つ!(リモート時代と縄文と私 9/10) 

2020-07-31 | 第三章「無意識の世界」

 新型コロナの第1波が収まり何となく希望が膨らみ始めた時に、もう第2波がやってくる。こうしたときにガクッと落胆する人がいると思えば、そんなものかなと平然としている方もいる。

 「生き甲斐の心理学」を学ぶ中に、幸福への道筋をどうイメージするかがある。思い出して観ると、若い頃の私はどちらかというと直線的だったかもしれない。XX一直線。しかし、挫折を知らない人生もあるかもしれないが、いろいろ経験すると直線のイメージはあまり良くない。つまずいてしまうと打撃が大きい。それから、悪いほうに一直線というイメージは特に破滅的だ。

 そうではなく螺旋形をイメージする。これが意外に良い。水前寺清子さん365歩のマーチに<3歩進んで2歩さがる>があるが、4歩さがる時もあって良い。朝顔のように何処を目指しているかふらふらしても太陽の方向は忘れない。そういうイメージ。、

 それから不可知論の問題がある。どうせ分からないから考えてもしかたがないと思いがちな問題だが、本当に考えても無意味だろうか。永遠不滅の魂とか死後の世界とか、そういう問題も一度は真剣に考える必要があると思う。ある方から自殺者のほとんどは死後の世界を真面目に考えていないとお聞きしたこともある。不可知論の問題は基本は客観的な回答がないが自分なりの回答はできる。

 天国や極楽、永遠の魂・・・世の中には定評ある名著もあり、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教といった世界的な宗教も回答を用意している。螺旋状にのぼる到達点のイメージとはなにかを思索する意義は十分あるように思う。不可知論の問題は、実際死んでみないとわからないのであるが、先人たちが必死に考えた問題である。

 さて、昨日U先生の2013年のブログのなかに次のような一節があることにハッとした。「古代エジプトの文化、ケルト文化、中国、インド等の文化を研究していく内に、一番、重要な言葉が魂、だと気付きます。どんなに「魂」と言う言葉が嫌いな学者でも、この魂の内容について思索していかないと、それら古代文明の意味は理解不能となります。この魂の意味について思索する場合、一番良いのが自分の魂について色々の視点から自己分析するのが一番楽しく、かつ、他人事にならない良い研究方法だと思います」

 私が勉強しているのは主に縄文時代であるが、勉強すればするほど魂の問題が避けられないことに気づく。例えば、縄文土器については学者先生の努力の中でいろいろなことがわかってきておりわくわくするが、文様の意味については部分的な解釈はあるものの全体的な解釈はなされていないようだ。古代の言葉は読解出来るようになると様々な知見が得られるそうだが、文字がなかった縄文時代の文化では、土器の文様読解が大きな意義を持つ。もちろん学者先生の努力はこの分野でも大いにあり、縄文時代の文様が民族学者レヴィ=ストロースの神話公式に基づいており、物語性をしっかりもっているという研究も出てきている。

 ただ、その意味を考えるということになると、U先生の引用文ではないが自己分析の視点がないと、堂々巡りに陥るのではないかと感じている。私が若い頃にフロイトの心理学の本を読んで他者分析を試み全く役に立たないという経験をしたことがあったが、心理学の勉強の基礎は自己分析にあるというU先生のお話は真実だと思う。ろくに自己分析で理論を血肉化しないで他者分析をしても訳に立たないのではないか。

 先のレヴィ・ストロースの神話公式(神話の論理のなりたち)だが、2012年に自分の愛の原型(の一つ)と有島一郎氏の「一房の葡萄」を例にブログを書いた。神話公式は縄文時代の人々だけでなく、今を生きる私たちにとっても重要なものであり、こうした作業の中から神話や文様読解の意味が浮き彫りにされるのではないかと思う。神話は私たちのこころの構造とも一致しているのだ。

 さて、話を戻そう。螺旋形を縄文時代の人はどのように考えていたか。土器はよく縄文時代を考える上で利用される。冒頭の写真は私が昨年の今頃信州長和町で撮ったものだ。縄文時代の人が作った土器を実際に触ってみると、その肌触りや重さあるいは香りからなにか親しみが湧いてくる。

