秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

想定外のきれい好き

2009-03-31 | 旅・ウズベキスタン
アジアってあちこちにゴミの散乱よくみかけ汚いイメージ。
ウズベキスタンも中央アジア、同じようなものなんだろうと思って出かけたら大違い。

都会も田舎も行く先々で時間帯にかかわらず掃き掃除する人々を見ることが出来ました。

タシケントについて、朝まだ早いうちにクカルダシュ・メドレセに到着。
 

 
まず掃除が行き届いているのに感心し、掃き掃除している人が多いのにもびっくり。

ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場では
 
玄関前をモップ掃除している人は、時々汚れた布を洗い黙々と何度も行ったりきたりしていた。


 
青いユニフォーム着てるから、たぶん公園管理の掃除人?
木々が多いということは、葉や実も落ちるので常に掃除しないとすぐにたまります。
どこの公園へいっても掃除は行き届いていました。

 
緑の揃いのエプロンつけてるから、これも雇われ人でしょう。


 
こういう街中の掃除人は、自分の意思によるボランティアなのか、
公的機関から雇われているのかどちらなのかしら?


 
チョルスー・バザール入り口あたりで。
各店舗スペースあたりを掃除する人はたくさん見られました。
バザールではしゅろの箒も売ってたけど、スーツケースに納まらないので買わなかった。

車窓からみていても、街中の店屋さんや各家屋の前を掃除する男性や子供の姿もよく見かけました。

 
ここには掃除人が写っていないけれど、土産物やのおじいさん達が腰掛ける近辺にもゴミにがないのは、常にお掃除されているからでしょう。

 
ゴミ箱の設置を見たわけではありません。
しかし掃き掃除する人々はたくさんみかけました。
ウズベク人がキレイ好きなのは想定外でした。

イスラムのプライド

2009-03-30 | 旅・ウズベキスタン
ウズベキスタン歴史博物館、ここも中で撮影する人は2500スムが必要だったので、カメラ無しで見学。
画像はツアー同行者に頼んで送ってもらいました。

早朝着の飛行機でタシケント着いてそのまま観光、お昼ご飯を食べるとテキメン眠たくなる。
説明聞きながら立ったままうつらうつら状態で、ほとんど記憶が飛んでいます。

2匹の蛇の石彫像が一番印象に残りました。
後で調べたら分かるとタカをくくっていたら、検索では見つけられない。
画像送って下さったSさん、もしこのブログ見ておられたら、このへびは何だったのか教えてください。

 

確かルネッサンス前のイスラムは錬金術や天文学・医学が進んでいて、西洋に大きな影響を与えたと習いました。

イヴン・スィーナー(英語読みのアヴィセンナ)980ー1037年
 
ブハラ出身で、999年にはサーマーン朝が滅亡し彼は祖国を去る。
放浪の旅に出、イラン各地で活動、当時の世界の大学者であると同時に中世ヨーロッパのスコラ学に多大な影響を与えた。
『医学典範』医学書は、後のヨーロッパで17世紀まで大学で使われていた。

こうした歴史もあってか、ウズベクの人々は国の教育制度もありますが、一般人でも医学の知識に貪欲なのかもしれません。


数学者ムハンマド・アル・ホレズミ(783~850)の像
 
ヒヴァのイチャンカラ西門右の城壁前に、紙をじっと見つめ何かを考えている表情が印象的です。
ホレズム帝国で生まれたので、アル・ホレズミという名前ですって。
「ゼロ」の発見者だと聞きました。
ゼロの発見はインドだと思っていたけれど、彼がインド滞在中に為しえたとか、
ガイドさんの話をいい加減に聞いてしまったので、ネット検索したけれどわからなかった。 
アルゴリズムやコンピューターの礎となったそうです。

そういえばイスラムのテロリスト達は理科系出身者多いですよね。
考え方の基本姿勢に接点があるのかなぁ

戦争などで建物は破壊されても、民族のDNAは綿々と受け継がれていきます。
イスラムのプライド、そしてシルクロードの民の強靭で柔軟な精神を時々垣間見る時がありました。

