幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ」信田さよ子著 ”カウンセリングに新たな視点”

2024-04-16 14:04:04 | 本の紹介
・性的DV
 妻を殴る蹴る、物を壊すといった身体的暴力をDVと呼ぶことへのためらいが減り、多くの男性識者がテレビの画面から「今でいうDVですが・・・」と表現する時代になった。しかし、それ以外の隠微なDVについては不可視のままである。以下に代表例を紹介しよう。
 ①強制されるセックス
  性交渉を妻に強制する。いやがる妻にレイプまがいのセックスを強要するといった行為に代表される。一見したところ問題のない夫婦に見えるが、過去に妻がセックスを拒んだ際に身体的暴力をふるわれたり、「お前は女じゃない」「浮気をしてもいいんだな」「させてもらえるだけでありがたいと思え」・・・といった暴言を吐かれたりしたために、その次からル間があきらめて応じている例は多い。
 ②避妊への非協力
  第一子出産後間もないB子さんが避妊を頼んだにもかかわらず、夫が協力してくれなかったので、彼女は年子をみごもることになった。それから二十年経ち、四十代後半の彼女は夫からのDVを理由に離婚調停中だが、あの瞬間に夫にはっきりと避妊をしてほしいと要求できなかった自分を今でも責めている。

・想起後に訪れる困難
 彼女たちは、少しずつ言語化し始め、それを話しても安全だと思える他者に向かって自らの経験を語る。語りながら、遡及的に自分の置かれていた状況の残酷さを再確認するのだ。それは、次の四点にまとめることができる。
 ①絶対的孤立感
  「テレビでイラクの戦火の中を逃げまどう子どもたちを見たとき、こころからうらやましいと思った」
  彼女たちは、しばしばそう語る。一見平和な日本よりイラクのほうがまし、という荒唐無稽な甘えからではなく、この言葉が伝えているものは、絶対的孤立感の残酷さである。
  戦火であれば、多くの被災者が存在する。時にはかばってくれれる親もいるだろう。ところが、平和な日本の家族愛に満ちているはずの集団において行使される虐待には、「仲間」は存在しない。
 ②被害の非文脈性
  「まるで脳みそが飛び出るような、突然交通事故にあったような、手塚治虫のマンガの吹き出しのような、そんな経験でした。いまだからこそ、そう表現できます」
  ある女性はこう言った。おじから三歳時に股間を舐めれた記憶がよみがえったのは、中学校に入ってからだ。・・・
  多くの被害者は、その非文脈性を「自分が変な子だったから」「自分が悪い子だったから」という究極の文脈化によって抱え込む。それによって、文脈化できないものはないからだ。しかし、あらゆる経験をそこに詰め込んで文脈化することは、自己否定感、存在の無意味感を同時に発生させる。この感覚は、伏流水のように緩慢な自殺願望として存在し続ける。
 ③罪悪感
  性虐待は、苦痛を感じる場合もあるが、被害児自身がなんらかの快体験を得ている場合が多い。加害者の性器接触に伴う快体験の記憶は、想起後、もっとも被害者を苦しめるものである。
 ④自己不信(自分の記憶に対する不信)
  記憶の一部が想起されたとき、同時に浮かぶのが「これですべてなのだろうか」「ひょっとしてまだ思い出していない記憶があるのではないだろうか」という考えである。これまでないと思っていた記憶が想起されると、今ある記憶への不確かさも生まれる。