 この土器であるが、選ばれた粘土で作り上げられるのだが、基本は粘土を紐状にしての輪積みだそうだ。もちろん制作の過程できれいに整形されるのだが、おそらく制作者は螺旋をこころの底で意識していたのではないだろうか。

 縄文の祖先たちが経験した悲惨。地震、雷、火事、親父は有名だが、このほかにも火山災害、津波、飢饉、水害、伝染病、・・・考えるだけで嫌になるほどあるが10,000年以上の期間があるので私たちが想定できない悲惨も経験したのだろう。

 そんな中でも生き残り、私たちに命をつないでくれた祖先。そのノウハウの一つが螺旋形のイメージではないだろうか。

 日曜の朝のテレビ番組を観ていたが、だんだん滅入ってくる。直線的に最悪をイメージしがちである。しかしこうしたときに螺旋形を思い出しイメージし、こころに平安を取り戻したらどうだろうか?今日は粘土細工でもしようかな。

リモート時代と縄文と私 9/10 

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この土偶はお好き? 「好き」を考える (リモート時代と縄文と私 8/10)

2020-07-24 | 第二章「五感と体感」

 好きか嫌いかという感情は原初感情と言われている。因みに身近なものを見て、「好きか嫌いか」と自問自答してみると「好き」か「嫌い」かがはっきりわかることに驚いたりする。初対面のお相手に「どういう感情が湧きましたか?」と問われたりしたら戸惑うが、「好きか嫌いか」と訊かれれば答えることができる。

 では「好き」「嫌い」の感情とは何か?と考えた方はいらっしゃるだろうか?「生き甲斐の心理学」をU先生から学ぶ前は、正直考えたことはなかった。「好き」「嫌い」の感情はなぜ起こるのか?「好き」「嫌い」の感情は変化することがあるか?嫌いな相手を「好き」になることはあるか?「好き」「嫌い」の感情はどこから来るのか?

 今日はこのあたりを考えながら自分の中にある土偶への愛着を考えていきたい。

 さて、今年の梅雨も何となく明けていく雰囲気になってきたようだ。そんな中、今週も近くの国立市の緑川東遺跡の周辺を散策した。最近4回訪れたが、今回はもう夏の気配が漂っていた。草の匂いが・・

 二十四節季では今はもう大暑。ふつうなら梅雨は明けているはずである。当たり前になりつつある異常気象。二十四節季を意識したのはU先生に「心の健康に二十四節季を意識することは大切」と言われたからだ。先日も知人と話したがかつては正月やお盆、お彼岸は皆意識して心待ちにしたりしていたが、最近は正月さえ日常の中に埋もれ季節感もなくなってきたとのご意見だった。

 逆に言えば二十四節季を意識しなくても現代人の生活は滞りなく送られるようになったのかもしれない。私が幼かったころは電気冷蔵庫は家庭には普通にはなかった。季節の物を買って食べるのが当たり前だった。私が好きな縄文時代の人々も、当然ながら季節を強く意識して生きていたと思う。その証拠に、カレンダーを連想するような文様がついた土器があったり、二至二分を意識しているストーンサークルがあったりする。祖先は今より桁外れに様々な動物や植物を食べていたとも言われているので、季節への意識も桁外れだったかもしれない。

 季節は川のように流れていく。そして循環する。私たちの感情もロジャースの理論では川のように流れていくのが健康だとされている。先の「好き」「嫌い」も、例えば私の妻への湧き上がる感情も「好き」もあれば「嫌い」もあるが、川のようにさらさらと流れていくのが健康のようである。感情というのはなぜ生じるかというと理想と現実のギャップと考えるのが分かりやすい。普段は理想も現実も意識しないが、「好き嫌い」を意識すると背後にある自分の理想と現実の有りようも意識するようになる。自分の理想や現実を点検すると、感情も変わってくることを知ったのはいつだっただろうか。心の川がよどみ2日も気になることに苛まれているなと気がついて点検したら、瞬時に消えることもある。

