秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

倭姫が快癒祈った姫石明神

2022-05-11 | 伊勢参宮本街道
姫石の湯の由来の地、姫石明神へ。
ヒメシと読むのなんでかな。


緩やかとはいうものの、けっこう下りました。


伊勢本街道と記されてます。




倭姫は杖を新たに変え、伊勢へ向けて歩かれたんですね。
リセットしたい気持ちあったかも。

この坂を杖ついて下った、たったこれだけで二日間膝痛ぶり返す。


倭姫はご自身の婦人病平癒を祈られたので、姫石明神。





女性は更年期のち閉経まで旅は気がかりなもの。
学生時代の長期合宿や海外旅行も、月のものに重なると気が重い。
準備も荷物も十分用意しても。

天変地異や戦禍に見舞われたら、さぞかし大変だろうと思います。

ましてや古代、機能的な下着も生理用品もない時代。
痛み止めもないわね〜



行く時、丸山公園の駐車場停めて小山の向こうだと横切る。
周道は反対側で降りれなくて、
草で滑る坂無理矢理降りました。
そんなで余計膝痛めたのでしょう。
2日で回復してよかった❤️‍🩹

頂上には役行者の像が立ってるそう。
知らんかった(*´꒳`*)


伊勢参宮本街道を新カテゴリーに

2022-05-11 | 伊勢参宮本街道
伊勢神宮式年遷宮の2013年、
1月からウォークツアーに参加してました。


6月6回目、高井の千本杉まで歩きました。
7月7回目が他に予定あり参加できず、暑い夏でドロップアウト。

翌年2014年3月30日に個人的に3人で伊勢神宮参拝。
その一連の記録を1つのカテゴリーにまとめました。


もし参加続けてたら


9月の9回目「牛峠から道の駅美杉」で、姫石明神から岩坂峠歩いてたはず。




「神末地区の氏神・御杖神社は神末川に沿った斎宮道に面しています。
奥宇陀22村の郷社で式内社の御杖神社に比定されて…」
「神末から姫石明神を過ぎると伊勢国に入ります。
街道の大神宮常夜燈も、その竿石に「太一」のみ記されているものが多く目につくようになり…」


2013年に全行程踏破できず、さらに9年過ぎてます。
年重ね膝悪化し山道は無理。
姫石明神あたりかなり過酷な道が続きます。
倭姫が杖を新しくし、下の病平癒願ったのわかります。

つづく



道の駅伊勢本街道御杖のつえみちゃん

2022-05-10 | 伊勢参宮本街道
御杖神社のあと「姫石の湯」がある道の駅へ。


すでに12:30、
先に産直品お買い物、売り切れるから。
千円以上で100円引きクーポンもらえます。

そしてやっと昼食。
三人三様、わがまま婆婆なもんで。




私は倭姫御膳1680円
上の3小鉢はトッピング変えた蕎麦。
見本写真みて山菜三種かと思って頼んだので、お腹くるしい。

国道369号線はほぼ伊勢本街道です。
奈良から県境越えて三重に入ると美杉。
蕎麦処庄庵さんは予約のみの蕎麦懐石で、電話したら当日予約は無理でした。

山の中で他に食べるとこなくレストランは満員です。
ちょっと待ったこともあり、食べ終わったら既に13:40。




満腹の腹ごなしで温泉入る前に、姫石の由来の姫石明神へ行くことにしました。


今回もらったリーフレットの案内図には


どちらにも神社は記されていない。
日本各地、なんでか神社記載ないパンフレット多いですね。




この道の駅で2016年11月に入手したのもそう。
御杖神社行くのに参考にできなかった。
姫石明神もレストランで聞いて、歩くの無理と言われました。
丸山公園目指して出発。
 つづく

伊勢参宮街道、内宮から宇治山田駅まで歩く

2014-04-04 | 伊勢参宮本街道
江戸時代、庶民にとって一生に一度の夢であったという伊勢神宮へ詣でる「お蔭参り」
伊勢参りの様子がデザインされた伊勢市のマンホールです。
カラー版も見ましたが撮影忘れたので伊勢市のマンホールより画像いただいてきました。


