イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

鎌倉に天国の練習! (メメントモリ 9/10)

2011-02-28 | 第七章「光と復活体」

 快晴に恵まれた昨日、同年代の会のオフ会で、鎌倉を訪れた。同年代の会は、ミクシーで設立した会で、もう5年近くなる。全国、全世界に散らばる?1951年生まれの会である。

 人が身体とこころ(成育史)と魂から成り立つとすると、同年代は身体とこころに大きな共通点をもつ、兄弟姉妹のようである。お互いにコミュニケーションをするうえで、身体とこころ(成育史)のバリア(差)は小さい。集まると、昔からの友のように意気投合してしまう(そんな理屈も意味がないかもしれないが)。魂レベルでの交流にすぐになってしまうのだろうか?

 昨日は、午前中は鎌倉の瑞泉寺、鶴岡八幡宮、昼は素晴らしい懐石料理を楽しみ、そして東慶寺の梅を愛でてお開きとなった。

 瑞泉寺は、夢想国師の作った鎌倉時代の庭園で、何と鎌倉で唯一の鎌倉時代の庭園とお寺の説明書きにあった。天女洞など、本当に天国で天女が出てくるような気配を感じてしまった。福寿草や梅が綺麗で、水仙の香も・・・

 鶴岡八幡宮は、本宮への急な階段の前の舞殿で、結婚式の真っ最中であった。舞殿がこのように使われるのかと感動。外国人と一緒に思わず写真まで撮ってしまう。大銀杏は残念ながら、御存じのとおり根元から倒れたが、根が生きていて新芽が出て、今は冬で葉は落ちていたが健在のようであった。目出度い一時だった。

 昼は、同世代で幻董庵で懐石料理を頂く。ビールで喉をうるおし、美味しい料理を時間をかけて頂き、病気自慢、孫自慢、年金自慢の年より3自慢をいれながら楽しくお話をする(こうした3自慢はジジババくさいといって、この話題を避ける会合も知っているが、何せ新米ジジババであるので熱中する)。

 ここは天国かと思うような本当に楽しい時間であった。

 さて、家に帰ってから、子供達がテレビを見ていた。ラーメン屋さんの怒鳴られたりの地獄のような特訓のお話を思わず見てしまった。高いコストのマスコミの話は嘘っぽくも感じたが、まあ下界は大変じゃなと思いつつ早く床についた。実に幸せな一日であった。

 でも、ちょっと(さらにか)理屈を言えば、欧米の宗教心理学などでも、この世の天国を味わうという考えがあるそうだ。夢想国師が庭を作った気持ちも、この世に天国。天国の練習だったかもしれない。

メメントモリ 9/10

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理解していただけるという、こころの働きは?(メメントモリ 8/10)

2011-02-27 | 第七章「光と復活体」

 傾聴の時に、理解するということが良く言われる。相手の考え方などロジックを理解することもあるが、それでは余りに浅薄で、その人の言語化しにくい感情なども含めての理解が薦められている。

 私のことで恐縮であるが、10点法(1が全く理解されない、10が完全に理解される)で考えると、幼いころのある事件のことなどは、自分でも自分のことを余り理解しておらず、2-3位であったが、父母などの身近な人でさえ、恐らく1に限りなく近かったことも後から考えるとあった。他人の理解は、いくら身近で自分のことを考える人でも意外と頼りない。そんなものであろう。

 幼いころは兎に角、今はどうであろうか?ケースバイケースであるが、かなり親しい間であっても、10などはとんでもないと思う。やはり、成育史や身体による違いが、根本的に理解を妨げているように思う。傾聴の訓練をした場合はちょっと違うが。

 理解してもらう理解する。そんなことを考えているうちに、ひとつの盲点に気がついた。理解するとか、理解されるというこころの働きが、かなり根本の人の働きとしてあるということだ。この働きは、チベット死者の書の80自性(ゲルグ派版)にも載っていて、人の心の根本的な特性の一つなのであろう。

 さて、人はいざ知らず。自分でも自分のことがどれくらい理解できているかも判らない。そんな中、Something Great(神仏と置き換えてもよいの存在が自分を完全理解してくれている。そうした想いが、自分の中にあるが、これは何だろうか?

メメントモリ 8/10

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死のことを考える! (メメントモリ 7/10)

2011-02-26 | 第七章「光と復活体」

 福祉や介護の仕事(ボランティアではなく)をやめたのは、もう3年前になる。昨日、グループリビングとの関わりについて尋ねられて、そんな昔のことを少し思い出した。人間、日々の暮らし方が変わると知覚が変わるところがあり、私もいつの間にか、福祉や介護の世界から遠ざかってしまったことに気づいた。

 もう、8年くらい前に、福祉の仕事をしようと、資格をとるため学校に通ったりした。先生は、福祉や介護、医療のプロたちであったが、初めて学ぶ中で、当時の学生の不安を気遣っていろいろ本音を話していただいたことが、記憶に残っている。教科書の内容は忘れても、そういう話は結構覚えているものだ。

 そのひとつは、医療や福祉の仕事では、多くの死に出会うということである。それが嫌で、先生になったという方もいらした。

 以前、やはり福祉の仕事をされていた方と打ち解けてお話したことがあった。その時も、利用者の方の死についてが話題になった。まあ、今は高齢社会になりつつあるので、死が昔ほど遠い存在でなくなったかもしれないのだが、確かに利用者が亡くなられる経験は多いようだ。

 心理学の勉強を10年以上しているが、最近つくづく想うのは、意識の世界の外に無意識の世界があるということ。人間を意識の世界だけで捉えるのは余りに浅薄で、その背後の巨大な無意識の世界を前提にしなければならないということ。スピリチュアルケアの勉強もして、その通信講座を受けていたが、以前途中で休止してしまった。いまは再開する時期なのかもしれない。でも重いテーマである。

 死んだらどうなるか?今の生活と死後の接点はあるのか?私はカトリックなのであるが、その思索は深める必要があると思う。考えてもきっと100%納得できないだろうが、考えることが実は大切なのかもしれない。良く言われるが生を考えることでもあるのだろう。

メメントモリ 7/10

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感情生活を豊かにするために・・・(メメントモリ 6/15)

2011-02-25 | 第七章「光と復活体」

 本当の自分の感情に出会うというのは、意外と衝撃的なものである。

 20年くらい前、父が余命いくばくもないと知ったとき、通勤の電車の中で涙があふれてきたことを思い出す。あの時の感情は強烈であった。サラリーマン生活で感情を抑え、理性的?な仕事をしていたころで、余計印象が強かったのだと思う。

 10年くらい、生き甲斐の心理学を勉強している。心理療法とかカウンセリングは感情をとても大切にする。しかし、日々の生活の中で、生の自分の感情をどのくらいキャッチしているかというと、意外と少ないようである。

 感情はリアルな自分を発見する最高のメッセージである。しかし、思ったほど出会わないので、何か宝物のようである。

 では、生の感情、宝物を探すために何が役にたつのだろうか?フロイトの14の防衛機制、チベット死者の書の80自性などは、その糸口のように思う。こうした勉強をして、自己に当てはめるのが良い勉強だと思う。

 また、好きか嫌いか、怖いか怖くないか・・・こうした単純な判別、感情を磨くことも、感受性を高めるを訓練するうえで役にたつようである。また、五感を大切にする生活、真善美を大切にする生活も大事な気がする。

 私は、この4-5年携帯でブログ用の写真を撮るようになり、これも意外な効用があったように思う。

メメントモリ 6/10

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