ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)社は、
19世紀鉄道の発達により個人旅行が普及した時勢にのってトランクを製造、
1867年パリ万博において銅賞受賞。
1889年のパリ万博ではダミエラインと呼ばれるデザイン(市松模様)を用いて金賞を受賞しました。
ヴィトンのあの有名なモノグラム柄は、
1896年に2代目のジョルジュ・ヴィトンがコピー商品、模倣防止のために製作、発表しました。
日本の家紋をモチーフとしたと言われています。
当時パリの万国博覧会をきっかけに大流行していたジャポニズムの影響を強く受け触発されたのだそうです。
世界初の万国博覧会は、1851年にロンドンで開催されました。
それを皮切りに、欧米諸国を中心に万博ブームが起こり各国で続々と開催されるようになります。
日本が初めて正式に参加した万博は、1867(慶応3)年のパリ万博です。
この万博で、ヴィトンは銅賞を受賞しブランド確立していくのですね。
1866(慶応2)年、フランス皇帝ナポレオン三世から幕府宛に万博への出品要請と元首招請についての書簡が届きます。
フランスからお誘い受けた幕府は、各藩に伝達して参加を求めたものの、
幕府崩壊直前の各藩とも藩内政情が動揺している上に、
鎖国観念が根強くて応じたのは僅かに佐賀藩だけだったようです。
かねてから国産品の海外輸出の公然化を望んでいた佐賀藩は、
これを絶好の機会として直ちに賛意を表します。
有田焼が万国博覧会に出品され世界デビュー、大絶賛を受けることになります。
一方、薩摩藩と仲のよかったグラバーは、島津久光の顔を立てるという名目で、討幕の布石を打ちます。
当時、留学生を連れて渡欧中であった五代友厚に指示を出し、薩摩藩がパリ万博に出られるよう手配をさせました。
薩摩藩は、フランス人のモンブラン伯爵を代理人として、
幕府とは別名義の出展者として参加出品することとなります。
結局幕府側は「大君政府」、薩摩藩側は「薩摩太守の政府」とし、
ともに日の丸を掲げることで妥協しました。
薩摩藩は、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成しました。
幕府は薩摩藩に抗議するも聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となりました。
この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために
独自の葵勲章制作を開始したが結局幕府は倒れ幻となったようです。
ちなみにパリ万博は1867年4月1日から11月3日まで
徳川慶喜による大政奉還は同年10月。
幕府は、油絵、浮世絵、銀象牙細工、磁器、水晶細工などを出品。
会場内に日本式お茶屋も作り、芸者3人に接待させて、
キセルで一服する様子などが見られる茶店評判を呼んだそうです。
薩摩藩からは、薩摩焼はじめ、おそらく薩摩切子も出品されたことでしょう。
江戸切子に張り合って薩摩切子を藩体制で製造したのも、一連の流れだったのでした。
日本からの出展品は珍しがられ、いわゆるジャポニスムの契機となりました。
なお、エルメスもこの時代の万博で力をつけました。
エルメス(Hermes)社は、女性用の鞍で1867年パリ万博において銀メダル、
1878年パリ万博ではグラン・プリを受賞。
そのおかげで現在本店のあるフォーブル街に社屋を建設しています。
現代の私達にとっては、エルメスも、ヴィトンも、
そして万博もすでに存在していて、こんな過去の事例があったとは…。
大政奉還を経て明治維新、幕末は、小説や映画、ドラマ様々な分野で描かれています。
しかしグラバーの思惑をはじめとする海外との繋がりで幕末を考えたことはあまりなかったのでした。
あの動乱期に植民地化されなくて、日本人って思ってる以上にスゴイかも。