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「藤沢周平 半生の記」藤沢周平著 ”藤沢周平氏の作品の人の情は、藤沢周平さんの人生から来ている”

2024-04-13 15:58:44 | 本の紹介
・さいわいなことに人生にはいずれ終りがあり、数数の悔恨の記録もやがては空無に帰するだろう。せっかくそういうありがたい救済にめぐまれているというのに、わざわざ悔い多き生涯を描き残るのは愚かである。
 といったように自伝めいたものを書くことについて、私の気持ちは大方否定的にしか働かないのであるが、ただひとつ、あれだけはどうも歩いてきた道をひととおり振りかえってみないことにはわからないかも知れない。と思う事柄がある。それは私が小説を書くようになった経緯、もっと端的に言えば、どのような筋道があって私は小説家になったのだろうかということである。

・私も出来れば登校拒否をしたかったのだが、母親が、子供には教育が必要という断固とした信念の持ち主だったために、学校の先生より母親がおそろしくて学校を休めなかっただけである。

・もともと私は本好きで、家の中では本さえあれば静かにしている子どもだったようである。

・宮崎先生は、午後の授業をつぶして、V・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を読んでくれるような教師だった。また作文を書かせ、それを一人一人に返すときはかならず末尾に朱筆で感想と指導の要点を記して返した。私はふつうの授業時間はほどほどいやだったけれども、作文(綴り方)の時間は好きだった。声を出さずに済み、また末尾の感想でほめられることが多かったからであす。
 宮崎先生のこうした教育は、それまでの私のとりとめのない活字好きを、明確に小説好きに替える鍵の役割をしたような気がする。私は家の中の本を手あたり次第に読むようになった。

・昭和17年の3月に私は村の学校の高等科を卒業し、四月から鶴岡印刷株式会社で働きながら、夜は鶴岡中学校の夜間部に通うことになった。親を説得し、向学心に乏しい私の尻を叩いて、半ば強引に進学の手つづきをすすめたのはむろん佐藤喜治郎先生だった。先生はそのあと間もなく招集され、戦死された。
 私は先生の配慮に感謝しただろうか。私が、あのときもし進学していなかったら、と考えたのはごく近年のことである。軍国主義者呼ばわりされながら教師としての目配りを忘れなかった佐藤喜治郎先生の誠実さと私の傲慢さが、四十年たってはじめてありありと見えてきて、その夜私は身動きもならず座りつづけたのであった。

・私はたった一年で鶴岡印刷を退職して、生まれた村の役場の職員になった。

・進学を考えた学校は県内の山形市にある山県師範学校で、これもすぐに決まった。村役場の仕事に格別の不満があったわけではないが、私はもっと社会的にひろがりのある仕事をしたかった。いい先生になって子供たちをそだてようと思った。そう思う心の中には、尊敬おくあたわざる小学校の先生の姿や、松下村塾のことなどもあったはずである。教師という職業は、若い私には漠然としかわからないものの人間の可能性を引き出したり、発見してのばしたりすることで子供が少しでもしあわせになれる方向にみちびく、やり甲斐のある仕事のように思われた。

・山形の三年間をひと口に言えば、一年のときはまじめに勉強したが、二年から先は授業をサボって小説ばかり読んでいたと要約することが出来るだろう。・・・
 それでもそのために落第することもなく、私は昭和24年3月に無事に山形師範を卒業し、勤務地に赴任した。私は21歳だった。赴任した学校は隣村の湯田川中学校である。

・万事好調にすべり出したかに見えた2年目の終わりの春に、私は思いがけなく肺結核が発見され、3年目になるはずの新学期から休職して治療にはげむことになった。私の長い不運な歳月のそれがはじまりだった。

・私の安静度は三度だった。手洗いと洗面に行くほかは原則として横臥静養すると、手渡された印刷物に書いてある。

・手術は三回、右肺の上葉切除につづいて、手術した側の肋骨を計五本切り取る補足整形手術が二回である。うまくいけば最初の一回で済むはずだったので、私の手術はあまりうまくいかなかったことになる。手術も二回目までは余裕があったが、三度目の手術を告げられたときには私は疲労の極に達していて、どうなることかと思った。

・私は業界新聞社に一年半ほどしかいなかった。…私は結局営業の人たちと一緒に新聞社をやめ、つぎにはもっとわるい新聞社に移った。

・昭和34年8月に、私は三浦悦子と結婚した。・・・
 ところが長女が2月に生まれたその年の6月ごろから、悦子は体調を崩し、腹痛を訴えてすぐそばの病院に通ったものの、なかなか治らなかった。・・・不安に駆られた私は以前住んだ練馬・富士見台の医師に紹介してもらって、東京・本郷の日本医科大付属病院に悦子を入院させた。そして精密検査があったあとで、予想もしなかったガンを宣告されたのである。そのときの顔から血が引いて行った感触を、いまも忘れていない。担当の医師は、信仰のはやいガンで治療不能だと言った。・・・しかしそれからふた月ももたず、昭和38年の秋に悦子は亡くなった。28歳だった。