・サバイバルの過程
 このような性虐待に伴う苦痛・苦悩の中を、被害者たちはそれでも生きていく。生半可なプロセスではなく、まさにサバイバルというに値する。それには、多くの技が必要だ。・・・彼女たちの回復に向けてのプロセスから学びつつ、性的虐待被害者のサバイバルの過程を三段階に分けて述べる。
 ①身体と自己の切り離し
  彼女たちは身体を邪魔なもの、時にはないものとして生きる。・・・
  「この私の生身の身体があるから、殴られたりレイプされたりするのだ」「私にとって身体は不快なものでしかなかった」
 ②身体を取り戻すために(自分に対する暴力)
  彼女たちは、次に一度切り離した身体を取り戻そうと試みる。その代表的な手段が自傷行為と摂食障害である。・・・
  自分の身体であることを痛みによって確認でき、いつでも容易に傷痕を確認できる場所であることも重要な要素だろう。・・・
  そのようにして、自らの身体を完膚なきまでにコントロールし、痛めつけることでしか、彼女たちは自分の身体を取り戻すことができないのだろう。
 ④自分と身体を統合させる
  このサバイバルに必要なものがグループであり、仲間の存在である。家族に傷つけられ、身体を切り離さなければ生きて来られなかった彼女たちは、家族以外の人間関係を得ることで生き直すことができるのだ。

・日本のジェンダー公正を表す指数は、2020年121位/153か国となっている。2006年の最初の調査時には79位だったことを思い起こすと、この転落は驚くべき状況だ。

・私と上野千鶴子さんとの対談本『結婚帝国・女の岐(わか)れ道』は、福井県の生活学習館の図書スペースから真っ先に排除された事実がある。これは「福井県焚書抗儒事件」などと呼ばれた。その際のPTには元防衛大臣稲田朋美も加わっていた。日本会議に象徴される、現在に至る反動の流れにつながることはいうまでもない。

・ファシリテーターとして必要な態度 
 約7年グループを実施してきたが、必要な態度は次のようにまとめられる。
 ①明快な口調と優先順位の確認
  彼女たちは実に多くの困難と課題を乗り越えなければならない。逃げる、家を出る、調停を申し立てる。陳述書を書く、調停、裁判、さらに離婚成立後の様々な困難やPTSTなど。目前の課題に集中するように、先を見通さないよう、三か月以内のことしか考えないように時間を限定しなければならない。
 ②命令ににならないようにあくまで提案に徹する態度
  依存の一極集中化を避けることが重要となる。長年の被害経験で心身ともに弱っている参加者にとって、全面的依存は魅力を持つがゆえに、明快でありながら極力、指示的で命令的発言は避けるべきである。
 ③希望を示す
  人生でもっとも大きな選択をしたことを称賛し、持てる力を承認。・拡大する。
 ④自責感の払拭
  彼女たちは、夫を怒らせたことが自分の責任でるという「加害者意識」を抱いており、それは一般常識の被害者論(されたほうがにも悪いところがある」と呼応する。

・面前DVという言葉の登場によって、父のDVが娘はもちろん、息子に深い影響を与えることが説明可能になった。DV被害者の立ち位置の足を掬う役割だけでなく、DV加害はパートナーのみならず、その場に居る子どもたちが未来に形成する家族にも影響を与える。それが明らかにする言葉として、面前DVを理解する必要があるだろう。

・家族療法の脱因果論は何を提示しているのか、それは循環論である。直線的因果から円環的循環論への転換である。家族が問題が起きているとき、そこにどのような悪循環が生じているのか、どこで循環を止めるのか、一番止めやすい部分を指摘し、それによって悪循環をブロックするのだ。

・精神分析的心理療法が中心だった日本の心理臨床学会が大きく変動するきっかけは、1995年のスクールカウンセラー(SC)制度の導入だった、・・・
 残念ながら、一部の私立学校を除いては週一回勤務が多いのが現状である。しかし、閉じられた学校という制度にSCが導入された意味は大きい。いわば唯一の外部が、たった一名・週一回の勤務であったとしても、そこに存在する意味は大きかった。
 時給も高額であった。当時、学会や臨書心理士会の中心を担っていた大学の教員(臨床心理学専攻)が出かけて行くという、高度な専門性に鑑みて決定された金額だった。