カラー蓋は内宮周辺や外宮前の一部に設置されているようです。
右側の人は「おかげまいり」と書かれた幟を背負っているのがよくわかります。

3月30日の伊勢参りレポート最終回です。
江戸時代までのメインルートであった参宮街道の古市を歩いた記録です。
外宮参拝後内宮までこの道を歩く予定でしたが、天気が思わしくなかったので往路はバスを利用し
帰路、宇治山田駅までこの伊勢参宮街道を歩きました。

内宮着いた時からすでに雨は上がり晴れてきました。
参宮後、内宮前で栄える大賑わいのおはらい町で




10分も歩けば終わるおはらい町も人、人、人で、途中おやつ休憩などして

猿田彦神社へ

この神社過ぎて、すぐを右に曲がり坂を登ります。


午前中の雨風で濡れた傘を乾かしながら歩きました。



資料館のあるあたりは、かつての旅館などが残っていたりします。
料理屋や精進おとしのための遊郭などで栄えた歓楽街だったそうですが
大火や戦災でほとんど失われています。

古市は、馬の背のように分水嶺に街道があって
その両脇に家々が建ち並ぶ独特の街並みです。
ちょっと吉野にも似た感じです。




15:15頃宇治山田駅到着。
1時間程度で歩けますので、チャンスがあれば是非歩いてみてください。

30発の特急の切符が取れたのでそれに乗りビールで乾杯!
記憶に残る伊勢参り、いいプチ旅行になりました。


ふく風は身にすがすがし風の宮 御世も御国もいや守りませ

2014-04-01 | 伊勢参宮本街道
明治天皇皇女で元神宮祭主の北白川房子様の御歌です。

内宮の別宮の一つに、風日祈宮(かざひのみのみや)があります。
先の記事の最後の画像、神楽殿を南に風日祈宮御橋を渡ります。






雨があがり陽があたり蒸発する湯気がゆらゆら立ち上り幻想的でした。

昔は、風神社と呼ばれたらしいです。
級長津彦命(しなつひこのみこと)
級長戸辺命(しなとべのみこと)が祀られています。

先週、奈良の龍田大社お参りして、まだ記事に出来てませんが、
この風の神様が気になっていたのです。

稲は風媒花で、受精は風次第。
いい風吹いてくれないと稲は実りません。
悪い風が吹くと稲は倒れます。

本来は農耕に適した風雨をもたらす神で、風と雨の順調をお祈りします。

1281年(弘安4年)元寇襲来の時、朝廷より二条為氏大納言が勅使として神宮に派遣され祈られた。
すると両社社殿が鳴動して赤い雲が立ち上り西のほうに駆け抜けて、
西の海に神風を起こして元寇を全滅させた。

この国を守ったご神威により、それ以降、国難に際して国家の平安を護る神様に。

別宮に昇格となり、幕末には黒船を追い払う攘夷祈願も行なわれたそうです。

風宮は困難に立ち向かう意思が欲しい時や、現状打破を願っている時に参拝すると道が開けるといわれてます。





左手の白い幕に覆われている場所に、新しいお宮の遷宮が今年とりおこなわれます。

お伊勢さんの別宮は、内宮外宮あわせて14社あり、両正宮を支えるとりわけ重要なお宮です。
式年遷宮はまだ終わってなくて、今年は別宮の遷宮の年です。



内宮の正宮に参宮したあと、人の流れは荒祭宮へ
天照大神の荒御魂(あらみたま)を祀り、御正宮と同じ年に遷宮が行なわれるもっとも格式の高い別宮です。



皆さんいろんなパワーを戴いておられました。

外宮gekuは左側通行で、内宮naikuは右側通行だった

2014-04-01 | 伊勢参宮本街道
お伊勢さんの正式名称は「神宮」Jinguu じんぐう。
天照大神を祀る皇大神宮は、内宮 ないくう
豊受大神を祀る豊受大神宮は、外宮 げくう
濁らずにくうと読むんですよ、と同行のNさんに教えてもらった。

神宮はじんぐう、別宮はべつぐうと読むのにね。
へぇ~ なんでやろうと調べたけれどわからんかった。

もう一人の同行者Aさんが気付いたことは、
通行札が、外宮は左側通行なのに、内宮は右側通行だった。
これまた不思議。



外宮の月夜見宮では雨風強くかなり濡れてしまったけれど
神路通りを10分ほど歩いて、外宮の北御門鳥居へ

ここで度会橋から歩いて来られるNさんを待つ。
伊勢市に到着してから1時間後が待ち合わせでした。
待ってる間も吹きなぐりの雨は容赦なく、服はぼとぼと、
防水ではないタウンリュックの中に入れたものまで濡れていた。