 いろいろな事情で嫌いな相手と付き合わなければならないときがある。こうしたときの解決策は、嫌っている自分を意識化するのが第一段階。次に理想と現実のギャップを考えることも大事かもしれないが、憎しみ(友好的感情の反対)が強いともう駄目だ。そういった場合は、「嫌い」な相手の中に自分とつながる何か、受け入れやすいところに思いをはせるのが良いようだ。相手の良いところをのんびり考える。そんなことをしているうちに、鏡ではないが相手の態度の変わってきたり。そして、時間が経ち恩寵のように相手を受け入れる時が来る。それから、こうした一連の流れを支える重要なことがあるが、それは後半の土偶の話の中で。

 話が随分それてしまった。緑川東遺跡周辺を散策した話に戻ろう。この遺跡では縄文中期末の敷石住居跡と4本の立派な石棒が見つかった。写真は一年半前にくにたち郷土文化館で撮った石棒のレブリカの重さを感じている私だ。このような大きな石棒が4本、敷石住居跡から見つかった。これらは祭儀で使用されず、何らかの原因で未使用なまま埋められたようだ。昨年東博の「出雲と大和」展で見た、銅鐸が大量に埋められていた遺跡を思い出した。ある時代が終わるときに目にする光景かもしれない。

 

 石棒は縄文時代での大切な信仰の対象であったように私は思うが、はじめの写真(東京都田町の伊皿子貝塚)のような土偶は縄文時代の信仰の対象として注目を集め、最近は若い人をはじめ愛されているようだ。

 私も何年か前に尖石の縄文のビーナスと仮面のビーナスを観て虜になってしまった。以前東博で確か「祈り」がテーマで仏像と一緒に国宝の土偶が展示されていて拝見したときだったかもしれない。私はクリスチャンであるが、仏像や土偶が好きである。この「好き」というのは理想と現実のギャップだけでは説明がつかない。比較宗教学や比較文化論の影響を受けたU先生の「生き甲斐の心理学」での重要な人間観は、人は身体(医学の対象)と心(生育史を中心にした臨床心理学の対象)と魂(宗教、哲学の対象)からなるとしている。この考えからすると、土偶を観て好きと感じるのは身体からか、心からか、魂からか。欧米風に分けて考えると見えてくることがある。

 写真のマスコット的な大きな土偶は生育史からくる好きを意識して制作されたのかもしれない。東博の「祈り」の企画展は魂を意識していたかもしれない。そして、縄文時代の人々は身体も、生育史も魂もすべて意識してたのでは。

 それから魂をどのように考えるかについて少し述べてみたい。オカルト的に考える人、怨霊のような魂、いろいろあると思うが、欧米の伝統的解釈はキリスト教の影響が強い。U先生は「魂は愛そのものであり、人が死ぬと身体から離れる生命体としている」。実際に死んでみないとわからないことだが、「魂は愛」と考えると世界が少し違って見えてくる。マザーテレサが何故異教徒が多いインドで死者の家の運動をしたのかもはっきりわかる。それから、少し戻るが「嫌いな人を好きになる」プロセスの表面にはでてこないかもしれないが、愛そのものの魂を信じることで流れがぶれないように思う。

 さて、縄文時代には戦争がなかったようであり、人を殺すことを目的とした武器がなかったことで有名である。私は縄文時代の宗教の中に、特に魂の考え方に「人の魂は愛そのもの」という思想(あるいはそれに近いもの)があったのではないかと想像している。それから、縄文人の心情をわかりにくくするアニミズムなどの概念がよく言われるが、生き残るために木々を伐採したり二次林を作ったりしていたり自然を結構改変している事実は何なのであろうか。人と他の生命体との線引きが意識されたのはどこから来るのだろうか。

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感情の意味を考えること・・すばらしい土偶を見ながら(リモート時代と縄文と私 7/10)

2020-07-18 | 第十章「今ここでの恩寵」

 ちょうど10年前に新聞(一般紙)購読を止めた。日常の生活で情報不足になるのではと当時は心配であったが、朝から無駄なストレスにさらされたくなかったからだ。新聞情報からのストレスには自分にとって大切なストレスもあるが、意味のないストレスも多いのだと思う。そんな中で見直し、そのお金で好きな旅行でもしようと思ったのだった。