ウズベキスタンは石油産出国で、国内需要分は充分あり輸出してないだけだそうです。
天然ガスもしかり、金やメタル金属も産出されます。
そして農作物も国内でまかなえてそうださし。
なんと国内線の飛行機はウズベキスタン製だそうですよ。


昨夜NHKで沸騰都市という番組みました。
ロンドン、ドバイ、イスタンブール、ダッカなど去年春の放映と比較して、リーマンショック後の不況とどう闘っているかという内容でした。

ドバイやイスタンブール、ダッカはイスラムの国です。
イスラムの横のつながり助け合い精神や、プライドが今後の世界潮流に大きく影響するだろうなと思いました。

桁数の錯覚

2009-03-29 | 旅・ウズベキスタン
外国へ行って現地の貨幣に両替しますが、これを日本円に換算するとどれぐらいになるかがすっと分かるようになるのは、いつも帰国直前。

ベトナムのドンやトルコのリラなども、べらぼうに大きな数字でわけがわからなかった。

桁数が大きくなると、普段が小銭専門生活なのでか頭が切り替わってくれない。
2009年3月現在1ドルは100円程度、
これならHow are youをいちいち日本語に置き換えないようにスッと換算できて、5ドル(=500円)なんて聞くと安いとすぐ支払ってしまう。

今回のウズベキスタンは、10ドルが140,000スムでした。
10ドルなら1000円で安いと思うのに14万スムといわれると躊躇してしまうのです。

10,000スムが800円程度ということは、何度も聞いて分かっているのに、5000スムなんていわれると高っ!!
よくよく考えれば400円ぐらいなのにね。


世界遺産がある地方の街々はまだまだ発展途上なので、スーパーもなければもちろんコンビニもありません。

たぶんそこで暮らす人々はバザールへでかけて調達するのでしょう。
昔の日本の市場のように、何でも計り売りです。
値段表記もされていないし、言葉が通じないしどれぐらいの値段かはわからなかった。

ただとてもフレンドリーで、すぐ味見しろとジェスチャーで。
これはざくろ、もちろん買わなかったけど機嫌損ねずよかった。
 

白い丸いものはヨーグルトの固めたものだそうだ。
ビールのおつまみにしたり、ポケットに入れて時々食べたり。
カルシウムが多くて妊婦さんにおススメと言ってた。
 
娘がただいま8ヶ月の妊婦なので、買う気満々で味見したら、あまりに塩っ辛くて酸っぱくて。

野菜は日本と変わらないぐらい作られ、サラダは毎食でたし野菜不足になることはなかった。
 
寒暖差の大きい風土なので、植物は小ぶりで甘みが強い。
そのため葡萄も糖度が高く甘いワインができるそうだ。

ニンジンの細切りしたサラダ、キャベツのコールスローなども毎食でたけど、バザールではナンや惣菜もたくさん販売されていた。
 

穀物や木の実も量り売り
 

サマルカンドのバザールでアーモンドとピスタッチオとピーナッツ砂糖まぶしと、蜂蜜を買った。
 
ホントはキロ単位販売のようだけれど、2000~5000スムぐらいのお金をだして、これだけ頂戴というと適当に袋に詰めてくれた。

これは肉屋さん
 


地方の道路沿いにはパーキングエリアはまだない。
そのためトイレ休憩用のレストランも土産物も立ち寄ることはない。

車窓から見えたジュース屋さん
 
こうしてペットボトル入りのものが田舎にも普及し始めて、ゴミ問題が発生していくのですね。

もちろん首都タシケントは都会なので街なかに販売スタンドあり、通勤途上の人が買い物してましたよ。
 

キーワード

2009-03-28 | ネットオークション
楽天市場でショップ展開していると、アクセス数が多かった検索キーワード連絡が時々届きます。

「検索エンジン経由で御社のページに訪れたお客様がどのキーワードを検索して(何を求めて)きたかがわかりますので是非、店舗運営のご参考にしていただけたらと思います」というものです。


