幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「松本清張 半生の記」松本清張著 ”松本清張氏の作品は多く読みましたが小説家デビューするまでは知らなかったです”

2024-04-12 19:00:38 | 本の紹介
・私の幼時の両親への記憶は、ほとんど夫婦喧嘩で占められている。

・両親は絶えず夫婦喧嘩をした。母が先に死ぬまで変わりはなかった。別れることもできず、最後まで暮らしていて、母が先に死ぬまで互いに憎しみを持ち続けていた。

・父に家を出られたあと、母と私とは隣の蒲鉾屋に一時厄介になった。そこでは母は女中代わりのようなことをして働いていたが、私はその家の息子たちから白い眼を向けられた。その一家は自分たちで食い散らした魚の骨をもう一度ごった煮て吸物にし、母と私にのませた。母はかげで涙を流した。

・私は父が深刻に悲しんでいる姿を見たことがない。いくらか困っていたのは借金取りにねばられているときだけだった。
 母はいつも何かと苦にしなければ承知できない性格(たち)だった。その頃、父はもうまじめになっていた。もっとも、貧乏してそこまで落ちてしまえば、どんな女からも相手にされないわけだ。

・私は初め新聞社のようなところに入りたかった。

・のちにその(高等小学校を卒業して入った)川北電気が不況で解散になり、私が失職したときだから、18の年だった。

・年老いた地方新聞『鎮西報』社長は鼻で笑って相手にしなかった。新聞記者というのはみんな大学を出ている。君のように小学校しか出ていない者は、その資格がないといっぺんに退けた。その通りなのだが、そんなふうに私は小さいときから新聞記者にあこがれを持っていた。

・その頃の辛さといえば、中学校に入った小学校時代の同級生に途上で出遇うことだった。

・当時、芥川は短編集をつづけて出していた。その短編集『春服』『湖南の扇』など、銀行などに使いに行って椅子に腰かけて待つ間のひまに、貪るように読んだ。

・その頃の私はかなり前途に望みを失った気持ちだった。

・今から考えると、16~18までの一ばん感覚の新鮮な時代、暇を見つけては雑読したことが、今日ではかなり役に立っているように思う。

・19の年、私は何もしないでぶらぶらした。職を見つけるにも雇ってくれるところが無かった。その原因の一つは、私が小学校しか出ていないこと、年齢的に中途半端だったこと、筋肉労働には身体が虚弱すぎることなどであった。

・そのHの仲間に八幡製鉄所の職工数人がいた。いずれも私よりは7つか8つ年上の男で、彼らは実際に小説を書いていた、。そんなことから私はこういう人たちとつき合うようになり、ときどき自分の書いた短いものを見せたりなどした。

・私は高崎印刷所の見習職人となった。石版というのは生まれて初めて見るくらいで、何をしていいのかさっぱり分からない。・・・
 私は普通の石版職工にはなりたくなかった。そこで、ここで働いていてもとうてい画工の仕事は覚えられないと思い、画工上がりの職人がやっている小さな石版印刷所にあらためて見習いに入ることにした。新しく移った小さな印刷所の主人は、はじめて基礎から版下のかき方を教えてくれた。同時に広告図案というものに初めて目がさめた。私は油墨で版下をかくよりも、泥絵具などを使って俗に「スケッチ」と言っている原画をかくのがずっと楽しかった。・・・
 そのうち私の師匠格である主人がマージャンに凝りはじめ、仕事を放擲(ほうてき)するようになった。仕方がないので、私が版下をかき、図案も受け持つという羽目に追い込まれたが、これが仕事を早くおぼえさせたようである。

・前にも書いたように、悪寒を覚えてから肺炎になり、家で寝込んだ。かなり重かったが、入院もできず、自宅療養でどうにか危機を脱した。今のようなペニシリン療法のないときだから、肺炎の死亡率は相当高かった。

・私は何とかして一家の生活だけは確立したかった。そのためには職人として一人前の給料がとれるように焦った。小倉の小さな印刷所にいては私の腕は上がらないので、その頃、九州で一ばん大きい博多の島井オフセット印刷所に移った。

・私がアカの嫌疑で小倉署に逮捕されても、印刷所の雇主は私を解雇するこはしなかった。

・私はこの妹と結婚したい気持ちはあった。Hも妻も私がそう言いだすのを待っているようであった。しかし、私は自分の収入ではとても家族が持てるとは思えなかった。そのとき、私は26歳だったが、散々見てきた印刷職人の生活不安に結婚の自信を失っていた。・・・
 夏ごろ、妹はその近所の寺にいる青年層と婚約して長崎の寺に去った。
 そんなわけで、私はしぜんと本でも読んでいるほか仕方がなかったが、給料のほとんどを両親に出しているので、高い本は買えなかった。

