秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

エキサイティング・モロッコ、最後の土壇場

2019-03-08 | 旅・モロッコ
旅の最終日、
モロッコの縮図と言われるマラケシュの街観光終えて、夕刻にカサブランカのホテル着。
帰国便は深夜なので、夕食後に添乗員さんが希望者だけバーへ案内してくださった。



映画「カサブランカ」で有名なバーです。
ハイアット リージェンシーの1階ロビー左隅にありました。

Here's looking at you, kid(君の瞳に乾杯)
シャンパンならぬビールで乾杯。

ツアー仲間の老姉妹がご馳走してくださったこともあり、
モロッコで飲んだビールで一番美味しかったと記してます。

ホテルに戻るころ、添乗員さんが急に具合悪くなられた。
それでも帰国の夜ゆえ、みな必死で荷物まとめて空港へ。

申し訳ないと空港ロビーのソファに横になられてた姿がまざまざと蘇ります。
不安ながらも、みなさん気丈夫に出国手続き終えて、やっと飛行機に乗れた。




いろいろエキサイティングだったモロッコともお別れ。



50歳を超えたころから耳の機能が悪くなり気圧調整ができなくなりました。
そのため普段は、離陸するときに耳に入れた耳栓を、
安定飛行になったら抜いて、また着陸30分ほど前に気圧が変わったら再装着してます。

ところが疲れもたまってたし、離陸後しばらくして耳栓抜くのを忘れて寝入ってしまってた。
時間が流れもうすぐ着陸となったころ、気圧が変化するので目が覚めた。

そして耳栓越しに何かの圧が左耳から侵入してきた。
ど~んと一撃食らった感じ。
一瞬血の気が引いた。
すると耳から入った圧の塊は、そのまま脳を通過して、左から右へと抜けた。
こんなこともあるんだとびっくりでした。

正気になって見渡すと、添乗員さんも回復されてて、一安心。
やれやれ。


そして飛行機は早朝のフランクフルトに着陸。
まだ外は暗くて、小雨が降ってたのか、最後尾に設置されたタラップは雨で少し滑ったような記憶。

先に書いた例のゴマ塩頭の男性が足を滑らせて転落され意識がなくて、
救急車要請となり病院へ運ばれたのだった。

またまた乗り継ぎの待ち時間が7時間もありました。
しかし往路と違って、疲れてたし、心が塞がっててそれほど長く感じませんでした。

2005年1月17日のことでありました。
あれほどエキサイティングな旅はなかったと、記録残しておきます。


旅から帰り、2か月後ぐらいに旅の相方に会いました。
彼女が語るに、あの旅立ちは早朝だったので、ご近所さんに気兼ねして民家の裏道を通ったんだと。
その裏の小道に、なんと死体が埋められてて、
その上を何も知らずキャスター旅行鞄引いて歩いてたんだって。
旅行帰ってからしばらくしてその事件が発覚して知ることになる。

あのモロッコ旅の てんやわんやは、
あんたがその霊を連れてきてたんじゃあないの、というオチ。



この項をもって、モロッコの旅は終了です。
まるでつい先日帰国したかのように、記憶にしっかり刻まれてる部分も多かったのが驚きでもありました。

長く心に引っかかってたのを記事にできて、宿題やり遂げた気分。
お読みいただいてありがとうございました。



あれから14年が過ぎて、モロッコがどれほど変貌しているのかもわかりません。
興味持たれてモロッコへ行ってみたいなと思われた場合は、
必ず最新情報をお調べくださいますようお願いいたします。




エキゾチック・マラケシュ、また行きたい街

2019-03-08 | 旅・モロッコ
過去に訪れた都市の中で、また行きたいと思えたところはそうそうありません。
確かにきれいけど、おもしろいけど、もうええわ、さいなら〜
また来たい、今度はこの街ぶら特化でと思ったのが、トルコのイスタンブールと、モロッコのマラケシュでした。

マラケシュのジャマエルフナ広場では、食べ物屋台とかいろんな大道芸とかわんさかいます。
ものすごくエキサイティングだったのに写真ない ヽ(´o`;

水売りをネット画像検索スクリーンショットで



当時、現場で写真撮ってないのです。
写真撮ったらチップが要るんですもん。
旅から帰って、写真撮らんかった、買わへんかった、食べなかった話をすると、
いつも子供からあほやな~と言われます。
もう二度と行くことないねんやろう、なんてケチやねんって。