・しかし胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかに吐き出さねばならないものだった。そしておそらくはそのことと年月による慰謝が、私を少しずつ立ち直らせて行ったに違いない。昭和44年1月に、私は現在の妻高沢和子と再婚した。私はそのころ病弱な老母と幼稚園に通う娘をかかえて疲労困憊していた。再婚は倒れる寸前に木にしがみついたという感じでもあったが、気持ちは再婚出来るまでに立ち直っていたといことだったろう。

・小説は怨念がないと書けないといわれるけれども、怨念に凝り固まったままでは出てくるものが小説の体をなしにくいのではないだろうか。再婚して家庭が落ち着き、暮らしにややゆとりが出来たことに、私は一篇のこれまでとは仕上がりが違う小説を書くことが出来た。『溟い海』という小説がオール読物新人賞を受けたとき、私はなぜか悲運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった。
 しかしこのとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。その後のことは成行きとしか言えない。

・先妻と死産の子供の骨を納めた墓は、高尾の墓地群の一角にある。すべて同型同規模と定められた墓である。そこに時々お参りに行く。墓を洗い、花と線香を上げてから家内が経文をとなえる。お参りが済んで墓前の芝生でそなえた菓子などを食べ終わると、私は立ち上がる。墓地は岡野中腹にあって、そこから八王子の市街や遠い多摩の町町が見えるが、風景は秋の日差しに少し煙っている。
 私と結婚しなかったら悦子は死ななかったろうかと、私は思う。いまはごく稀に、しかし消えることもなくふと胸にうかんでくる悔恨の思いである。だがあれから三十年、ここまできてしまえば、もう仕方がない。背後で後始末をしている妻の声が聞こえる。二十八だったものね。かわしそうに。さよなら、またくるからね。私も妻も年老い、死者も生者も秋の微光に包まれている。

感想
その頃の自分の心境を、藤沢はこう述べている。
「三十代のおしまいごろから四十代のはじめにかけて、私はかなりしつこい鬱屈をかかえて暮らしていた。鬱屈といっても仕事や世の中に対する不満といったものではなく、まったく私的なものだったが、私はそれを通して世の中に絶望し、またそういう自分自身にも愛想をつかしていた。(中略)(そういう鬱屈の解消方法が)私の場合は小説を書く作業につながった。「溟い海」は、そんなぐあいで出来上がった小説である。」
—(「溟い海」の背景)

 藤沢周平氏の作品はほとんど読んでこなかったです。
時代劇の作品が多いからかもしれません。
ところがBS放送で藤沢周平氏の作品のドラマが時々あり、なんともいえない、人と人との情愛が見事に描かれていることが多く、それでその作品などを借りて読み出しました。

 『松本清張 半生』を読もうと思い、”半生” 検索すると藤沢周平さんの作品が出てきて、読んでみたいと思いました。

藤沢周平のペンネーム(ウイキペディアより)
「藤沢」は悦子の実家のある地名(鶴岡市藤沢)から、「周」の字は悦子の親族の名から採られている。

 藤沢周平氏の作品は、若くして亡くなった妻と一緒に創り上げている気持ちをペンネームに込めておられるようです。

 結核、入院、手術と大変なことがありました。
またいろいろな人との出会いが、藤沢周平氏を育ててきたように思いました。
 まさにそういった人生があったからこそ、何とも言えない人の優しさや情を素晴らしい言葉で奏でているように思います。
 またその病気や手術が兵士として戦地に行かされなかったことで命をつながれたのかもしれません。
「塞翁が馬」「禍福は糾える縄の如し 」
大切なことは大変なことをどう乗り越えるか、どう受け止めて頑張れるかなのでしょう。

 師範学校 ウイキペディアより
師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割も果たしていた。 
高等師範学校は、東京高等師範、広島高等師範、金沢高等師範、岡崎高等師範の4校でその後、全国に師範学校が出来ました。
 叔父が岡崎高等師範卒でした。
いま改めて師範学校のウイキペディアを見ると、授業料免除、生活費補助とお金のない人に学校の先生になる機会を与えていたようです。
貧しくても学ぶ機会がありました。
今はそれが乏しくなっているようです。
 高校の生物の先生が広島高等師範卒でした。
そこで原爆の被害に遭って生き残ったと授業中に話されていました。
生物の先生だったので、自分で定期的に白血球を数えていると話されていました。
とても頭の良い先生でした。
 かつユニークな先生でした。
生物の授業で質問を指名で受けて、答えると次から次と質問され、なぜ私ばかりにと思ったら、最後に一言呟かれました。
「兄貴よりは頭が良いな!」
と言われたことを今でも覚えています。
兄は4つ上で同じ高校で同じく先生から教えてもらっていました。

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