【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「潜水服は蝶の夢を見る」:春日二丁目バス停付近の会話

2008-03-08 | ★都02系統(大塚駅~錦糸町駅)

学校の校門が並んでいる風景を見ると、この時期、卒業の頃が思い出されるわ。
おや、お前にも卒業なんて頃があったのか。
当たり前じゃない。早く窮屈なセーラー服を脱ぎ捨てて、蝶のように美しく変身したいって願ったものよ。
そうか。蝶になるはずが、蛾になっちゃったってわけか。
失礼ね。夢見るくらい自由じゃない。
「セーラー服は蝶の夢を見る」ってか。
「潜水服は蝶の夢を見る」とはちょっと違うけどね。
当たり前だ。美醜の違いはあっても五体満足な人間が見る蝶の夢と、半身不随どころか全身不随の人間が見る蝶の夢とは比べること自体、不遜だ。
「潜水服は蝶の夢を見る」は、ファッション誌ELLEのやり手編集長だった男が、脳梗塞でまばたき以外何もできない寝たきりの存在に陥ってしまった中で、そのまばたきを合図にして自伝小説を書き上げる物語。実話だっていうから驚くわ。
たとえ肉体は潜水服を着せられたように不自由でも、人間には想像力があるじゃないか、蝶のように自由に夢見ることはできるじゃないか、っていう話なんだけど、決してお涙頂戴じゃなくポジティブに描いているところがいい。
もちろん、楽しい内容じゃないけど、同情とか、悲嘆をあおるんじゃなくて、何か一筋の光を与えてもらったような気分になる。
おかしなたとえかもしれないが、彼が必死にまばたきをして、それを合図に編集者が筆記をして小説を完成させていく姿は、ヘレン・ケラーがとうとう「WATER」ということばを発するまでの姿を思い出してしまった。
人間の力っていうやつかしら。
まばたきする左目の眼力にはすさまじいものがある。
全身で生きることを表現できない分、まばたきだけで生きることを表現しようとしたら、ああいう壮絶な目になるのかもしれないわね。
けれど、結局、彼は小説が発売されて10日後に死ぬ。
でも、それも、字幕で処理するだけで、愁嘆場はつくらない。理知的な映画よね。
理知的?俺たちにいちばん足りないものだな。
それだけに、いっそう感心するのよ、単なる凡人は。
そこが複雑な気持ちになるところで、凡人は、もっともっと生きていてほしかったという気持ちと、ひょっとしてこれでよかったんじゃないかという気持ちが人情として交錯してしまう。
ずうっと生きていたら、「海を飛ぶ夢」みたいな展開になったかもしれないわね。
あの映画のように、自ら死を選ぶべきかどうか悩む時期が来たかもしれない。
「海を飛ぶ夢」は、死を選ぶ自由は残されている、死を選ぶことは生きることだ、と尊厳ある死を選ぶ男の話だった。ああいう生き方も立派だと思うわ。
二本の映画を並べて思うことは、どんな形にしろ、何を選択するにしろ、人間には必ず自由が残されているってことだ。
蝶のように美しくなりたいなんてのん気なことを考えるのもいいけど、蝶のように自由に生きるとはどういうことなのかも、ときには考えてみなくちゃいけないわね。
そう、蝶のように美しくなるのはお前には無理かもしれないが、蝶のように自由に生きるのは誰にだってできるはずだ。
どうせ、私は醜い蛾ですよ。
それでも、俺は好きだぜ。
な、なによ、いきなり。
人がみな、いとおしく思えてくる映画だったってことさ。


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