 結果はネット情報やSNS、時折見るテレビで十分だった。

 そして、この新型コロナによるリモート時代。全世界を巻き込んだ新型コロナはスペイン風邪のように世界を変えるのではという意見は、様々な立場の方から言われている。縄文を研究している私にとって、縄文中期から後晩期への移行期などへの興味も含め、新型コロナの影響は興味深い。もちろん、影響は人ごとではなく大きな痛みを伴いながら、今の自分自身にも突きつけられている。

 今のところ、仕事の関係は大きな変化はない気がするが、何となく寂しいなと思うことが激増した。今まで日常の中で十分過ぎるほどだった仲間とのお付き合いや、顔なじみとの時間が激減したのが原因かもしれない。情報というのは情に報いるとよく言われる。顔の見えない大手新聞とは情に報いる関係はなかったかもしれないが、顔の見える方々とのやりとりには情があり寂しさを感じるのだろう。

 もちろん顔が見えなくても、情報というのはあるように思う。本を購入して送ってもらった書籍と一緒に入れていただいたチラシ。そんなチラシに人生が変わるほどの情報があったりもする。もちろん、顔が見えているSNSの投稿が貴重であることは多々ある。こころのそこから欲している情報は、不思議なほど天から落ちてくる。求めると与えられるようである。数千キロ遠くの海を回遊している鮭が生まれ故郷の川に戻ることができるのも、臭覚といわれるが不思議な人知を超えた働きがあるのかもしれない。

 最近は新型コロナの感染者数が東京を中心に激増している。以前はマスコミも一丸となり専門家が登場したりし、あるいはSNSにも専門家情報があふれていた。今回はよくわからない中で、エピセンター化しているという専門家の必死の声にも小田原評定のような政権トップの回答。この状況(無策)がつづくと必ず何かがやってくる。身近な人や自分の生命にも関わることなので、自己混乱感が増す。これからどうなるのだろうか?この不安を落ち着かせるためネットで情報をとったり、SNSに投稿したりし知性化や合理化を図っている。

 こんな風に、わたしの最近の感情生活が送られているが、「生き甲斐の心理学」はどのような方向付けをしてくれるのだろうか?

 「感情には意味がある」。これはU先生から20年近く言われ続けていたことだ。20年前であれば考えたこともない「感情の意味」。これはどいうものなのだろうか?この最近の感情をとってご説明したい。

 まず、人とあうことが少なくなったことによる寂しさ。なんとも言えないが「孤独感」が中心ではないだろうか。普段と違って、何となく孤独感をかき立てるような音楽を好んだり。身近な人に何となく感情転移してしまったりする。しかし、これではどうもいけないようだ。この何となくあふれでてくる孤独感の意味は何だろうか。「生き甲斐の心理学」では「孤独感」を感じるときには「親密性」と「愛」について考えると良いと言われる。

 日常の中では、どうしても仕事をしたりし、今やらなくても良いことは先伸ばしにしがちである。気になる人に一本の電話やメール・手紙を送る。そういうことが大事かもしれない。まず始めたらどうだろうか。

 さらに、もう少し別の意味もありそうである。大きく変わる世の中。その中で、新しい人間関係を模索する。出会いということもあるが、関係を深めるということもあるだろう。

 今後の新型コロナへの不安からくる自己混乱感はどうであろうか?これから先の人生が今までのようにいかなくなる。この不安はなんとも言えないものである。そして、「生き甲斐の心理学」の自己混乱感に対処するためのキーワードは「アイデンティティ」と「忠誠心」である。目先の問題も重要だが、先延ばしにしがちな次のような自問自答が有効だと「生き甲斐の心理学」から学んだ。①何のために生きるか?②生き甲斐は何か?③自分の身体、心(生育史)、魂(宗教)を大事にしているか?