古いほうのお宮は特別参拝の人しか中に入れません。




カメラのレンズに雨のしずくがついて、どの画像も凄まじかった様子が見てとれると思います。
ココから先は撮影禁止です。

正午頃、正宮にお参りできました。
外玉垣南御門には、白い御幌(みとばり)が垂れ下がり中は見えません。

雨の中、傘を持ちながらお賽銭を出して手を合わせるのは至難の業でした。
モタモタしてたらちょうどその時、なぜか急に風が中から吹いてきて、
その白い御幌が巻き上がり中の御正殿が完全に見えました。

まるで豊受大神(とようけのおおかみ)がよく来たねと声をかけてくださったような…

わぁ~カメラにこのシーンおさめたい!!
しかし撮影厳禁です。
心のシャッター切って、記憶に焼き付けました。
この間5秒程度、あっという間の出来事でした。
しかしまるで映画のスローモーションのように感じました。
感激覚めやらぬ思いで同行者にその御幌があいたことを話すと、どちらも知らないと。
あれ~私の見たシーンはなんだったんだろう…

外宮には別宮が4つあります。
一つは先にお参りした月夜見宮です。
残り3つが正宮に対峙するようにあるのですが、雨風強くお参りを断念しました。
荒御魂(あらみたま)をお祀りする別宮の多賀宮(たがのみや)は、
山の頂にあるので階段を百段ほど上らないといけないのです。
それゆえかつては高宮(たかのみや)と呼ばれていました。


帰りは表参道を戻り、火除橋を渡り振りかえると


左側通行なんやね、と確認。
このときはまだ内宮が右側通行とは知らなかった。

外宮でてすぐのお店で昼食。

濡れた洋服がだいぶ乾いたものの、まだ生乾き。
雨足弱くなるもいつまた雨風つよくなるやもしれんので、内宮へはバスで行くことにしました。

内宮までバス代410円、高っ!!!


雨はあがり、これなら歩いたらよかったね。


まぁ~なんとこちら内宮は、右側通行。
なんでやろう~



参宮終えると、神楽殿ごしの青空が清清しかった。


4/2 4:40pm 追記
内宮の右、外宮の左側通行の意味わかりました!

内宮の参道に沿って右側に五十鈴川、外宮の参道の左側に宮川の支流。
その清流で禊をすれば自然に川沿いに歩くことになります。
極めて神聖な正宮に、少しでも遠い位置から俗界の人間が禊(手水)を終えた後徐々に近づく様に考慮されたもの。
天候の加減で川辺では禊が困難な時もあり、現在は手水舎が用意されています。
神域に入る前の手水舎が、内宮は右側(五十鈴川)に、外宮は左側(宮川の名残の池)にあります。


春の嵐に、記憶に残る伊勢参り

2014-03-30 | 伊勢参宮本街道
天気予報では雨風強い春の嵐になるが午後からあがるということで、
思い切って予定通り出かけることになりました。

遷宮後の旧宮は今月いっぱいで、新宮と二つ並んだ状態は20年後まで見られない。
なんか体調思わしくない日々が続いていて心がざわざわするので清らかな地へ行きたかったし。

そして、去年1月にスタートした伊勢ウォーク

13回に分けて完歩するのが、6月までしか参加できなかった。
せめて最後の上がりは完結しとかないとね。

ということで雨天決行!!

朝7時半の電車乗るために家を出るときはきつねの嫁入り状態。
小雨ながらもお日様が時々顔出し始め、呼んでくださってる?


10時半ごろ伊勢市に着いたころはパラパラ、傘はいるねといった程度。
駅から歩いて10分ほどで月夜見宮です。
途中から突然風雨強くなり、境内周りはぐるぐる風が回ってて傘こわれそうでした。
鳥居までに折畳み傘は小さいのではみ出た部分の手足は洋服ボトボトに。





静謐でとても美しいお宮でした。


千木(ちぎ)の形は、外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)でいわゆる男神。
しかしこのお宮の雰囲気は女性的だと思えました。

境内右手に立派な木

本殿左手に鳥居があり、朽ちかけたような古木を祀っていました。

とても不思議な感じで、何か写りそうな気がするほど。
ここが元々の「高河原神社」なんだろうか?