たいていはヴィトンとかシャネルとかいったブランド名ですし、質屋という検索ワードも多いのが通常です。

今年初めに届いた連絡で、10位にオザサとなっていて、
店舗名で検索していただけるなんてうれしいなぁと思っていました。

今日届いた連絡は3/16~3/22の期間内です。
【検索キーワード】
<順位>  <検索ワード>
1位   シャネル
2位   【質屋出店】
3位   オザサ
4位   ヴィトン
5位   ロエベ
6位   カンペール
7位   ルイ ヴィトン
8位   【質屋出店】 ヴィトン
9位   エルメス
10位  【質屋出店】 シャネル

なんと第3位に「オザサ」ってあるじゃぁあ~りませんか!
そして16位に質オザサ。

店舗を指定して探してくださるお客様をがっかりさせないよう、より一層気持ちを引き締めてお仕事しないといけないなと痛感しました。

言語学の観点からみた古代史 

2009-03-28 | 古代史のミステリー
日本列島周辺の中国語、韓語・朝鮮語、日本国内のアイヌ語などは
日本語とまったく系統的関係がないことは周知のことです。

国立民族学博物館 崎山理教授の比較研究の結果、
日本列島をはさんで北のツングース諸語と、南のオーストロネシア諸語は、
縄文時代中期以降日本列島でたがいに接触、混合することによって
現在の日本語の母体を形成したことが分かってきました。

日本語の中の単語の多くはオーストロネシア語に、
助詞や助動詞という文法要素の大部分はツングース語に負っているそうです。

ところが時々理解不能な言葉や副詞、囃子言葉などがあります。
前回、囃子言葉が古代ヘブライ語に似ている話は書きました。

例えば、「ぺらぺらよくしゃべる」
この「ぺらぺら」はヘブル語では、「ペー エラ ペー」
意味は(口から 口へと休みなく)

「然り」は「シカー リー」(それは私にとってのぞましい)
この語は「サハル」とも発音され、日本語の「さりながら」「さり」「され」にも派生していると。

ヘブライ語の「L」は弱い発音なので容易に消滅し、「R」は訛って「エ」に変っていたりまったく脱落している事が多いそうです。
語頭のLとRの韻が抜け落ちているためヘブライ語と気付かれない。
古代ヘブル語が日本に定着する時に、
ウラルアルタイ語の古代朝鮮民族の持つ文法がフィルターになったからかもしれないと推論されています。

岩手県北部から青森県南部にかけて「ナニャドヤラ」という盆踊りがあるらしい。
この意味不明な言葉をいろいろ解釈したのがウキペディアでも紹介されています。

川守田教授はこの「ナニャドヤラ」は専門のヘブライ語であることに気づかれ、その意味を調べるとイスラエルの軍歌に相当することがわかったそうです。

その後各地の民謡を調べたところ、囃し言葉に古代ヘブル語が残っているのは340余り、
さらに日本語の中に1200余りのヘブル語原を発表されています。


島根県津和野町では祭礼時
伊波礼 許能於 延牟 伊波羅 弥栄(イハレ コノオ エン イハラ ヤエ)
ヘブライ語でその意味は、(伊波礼彦と称えたまいしところは、彼、エホバの神を賛美すればなり)

仙台地方の地固歌には、
「イワレ コノーエーン ヤハラー ヤーエー」と歌っていますが、
(伊波礼と改名された理由は、彼を讃える所からである)

この「イワレ」とは何か?

神武東征の神武天皇は大和に入られる前、
「伊波礼」と改名され、日本書紀では「磐余」と表記。
この改名の意味については江戸時代の国学者本居宣長も不明としていました。

「伊波礼」は、ヘブル語で「イワレエル」意味は(彼、神を称える)
岩「イハ」も磐「イハホ」も共に、エホバの神名です。

そしてイハレとなる前の神武天皇の幼名は狭野「サノ」
ヘブル語でサルヌとは(われらの皇子)という意味。

サノ節の「サーノ サー」は(狭野命・われらの王子は主権者にて在す)
ササ ヤレコナサ ササ ヤーアレ コノーハサー
(汝ら喜べ、磐余日子は主権者なりと名乗らせたまえり)