・私は自分の若いときをふりかえって、いまさらのように愉しみのなかったことに索然となるが、私は自分の生活を早く確立したいことで一心であった。

・そうしたある日、朝日新聞を見ていると、12年2月1日を期して小倉に西部支所を作り、そこで新聞の発行をするという記事が載っていた。・・・
 広告には当然デザインが必要である。もし、そうした版下を描く者を現地で採用するなら、これはチャンスだと思った。
 だが、朝日新聞の名前はあまりに大きすぎた。私のようなものを使ってくれるかどうか分からないし、第一、そんな募集も出ていない。誰に頼んでよいか、そのコネもなかった。しかし、私は諦められなかった。
 そこで、新聞に名前が出ていた支社長のH氏宛てに直接に手紙を書いて出した。こうするよりほか私には方法がなかった。・・・
 Kさんは私の履歴書を眺めた。貧しい学歴と職歴をじろじろと読まれたとき、半分は諦めかけた。Kさんは私のへたな版下図案の原画や印刷物を持って、奥のほうに居る上役のところへ相談に行った。・・・
 ようやくKさんが戻ってきた。「それでは明日から来て下さい」と言われたときは、あんまり簡単なので、少しの間、ぼんやりとした。
 だんだんと話をきくと、私は入社するのではなく、版下一枚についてお金を払うという契約で専属にするというのである。つまり、私がそれまでやっていたように、普通の印刷屋から持ち込んれる版下を描き、その描き賃を貰うのと少しも変わらないのだった。・・・
 Kさんは、それくらいの収入には十分なるよ、と言った。

・私は朝日新聞西部本社で約20年間働いた、はじめの二年間は社外の人間で、その後二年間は嘱託だから正式な社員ではなかった。それで、残りの16年間が「朝日の人間」としての在勤期間である。この間に二年間の兵役が挟まれている。
 朝日新聞社に勤めている間、私は概して退屈であった。生活が最低の線で保障されていたため、一日一日を生き抜いて行くという緊張感を失った。

・あるとき大阪から転勤してきた東京商大出の社員が、「君、そんなことして何の役に立つんや? もっと建設的なことをやったらどないや」と言った。この言葉はかなり私に衝撃だった。
 実際、九州の田舎を回って横穴をのぞいたり、発掘品を見せてもらったりしても何になるのだろう。考古学で身を立てるというわけでもない。生活にそれほどの潤いがつくというほどでもなかった。要するに、将棋を指したりマージャンをしたりすることとあまり変わらないのである。
 だが、建設的なものをもてと言っても、一体、私に何が出来るだろうか。仮に些少の才能があるとしても、それを生かす機会はない。貧乏な私は商売をする資金もなく、今さら、転職もできなかった。このまま定年を迎えるかと思うと私は真暗な気持ちになった。

・私は新聞社に入るまで、安定した生活を得るために自分なりの苦労をした。収入の有利を棄てて社員になったのも、戦争の進行が必ず私を兵隊に狩り出すだおうと予想したからだった。そのことがなくても私は新聞社の社員になったに違いない。その月の収入はあっても、保障されない生活は絶えず不安がある。家族が多かったことも自分を臆病にし、勇気を失わせた。いま兵隊に取られてみると、最低の生活費ながら、とにかく新聞社から家族に給料が行っていることは安心だった。この補償を失うことは許されなかった。
 兵隊生活の丸二年、私は何をしたであるか。
 家族は妻の郷里の田舎に疎開していた。

・私は箒の商売をはじめた。
 21年の夏には三男が生まれたので、家族数は8人にふくれ上がった。飢餓とインフレの昂進のさなかで新聞社の給料だけではとうてい足りなかった。質屋に持ってゆく物もなかった。米や薯と交換するのに農家がよろこぶような衣類もなかった。
 箒の仲買は恰好なアルバイトになった。・・・
 この「商売(箒の仲買)」の総決算はどうだっただろうか。結局、貯金としては何ものこらず、かえって不渡り手形の分だけ損になった。しかし、あのインフレの進行中、7人の家族を抱えて無事にすんだのは幸いだった。

・私も40近くなっていた(昭和25年)。
 内職のないとき、麻雀でもするほかに心のやり場がなかった。また将棋を指して自分を忘れようとした。

・昭和25年ごろだったか、『週刊朝日』で「百万人の小説」という名で一般から懸賞募集を行なった。一等が30万円で、当時としては最も多額な賞金であった。文学とか小説とかいうことに下心ない私には無関係なことだったが、ある日、必要があってえ百科事典を繰っていると、「西郷札」(さいごうさつ)という項目が目についた。何げなく読んでいると、その解説からひとつの空想が浮かんだ。私にはなんだかその空想が小説的のように思われた。つまり、小説になるように考えられた。
 そのころも私は九州小倉の、朝日新聞西部本社の広告部員であった。広告の版下を書くのが毎日の仕事であった。箒売りの内職も終末を告げ、インフレのため一家8人の生活の維持に苦しんでいた。私は、もし三等でも入選(賞金10万円)したら、というはかない希望もあったが、一つはその生活の苦しさから逃避するために、思いついた空想から小説を書いてみることにした。締切まで二十日くらいしかなかった。・・・
勤めを終わってからだから、毎晩おそくまでかかった。
 『西郷札』というこのはじめての小説は三等に入った。もう少し上位にしてもいいが、社内の者だというところから編集部でそうきめたということをあとから人に聞いた。
 三等だったが、特に『別冊週刊朝日』に発表してもらった。その期の直木賞候補になった。