・結果的には、きわめて現実的な対応が求められることで、これまでの精神分析的なアプローチに加えて、別のアプローチの必要性が共有されることになった。
 そこでいったい何ができたのだろう。心理療法や子どもに対する面接がどれほど効果をあげただろうか。学校側にっても、医者でもない人たちが「学校という世界の片隅」に入ってきたことに戸惑ったのではないか。・・・
 現在では、SCの多くが直面するのは、不登校やその背後にあるゲーム依存の問題、そして飲酒問題、親からの虐待、親のDV目撃などだ。また、大きな災害や事件の後に子どもの心のケアをする役割も担っている。

・文脈化とは、あたかも作家が物語を創作することに似ている。語られたプロットのリアリティを損なわず、どのように断片をつなげていくか、つなげるにあたって何を接着剤として用い、類似の先行する物語をどのように検索するか・・・。そして何より、物語は必ず類型を必要とするものである。ゼロから立ち上がる物語などない。文法しかり、語法しかり、そして起承転結といった形式も一種の範型(フォーマット)である。
 カウンセラーの実力をどのように測るかという論議はあまり気紀しないが、あえて述べれば、この範型が豊かであるかどうかにかかっているのではないか。
 ある文章にこんな一節があった。うろ覚えだが、「人の話は、結局、聞く側の身の丈以上の聞き方はできない」といった内容だったと思う。範型の豊かさとは、要するに身の丈がどの程度の高さであるかということだ。

・だからこそ、私たちカウンセラーは、何より家族にまつわる範型を豊かにしなければならない。

・カウンセリングの基準の一つが、生命維持である。一般的には、こころの問題を扱うと考えられているカウンセリングだが、そうではない。少なくとも、私たちのカウンセリングは違う。絶えず生命の危機と対峙しなければならない。暴力をふるう息子からどのように母を守るか、今日にでも処方薬を大量服薬するかもしれない娘の命を守るために母に薬の管理を徹底させる。マンションから飛び降りるかもしれない娘のために母親はどのような言葉掛けをすればおおかを提案する、とったようにである。

・彼女にとって、カウンセリングは一種のアジールであった。ある人は「解放区」と呼ぶ。

・私はこう考えている。原因としての親ではなく、子どもの問題行動をなんとか修正していくのにもっとも大きな力を発揮できる方法が家族(親)なのだ、と。なんとか変わろうと努力するのも親である。だらか、本人を無理やり病院に入れるのではなく、親を対象としたカウンセリングに力を集中していくほうが結果的には着実な変化を生み、近道になるのだ、と。・・・
 「原因」といわれるものは、事後的にその出来事が希望どおりに変化した時点からふり返って構築するものなのだ。

・心理学から政治学へのパラダイム転換である。家族はこのようにして政治的な(ポリティカル)に解釈されることで、変革の可能性、起動点が見えてくると思う。
 まず行うことは、あいさつの励行である。・・・
 私たちは、家族に対して徹底的に、まず「私」を主語にした会話をすすめる。関係の変革は、すべて会話から始まるといっても過言ではないからだ。
 心を込めるのではなく、「あなたのことを大切に思っている」と言葉で伝えること、愛情でいっぱいにするのではなく、「あなたの言葉でお母さん、ほんとうにうれしかったわ」と伝えるのだ。家族は「いわずもがな」「以心伝心」ではない、多くは同床異夢、すれ違い、立体交差の関係に満ちている。だから「心ではなく型から入る」を強調したい。

・下方比較によって生まれるものはたしかにある。被災地のことを思って、苦しい現実を耐えた人もいるだろう。日本の常識は、下方比較をむしろ称揚することのほうが多い。
 しかし、もともと自分の存在基盤が危うくなったときに下方比較は生じるので、それによって得られる満足感は脆弱で長続きしない。それを補償するものが、妙な平等倫理である。自分がこんなに我慢しているのに、なぜあの人だけが許されるのかという不平等感が他者引きずり下ろし、パッシングに向かわせる。「自粛」という名の強制は、まさに相互監視社会のミニチュアを見る思いだ。