神路通は真ん中を歩いたらダメだと、以前TMさんのブログで見ていました。

10年前にお伊勢参りした時は、全く分かってなくて堂々と道の真ん中歩いてました。
その時の記録は→2006-01-03 なんだかなぁ~
あの当時、神様にあまり興味なかったもので…。


宮柱立てそめしより月よみの  神の行き交う巾の古道
と古歌にも詠まれているそうです。

神宮司庁刊「伊勢信仰と民話」によれば
古くより外宮の裏参道と月夜見宮とを結ぶこの道は、「神の通う路」と言われています。
外宮の別宮である月夜見宮の神様(月夜見宮尊)が、外宮の神様(豊受大神)のもとへ通われる路です。
神様は夜、宮の石垣の一つを白馬にかえてその馬に乗って行かれます。
夜、この道を通る人は、神様に出逢わないように畏れつつしんで路の真ん中をさけ端を通ったと伝えられています。


「月夜見宮 男神」で検索したら、こんなページ見つけました。



マムシグサ

2013-06-20 | 伊勢参宮本街道
先日伊勢街道歩いている時に見かけました。
榛原から初瀬街道から伊勢街道に入り、杉並木を歩いている時でした。


私は初めて見ました。
植物フリークのAさんもNさん、ともにこのクサの名前ご存知でした。

マムシクサというそうです。
みるからに鎌首もたげてるみたいで気味悪い。
もちろん触りませんでしたが、調べてみると茎や葉など毒があるらしい。
茎のまだら模様もマムシクサのネーミング由来になってます。

秋になるとこんな実に。
これを食べても舌がしびれエライ目に遭うそうです。


さて、6回目のウォークは、★★星二つのちょっときつめコースでした。
長谷寺バス駐車場から参道を上りますが、途中から山に入ります。

その坂が突然急になり、下化粧(しもけわい)坂という名前がついてます。
女性の化粧がはげるぐらい汗かくからだそうです。

初瀬川です。

こんなところは蛇やマムシでないかドキドキ。

カメラの撮影時の設定がずれてアスペクト比が1:1になってた。



西峠までのダラダラ続く上り坂の初瀬街道はキツイ。
真夏日の炎天下でなくてよかったわ。

吉隠、なんとも意味ありげな地名です。

榛原宿のあぶらや旅館は江戸時代18世紀の建物です。
本居宣長宿泊地ですが、現在は宿としての営業はなく中が見学できました。

こういう道は車がほとんど来ないから安心して歩けます。


墨坂神社参拝後、やっと1時ごろ子供のもり公園に到着。
お弁当広げてる時、Aさんの夫から大阪はじゃじゃ降りやとメール届く。

昼食後1:45再出発、2時半頃になって雨降り始めました。
ゴールの高井の千本杉は、先に記事エントリーしました。

墨坂神社は次回に続きます。

伊勢までの道6回目、長谷から高井の千本杉まで

2013-06-15 | 伊勢参宮本街道

昨日は伊勢ウォークで、約16km、25,000歩ほど歩いてきました。
あんなに暑かった夏日がウソのように朝から曇り、所により雷雨の天気予報。
おかげさまで熱中症にならずに歩けました。

長谷寺の駐車場から歩き始め、榛原こどもの森公園でお弁当。
雨が降り出したのは午後2時過ぎてからでなんとか折畳み傘でしのげました。

ゴール地点は「高井の千本杉」は屋久島の杉に匹敵するぐらいど迫力だった。
しかし、雨であまりいい写真撮れなくて残念。


伊勢本街道沿いにある巨大な大杉「高井の千本杉」は
融合したと思われる16本の杉が堂々と天高く伸びて迫力ありました。
幹周については測定方法で諸説がありますが、
環境省DBによれば、幹周25m 樹高45m 樹齢約700年。

空海が室生山へ登った際にこの場所で弁当を食べ、箸を地にさしたところ生育したという逸話があり、地元では霊木としてあがめられています。
また、水を求めて井戸を掘り、その周りに杉を植えて自然に水を集める作用を杉に託したことから日本最古の井戸杉ともいわれています。
今でも千本杉のすぐそばには湧き水があります。

