ホームレスになったきっかけは、2016年4月の熊本地震だった。親亡き後、独りで暮らしていた木造の実家は、前震は持ちこたえたものの、本震でめちゃくちゃに壊れ、住める状態ではなくなった。と竹田俊徳さん(66)は語っています。天災は防ぎようがなく、ある意味運命かもしれません。人生の不思議なところはホームレスになった人が、今が一番しあわせと感じているところです。損得を超越した悟りの状態なのでしょう。人間開き直れば生きていけるもの。現代日本人に欠けているのは、竹田さんのようなサバイバル力かもしれません。
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今や日本の総人口の4人に1人が高齢者。2040年には3人に1人に達するとの推計もある。平均寿命は延び続け、65歳は人生の折り返し地点と言っても過言ではない「人生100年時代」に突入した。生き方は多様化し、悩みも楽しみも十人十色。ある辞書によれば、青春ならぬ「老春」とは〈高齢者が青年のように若々しくしていること〉。幸せを追い求める人々の、枯れることない「老春グラフィティ」をのぞいてみる。(吉田真紀)
秋の気配を感じるようになった福岡市・天神のベンチで、竹田俊徳さん(66)は一日の大半を過ごす。一緒に夏をしのいだ相棒は大きめのペットボトル。麦茶のパックを入れて、水を注いでいる。非常食で膨らんだスポーツバッグも着替えが入ったリュックも、眼鏡も傘もつえも全てがもらい物か拾い物だ。ホームレスになってもうすぐ1年。「信じられないかもしれませんが、人生で今が一番幸せだと思っとります」
国立大卒業後、友人が経営する四国のレジャーセンターに約20年勤めた。熊本市に暮らす大正生まれの両親の体調が優れず、仕事を辞めて帰郷したのは50代。「僕は独身で身軽だから、両親をみとるのが宿命だと」。代々守ってきた築100年超の実家で親子3人、5年の時を過ごした。
思い出は、行き当たりばったりのボロ車の旅。寝泊まり可能な7人乗りのワゴン車に両親を乗せ、毎日のように、「行ってみたい」という場所に連れて行った。ちょっとそこまでのつもりが1週間になることも。北は青森から南は鹿児島まで、日本列島を縦断する距離を走った。無口な父が「なんか、あの山きれいじゃないか」と身を乗り出した南アルプス。母が感嘆の声を上げた初めての金閣寺。費用は全て親持ちだったが「せめてもの親孝行になったかな」。その後、入院した父と母は「3年くらいの間に、ぽんぽんと逝っちゃった」。最期の瞬間まで目をそらさずに見届けた。今は涙を流さず生きるため、両親を思い出すことをずっと避け続けている。
ホームレスになったきっかけは、2016年4月の熊本地震だった。親亡き後、独りで暮らしていた木造の実家は、前震は持ちこたえたものの、本震でめちゃくちゃに壊れ、住める状態ではなくなった。
生前の父が修繕し、守り継いできた家。再建したかったけれど、「僕には財力も、仕事を始める体力も全然なかった」。近所の小学校にしばらく避難した後、全てを忘れたくて熊本を飛び出した。「家が壊れていなくても、孤独死してミイラになってたでしょう」
さまよい、たどり着いた福岡の地。あまりの空腹に「あした、ぽっくりいってもいいな」と空を見上げていたら、「豚汁食べてください」と炊き出しのボランティアに声を掛けられた。善意に救われた。
お気に入りのベンチは、読書室であり、友達をつくる場所でもある。茶飲み仲間になった警備員井原拘二さん(69)がおしゃべりにやって来る。いつものおやじギャグを言い合い、腹を抱えて笑う。リクエストすればどんな演歌も歌ってくれる女性や、飲み物を差し入れてくれるホームレス仲間、炊き出しをしてくれる人たちもいる。思えば、両親以外と長く話していなかった自分が50人以上の友人、知人に囲まれていた。「僕は誰かとしゃべりたくてしゃべりたくてたまらなかったんだって気付いた」
いつ死んでも構わない、と家を出たのに、たくさんの人から善意をもらう毎日を過ごすうちに「もっと生きたい」と思うようになった。
今のホームレス生活は自分にとって「頭と心のリハビリ」かもしれない。一段落ついたら、自分のような誰かのために行動したい。善意を受け取るだけじゃなくて、渡すことができれば「その3倍くらい幸せな気持ちになれるんじゃないか」。最近の愛読書は、教会からもらった聖書だ。
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