 忠誠心というと何か変な感じがするが、過去のことなどを振り返ると大事だなと思うことも。営業のときに競合会社と競ったとき、こんな時は会社への忠誠心が大きくものをいったようだ。青春時代の混乱の時期には愛校精神での応援が何かこころをピシッとさせてくれた。年をとってからの信仰も自己混乱感を払拭してくれる何かがあったように思う。

 さて、先日は車で一時間ちょっとの山梨県南アルプス市のふるさと伝承館で縄文中期の土偶ラヴィちゃんと釈迦堂パーキングエリアで見学可能な釈迦堂遺跡博物館に日帰りで行った。

 

 ラヴィちゃんは、運良く本物とレプリカが並んで展示してあり、感動した。尖石の縄文のビーナスと同じような文様が腹部にあったり、雲母が混ざった土なので、角度によって光ったりもした。当時の部族のしきたりを踏襲した上で何か心を動かすような手の動き。制作者はたぶん女性だと思うが、これを作ることでアイデンティティの統合や忠誠心を呼び起こし、人生の中で起こった様々な出来事からくる混乱感を見事に統合したに違いない。これは今も昔も変わらないことなのだと思う。
 

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祖先も感じた魂の痛み・・宗教的感受性を呼び起こすリモートの時代 (リモート時代と縄文と私 6/10) 

2020-07-11 | 第八章「魂と聖霊」

 緊急事態宣言下、そして今も感じる魂の痛み・・・

 さまざまな災害があるが、災害によって神社、仏閣、教会に行けなくなったときの悲しみというか魂の痛み。今回のコロナ禍の異常事態を皆様はどう感じていらっしゃるだろうか。私はカトリック信徒であるが、幼い頃から「日曜日はミサに行け、教会に行け」とは言われたものの、「ミサに来るな、教会に来るな」と言われたのは今回初めての経験であった。そして、復活祭の前の四旬節から教会に行き聖体拝領をするということが今に至るまでままにならなくなった。

 日本では1%にも満たないクリスチャンだけではなく、仏教、神道、イスラム教といったさまざまな伝統的信仰をもった方々も同じように魂の痛みを感じ異常な災害の苦しみを味わっているのに違いないと思う。また、宗教者の方々も安全と信仰心の間に立たされてさぞかしつらい思いをされているのではないか。

 人は身体と成育史からくる心、そして宗教の領域とされる魂からなるという欧米の比較宗教学を取り入れた心理学から考えると、災害の痛みは決して身体の痛みだけではなく心や魂の痛みにも及ぶ。球磨川の氾濫の報道を見ていたら、氾濫で何日も命の危機にさらされていた高齢者がいらした。いったんは救護所に到着されても、さらに30Km先の避難所に向かわねばならない、その姿に涙が出てしまった。村の神社仏閣、家の仏壇・神棚、大切な人の墓から離れていく痛みは、ほとんど報道されないが実は大変なことではないか。

  (クリックで拡大)

 今年の初めに九州、そして世界遺産に最近登録された長崎の観光地を訪れた。大浦の天主堂には初めて訪問した。そこは1865年春のプティジャン神父の信徒発見の地でもあり、記念碑の前で感動の記念写真を撮った。禁教となり神父が日本にいなくなってから7代、約250年間神父不在の中で信仰を守り抜き、先祖の希望に後押しされて、この地の信徒が教会に足を踏み入れた場所である。本物の神父と本物の教会に出会えたうれしさ。それは、危険を冒して訪れた信徒の持っていた魂の痛みと分かちがたい。その何分の一かを奇しくも感じることができたのがこの数ヶ月のコロナ禍であった。

 さて、冒頭の写真は2020年2月に開催された秦野市稲荷木遺跡の見学会の時のものである。縄文後期の約4000年前から3000年前くらいには、関東甲信越では縄文中期の環状集落の時代が終わり(輪をなして隣人や祖先と暮らす)、夥しい河原からの石を使った敷石住居、墓域、配石遺構などが作られる時代である。縄文中期の環状集落は過去のものになったが、環状の墓域、配石遺構、盛土遺構で埋め合わせをするような時代。諸説はあるが昔のように一緒に住めなくなったリモートの時代と言ってもよいかもしれない。東京のストーンサークル、田端環状積石遺構もこの時期のものであり、大規模な東北のストーンサークル大湯遺跡もそうである。配石遺構はみつかっても、住民がどこから来たのか、どこに住んでいたのかよくわからない。