以下、スマホ撮影画像より



鳥居とお社「千杉白龍大神」

大樹に神が宿るって、ここでも実感しました。

仏教伝来の地・海柘榴市は椿市

2013-05-23 | 伊勢参宮本街道
5月18日は リコーCX4で撮影しました。
ランチの時に撮影モードダイヤルがうっかりずれてしまってたようで、
これからしばらくアスペクト比1:1が続きます。

最初の画像は、1:1の画像下部分をトリミングしました。
「仏教伝来の地」石碑を歩きながらの撮影で、下に大きくお顔が写ってたので。

大神神社から長谷寺までのウォークは12時半にスタートしました。

すぐ近くに三輪恵比須神社がありました。



三輪山の南側、山裾を縫うように大和川支流の初瀬川は南へ上り、大きく東に曲がる地点が海柘榴市です。

海石榴市 何と読むかわかります?

石榴は、“ざくろ”
海 の 石榴 って何?



万葉集 読人不知
三諸(みもろ)は人の守(も)る山 
本辺(もとべ)は馬酔木花開き 末辺(すえべ)は椿花開く 
 うらくはし山そ 泣く子守る山

三諸(神の山・三輪山か)は人が大切に守る山で、
馬酔木が麓の方に花を咲かせ、山の頂の方には椿が花を咲かせ、
まことに麗しい山である

古代から三輪付近には椿の木が多く生えていたようです。

清少納言 枕草子14段
椿市(つばいち)は、大和にあまたある中に、長谷寺に詣づる人の
 必ずそこに止まりければ、観音のご縁あるにやと、心ことなるなり
 

椿市という名は、当時の市は露天であったので、
木陰を確保するために椿の街路樹が植えられていたことに由来するらしい。 





「欽明天皇13年(552)冬10月、百済の聖明王、またの名は聖王、西部姫氏達率・怒悧斯致契(ぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献る」
日本書紀は552年と伝えている。

しかし、学校で習った「仏教伝来ごさんぱい538年
これは帝説や元興寺縁起によるもので、仏教公伝を欽明天皇7年(538)

当時、欽明天皇の磯城島金刺宮は海柘榴市のすぐ近くにありました。

この地は、百済の使節が難波から大和川を船で遡行して上陸し、
我国に初めて釈迦仏と経典をもたらした仏教伝来の地です。


遣隋使の出立の場所でもありました。
607年に出立した小野妹子一団は、翌年4月裴世清を団長とする12人の使節団を伴って筑紫に帰着。
ようやく8月になって飾り馬75頭を仕立てて海柘榴市に迎えた。
河川敷にコンクリートの馬の置物が多数並んで置かれていて、
なんでかなと話しながら歩いてましたが、これに由来してたのでした。


↓ 画像もらってきました
 

海柘榴市は椿市で、つばいちと読むのはわかったけれど、
なんで、海の石榴になるのか…
検索に検索をかさね、やっと見つけました!

「椿」は『万葉集』に初めて用いられた表記で、
春に花を咲かせる木の意によって用いられた国訓で知られる。
中国の「椿」とは全く関係なく、我が国で発想され作られた国字であるとも言われている。
「海石榴」は我が国のツバキが中国に渡り、
中国では渡来品に海の字をつける慣習があるので
ツバキにも海をつけ、石榴に似た木という意によってこの名に。
これが逆に我が国にもたらされたものであると言われる。

箸墓古墳、そして三輪へ

2013-05-22 | 伊勢参宮本街道
オクラホマの竜巻、すさまじい壊滅的な被害でほんとお気の毒です。
あっという間に巨大な竜巻にのみこまれるのは津波と同じですね。

ノーテンキに伊勢ウォークのレポート書くのもちょと気がひけますが…。


5回目はまた少し参加者減って155名だそうです。
歩くのが目的だし、周りに大勢の人が歩いておられます。
なかなかばっちりのシャッターチャンスには恵まれません。
待ってたら皆に置いて行かれます。


