みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#75 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月31日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:5分43秒から9分46秒まで

◇◇

近年の歴史や最近起きているさまざまな分岐点に関して、私たちはチャールズ・ダーウィンらの強力な影響力を目にしてきました。

しかしながら、私がこのことを把握することができたのは1776年以前の神学的見解からであり、それに従って疑問となる点を考えてみたいと思います。

入植者と独立宣言は、アメリカ独立戦争と呼ばれる戦争を引き起こし、この戦争は1783年まで続きました。

多くの歴史家は、このアメリカ革命は、西洋文明史の中で最も意義ある革命であると論じてきました。

もちろん、それが意義ある革命であったことを否定するつもりはありませんが、それよりも意義ある革命があったと個人的にそう考えております。

その革命とは、独立宣言の5年後に、一人の哲学者とKritik der reinen Vernunft(純粋理性批判)というタイトルの一冊の本とともにドイツで起きました。

まだ無名だった哲学者インマヌエル・カントは、指導者の一人であるスコットランド出身のデヴィッド・ヒュームによって、この本を書くように促されました。

デヴィッド・ヒュームは、当時科学者の間で一大運動となっていた経験主義という哲学を追及していた。

それは、急進的な懐疑論の結果として登場してきた哲学でした。

デヴィッド・ヒュームは、最も基本的な思考法の一つである因果律を否定した。

因果律は、科学的企業体全体にとっては基本中の基本。

ヒュームの著作をしっかりと読み込んでみると、彼は因果律を否定したのではないことが分かります。

彼が否定したのは、因果律を理解する私たちの能力だったのです。

雨が降れば芝が濡れるので、私たちは芝が濡れたのは雨が降ったからだとすぐに判断します。

それは十分に証明できない仮説ではないかとヒュームは考えたのです。

そして、彼は言いました、「正確に事実を感じ取る知覚能力に対する懐疑が制されるのであれば、それは科学の死を招くことになるだろう」と。

そのために、ヒュームは経験主義を墓場送りにしたと揶揄されたのでした。

インマヌエル・カントは、ヒュームの懐疑論によって教理上のうたた寝状態から覚醒させられたのであります。

つまり、カントは、感覚の信頼性が科学的研究の信頼性に匹敵するかのように復活するであろう哲学を生みだす責務について語ったのでした。




#74 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月29日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:最初から5分43秒まで

◇◇

これは卒業式典ではありません。卒業証書をもらうことはあまり好きではありません。

私は結婚して新たになりました。

お越し頂き、心より感謝申し上げます。私たちはシアトルに来ることを心待ちにしておりました。

何故かと申しますと、この地は、キリスト教信仰に関して不毛な荒地だからです。

北西の地よりこのカンファランスにやって来られるクリスチャンは、本当に飢えており、また思いが新たにされることや近隣の人々やコミュニティーの人々に対する自分たちの働きや宣教活動が勇気づけられることにワクワクしておられます。

ご参加頂き感謝申し上げます。

さて、お時間を頂いて、ルカの福音書13章22節をお読みします。

この箇所が今夕のテキストであります。

ルカ福音書13:22~29
イエスは、教えたり旅行をしたりしながら、町や村を通り、エルサレムへと向かう途中だった。弟子の誰かがイエスに言った、「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは弟子たちに答えて言った、「努力して狭い門から入りなさい。というのも、多くの者たちがその門から入ろうとするが、入ることはできない。その家の主人が立ち上がり、門を閉めると、外に立っていた人が門を叩き始めて言った、「主よ、私たちのために門を開けて下さい。」すると主人はこう答えるであろう、「私はあなたがたの出身を知らない。」すると、あなたがたは言い始めるだろう、「私たちはあなたの前で食べたり飲んだりしました。私たちが集う通りであなたは教えてくれました。しかし、彼はあなたがたの出身を知らないと言うだろう。ここなら出て行け。不法を行なうすべての者たちよ。イサクやヤコブ、そしてすべての預言者が神の国にやって来て、また人々が西や東、北や南から来て、神の国の食卓に着くだろう。しかし、あなたがたは追い出され、その場所には号泣や歯ぎしりがあるだろう。