川守田氏は言語学の観点からの考察で、
「日本民族は、先住民族と征服者の融合した民だが、言語学上は様々な言葉が混在している。
根幹に据えられるのは、古代朝鮮民族の延長としてのツングース族の言葉、つまりウラルアルタイ系の文法骨子だ。(複数形が無い)
それに南方民族からの言葉や、アイヌ語、インドネシアなどの南洋語、漢語、梵語、西洋語などが混入したが、
支配階級であった天孫族(ヘブライ民族)の言葉が相当強力に影響している」

「前722年北のイスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされ、
ヤハウェから召命をうけた預言者イザヤは、南のユダヤ王国の危機を訴え新バビロニアによるユダヤ王国の滅亡を預言します。
事前に危機を察知したイザヤは、神から選ばれたインマヌエルという名のダビデ王家の王子と前712年頃ユダ王国を離れ、新天地を求めて東漸しシルクロードの東の果ての島々(日本)にたどり着き、
そこに聖書にいうモーセ以来の理想の神の国を建設に取りかかります。
この建国が、神武天皇の即位である」

「日本の民は南朝ユダ王国出身ではあるが、キリスト出現よりはるか以前に国を出たので、キリスト処刑には関係しなかったという事になる」

ただし青森県戸来(へらい)村の村名はヘブライに由来するとした説や、遺伝情報調査結果から日ユ同祖論の傍証となっていますが、
全くの奇説であり、大多数の日本人はおろか、外国では全く認められておらず、またその根拠としているものも、学術的な論拠にもならない。
とウィキペディアのキリストの墓で書かれています。

世界遺産・シャフリサーブス

2009-03-26 | 旅・ウズベキスタン
シャフリサーブスは、ティムール誕生の地。
旧名ケシュ、かってのソグディアナの古都で、
7世紀には唐の玄奘三蔵法師も訪れたといわれています。

ティムールが生きていた時代の建物は壊され残骸しか残っていませんが、緑豊かな静かな街でした。

ウズベキスタンの英雄ティムールの立像より、200mぐらい後ろに「白い宮殿」という意味のアクサライ、今や入口のアーチを残すのみ。
塔に登った記事の中でウズベキスタンの旗がなびいていた所です。

★追記
なぜアクサライ宮殿の屋上にプールがあったのがわかるかというと、スペインから派遣された大使ゴンサレス デ クラビホ(Gonzales de Clavijo)が記録に残しています。
この本を旅のツアー仲間のみねさんは以前読まれたことがあるそうです。


ドルッサオダット(大いなる力の座)建築群
 
22歳で亡くなったティムールの長男ジャハンギールの霊廟があり、ティムールが自分が死後入る予定だった石棺もあります。
しかし実際にはティムールはサマルカンドのグリ・アミール廟に眠っています。

ドルッティロヴァット(瞑想の家)建築群
 
たぶんこれは裏側?
どちらが正面かわかりませんが、正面画像らしいものは、「気になる木」の記事で桑の大木を紹介した画像です。

何よりも勇敢な軍事指導者であったティムールは、
同時に学者との対話を好み、「一瞥して物事の核心を悟り」「真実と作りごとを鋭く識別する」極めて明敏な人物でもあったそうです。


朝ブハラをバスで出発しシャフリサーブスに昼頃到着したので、観光の前にとある民家レストランで昼食でした。
 

中庭があって、春の穏やかなランチを味わっていました。
彼らがレストランに入ってきたとたん静寂が破られました。
 

自分の席に着くと、セッティングされた皿に水かけさっと洗って、その水を中庭に捨てていました。
何をしているんだろうと見ていると、次にスプーン・フォークも丁寧に拭いていました。

つまりセッティングされた食器やカテラリー類は汚いものと信じているのですね。
私達日本人は清潔好きです。
しかし、まぁよしとして、よっぽどでなければ準備されたものを拭いたり洗ったりはしませんもんね。