今まで箸墓古墳のことを紹介したことありませんでした。
マスコミが卑弥呼の墓だと決め付けんばかりにいうけど、
卑弥呼は九州だと、ひそかに思っているのです。

そして、いつも三輪明神はお参りする時は車です。
ちょうど道がカーブを描き、さらに線路を高架でまたぎます。
運転しながら箸墓古墳をじっくり見がたい場所にあるのです。
今回はその際を歩いてきましたので、間近で撮影できたので記録に残しておきます。


天理の黒塚古墳からスタートし、田園風景の中を歩きました。

やはり野におけれんげそう、ですね。

池の中央、赤い部分は金魚の群れです。




さすが奈良、鳥居があちこちで見られ、参道を道が横切っているところもありました。


40分ほど歩いて、いよいよ陸橋を渡れば箸墓古墳です。



ちょうど立て札の前に次々立つ人あらわれ、ばっちしのシャッターチャンスはなかった。



ここから30分ほど歩いて、大神神社に到着!



奈良上つ道を歩いてみたもの

2013-04-27 | 伊勢参宮本街道
奈良から天理まで歩いていると、普段の車での移動と違っていろんなものが目に留まります。

古代、上つ道(かみつみち)と呼ばれた上街道は、
北は奈良坂から、南は桜井、山田道を経て藤原京に至る幹線道路のひとつ。
初瀬詣でや伊勢参りの人々がいきかう信仰の道となり、街道筋は今も当時の面影を残しています。


もうすぐ5月の節句なので、大きな武者幟を見ました。
大阪では見たことないです。

武者のぼりの起源は、「戦国武将の旗指物」
室町時代末期の武家社会には、
端午節句に旗指物(家紋を染め抜いたのぼり旗)を虫干しをかねて飾る風習がありました。
武家の風習を庶民がまねて、端午の節句に武者のぼりを全国各地で立てるようになり、
武者のぼりの風習は、あらゆる身分の人たちにまで浸透していきました。
江戸期は木綿が貴重だったため、多くののぼりが紙製でした。


幕末江戸日本橋十軒店の端午の節句の図(1870年)パリ・アシエット社版画


歌川国芳「しんば連 魚かし連 市川三升へ送之」 幟と鯉幟(見立て絵)1849年

鯉のぼりは武者のぼりの変形として考案されたもの。
節句の武者のぼりに古来より描かれていた鯉の滝昇り
江戸中期に、立身出世の図柄から作られた「鯉の小旗」が考案されました。
これがやがて大型の吹流しタイプである鯉のぼりに変化、独立したのです。


従来の絵画表現である武者のぼりに対し、
新しい立体表現の鯉のぼりは、明治大正以降主流となりました。
これは明治維新以降、伝統的な画法をもつ絵師が減った事も影響しています。


奈良では石屋さんもよく見かけます。
うちのゆうりもアンパンマン大好きです。


池の上全体に細い紐がくまなくはりめぐらされています。

金魚を養殖しているようで、鳥よけでした。


さらに歩いて、大和神社。

この神社の参道はとても長くて、一の鳥居からは社殿が全く見えない。
往復10分はゆうにかかりそう。


大和(おおやまと)神社
天理市新泉町306
祭神:大和大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)
   八千戈大神(やちほこのおおかみ)
   御年大神(みとしのおおかみ)


伊勢神宮と並ぶ最古の神社で、延喜式には「大和坐大国魂神社」と記されている。
大和一国の国御魂(くにみたま)を祭る名神大社である。

遣唐使が唐の都・長安に向けて派遣されるときは、出発に際して航海の安全をこの神社に祈ったといわれている。
第二次大戦中世界最大の不沈戦艦といわれた戦艦大和は、守護神として大和神社の分霊を艦内に祀っていた。

これを読んで、なんだか長い参道を歩いてお参りする気が失せてしまったのだった。


後で調べたら、

御祭神の大和大国魂大神と八千戈大神は、ともに大己貴神(おおなむちのかみ)の異名同神だった。

拝殿前の広場北側のやや奥まった場所に末社の「祖霊社」があり
国土の主と称えられている大国主命のほか、
第二次世界大戦で戦艦大和と運命を共にした2717柱の英霊、
沖縄決戦で戦没した巡洋艦矢矧(やはぎ)を中心とする第二水上特攻隊の3721柱の英霊が合祀され国家鎮護の神として祀られている。

