『名も無く豊かに元気で面白く』

読んだ本、ニュース、新聞、雑誌の論点整理、備忘録として始めました。浅学非才の身ながら、お役に立てれば幸いです。

福島第1原発事故❝東電旧経営陣3人に無罪判決❞

2019-09-19 17:52:42 | 日記

日本中の時間が止まってしまったあの大事故で、だれも刑事責任を問われないのはおかしい。この刑事裁判は、そんな「市民感覚」から始まった。無罪判決には2週間以内に指定弁護士は控訴するでしょうから、高等裁判所に場所を移し、改めて裁判が続くことになる。東電の天皇と言われ、実権を握っていた勝俣恒久元会長が危機感を持っていれば防げたかもしれないと考えれば、悔しい判決です。赤信号みんなで渡れば怖くないというような無責任な態度を正す意味でも、東京高裁での厳しい判決が待たれます。

以下抜粋コピー

2011年に起きた東京電力(TEPCO)福島第1原子力発電所の事故をめぐり、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電旧経営陣3人に対し、東京地裁は19日、無罪判決を言い渡した。

 検察側は勝俣恒久(Tsunehisa Katsumata)元会長(79)、武黒一郎(Ichiro Takekuro)元副社長(73)、武藤栄(Sakae Muto)元副社長(69)の3被告に対し、禁錮5年を求刑していた。

 判決が言い渡されると、公判開始前から裁判所前に集まっていた福島県出身者を含めた数十人がショックをあらわにした。女性の一人は抗議する人々を前にマイクで、この判決は受け入れられないと訴えた。

 福島第1原発の事故は、旧ソ連時代の1986年に現在のウクライナで発生したチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所の爆発事故以来、最悪の規模となったが、刑事裁判はこの裁判だけで、起訴されたのは3人のみ。

 福島第1原発事故で亡くなったとして公式に記録された人はいないが、事故のきっかけとなった地震による津波では約1万8500人が死亡または行方不明になっている。

 3被告は、原発事故を受けて避難を余儀なくされた病院の入院患者40人以上を死亡させたとして、業務上過失致死傷罪に問われていた。

 東京地検は、嫌疑不十分で有罪判決に導く可能性が低いとして2度不起訴としたが、市民から構成される検察審査会が2015年に3人の起訴を議決し、強制起訴に至った。

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「いつ死んでもいい」熊本地震きっかけにホームレスに…❝人生で今が一番幸せ❞66歳を救った善意

2019-09-19 09:36:49 | 日記

ホームレスになったきっかけは、2016年4月の熊本地震だった。親亡き後、独りで暮らしていた木造の実家は、前震は持ちこたえたものの、本震でめちゃくちゃに壊れ、住める状態ではなくなった。と竹田俊徳さん(66)は語っています。天災は防ぎようがなく、ある意味運命かもしれません。人生の不思議なところはホームレスになった人が、今が一番しあわせと感じているところです。損得を超越した悟りの状態なのでしょう。人間開き直れば生きていけるもの。現代日本人に欠けているのは、竹田さんのようなサバイバル力かもしれません。

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今や日本の総人口の4人に1人が高齢者。2040年には3人に1人に達するとの推計もある。平均寿命は延び続け、65歳は人生の折り返し地点と言っても過言ではない「人生100年時代」に突入した。生き方は多様化し、悩みも楽しみも十人十色。ある辞書によれば、青春ならぬ「老春」とは〈高齢者が青年のように若々しくしていること〉。幸せを追い求める人々の、枯れることない「老春グラフィティ」をのぞいてみる。(吉田真紀)

秋の気配を感じるようになった福岡市・天神のベンチで、竹田俊徳さん(66)は一日の大半を過ごす。一緒に夏をしのいだ相棒は大きめのペットボトル。麦茶のパックを入れて、水を注いでいる。非常食で膨らんだスポーツバッグも着替えが入ったリュックも、眼鏡も傘もつえも全てがもらい物か拾い物だ。ホームレスになってもうすぐ1年。「信じられないかもしれませんが、人生で今が一番幸せだと思っとります」

行き当たりばったりのボロ車の旅

 国立大卒業後、友人が経営する四国のレジャーセンターに約20年勤めた。熊本市に暮らす大正生まれの両親の体調が優れず、仕事を辞めて帰郷したのは50代。「僕は独身で身軽だから、両親をみとるのが宿命だと」。代々守ってきた築100年超の実家で親子3人、5年の時を過ごした。

 思い出は、行き当たりばったりのボロ車の旅。寝泊まり可能な7人乗りのワゴン車に両親を乗せ、毎日のように、「行ってみたい」という場所に連れて行った。ちょっとそこまでのつもりが1週間になることも。北は青森から南は鹿児島まで、日本列島を縦断する距離を走った。無口な父が「なんか、あの山きれいじゃないか」と身を乗り出した南アルプス。母が感嘆の声を上げた初めての金閣寺。費用は全て親持ちだったが「せめてもの親孝行になったかな」。その後、入院した父と母は「3年くらいの間に、ぽんぽんと逝っちゃった」。最期の瞬間まで目をそらさずに見届けた。今は涙を流さず生きるため、両親を思い出すことをずっと避け続けている。

ホームレスになったきっかけは熊本地震

 ホームレスになったきっかけは、2016年4月の熊本地震だった。親亡き後、独りで暮らしていた木造の実家は、前震は持ちこたえたものの、本震でめちゃくちゃに壊れ、住める状態ではなくなった。

 生前の父が修繕し、守り継いできた家。再建したかったけれど、「僕には財力も、仕事を始める体力も全然なかった」。近所の小学校にしばらく避難した後、全てを忘れたくて熊本を飛び出した。「家が壊れていなくても、孤独死してミイラになってたでしょう」

「あした、ぽっくりいってもいいな」

 さまよい、たどり着いた福岡の地。あまりの空腹に「あした、ぽっくりいってもいいな」と空を見上げていたら、「豚汁食べてください」と炊き出しのボランティアに声を掛けられた。善意に救われた。

 お気に入りのベンチは、読書室であり、友達をつくる場所でもある。茶飲み仲間になった警備員井原拘二さん(69)がおしゃべりにやって来る。いつものおやじギャグを言い合い、腹を抱えて笑う。リクエストすればどんな演歌も歌ってくれる女性や、飲み物を差し入れてくれるホームレス仲間、炊き出しをしてくれる人たちもいる。思えば、両親以外と長く話していなかった自分が50人以上の友人、知人に囲まれていた。「僕は誰かとしゃべりたくてしゃべりたくてたまらなかったんだって気付いた」

たくさんの人から善意

 いつ死んでも構わない、と家を出たのに、たくさんの人から善意をもらう毎日を過ごすうちに「もっと生きたい」と思うようになった。

 今のホームレス生活は自分にとって「頭と心のリハビリ」かもしれない。一段落ついたら、自分のような誰かのために行動したい。善意を受け取るだけじゃなくて、渡すことができれば「その3倍くらい幸せな気持ちになれるんじゃないか」。最近の愛読書は、教会からもらった聖書だ。

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