香港からのツアー客、5カ国周遊しているらしい。
現地ガイドさんの話によると日本人の4倍は食べるそうだ。

香港へ行かれたことのある方はご承知のように、香港人はとてもエネルギッシュです。
歩くスピードも速いし、よく食べよく喋る。
サマルカンドのホテルまで一緒でした。

彼らはとてもフレンドリー、日本人とわかるのか「こんにちは~」と挨拶してくれました。

これでひと悶着

2009-03-25 | 旅・ウズベキスタン
このスーツケースには納まらない荷物。
やむをえず手荷物として機内持ち込みにされた方2名は、帰路の飛行機に乗る前の出国手続きで「ちょっとこちらへ」となりました。

銃や武器を仕込まれてると思われたのでしょうか。

あわてて添乗員もその部屋へ。
ツアー一行、不安げにその場で待ちぼうけ状態。
なかなか出てきません。

午前7時発の搭乗が始まる30分前、添乗員が部屋から出てきて、
「時間がないから先に搭乗ゲートへ行ってください。
あのお土産に税金がかかるというので、この国の文部省みたいなところと交渉中です」

一緒に帰れるだろうか心配しつつ先にゲートに向かいました。
半分以上が搭乗し終わった頃添乗員と2人の持ち主が現れました。
どうやら購入価格の1割程度の関税を支払い解放してもらえたようです。

何を買われたかというと、
 

サマルカンドのレギスタン広場にあるシアルドール・メドレセ、すでに神学校としての役割を終え今は工房となっていたりお土産屋さんになっていました。

その中の一画にウズベキスタンの民族楽器を演奏してくれるところがありました。
以前小泉元首相が訪れたときも演奏を聞かせた地元の有名な音楽家だそうで、一緒に写った写真を見せてくれた。

様々な胡弦楽器を聴かせてもらうと、いい音色で欲しくなる。
一番安いので70ドル。
弦が切れたり、皮が破れたりした時メンテナンスできないなとあきらめ、CD1枚を15ドルで買いました。

しかしツアーの中のリッチなおば様二人が、400ドルと150ドルのを買われたのでした。
その梱包はエアークッションに包むでもなく超簡単なエコ包装。
え~っ、こんなので持って帰るの?
周りのものが不安になるような梱包でした。
それにしても関税かかるって事前に言ってよね。

ちなみにウズベキスタンの太鼓はこんなの↓
 
縁裏に金属の輪がぶら下がり、タンバリンと合体したがごとくのなかなか乙な太鼓でした。
セレブな奥様はこの太鼓も買われてました。

そしてさらに、スザニ刺繍の入ったバックも↓
 
一つ5から10ドル程度なので、現地で持つには楽しいけれど・・・

このウズベキスタンの有名なスザニ刺繍、手刺繍のものは見事な芸術品ですがお値段も超素晴らしい。
 

他に有名なお土産といえば、書見台
 
1枚の板を彫り抜いて作られたもので、何通りもの形に変身するすぐれもの。
安いので30ドルぐらいであったので、フルートの練習するときの楽譜台にしようかとずいぶん思案したけどやっぱり買わなかった。
これを初めて作った人は偉いね。

こうのとりの形をしたハサミは、ナイフ同様有名な工芸品らしい。
シャプリサーブスのタキの工房で作っていた。
 
小さなものでも28ドルを値切りに値切ってやっと20ドル、
お金持ちの奥様方は一人で何個も買っておられました。

今回のツアーも、お金持ち多かったわぁ。
 
いつも帰国してから土産物の話をすると、子供たちから、
「買えばよかったのに、二度とその国へ行くことないやろう」って。

ちょっと休憩

2009-03-25 | 旅・ウズベキスタン
旅から帰って1週間、あっという間です。
早く記事にしないと、どんどん忘れて行くし時間との勝負です。
でも月末で忙しいし、おまけに侍ジャパンは見んとあかんし・・・
昨日の決勝戦はハラハラドキドキでしたね。
ホント勝ってよかったわ。

ところで旅のお土産。
何も要らんといわれても、全く無ければないでがっかりさせるだろうし、くだらんゴミみたいな民芸品もどうかと思うし。
旅している者にとって、土産は旅のあいだ始終頭を離れません。