・「被害者救済」と、スローガン的に叫ぶのは実に簡単である。しかし忌むべき、唾棄すべきと考えられがちな加害者について深く知ること、それによって加害者像を構築できることこそが、大きな喪失と世界観の分裂・崩壊にまで至らしめられた人たちが求めているものなのではないだろうか。

・「暴力」概念の登場と法律制定から、約20年経って明らかになってきたのは、治療者・援助者の姿勢が三つに分かれつつあるということだ。 
 ①暴力行使そのものの犯罪性を告発する立場
  ⇒被害者支援 ⇒加害者プログラム
 ②暴力の被害を病理化・心理学化することで、従来の専門性の中に取り込んでいく
  ⇒トラウマ概念とPTSD(レジリエンス)
 ③暴力そのものから距離をとり、治療援助の対象としない 

・被害者を真に支援・ケアするためには、加害者へのアプローチは必須であり、省庁横断的な発想、かかわりが求められ、弁護士や外部機関との緊密な連携を伴わなければならない。筆者は長年のアディクション臨床の経験からそのような現実と向き合い続けてきたが、それによって家族が崩壊を免れた事例は多い。加害者へのアプローチとはどのようなものか供述しよう。
 ①グループの力の活用と尊重し合う雰囲気づくり
 ②彼らの暴力は否定するが人格は尊重する
 ③責任の二重性と情報公開の片務性
  加害者プログラムの第一義的目的は「被害者の安全確保」であり、目の前にいない被害者が真のクライエントなのだ。
 ④被害者を病理化・医療化する傾向
 ⑤レジリエンスという反作用概念
 ⑥被害者とは、レジスタンスを行っていいる人たちだ

・『生き延びるための思想』上野千鶴子著
「プライバシー原則とは家長という私的権力の支配圏に対して公的権力が介入しないという密約の産物ではないのか」

・DV被害からの回復とは、被害者という自己定義を脱することを意味するのだ。

・カウンセリングで、一番大切なことは共感だと教えられるようだ。幸い、そのようなトレーニングを受けて来なかった私は、長いカウンセラー生活において、いつも感じるより考えることを優先してきた。不可解な現実や説明不足な事態を前にして、いつも「これはどうして起きたのだろう」「どのように表現すればいいのだろう」と考えることが中心だった。

・ときどき私のことを、カウンセラーなのに理屈っぽいなどと評するひともいる。だが、家族で今起きている、微細な具体的かつ個別的なできごとが歴史的で構造的な背景を持っていることに気づき、知ることなくして、私たちは他者とつながれないのではないかと思う。

・本書のタイトルは、DVや虐待にかかわってきた私に最大のパラシフをもたらしたフレーズである。・・・個人化や病理化に意味がないとは言わないが、DVや虐待について、自分なりにブレークスルーできたのは、国家の暴力と家族の暴力が構造的に相似形だと知ったからだ。

感想
 信田さよ子さんの視点はいろいろ考えさせられました。これまで私が読んできた本にはあまりなかった視点でした。
 考えることが大切とのこと。哲学科を卒業されてから心理、カウンセリングを学ばれたようです。
 ”共感”に拘るのではなく、相談者の苦しみや困難、解決方法を一生懸命考えることなのでしょう。そのためになぜそれが起きているのか、その状況も含めて考えることと理解しました。

 相談者に起きている原因を追究することより、どうすれば相談者を前向きに歩めるようにするかを一緒に考えることにウエイトを置かれているようです。
 これはロゴセラピーの岩礁と同じです。岩礁があり、船が進まない、あるいは支障を来していると、その岩礁を小さくするあるいは壊すことに注力するのではなく、水位を高くすれば岩礁は船の進行に影響しなくなります。

 問題を抱えた人の対応を、家族を国家と捉え、国の問題を国家の立場で解決していくように、家族の問題として考えていくということが現実対応として近道だと言われていると理解しました。きっとこのフレーズが著者のこれまでの多くの体験での対応の構造を言い表すにはピッタシだったのでしょう。また逆にその概念で問題にあたるとこれまでよりよりよいカウンセリングができるのかもしれません。
 経験則を公理にすることで、公理から理解できることが広がります。