 石といっても、生命を暗示する緑の石とかの拘りがあり、配石遺構などはきちっと土地造成工事をした後に、時には何キロもある拘りの石を持ってくる拘りのモニュメントではないかと私は思う。重機も車も馬や牛のない時代、手軽な木などの素材を使わず、おそらく縁者などのネットワークを通じて時間をかけて構築していく。

 約3500年前。この時代は中国では夏王朝の青銅器文化が栄えていた時代である。西では地中海にミノア文明も栄えていた。青銅器とか土器とか材質は違っても、この時代になって急に現れる注口土器や壺形土器などと共通点を感じる遺品の数々。このあたりの時代に巨大火山爆発があり、世界的な大災害に結びついたとする説がある。日本列島は兵器が作られたり城塞のある文化とは異なるユニークな文化であるが、そのころを境に文化が大きく変わっていく。

 一つ一つの石は、どのような想いで運ばれ築かれたのだろう。木製品をはじめとする有機物は火山灰から来る酸性の土壌が多い日本列島ではすぐ腐ったり溶けてしまったりする。その中で無機物の石を選んだのはどういう想いがあったのだろうか。見えるより確かなものに、命をより削ってまでも駆けようとしたもの。

 

 この時期の発掘現場からはこうした石の他に、土偶、石棒、注口土器、石皿といった祭儀で使ったものが出てくる。昔、若い頃に奈良の明日香村に行き、ある神社に入ったら「うひゃー」と驚くようなオブジェがたくさんあった記憶がある。初めてこうした場に遭遇したら、それこそ「うひゃー」である。しかし、人間の一生をいろいろ考えたり経験したりし、聖書の雅歌が自然に感じたりする年になってくるとちょっと違ってくる。日本の古代には二人の著名な僧が理趣経の扱いでもめたりした。「うひゃー」はちょっと考えが足りなかったかなと今では思う。「うひゃー」と叫んだり、呪術とかシャーマンとかアニミズムとか難しい学術用語を使う前に、脳科学的には現代人も当時の祖先も変わらないのだから、同じ目線で感じてみるのはどうだろうか。リモートの時代。生きるために分かれなければならないときに、こころの3密を求める痛みと神秘。

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元気になる!「生き甲斐」と「美味しいもの」で・・(リモート時代と縄文と私 5/10) 

2020-07-04 | 第七章「光と復活体」

 何となく疲れたなと感じたとき、どうしたら元気になれるか?自分を真の意味で大切にするという問いかけでもあるが、いくつかの方法を自分なりに持っていると良いのだろう。

 U先生の「生き甲斐の心理学」では人間を、身体と生育史からなる心と魂を分けて思索することが多い。元気ということを考えても、例えば身体を考えてしっかり睡眠をとる。一日の中で宗教や哲学に静かに触れる時間を確保する。気になっている自分の過去を肯定的に解釈し直してみるなどがあるかもしれない。

 しかし、疲れているときは、ごちゃごちゃ考えるより心をゆるせる人と食事を楽しむこと。それから、趣味を楽しむことを思い出したらどうだろうか。

 雨降りの毎日で憂鬱であったが、7月2日は朝から気持ちの良い快晴。そこで多摩川の西岸(国立、立川方面)を散策した。私が住んでいる八王子市の東南部の丘陵地から浅川、多摩川の低地を越えて万願寺周辺へ。昼過ぎで日差しはコロナを焼き尽くすほど強く、風も気持ちよく吹き帽子が飛ばされそうだった。肌を流れるような風は気持ちが良い。多摩川沿いの道を歩きつつ白爪草の花を摘んだり(オジサンがである)、集団で昆虫を食している鳩を横目に楽しんだ。

   

 しばらく川下の方向に歩くと、昨年の台風で大きな被害を受け何ヶ月も通行止めになっていた日野橋が見え、さらに歩くと根川貝殻坂橋。こんな場所があったとはと驚いたが、このあたりは土を掘るとハマグリの貝殻がたくさん出たことから、このような名前がつけられたそうだ。

    

 今では当然ながらハマグリなど採れる環境ではないので、縄文時代の海進時に祖先たちが残したもののようである。海進の時とはいえ海から結構遠い。どのようにハマグリが育ち誰によってこの地にもたらされたのだろうか。東京都教育委員会の遺跡地図(ネットで見られる)で調べてみると、貝殻坂周辺は遺跡ではないものの、このあたりから川下は縄文遺跡が帯状に連なっていて貝塚のようなところがあったのかもしれない。