ヒヴァのジュマ・モスクの中で、金色の魚の飾りが目にとまりました。
店のスタッフは金色モチーフは金運にいいと信じてます。
そしてたった1ドルだったこともあり早速ゲット。
ここでそんなものを買ったのは私一人でした。

めちゃ喜んでくれて、デニムスカートをリフォームして作ったエコバッグにぶら下げてくれています。
お値打ちありました。

 

世界遺産・ブハラ

2009-03-23 | 旅・ウズベキスタン
サッカーボールを追いかける子供たち。
世界遺産を傷つけたらどうすんの、
写真撮っとこうと近づくと集まったきてポーズをとった。
ウズベキスタンの人たちは写真撮ってもらうのが好きな人が多かった。

少年達はスペースを見つけるとサッカーに興じているのをあちこちで見かけました。

ウルベク・メドレセで
 
ティムールの孫のウルグベクが、真の教育施設にしたいと願って1418年に建てた、現存する中央アジアで最古の神学校


 
カラクム砂漠は黒く、キジルクム砂漠は赤いという。
このキジルクム砂漠を南へ下るのに、陸路バスだと7~8時間かかるのを飛行機で約1時間。
私が座った飛行機の座席は左側だったので、ずっとキジルクムが見えていたということになる。

アムダリア川の両側で沙漠の性質が異なり、
西南側がカラクム(黒い沙漠)東北側がキジルクム(赤い沙漠)

 
白い部分がみえることもあって、それは塩の白。
塩害で土を変えないと植物は育たない不毛の地です。

ブハラはシルクロード交易によって古代から栄えた古都で2500年以上も歴史があります。
ブハラの最初の黄金期は9世紀サーマーン朝時代に始まり、
イスラム神学の聖地として偉大な学者が集まりここから各地に巣立っていったそうだ。

ブハラの黄金期の第2期は16世紀後半、
今残っている建造物はそれ以降のものがほとんどで、茶色いイメージの街でした。


カラーン・モスクから右奥にカラーン・ミナレット
 
ブハラの旧市街で一番高く砂漠の灯台と言われる町のどこからでも見えるブハラのシンボル
1127年建造、チンギスハーンが壊さなかった唯一の塔です。
18、19世紀には死刑場として袋詰した受刑者をミナレットの屋根から投げ落としたので、
「死の塔」とも呼ばれるようになった。
最後の死刑は1884年。
これを知ると塔に登る気は失せた。

ミル・アラブ・メドレセ
 
カラーンモスクに面して建ち、巨大なアーチの両脇の2つの青いドームがきれいです。
青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた装飾は、末期ティムール様式の典型例だそうだ。
ソ連時代に中央アジアで開校を認められていた数少ない神学校で、ここから多くのイスラム原理主義者が輩出しました。

アルク城
 
この城の辺りが古代プハラ発祥の地で、2000年以上前に遡るといわれるが、最初の城砦がいつ築かれたのかは定かではない
今残っている城は18世紀のもの。

ラビ・ハウズは旧市街にある元キャラバンサライの池
 

前に修復中のメドレセ
 

公園内でゲームを楽しむ人たち
 

気になる木

2009-03-23 | 旅・ウズベキスタン
          これは樫の木

タシケントのウズベキスタン工芸博物館中庭に植わってて、
樹齢何百年と聞いたけど忘れました。

日本の神社のしめ縄まいたご神木のように、大木がたくさんみられましたが、まだ葉がでていないので幹の木肌を見ただけでは何の木がわからない。

「この木なんの木、気になる木」です。
その都度、現地のガイドさんに尋ねました。

 
桑の木、こんな大木にまで成長するのですね。
すでに芽がでていましたが芽を見ても桑の木とはわからなかった。

 
 
樹齢800年だったと聞いたようなプラタナスの大木。
下に看板がありましたが、キリル語なので読めない。

 
なんの木が聞きそびれた。
緑の葉が茂るようになるとさぞかしきれいだろうと思われました。

ウズベキスタンは100年あまりソ連の支配下にありました。
1991年に独立しましたが、共産圏でいてよかったこと、教育費と医療費の無料の制度は現在も引き継がれているそうです。

