指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『昭和芸人七人の最期』 笹山敬輔(文春文庫)

2018年01月05日 | 大衆芸能

七人の芸人とは、榎本健一、古川ロッパ、横山エンタツ、石田一松、清水金一、柳家金語楼、トニー・谷である。

エノケン、ロッパ、エンタツらについては、ほとんど知っていたことばかりだが、石田一松、清水金一、柳家金語楼、トニー・谷については初めて知ったことも多くあった。

そして、みな早世しているのだが、ロッパの57歳、石田一松の53、シミキン54歳は異常としても、エノケン65歳、エンタツ74歳、トニー・谷の69歳は、そう早かったわけではない。

当時の平均年齢から見れば、少し早いなという程度である。私の父は、1901年生11月まれで、1960年3月に死んだので58歳だった。脳梗塞で一度倒れたのに、ほとんど養生をせず、降圧剤も飲んでいなかったのだから再発したのも仕方なかったのだろう。要は、自分の体に自信があり、年をとったらそれなりの対応しないといけないという今の「健康思想」はなかったからである。

芸能人ではそれ以上で、体が悪いと知られると仕事が減るとして隠して活動し続け、病気が見つかった時は手遅れというのが普通だった。

この芸人に共通する要素として、今のテレビ芸人とはまったく違い、芸があることだが、音楽、特にアメリカのポピュラー音楽とダンスの素養があったことである。

柳家金語楼はどうかと思われるかもしないが、彼もジャズが好きで、金語楼バンドを持って実演したこともあるのだ。

まあ、芸人とは歌が上手いことが最低の条件で、それはタモリや渥美清、森繁久弥を見てもそうだろう。

作者は、アクションで人気者になった芸人が、泣かせる芝居になることを「堕落」のように見なしているが、それは体技が肉体に依拠している以上無理なことだろう。

それはチャップリンやキートンも同じで、チャップリンはドタバタ役者を辞めシリアス役者になって成功した。キートンはそれを拒否したので晩年は苦労しようだ。

               

「のんき節」の、タレント議員第一号の石田一松で、彼は1946年の戦後最初の衆議院選挙に出て当選し、以後国民民主党議員として活動した。三木武夫についていて、天皇の下で「民主と愛国」を実現させるものだったようだ。

読んで一番驚いたのが、「1951年の日米安保条約締結になる「講和条約締結」に際し、アメリカとの「単独講和」に反対していることだ。この時、中曾根康弘も投票を欠席したそうだ。中曾根の行動には、彼の日本自立論があったのだろうが。

さらに、驚くのは、石田は、1955年の砂川基地反対闘争の時、現場に来て「のんき節」で反対運動を激励したとのこと。

沖縄問題を何も知らないで平気な今井絵里子とはレベルが違うね。

さて、この七人の芸人たちが今のテレビ芸人たちと、まったく異なる体験をしているのは、言うまでもなく戦争である。

大岡昇平は『武蔵野』で「戦争を知らない人間は半人前である・・・」と書いたが、とすれば今のテレビ芸人は永久に半人前だろう。

 

 

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