・初めての小説が直木賞候補になったことが私に野心を持たせた。そのころ、『三田文学』を編集しておられた木々高太郎氏に掲載誌を送ったところ、何か書くようにいってこられた。二度にわたって原稿を送ったが、どちらも掲載された。あとの『或る「小倉日記」伝』が芥川賞になった。
或る「小倉日記」伝』の下書きを書いているときは夏だった。六畳、四畳半、三畳という元の兵器廠の工員住宅に住んでいたが、妻と子五人は隣の蚊帳の中にいっしょに寝ている。もう一つの隣では老父母が寝息を立てていた。私は渋団扇で蚊を追いながら原稿を書く。ときどき、暗い台所で水を飲んだ。

感想
 食べることに不安が無かった子ども時代。
大学まで行かせてもらったことで、安定した収入を得ることができたことが、普通ではなく、有難いことだったと思いました。
 時代が違うと言われそうですが、今日本はOECDの定義での貧困国になり、実際子ども食堂を利用する子どもたちが増え、フードバンクに並ぶ行例があります。
シングルマザーの貧困はさらに厳しく、コロナで学校が一斉休暇になり、昼食が大きな栄養摂る手段だった過程を直撃しました。
そして大学に子どもたちを学ばせることもできません。
奨学金のほとんどは名前ばかりのローンです。
返済に困り、生活に困り、女性が風俗に、男性は売り子などに手を染める人も増えています。
 当たり前の衣食住が感謝だと、この本を読んで改めて痛感しました。
日本は戦中、戦後ではないのですが・・・。

 学生時代、同学年の同じ下宿仲間が、松本清張が好きでほとんど読んでいました。私は彼からその中から推薦する本を借りて、多く読みました。
 41歳から作家デビュー。
新聞社の校正の仕事をされていたと思いこんでいました。
石川啄木が朝日新聞の校正の仕事をしていたのでそう勘違いしたのでしょう。

 松本清張さんが社会派と言われているのは、アカの嫌疑をかけられて拷問を受けた経験もあったように思います。疑いが薄かったので、”逆さ吊り”の拷問は逃れたのことです。
 小林多喜二、伊藤野枝など多くの関係ない人が拷問で殺害されました。
そんな社会に戻らないようにするためにも歴史から学ぶことなのでしょう。

 常に生きるためにはどうすれば良いか。
少しでも収入を増やすためにはどうしたら良いか。
家族を支えるためにはどうしたら良いか。
そのためには自らいろいろなチャレンジをされて来られたようです。

 戦争ではパブアニューギニアに送られることになっていたのですが、兵隊を送るための船がなく、中止になったのも生きて帰れた大きな理由のようです。

 それとなにより、本をたくさん読まれていたのが、小説を書くための力になっていたのでしょう。

 松本清張作品は、論理的な考察が鋭いです。
多くの推理小説だと、「なぜその捜査をしないのか?」と思うことがよくあるのですが、松本清張作品にはそれがほとんどないです。

 高等小学校卒。
田中角栄氏もそうです。
でも二人に共通していることは、多くの本を読まれ、学び、勉強をずーっとして来られたとことです。
「大学は自分でどう学んでいくかを教えるところだ」と言っていた先生がいました。
なるほどと思いました。
ところが大学卒業してからの学びをつい怠ってしまいがちになります。

 55歳くらいまでは2~3冊/月本を読んでいました。
立花隆さんと佐藤優さんが対談でお互いが良いと思った本を紹介している本を読みました。そのとき、立花隆さんは約5万冊、佐藤さんが1万冊(記憶が曖昧)読まれていました。そこで速読関係の本を読み、本の内容を早く掴むノウハウを知りました。
①本は3割読めば7割理解できる
②本には既に知っている内容と知らない内容があるので、知らない内容を読む
③目次を見る
④1頁/1秒くらいでパラパラ見て関心あるところを読む
⑤頭に入らない箇所は飛ばす など
 そして1冊/1日を目指し、何とか10年それを実践できました。
絵本もその中にはたくさん入っていますが。
退職してからは読む本が減り、今は15冊/月を目標にしています。
 賢くなったかどうかはわかりませんが、すそ野が広がっているのは実感しています。 
 東大出ても森友学園問題のように当時の首相からの不正指示に加担し出世していく。

 人は学歴よりも、生きる姿勢や日ごろの学びがとても大きいように思いました。
将来、女神が微笑むとき、女神の微笑みに気づくためにはやはり今学ぶことなのだと思います。自分は学んでいるかを自問自答していくことも必要なのでしょう。

本を読んでも内容と忘れてしまいます。
読んだ本のタイトルも忘れてしまいます。
そこで読んだ本の木になる箇所をメモして感想を書くようにしました。
多くの本に「インプットだけでなくアウトプットも大切」とありました。
人が創る品質 -エッセイ-(メンタルや生き方の本紹介)

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