そのため義務教育のあとの大学も授業料無料、
そして4年間は専門課程に入らず、びっちり一般教養を学ばされる。
その後大学院で2年間専門課程をするらしい。

だから歴史も植物の名も知っていて当然だと。
簡単な医学治療も学び、自分の病気は自分で治すのが前提にあるそうです。

病院が満員で救急車だってたらいまわしの日本、
ただ単に木でしかない、植物に疎い普通の日本人、
ちょっと恥ずかしい思いがしました。

 
傑作なのは、列車のすべての扉ガラスの白い花、
なんと模造品がセロテープで貼り付けられていました。 

杏の花

2009-03-22 | 旅・ウズベキスタン
早朝タシケント空港について、まだ日が明けぬ暗い中真っ先に目に入ったのがピンクの花でした。

 

てっきり桜だと思ったぐらい。
あんずの花だそうです。
街のいたるところで咲いていました。
民家はもとより、モスクやメドレセの中庭、そして田舎道に沿って植林されているものなど、淡いピンクの花がまっ盛りでした。

 

 

 

 

 
1週間たってタシケントに戻ってくると花は盛りを過ぎ、
花びらが道にいっぱい落ちて葉杏になりかけていた。

ちょうど杏の花のべストシーズンを見れてよかった。

世界遺産・ヒヴァ②

2009-03-22 | 旅・ウズベキスタン
古代ペルシャ時代からカラクム砂漠への出入口として繁栄した
ヒヴァ、10世紀頃にはイスラムの街となっていました。

金曜の礼拝はかかさないイスラムでは、それぞれの街に「金曜モスク」と呼ばれるモスクが建てられています。
ヒヴァ・イチャンカラのほぼ中心にあるジュマ・モスク(金曜モスク)は、世界中のモスクの中で形が一番変わったモスクといわれているそうだ。
 

門、ドームも、回廊、庭などを一切持たず、薄暗がりの中に212本の彫刻された柱が並んでいて神秘的な空間です。
最も古い柱は、昔のホレズムの都から運ばれたもの。
4本が10、11世紀、25木が17世紀までの柱、大きな綿の木柱もありました。

ここの正面入り口北側に併設のミナレットに登ったのでした。


 
パフラヴァーン・マフムード廟

一番大きくてきれいな青いドームの霊廟でしたが、外観はいいアングルで撮影できなかった。
ヒヴアの庇護者として尊敬されていた詩人で哲学者のパフラヴワン・マフムド(1247~1326)の墓を中心に、今では合同の廟になっているそうで、内側の装飾は見事でした。

イマーム(イスラム教でお祈りをしてくれる人)が画像二人のお祈りの後、私達ツアー一行にお祈りをして下さり、異教徒ながらも敬虔な気持ちになりました。

 
クフナ・アルク(17世紀に建てられた宮殿)広場では催しが行われていて地元の人たちでにぎわってました。
 
 
タシュ・ハウリ宮殿(新官殿)ここは王様のお妾さんたちの住まいがあった所

イチャンカラで見た女の子たち、
男の子は城壁あたりでサッカーしてました。



世界遺産・ヒヴァ①

2009-03-21 | 旅・ウズベキスタン
わぁ~きれいって適当に写真を撮ってると、
どんどんたまる、たまる。
異教徒ゆえかイスラム建築はどれも同じに見えて、
どれがどれかも定かでなくなってくる。
でもここで発表するとなると、どこの何を見たのかは嘘っぱちを書くわけにはいかないし、調べました。

今回の旅はウズベキスタンの4つの世界遺産を廻る旅でした。
それまではヒヴァという街の名も、ホレズム王国という中世の国名も知らなかったし。

消え行くアラル海の下のほう、年間300日は雲ひとつないというホレズム州、しかしパミール高原に源をもつアムダリア川のおかげでオアシス都市ができます。
川はその時々で流れを変えたので、それに伴ってオアシス都市も移動してきたらしい。
キジルムク砂漠には点在する過去の街の遺跡群が1000箇所を超えるそうだ。