この夜は、騎馬軍団の観光向けファンタジアショーが夕食込みで3時間半。
なのに、何にも覚えていない。


またまた調子にのって、モロッコ巻きできるストール購入、
2枚のストール、あれっきりそれっきり。
日本で一度も使ってないけど、どこいったかな。


翌朝のこと、
宿泊ホテルはシェラトンで、スーツケースを部屋の外に出す際に、うっかり2人して外に出てしまい、ドアが自動ロック。
中に入れなくなった。
相棒がホテルフロントへ走り鍵開けてもらえた。

シェラトンホテルという記憶なので、ひょっとしたらフェズでも同じくシェラトン、そちらでの宿泊時の失態だったかもしれない。
自動ロックで閉め出されるのはよくある話ですが、うちらの旅経験では後にも先にもこの時限りです。


何はともあれ、旅の終盤は疲れが蓄積してて、いろんなとこで慎重でなくなってたのでしょう。

最終日はマラケシュのあちこち巡り、塔やら庭園やら写真もいっぱい残ってる中から、一枚セレクト、これ選びますかってやつを。





でも記憶映像は全く残ってない。
疲れてたのかな。
もしまたモロッコ行くことあれば、マラケシュ中心に廻りたい。


夕刻、初日に宿泊したカサブランカのホテルに入り夕食済ませ、最後のオプションへ。

エキサイティング・モロッコ旅、最後の土壇場へ続きます。



広場のコブラ使いは、さすがに写真もいらんし、見たくもない人いるでしょう。
以下は閲覧注意ということで




サハラのオアシス結ぶカスバ街道

2019-03-07 | 旅・モロッコ


旅の5日目早朝からラクダに乗ってサハラ砂漠の日の出を見た後、
ホテルに戻り砂漠体験洋服から着替えて朝食後にトドラ渓谷向けて出発。

エルフードから次の宿泊地ワルザザードに至る街道は、カスバと呼ばれる城壁に囲まれた要塞都市が点在してます。
かつて隊商や遊牧民がラクダで行き交ったカスバ街道です。



アイト・ベン・ハッドウはグラディエーターのロケ地にもなってます。


緑の樹木はアルガンだったことを今にして知る。
アルガンオイルはここ数年、保湿クリームとして愛用してます。
当時聞いたのかもしれないけど、お土産にも買わなかった。




アンチ・アトラスを越え
184km走ってマラケシュへ。
モロッコの縮図と呼ばれるだけあって一番面白い街。
エキゾチックな古都はまた来たいと思った。


今にして、メモ書きしてたアンチ・アトラスって何?
調べてみました。


モロッコの国土を背骨のように走るアトラス山脈。
北から順に

モワイヤン・アトラス(中ぐらいの山脈)
  フェズから大砂丘のメルズーガへ
オート・アトラス(高い山脈)
  マラケシュからワルザザードへ
アンチ・アトラス(小さな山脈)

南のアンチ・アトラスは定番の旅行先から外れていることもあり、あまりなじみの無いエリアらしい。
山の傾斜が比較的緩く標高も2,000m台、南側なので気候も穏やか。

このあたりの集落で暮らすベルベル人は、山の斜面に段々畑を作ってる。
住居の土壁にじゅうたん干してたり、
地べたに座り込んで歓談してそなグループあちこちに居たり、
広い畑をぽつぽつ歩くねずみ男見たり…

こうした風景が旅情を誘い、モロッコ旅してる~という気分に浸れました。
でも車窓からで、心のシャッター切ってたので写真は無い。







サハラ砂漠とベルベル人と

2019-03-06 | 旅・モロッコ


旅の5日目早朝4:15起床。
エルフードのホテルから4WDに分乗してメルズーカ大砂丘へ。
サハラ砂漠の日の出を待ちます。





日が昇るまでは、満天の星もみごとだった。

エジプトのフンコロガシのつもりで記念撮影。
この時の手袋をラクダ降りる時にあげる約束してたら、ジャンバーもくれって言う。


ベルベル人は商売上手で、したたか。
化石入りの磨いた石とかをいくつか売りつけられた。
ディラハムあんまり持ってないから、ドルで払うと言うと、いやユーロにしてくれと。
あの2005年はユーロの方が強かったのを砂漠の民は知っていた。



ソリ遊びも体験させてくれた。





ラクダ乗り体験はオプションで5000円でしたが、お値打ちあるアクティビティでした。
体験中は自分のことで精一杯。
後で聞いたけど、同じツアーの男性客がラクダから落ちたが大怪我にはならずにすんだそうだ。