お祈りしましょう。
父なる神よ、このひと時、劣悪なる霊的状態でありますこの世界、そしてわが国民について、私たちは深く思いを馳せようと思います。私たちの唯一の希望はあなたにあり、またあなたの贖いの力にあることを私たちは知っています。そこで、あなたの御霊により、私たちにこのカンファランスと私たちの希望、そしてあなたご自身が平穏の中にいて、私たちの王として、あなたの統治を楽しむことができますように心よりお願い申し上げます。イエス様の御名によりお願い致します。アーメン。

このカンファランスを通して、過去のさまざまな努力により、文化が如何にしてその時代の姿となったのか見てきました。

そして、ソクラテスやプラトン、そしてアリストテレスが古代哲学者として表舞台に登場する以前の人類史における多くの変遷について考察してきました。

古代哲学に関しては長期にわたる懐疑論があり、これを哲学者プロタゴラスによりもたらされたヒューマニズムと呼ぶことがあります。

彼のモットーは、単純にhomo men surah(人間は思考の尺度)であり、人間は万物の尺度であるというものでありました。

しかし、プロタゴラスが真のヒューマニズムの父であると私は思いません。

ヒューマニズムの父はプロタゴラスより前に存在していたと私は考えております。

ヒューマニズムの起源は、彼が若い女性に「あなたは神々のようになるだろう」と言った時よりも前であったと考えます。

このカンファランスにおいて、私たちは世俗主義と物質主義について考察してきました。

その中で私たちがくり返し聞いたヒューマニズムの誕生は、実は創世記3章にあったのです。





#73 終末預言 by T Tomii

2022年03月28日 | 終末預言 
「彼の血は、我らの子孫が受ける」の意味

最近の世界情勢に関して、以下の2つの記事が大変参考になる。
的を得ているので紹介しておく。

◇◇


「彼の血は、我らの子孫が受ける」の意味



>「あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する」

少しズレるのですが

最近、新約で
自治区総督?ピラトが
イエスの取り扱いに関して
自治区イスラエルの群集に問う場面を読みました。

ご存じのように、彼らはいいます
イエスを十字架に掛けてくれ、
「彼の血は、我らの子孫が受ける」
と…。

民族的迫害と、戦時下のホロコースト
を請け負った?のでしょうか。


(グローバリスト達が、子孫の未来/環境を犠牲にして
悪事を進めるのは
地獄行きを自覚しているからでしょうか)

ユダヤ人に対する十字架の裁きの結果は、2つありました。

1.羊系ユダヤ人。つまり、イエス・キリストを信じるユダヤ人。

2.山羊系ユダヤ人。つまり、イエス・キリストを信じないユダヤ人。

1は、救われてペレアに逃れます。その後、東に向かったと記録にあります。

2は、ユダヤ戦争において大患難を経験します。多くのユダヤ人がエルサレムの城壁に閉じ込められて虐殺されました。

「われわれと子孫にふりかかってもいい」と叫んだ叫びが聞かれたのです。

2の人々の残りは、諸国民の中に散らされました。これは、異邦人の象徴は海なので、ユダヤ人は諸国民の間に散らされたことによって、民族の死を経験したことを意味します。

ですから、その後、ユダヤ人が放浪の民族になったことは、民族的に裁かれ、死んで、イエス・キリストの血の責任を取らされたと考えるべきでしょう。

それに対して、1のユダヤ人は裁きを受ける必要がないのですから、諸国民の間に散らされる必要はありません。

もちろん、伝道のために異邦人の中に散っていった人々はいたかもしれませんが、本体はどこかまとまって存在したはずです。

古代日本に、1のクリスチャンが来ていたのではないかと考えるのはこのためです。

日本列島は救いの島ではなかったのか。


(グローバリスト達が、子孫の未来/環境を犠牲にして
悪事を進めるのは
地獄行きを自覚しているからでしょうか)