紀元前3000~4000年頃より農業による定住が始まった地域で、
現在のヒヴァの街はまた初期の頃の位置に戻って再建されたそうだ。
17世紀頃に今のような城市になり、
カラクム砂漠への出入り口として、また奴隷貿易の拠点として栄えました。

 

内の城壁イチャンカラはほぼ完全な形で残っています。
多くのモスクや神学校、宮殿、ハーレムがある博物館都市の様相。
今なお3000人ほどの人が住んでいて、自動車の走行が限られ歩道しかなくとても静かでした。

泊ったホテル前の南門入り口、朝の偵察散歩。
 

 
カメラを向けるとおっちゃんは手を振って答えてくれました。


観光バスは西門にとまるのでだいたいそこから入場観光するようです。
カメラ持込撮影料として7000スム支払いました。

西門入ってすぐにカルタ・ミナルという高さ26mの短い塔があります。
未完成だし、凝った装飾が施されているし、印象的な建造物建物ゆえ、様々な伝説が残っています。

メドレセ(神学校)やモスク、ミナレットなどどれもタイルできれいな装飾が施されています。
 
 
釉薬で絵が描かれたものを繋げて一つの大きな作品にするために、それぞれのタイルを貼り付ける位置を示すアラビア文字の数字が表面に書かれています。 
昔のタイルか修復後のタイルかはこれで見分けることができます。

 

また日干し煉瓦が、地下水などの水分が上に吸い上げられ崩れるのを防ぐため、下から1mほどの高さで何枚もの重ねた紙が境界線を作ります。

様々な工夫があちこちで見られました。

イチャンカラ内部で暮らす人の民家建築中
 

東門には大きなバザールがありましたが、これはコンビニ?
 
店番は誰もいなかった。

アホと煙は・・・

2009-03-21 | 旅・ウズベキスタン
ミナレットは、礼拝を呼びかけるという本来の目的のほかに見張り塔でもあり、砂漠から来るキャラバンにとって目印にもなりました。

だからこの塔の上に上ると町を鳥瞰的に眺めることができます。

行く先々で時間がある限り登ってきました。
でも3000~4000スムをとられます。
240円から300円程度なので、イタリア・フィレンツェのドームの6ユーロに比べれば安いもの。

ヒヴァの城塞都市イチャンカラのジュマ・モスク
 
結婚式で踊っている集団が道を塞いでいました。

高さ42mと聞いたけれど、ネットで見ると55mとなっていた。
81段の階段は小窓から光が差し込まないところは真っ暗で、それだけでもものすごく怖いし、手探り状態で天井に頭をぶつけないよう、足を踏み外さないように中腰で緊張が続きました。
 

小窓にたどり着き外を見ると
 
西の門入り口近くにある未完成のミナレット「カルタ・ミナル」
右手の広い通りが東西に伸びるイチャンカラのメイン道路です。

 
左手に見えるイスラーム・ホジャ・ミナレット
時間はあったけど、もうすでに足がガクガクでパス。

5日目シャフリープスのアクサライ宮殿跡
 
今は入り口アーチが残っているだけですが、1380年建築時は屋上にプールもあったそうです。

 
入り口に管理人がいて3000スムを支払います。

登る途中の小窓からティムールの立像が見えます
 

天辺にたどり着くとウズベキスタンの国旗も風になびき、天山山脈が遠くに見晴らせます。
どこに行っても広々として木々の多いのも予想外でした。
 

6日目サマルカンド・レギスタン広場向かって左側に15世紀建造のウルベク・メドレセがあります。
 
星の絵柄タイルが特徴だそうで、ここの右手の塔は案内人がライトを照らしてくれるためか4000スムでした。
 

レギスタン広場右側のシアルドール・メドレセが見えます。
17世紀建造物、ライオンの絵柄が特徴です。
 

螺旋階段を登りつめた先は屋根から上半身を出せるだけの狭いスペース、順番に入れ替わらないと外が見れません。