ベルベル人の家。

モロッコの人口の半分ぐらい占めるベルベル人、みんながこんなテントに住んでるわけじゃない。

マグレブ(北アフリカ)の先住民らしい。
沈んだアトランティスから来たかもね。


ウィキペディアによりますと、ベルベル人は、
自称はアマーズィーグ(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)。アマジグ人、アマジク人という呼称もこれ由来である。
ベルベルの呼称は、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」
を意味するバルバロイに由来し、ヨーロッパの諸言語で Berber と表記されることによる。





モロッコのアトラス山脈越えでハプニング

2019-03-05 | 旅・モロッコ


旅の4日目 2005/1/13
8:30に、宿泊ホテルのシェラトン・フェズを出発。
この日のバスの最後尾がうちらの席だった。

だいたい2時間程度走ったらトイレ休憩です。
もうすぐやなと、バスの後ろのガラス窓から外をみた。
なんと⁉️
白い煙がバス下部から立ち上がってる。

こっそりふたりで確認して、これはヤバイのとちゃう❓
しかしこの時点で大声あげて異変伝えたら、最後尾のうちらはどうなる⁉️
まだ爆発するほどでもないので、しばし様子を観察しようかと思うまもなく休憩場所に到着。

最後にバスを下車する時に伝えた(^^;

なんと❗️
エンジンオイルが漏れてたそうで、補給オイルはアトラス山越えのドライブインに置いてない。
荷物の積み下ろしをするポーターの青年が、タクシーで町まで取りに行った。
修理完了するまでに結局1時間は要したので、ミントティーとか飲んで時間潰した。

無事に再出発できて、
ザード峠 (標高2178m )で記念撮影。



大事に至らずよかった (*´ー`*)



エキサイティング・モロッコ、世界最大の迷路@フェズ

2019-03-05 | 旅・モロッコ


旅の記録を残したファイルで、このモロッコの旅だけ異様にコメント書き込んでありました。

2005/1/12 旅の3日目は世界遺産フェズ観光だった。

その前日は、現代の首都のラバスと、17世紀の首都だったメクネス観光を経てフェズで宿泊。
写真はいっぱい残っててもほとんど記憶ないけど、
アラビア式トイレだけは、覚えてる。
街もトイレも、掃除は行き届いてました。





参加したツアーのチラシより簡単な地図




フェズは9世紀から1200年の歴史が積み重なる街で、
旧市街地域のメディナは世界最大の迷路として有名です。

ひと足踏み入れると、地元のガイドがいないと迷って外に出れなくなると脅かされてスタート。



車が通れない細い路地で結構アップダウンがあったような記憶。
少し高台で王様の避暑地と説明聞いたような。

「アトンショーン!」
フランス語で「どいて」って呼びかけられ、振り向いて脇を開けるとロバが引いた荷馬車が通る。

そうしたロバのウンチが石畳落ちてることもあるので足元も見ながら歩く。
テイクアウトできる食べ物店の美味しそうな匂いも充満し、
金物細工の叩き出す音もリズミカルに響く。
行き交う現地の男性はねずみ男みたいな民族衣裳着てるし、これだけでも異国情緒たっぷり。

そうした雑踏を、はぐれないようついていくのはかつてないエキサイティングな観光街歩きだった。


1999年にエジプトをまわりましたが、
彼の地はピラミッドの古代と、中世から近世にかけてのイスラムと、近代のイギリス統治時代が混在してました。
でもちゃんと住み分けて存在しててちゃんと境界線がある感じ。

それに比べてモロッコは混とんとしてました。
その中に放り込まれたような困惑が強くあり、これが興味深くもありしんどいとこでもありました。




皮のなめし工場見学も匂いといい、経験したことない体験だった。

街歩きの最後にフェズの民家に入らせてもらった。



家の中心に天井高く外光を取り入れる工夫されてた。
ここでミントティーがふるまわれたような。

こんなふうに混沌として、それでいてスラム街ではなくちゃんと民が暮らしてる地域、他に思いあたらない。





モロッコのお金 ディラハム

2019-03-04 | 旅・モロッコ


旅だった当時がちょっとしたモロッコブームだったかも。
カード会社のCMで、
お金で買えないものがある プライスレス
このフレーズとともに映像でディラハム登場してたような記憶が。

関空ではディラハム置いてなかったのでユーロに両替。
到着したカサブランカで、とりあえず1万円をディラハムに変えたら791とレシートまで残ってる。
昨夜ネットで為替相場みたら、今なら1万円で860ディラハム程度でした。