 川沿いには縄文時代だけでなく、こんな文化財も。日野橋周辺は若い頃から何回も通ったが、このような場所があることに気づくことはなかった。

     

 しかし、私の頭の中は縄文だらけ。縄文の遺跡周辺を歩いているともう怪しくなる。何でこんなに縄文好きになったかを考える。成育史を紐解くと何となくわかる。新宿区四谷坂町で育ったが、そこも縄文の三栄町遺跡がそば。祖父の代では近くに小川が流れ狐がいたり、ヤマブドウがあったという。そんな環境で育った私は、小学校の高学年になると天文や地学に興味を持ち理系指向になっていった。しかし、中学校に入ってすぐに奇妙な小説を書いたりしたものの、中学2年の国語の成績は5段階評価の2。しかし、地学部で文化祭の時は火山のシミュレーションをしたりし楽しんだ。その後、高校生ごろから古代の歴史にも興味を持つようになったものの別の道に。考古学に早く出会えばまた違った人生になっただろうが、60歳を越えるころから縄文に目覚める・・・

 臨床心理学者であるがノーベル平和賞候補にもなった、カール・ロジャースの人格形成論の命題4は「有機体は、一つの基本的な傾向と渇望をもっている。すなわち、体験している有機体を現実化し、維持し、強化することである」。個性とかミッションとか生き甲斐などを考える上で大事な人間観であり、私はこんなであるが皆さん一人一人も違った傾向と渇望を持たれていると思う。忖度人生をやめて自分にとって自然な生き方を見つけることは大事なことだと思う。

 話を戻そう。今回の目的地は国立市のくにたち郷土文化館で縄文の展示見学が一つであったが、その展示を見る前に実際の遺跡にも寄ってみたかった。なんと言っても目玉は緑川東遺跡。縄文中期から後期初頭を中心にした遺跡で敷石住居といっしょに4本の1mを越える石棒が完形でてきた。しかも付随して地元の加曽利EV式の土器だけでなく、地元で作った関西系の中津式土器と北白川式土器まで。これは4500年頃のもののようだが、この時期は近くの立川市向郷遺跡の環状集落が崩壊し、住居が分散化する時期になるようだ。(開館20周年記念秋季企画展 くにたち発掘 くにたち郷土文化館2014年参照)

 縄文時代中期末から後期初頭の激動の時代。今のリモートの時代にもどこか通じる激動の時期。川沿いの道から北上し緑川東公園を目指す。途中の道ばたでオジサンがトウモロコシを売られていた。声をかけると先ほど採れたトウモロコシで、取れたてなので美味しいとのこと。採れてから半日以上たつとまずくなるので早く食べてとのことだった。緑川東遺跡の話やくにたち郷土文化館までの道を教えていただいた。楽しい会話は縄文ツアーのごちそうでもある。

   

そして、文化館近くに。お隣の南養寺も縄文中期の深鉢など有名なので入らせていただいた。

  

最後に、くにたち郷土文化館に。立派な石棒や縄文時代の遺品を見学し(中は写真撮影禁止)帰途についた。

  

帰ってから、先ほど買ったトウモロコシをあつあつでいただいた。確かに甘みが違い採れたては最高であった。美味しいものを五感体感全部で味わっていただく。これは元気の素であることは間違いない。映画、バベットの晩餐会ではないが、美味しいものをいただくというのはめったに味わえない幸福感への近道なのである。

縄文時代の食については、調べてみるといろいろなことがわかって来ているが、それが美味しかったのか否か、そのあたりが一番興味があるがよくわからない。ただ、自然は今以上に豊かであり、数百種類の植物や何十種類もの動物・魚介類を深鉢で煮たりしているので、祭りの日などはきっと今以上に美味しいものを食していたのだと思う。それがどんな味だったのか。そして、どのように祖先は元気づけられたのか。かなり繊細な味を楽しんだのではと思うが、それはどんなものだったのか。楽しい妄想はつきない。

リモート時代と縄文と私 5/10 

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