伊勢神宮への道★奈良から天理までにみた鬼瓦とか

2013-04-21 | 伊勢参宮本街道
お伊勢さんまでのウォーキング4回目は、奈良市猿沢池から天理市五智堂まで。
案内では16kmで、これだけでもちょっと不安でした。

体調整えるために、前夜は少林寺の稽古終了後に飲酒せずラーメン食べて帰りました。

そして昨日朝、9時半頃には東大寺前の駐車場に到着。
今回は160名ほどの参加でバス4台でした。

10:15出発まで約45分の自由時間、
私たちは手向山八幡宮と二月堂近辺を40分ほど散策しました。







午前10時25分スタート時にセットした「Walker」帰宅まで作動したデータでは
歩行距離 18.541km
歩数 28,093歩
同行者の家からの万歩計では35,000歩程度でした。

人生で一番歩いた日でした。
平坦な道だったのでいきが上がることはなかったけれど、足は痛い。





帯解寺、懐妊安産にご利益あるお寺として有名です。


お寺の前の家の屋根にも飾りが載ってました。


到着点 五智堂

中央に一本柱の傘型屋根付き堂は、鎌倉時代の創建
真言宗長岳寺の飛び地境内、建物全体で五智如来(大日如来)をあらわす。


最後の見学場所、黒塚古墳

三角縁神獣鏡33面が出土した、3世紀後半から4世紀の竪穴式古墳

竹と合体したムクロジ

2013-03-23 | 伊勢参宮本街道
先週のお伊勢ウォーキング3回目の終点は春日大社本殿前駐車場。
4時半出発でそれまで自由に時間を使うことができました。
50年ぶりで春日大社参拝しました。


立派な一の鳥居です。


    

参道は春日原始の森で鬱蒼としています。
不思議な木がいっぱいで気があふれています。



ムクロジの大木の幹が空洞になってそこから竹が伸びています。

中央に違う木が取り囲んで一体化した古木。

二の鳥居に到着した時はすでに4時10分ごろ。
残す時間はわずかですが、
せっかくココまで来たのだから本殿に参拝ご挨拶しとこうと大急ぎ。

南門は春日大社正面の楼門、高さ12mあります。

そのまえに、磐座「出現石」

若宮の神様をあらわす赤童子がこの石から出現したという謂れがあるそうです。
また別名「額塚」とも云われ、南門が平安時代には鳥居だったそうですが、
その鳥居に架けられていた額が神様によって落とされた位置がこの石のところだとも謂われています。

あまりに時間がなくて、うっかり見落としてしまった榎本神社。
この南門に続く廻廊の西門にあるようです。


大和の傳説に以下のような伝承が書かれてあります。

つんぼ春日(奈良市春日大社)
春日の最初の山の主は、つんぼであった。
初め常陸の鹿島から、春日明神が遷ってござった時に、
山の主に向かって『この山を、三尺借りたい』と申し込まれた。
山の主は、僅に三尺位のことでもあるし、耳も不自由だから細かにも聞きたヾさず、
『よいとも、よいとも』と快く承諾したのであった。
ところが、其三尺といふのは面積でなくて山全体の地下三尺のことであった。
それで今でも春日山の杉などの樹木は悉く地下三尺より深くは根をおろしてゐない。
此、山の主の春日様は、現在の官幣大社春日神社楼門の西手、
回廊の簷下にある攝社春日神社(通称 榎本神社)がそれである。
即ち、つんぼの神様である。
明治二十年頃までは春日に参詣した人々は、必ず先ずこゝに来て、
『春日さん、参りましたゼ』と云ひながら、
其柱を握りこぶしでトントンと幾度もたゝいて、祠のぐるりを廻ってから本社にいったと云ふことである。

春日神社の神鹿(奈良市春日大社)
春日大社の祭神、武甕槌命が鹿嶋から奈良へ移遷の際、
白鹿に乗って来られたといわれ、それ以来奈良の鹿は春日大社の神鹿と呼ばれてきた。
鹿の後脚に「さがり藤」の形をした白い毛が生えている。
これは、その昔、他国の鹿と区別するために春日明神が焼印を押しておかれたのだという。

猿沢池の龍(奈良市池之町)
昔、猿沢池に龍がいたが、采女がこの池に身を投げたので、春日山の奧に移った。
そこへ下人が死人を捨てたので、龍は室生の龍穴にすまいを移したという。
春日山の香山神社は、龍の遺跡と呼ばれている。