フランクフルトから3時間半かかって到着したカサブランカがスゴイ霧だったのは、そのシーンが蘇るくらい覚えています。
よく着陸できたこと、グッジョブ 👍

空港からホテルまで、深夜なのに倍の時間要したと書いてるからよっぽど霧が深かったことか。


その両替したディラハムを旅始まって少し経ってから二千円程分けて欲しいと頼まれました。
ホテルでの両替レートがお気に召さなかったのでしょう。
未だかつて、名前も知らないツアーの人に依頼されたのは、あとにも先にもこの時だけ。
同行のお連れなら時に貸し借りして日本円で精算したりはあります。

その後、薔薇エッセンス入りクリームを3個買った時も1つ分けてと依頼されました。
その方は帰国便のフランクフルトでタラップから転落され、持病の発作かと手持ち荷物からニトログリセリンを奥さんが飲ませた、あの男性でした。


モロッコってやっぱりマニアックな国でしょうから、ツアー参加者は海外旅行の猛者ばっかりでした。
私と連れは旅の初級クラス、となるとあの一緒に帰国できなかったご夫婦は全くの初心者?
太っ腹にお金ばら撒く必要全くないけど、ケチなうちらの数段上行くのは驚きでした。

まさかまさかの最後にあんな事故に遭うなんて。
海外保険入ってないと、入院治療費、奥様の滞在費、通訳等々で1千万はかかると聞きました。
おまけにカードお持ちでなく手持ち金も限りあるでしょうから、娘さんが日本からお金持ってくるんだって。

個人的にお話する機会はなかったので、お名前はもちろん、どこにお住まいで何故モロッコツアーを選んだかは謎です。


次回から、どんなトラブルに見舞われたか順を追って。


エキサイティング、モロッコ その1

2019-03-02 | 旅・モロッコ


この写真は、2005年1月10日 場所はフランクフルト。
このブログを始めたのが2005年4月なので、その数ヶ月前の旅、ものすごくエキサイティングでした。
いつかブログにも旅の記録を残しておこうと思いつつ、あっという間に14年。
もうすぐ平成おわるし、2003年と2004年のイタリアの記録も書いたし、やっと巡ってきた感じです。


本箱の1番下の段にA4クリアファイルが並んでます。
写真とか、切符とか、行程表とか、主に海外旅行の記録を残してますが、滅多に見ることない。

久しぶりに、2005年1月のモロッコファイルを取り出しました。

2004年の暮れに大掃除してたらギックリ腰になり、まだ完全に回復しないまま出発の日を迎えた。
2005/1/10 関空を10:20am に飛び立ったルフトハンザ機は約13時間でフランクフルト着。
時差があるので14:55、昼下がりでした。

このツアーでの航空券の半券が保存してないのは、
ANAのマイルとルフトハンザはアライアンスしてて後日申請できると教えてもらいチケット半券を郵送したからです。

モロッコのカサブランカへは22:15発に乗るので、トランジットが7時間もあり、
その待ち時間を利用してフランクフルト市内観光が組み込まれてありました。
もっと数時間内に出立する便もあったかも知れませんが、
深夜便は1/10程度にディスカウントされるんだそうで、安さを追求する団体旅行ではやむを得ません。


ゲーテの家を見学に行き、家の前で待機してる写真の一番手前に、
ごま塩頭の男性の頭が写ってますが、帰国の便でフランクフルト着いたとき、タラップから降りる際に足を滑らせて救急搬送されました。
左隣の奥様と共に一緒に残られて、ツアーで一緒に帰ることができなかった。
海外旅行保険に加入されてなくて、カードもお持ちでなくて大変だと添乗員さんから伺いました。
その後どうされたんだろうとずーっと心に引っかかってますが、旅行社に尋ねるわけにもいかず、、、


実はこのツアーはいろいろてんこ盛りのドタバタがあり、あんなエキサイティングな旅は後にも先にもないぐらい。

まず1番最初、1/10朝8:20 関空ターミナルビル4階の南団体受付カウンターに集合した時から変でした。

1999年のエジプトの旅から年に一度、海外へ一緒に旅してた連れ、学生時代からの長〜いつきあいです。
しんどそうな青い顔してやってきた。
「どうしたの、大丈夫?」


この時は単に体調不良程度かとおもいきや、
帰国後しばらくしてわかったことに彼女はとんでもないものを連れてきてたのかも知れなかった。
あとになって、数々の事件を思い出すと腑に落ちるのでありました。


続きは⤵︎
モロッコのお金 ディラハム - 秋麗(あきうらら)

モロッコのお金 ディラハム - 秋麗(あきうらら)

旅だった当時がちょっとしたモロッコブームだったかも。カード会社のCMで、お金で買えないものがあるプライスレスこのフレーズとともに映像でディラハム登場してたような記...

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