「人の話は、結局、聞く側の身の丈以上の聞き方はできない」
その通りだと思います。
ロゴセラピーでは心理療法としてのロゴセラピーを人に伝えるためには、先ずはロゴ的に生きているかどうかが問われます。ロゴ的に生きようとしない人には、ロゴセラピーを相手に伝えることは難しいと考えます。

 相手の気持ちを考えよう、共感しようと言っている人の中に、メールを送っても受け取ったとの返信が無い人がいます。
 頼まれて報告書をまとめて送ったのに、「ありがとう」も「受け取った」も無い人もいます。メールは相手に届いたかどうか、相手が確認したかどうかが大切であり、送った方はとても気になります。そのとき「受け取りました」の返信が届くと安心です。ところがそれがないと、とどいたのだろうか?/見てもらえたのだろうか?との不安を抱えます。相手にその不安を抱えさえて、相手の気持ちを考えようというのは、自分が逆の立場ならどうなのかということすら考えようとしないのかもしれません。
 それは頭で心理療法を理解しているけれど、自らの行動まで”共感”が伴っていないのかもしれません。

 加害者へのアプローチは新たな取り組みのようですが、重要とのことです。
 ストーカーを罰する、被害者から遠ざけるなど、被害者を守ることは重要です。
ただそれだけではなかなか上手く行かないこともあるようです。
ストーカーする加害者は実は問題を抱えている場合が多いようです。加害者の問題を解決しないとまたストーカーを行ってしまったり、相手を殺害して自分も自殺するという極論に至るケースもあるようです。

「紅麹サプリ」はただの食中毒問題ではない…医療関係者が小林製薬の「企業倫理」に激怒している理由 ”医薬品成分と同じなら薬機法違反が問われる!/厚労省はどう考えているのか?”

2024-04-16 09:40:40 | 小林製薬紅麹

 小林製薬の紅麹サプリメントによる健康被害は、なぜここまで深刻化したのか。科学ジャーナリストの松永和紀さんは「医療関係者は、医薬品に相当する成分が入っているのに食品として販売し、摂取を消費者任せにしていたことを問題視している」という――。 

 ■小林製薬の企業倫理を問う  
 紅麹サプリメントによる健康被害の申し出は、小林製薬の厚生労働省への報告によれば、医療機関受診者1381人、入院した人231人、死亡者5人に上っています(4月14日現在)。因果関係はまだ特定されていません。  この問題についてはこれまで、健康に良いとされる「機能性表示食品」の制度的な欠陥、カビ毒の専門家が「プベルル酸とは断言できない」と慎重になる理由の2回にわたってお伝えしてきました。  このままでは、第2、第3の紅麹サプリメント問題が起きかねない、と思います。これから連続して、紅麹問題と、その背景にある機能性表示食品や日本の食の安全の課題などについて整理してお伝えします。  最初は、小林製薬の企業としての倫理、製品倫理を問う話です。 

■医薬関係者の多くが激怒している  
 紅麹問題を取材しているうちに、医薬関係者が非常に怒っていることに気づきました。毒性物質の混入以前の問題として、「なぜ、医薬品と同等とも言える成分を、このようなずさんな形で安易に製造販売していたのか?」「LDLコレステロールを下げる医薬品を摂っていればうんと安全だったのに」と口々に言うのです。  栄養学者や農学者、獣医学者とはかなり温度差があります。メディアの報道を見ていると、どちら側の学者に話を聞いているかで、傾向が異なるように思います。多くの医薬関係者が怒り、小林製薬の製造上の過失以上に、企業姿勢と倫理を問うています。  
 医薬関係者の怒りの理由は、紅麹サプリメントの機能性関与成分「紅麹ポリケチド」にあります。ポリケチドというのは、酢酸-マロン酸経路で生合成される化合物の総称で、この命名は「紅麹が作る化合物」と言う程度の意味合いしかありません。  
 同社は、届出書類の中で「米紅麹のLDLコレステロール産生阻害作用はモナコリンKの作用によるもの」と説明しています。
 モナコリンKは1970年代、遠藤章・東京農工大教授(当時)が紅麹菌の一種であるMonascus ruberから見出した化学物質です。  そして、モナコリンKは別名ロバスタチン。遠藤教授とほぼ同時期にメルク社が見出し、ロバスタチンと命名したために、こんなややこしいことになっています。ロバスタチンは世界保健機関(WHO)が医薬品成分と位置付け、米国やカナダ、オーストリアなどで医薬品として販売されています。日本では、医薬品としては未承認です。