藤の古木がまるで龍のような形でちょっと恐ろしかった。

追分本陣→垂仁天皇陵→猿沢池

2013-03-21 | 伊勢参宮本街道
ウォーキング後半は、308号線のなだらかな坂を下り奈良市中心部まで歩きました。

坂の右手丘陵には追分梅林が広がっていますが、
残念ながら23年春から土地改良のため梅林は閉鎖されてました。
ほんとなら満開のなかを歩けてさぞ見事な眺めだったことでしょう。

大和郡山と大坂への分岐点であったため「追分」という地名がついたそうで
暗峠を越える奈良街道沿いに追分本陣村井家住宅



近鉄尼ヶ辻駅近くまで来ると、垂仁天皇陵があります。
正式には、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)と呼ばれます。


上の画像などを撮影されてるNさん



前方後円墳の円縁部分側から見た画像ですが、
左手周濠に、径10m足らずの小島が見えました。

地図で確認しても、ちゃんと田道間守命塚と記載されてます。


2月はじめ大枝神社地車隊で久美浜へかに食べツアー行った時の記事で
田道間守のことに触れました。→2013/2/8

田道間守(タジマモリ)が垂仁天皇の命を受けて
常世の国に不老長寿の妙薬「香具の実」を探しに出かけ、
帰り着いたのはこの久美浜の箱石といわれる。

時の天皇、垂仁天皇は、池や水路を整備して農業を振興したり、
はにわを作って殉死をやめさせる等、仁徳の高い天皇で人々から敬慕されたという。

その垂仁天皇に、常世の国の非時香葉(ときじくのかぐのこのみ)を所望された田道間守。
十年後にやっと持ち帰ることができたとき、天皇は身罷られていたのだった。

天皇の墓の前に香葉を献げ、ついに墓前で殉死を遂げるという伝説が残る。
 奈良の尼ヶ辻にある垂仁天皇陵の水壕の中にぽつんと浮かぶ嶋が、田道間守を祀った陪塚とされています。

第11代垂仁(すいにん)天皇は、崇神(すじん)天皇の第3皇子です。
どちらもどう読むのか、普通分かりませんよね~

仁義という熟語もあるから 垂仁「すいじん」かと思ってた。
すじんと入力すれば、酢人と変換されるし、
崇敬と言う漢字からすれば崇はすうと読むのが普通でしょう。
となるとどちらも「すうじん」とまっすぐ読みたいところ。
これを違う漢字を当てはめて
崇神(すじん) 垂仁(すいにん) 

同じ一人の人を前半後半と分けたがごとくの命名で、なんか訳ありですね。

さて、その垂仁天皇は大和朝廷の礎をつくられた方です。
祟神天皇の時に天照大神が宮中から外に出ましたが、
垂仁天皇の時に各地を遷座して最後に伊勢に鎮座されました。
そして倭姫命が五十鈴川のほとりで天照大神を祀り伊勢神宮の元を創りました。

伊勢に斎宮をたてられた時代であり、
殉死の禁止と埴輪の起源となった時代でもあります。

それまで皇族が亡くなると近習のものを生き埋めして殉死する風習がありました。
埴輪を以って生きた人に替え陵墓に立てましょう という
野見宿祢の提案を受け入れ、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命からは殉死が禁止されました。

加羅国皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)渡来の物語
新羅皇子の天日槍(あめのひぼこ)の渡来とその神宝をめぐる物語
石上神宮の神宝管理伝承などを、
この垂仁天皇の代のこととして記紀には語られています。


やっと酷道308号線が終わりました。

JR奈良駅を経て商店街に入りました。
足は棒のようになり、膝や股関節が痛くなり、ちょっと休憩。

そこから猿沢の池はすぐでした。

猿沢池周りの名物の柳が枯れていると、ウォーキング前日ぐらいのニュースで見てました。
なぜ枯れるのか理由はまだわからないと言ってました。

25本中、残りわずか9本で、緑あふれる時期でもなかったのでさびしげだった。

そして何よりも驚いたのは、興福寺から南の猿沢池側はがくんと地面が低くなってることだった。
奈良市中心部の地形図、バスや車に乗せてもらってるときには全く気づかなかった。