ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

サッド ヴァケイション

2007年11月23日 | 映画レビュー
 本作の宣伝コピーでは女の強さ優しさが強調され、謳い文句になっているけれど、それよりもむしろ「赦す人」としての父=夫の存在のほうが個人的には興味を惹かれた。

 げに恐ろしきは女なり、ということです。家父長制を支えてきたのは女であり、女は家長の共犯者として新たな被支配者を求める。優しい微笑みの裏で彼女が求めるものは「家」の存続であり、自分がそこに君臨すること。女はやさしいのか強いのか? 女は怖いのです。この映画が言いたいことはそこに尽きる。

 本作で青山真治監督はかなり目立つカメラワークと編集を多用している。手回し、長回し、クロスカット。スローモーションやストップモーションのようなやりすぎこそないが、固定の長回しはけっこう目立つ。しかも、何を狙っているのかいまいちわかりにくいところがある。何カ所か、ものすごくきちんと計算された固定場面があって、それは「お、なかなか」と思うのだが、でもそれだけのことであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 ストーリーは最初、二組の話が並行して描かれ、それらがうまくまとまらないので散漫な印象がある。前作「ユリイカ」でバスジャックの被害にあった梢(宮崎あおい)が家出をして間宮運送という小さな会社に就職する話と、本作の主人公である白石健次(浅野忠信)が中国人密航ブローカーという裏家業から足を洗って代行運転手になる話とが交錯するまでがけっこう長い。健次は密航してきた中国人少年を引き取って育てているし、親友の妹で知的障害のあるユリをも引き取っている。健次には5歳のときに自分と父を捨てた母がいて、それが間宮運送の社長夫人というわけだ。

 ストーリーを追えばそれほど複雑な話ではないが、健次と梢という二人が青山監督のこれまでの作品の中で「傷ついた若者」というスティグマを背負った存在してそのままこの映画でも登場するので、前2作を見ているほうがわかりやすい。がまあ、見ていなくても大丈夫だろう。わたしは前前作「Helpless」を見ていないけどたいして困らなかった。

 間宮運送で偶然再会した母と息子、息子は母への恨みを忘れていないが、それでも母の提案を受け入れて一緒に暮らすことになる。この間宮運送というのが脛に傷を持つ者の吹きだまりのようなところで、人のいい社長間宮が、訳ありの人々を雇って社宅に住まわせている。その中にオダギリジョーが演じる世をすねたような若者がいるのだが、意外なほどにオダギリ・ジョーは端役に過ぎない。オダギリが出てくる以上は何かあるのだろうとか、浅野忠信とのからみが楽しみとか思うのだが、本作のオダギリジョーは驚くほど抑えた存在だ。それにしてもこの二人はほんとうに巧い。日本映画を背負って立つ二大俳優になるだろう。

 「ユリイカ」と違って本作は細部に漫才みたいな面白い会話を挿んだり、けっこう笑えるのだ。テンポもあの「ユリイカ」みたいにだらだらしていないし、かなり見やすい。ただ、最後は悲惨な展開になっているにもかかわらず無理矢理明るく終わらせたみたいなところがあって、ちょっと気に入らない。こういうふうに明るく終わってしまうと、「母は偉大であります、怖いね」というオチにしかならない。それより、最初に書いたように、この物語のキモはデリダのいう「無条件の赦し」に限りなく近い、間宮社長の存在だろう。母性原理が家制度の存続のための歯車となり、家父長制の利己的な増殖を求めるのに対して、皮肉にも家長である間宮社長の寛容と寛大はそれを突き崩すエネルギーとなるような予感を見る者に与える。結局、ほんとうに「エライ」のは誰だったのだろう?

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日本、2007年、上映時間 136分
監督・脚本: 青山真治、プロデューサー: 甲斐真樹、音楽: 長嶌寛幸
出演: 浅野忠信、石田えり、宮崎あおい、板谷由夏、中村嘉葎雄、オダギリジョー、光石研、斎藤、川津祐介、とよた真帆、嶋田久作、高良健吾

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