■紅麹サプリの機能性成分の本体は医薬品  
 小林製薬が機能性関与成分とした紅麹ポリケチドは、モナコリンKが見出された紅麹菌とは異なる紅麹菌(Monascus pilosus)で精米を発酵させて作った物質ですが、その作用はモナコリンKによるものと同社が認めています。つまり、これは医薬品相当ではないか? という見方が医薬関係者の間では強いのです。  機能性表示食品制度はガイドラインで、医薬品成分を用いることを事実上、禁止しています。これについて、薬学博士で藤田医科大学名誉教授でもある長村洋一・日本食品安全協会代表理事は、紅麹サプリ問題が起きた後、協会のウェブサイトで緊急に情報発信し、次のように書いています。  「要約すれば健康食品の範疇であるが、有効成分として入っている物質の本体は医薬品である。医薬品が医薬品名で届けたらダメなのに、医薬品を含む総称名なら機能性表示食品の場合OKという事実に私は違和感がある」  同じ成分による作用を活かしているのに、言葉一つで医薬品になったり機能性表示食品になったり。製薬会社でありクスリを用いることの難しさと利点をよくわかっていたはずの小林製薬が、こうした手法を使ってサプリを販売していたこと自体に、医薬関係者は憤っています。でも同社だけの手法ではありません。長村代表理事は「機能性表示食品には同じように医薬品を含んでいて総称名で届け出が受理されている物が他にもある」と書いています。 

■「根本的に安全性の概念がわかっていない」  
 健康食品の問題を長年検討し、著書『「健康食品」のことがよくわかる本』(日本評論社)も出版している立命館大客員研究員の畝山智香子さんも、同じ点に注目します。  さらに、医薬品ロバスタチンの海外での処方量が1日10mgであるのに対し、小林製薬がほぼ同じ効果を自認する紅麹ポリケチドの摂取量を1日2mgとして販売していたことを指摘します。「医薬品に近い効果を示す量を含むモノを、食品として売っていたところに、悪質さを感じざるを得ない。根本的に安全性の概念がわかっていない」と批判するのです。  医薬品は、効果を目的に副作用に気をつけながら、量を定めて摂取するものです。要するに、“効くものは危ない”。だからどんな人が、どの程度の量を摂取するか、というのが非常に重要です。  処方薬は、医師が患者の健康状態、疾病の有無などを踏まえて処方し、通常は4週間後に診察し、効果と副作用を確認します。  一方、食品は副作用を覚悟しながら食べるものではありません。食品には多種多様な成分が含まれ、人はそれを全部把握できているわけではありません。加えて食品は、摂取するのかしないのか、摂取する量や期間も、消費者に任されます。 
・・・

感想
 医薬品成分であれば、海外で医薬品で日本では未承認であっても、それを販売することは薬機法違反になります。
 ところが厚労省はそこまで踏み込んでいません。

 実際効果をうたっている成分は海外で医薬品として販売されている成分と化合物が同じなのかどうか。ぜひ、マスコミは確認していただきたいです。
もしそうなら、厚労省に「小林製薬の紅麹サプリメントは薬機法違反になるのではないか?」と尋ねていただきたい。
 またまったく同じでなくても類似の骨格を持っていても問題になると思います。
”脱法ハーブ”に近い位置づけになります。