
ずいぶん大がかりなくい打ちだな。

ちょっとした大工事ね。

測量機器の焦点合わせとか、一部の狂いも許されないんだろうな。

つまり、ゼロの焦点は許されないって言いたいの?

いやいや、犬童一心監督の「ゼロの焦点」は許すぜ。あの機械みたいに高い評価をあげたいくらいだ。

あら、珍しい。この手の映画はいつもどこかしらクサすあなたが誉めるんて。どこが評価の焦点だったの?

もちろん、あの女優のクサい演技だ。

ああ、あの女優ね。

そう、あの女優。名前を言っちゃうと謎解きに近くなっちゃうからこれ以上は言えないんだけど、あの女優の小さな顔の大写し。

お前は顔の筋肉のエクササイズでもしているのか、と思うほど自在に変化する表情。それをアップで延々と写すカメラ。

素に戻れば、何やってるんだろう、あたし、と思うところを、全身全霊をこめて演じきってしまう女優魂。

「カット!」の声もかけずにフィルムに残してしまう監督魂。

こういう、いびつに力のこもった瞬間があるかないかが、映画的な映画かどうかを分けてしまうような気がするんだよなあ。

意味わからないけど、このごろ、そんなことばっかり言ってるわね。

ああ、最近いつも引き合いに出して申し訳ないけど、映画の構えとしては申し分のない「
沈まぬ太陽」にはそれがなく、構えの小さい「
母なる証明」にはそれがあったような気がする。

でも、この映画、話は、戦後・裏日本・断崖絶壁のミステリー三題話。古くからある超定番のシチュエーションよ。

こら、裏日本なんて言うな。差別だぞ。

そんなこと言ったら、あなたの知り合いの“裏田”さんは、どうなっちゃうの?

ああ、そういう名字の人もいたな。でも、それとこれとは、話が別だ。

じゃあ、戦後・北陸・断崖絶壁の三題話。いまどき、テレビのミステリーでも使わないようなシチュエーション。

原作が松本清張だからな。

しかも、たいしたトリックがあるわけでもない。

誰が何のきっかけでそのトリックを見破ったのかもよくわからないし。

そう考えると、物語の焦点は、そこにはない。

ゼロの焦点。松本清張らしく、事件をめぐる人々の悲しい運命に視点がおかれている。

その底にある社会的背景。

戦後という時代が事件をつくったってわけだ。それだけに、映画でも戦後という時代色の再現には細心の注意を払っている。

風景や暮らしぶりの仔細な再現を越えて、この映画を観ていて、まるで昔の映画そのものを観ているような錯覚に陥ったところもあったもんね。

ある意味、古色蒼然なんだけど、それがいまや、立派な時代劇に見える。

戦後は遠くなりにけり。

そう、時代劇を観るような感覚で観られる現代劇。

だから、大見栄をきるようなオーバーな表現とか、一天にわかにかき曇るようなシーンがあるのね。

若気の傑作「二人が喋ってる」から始まった犬童一心監督の映画も成長したもんだ。

原作が松本“せいちょう”だけにね。

おー。そんな冗談言うとは、お前も成長したな。

堕落しただけよ。

この記事、まあまあかなと思ったら、クリックをお願いします。

ふたりが乗ったのは、都バス<草63系統>
池袋駅東口⇒豊島区役所前⇒上池袋一丁目⇒上池袋三丁目⇒上池袋四丁目⇒堀割⇒西巣鴨⇒新庚申塚⇒巣鴨四丁目⇒とげぬき地蔵前⇒巣鴨駅前巣鴨駅南口⇒本駒込六丁目⇒千石一丁目⇒本駒込二丁目⇒白山五丁目⇒東洋大学前⇒白山上⇒
駒込千駄木町⇒千駄木一丁目⇒団子坂下⇒千駄木三丁目⇒道灌山下⇒西日暮里駅前⇒西日暮里五丁目⇒西日暮里一丁目⇒荒川四丁目⇒荒川三丁目⇒荒川区役所前⇒荒川一丁目⇒大関横丁⇒三ノ輪駅前⇒竜泉⇒千束⇒西浅草三丁目⇒浅草公園六区⇒浅草一丁目⇒浅草雷門
…って、すみません、一般人にそんな機会なさそうです。