彼らの考えは理解しがたいです。

子孫をサタンの計画のために捧げています。

一体何の利益があってそんなことをしているのか、なぞです。

おそろしい霊に憑依されたとしか考えられません。
 
2013年11月2日

◇◇

以下の動画も実に面白い。

やりたい放題というべきか、最後の悪あがきというべきか・・。

マネーゲームを遥かに通り越して、もはや意味不明の所業。

【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第12回「世界の公衆衛生に続き“新世界秩序”への生贄とされたウクライナとロシアの人々」[桜R4/3/19]




#72 終末預言 by T Tomii

2022年03月27日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

に入る前に一言。

当メッセージにおける序論、世界史、特にアメリカ史、哲学史、宗教史は省略しようと思ったのだが、異端や反聖書思想を見抜く目を養うために必要な知識・知恵ではないかと思われ、よって、これまで通り全文を訳出する。

理由の概要は、以下の記事にある通り。

◇◇


ヒューマニズムは崩壊への道である

今教会に流行している可能性思考はヒューマニズムである

新カント学派とキリスト教

カントの準備してくれた避難所に逃げ込むな

賛美集会をする前にまず聖書研究をせよ





#71 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月24日 | 終末預言 
Defending the Faith

訳出時間枠:50分9秒から最後まで

◇◇

前回記事に修正点あり

聖なる感覚受容体 the deepest recesses of the human mind
→聖なる感覚受容体 the sense of the divine

◇◇

R.C. Sproul師によるメッセージは分かりやすく、また身近な問題を取り扱っている場合も多く、今後も師のメッセージを中心に聖書の学びを継続しようと考えております。彼は数多くの本も出版しています。面白そうな内容の本があれば適宜紹介します。改革派神学は土台が強固であり、しかも徹底的に練られているため安定感があり、学んでいて実に楽しい。

さて、次回のメッセージですが

R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

を予定しております。

狭き門とは一体何か。

◇◇


それが、人間の状態が如何なるものかに関して聖書に描かれている現実なのです。

私たち人間の思考の中に神はいないのです。

しかし、ここにひとつの解決策があります。

神は、私たちが自分の思考からご自身を消し去ることを許しません。

私たちは神から逃れることはできないのです。

私たちはこの考えを抑圧しようともがきます。

この考えを否認しようとします。

あらゆる猛抗議により、その思いをかき消そうとします。

安らぐために黙らせようとします。

うなじをこわくしたり、自分の意識を石のように硬くしようとします。

しかし、あなたは神の知識を消滅させることはできません。

神の知識は、あなたの心の中の内なる宮に押し寄せてきます。

もう一度言います。

神があなたの心に植え付ける知識は必ず人を動かすのです。

トマス・アクィナスの偉大なる知恵と神の存在に関する主張は、神へと至る5つの方法の中にありました。

また、彼は宇宙論的議論についても語っています。

大変に優れた業績でありますが、必然的な存在としての神という点において、それが彼の考えの深きにまで達し得たのかどうかは疑問であります。

神は必然的な存在であると言う時、それは何を意味しているのでしょうか。

それを解くための時間を少々頂きたい。

必然的存在としての神について語る時、2つの方法があります。

存在論的に神は必然なのか、それとも理論的に必然なのかということ。

感謝する、そこで翻訳している諸君。チャック君、やればうまくできるはずだ。

神の存在論的必然性とはこういうことです。

オーガスティンは自分の意識、自分の存在について考察し、自己として自分を認識した瞬間に、自分は有限な存在であることに気付くということを理解したのです。

その有限性とは自我意識の一部だったのです。

その時、オーガスティンという存在は必然ではないことを悟ったのです。

同様に、R.C. Sproulの存在も必然ではありません。

私がいなくても、世の人々ははうまくやってのけるはずです、恐らく。

世の動向を調べるために、私が存在する必要はありません。

私の存在は不定的、非主体的、依存的、有限であり、それは変化しやすいのです。

つまり、私の存在は必然とは言えません。

必然的存在とは、存在しないことがあり得ない存在。

今日私は、あなたがたの心の中にこの過程を紹介しました。

今存在するなら、それは永遠に存在しており、永遠に存在している何かは必然的存在を有しており、それが存在しないことはあり得ない。
(* or it couldn't beは or it couldn't not beの間違いと思われる)

必然的存在を有している唯一の存在は神であり、純粋なる存在、変わることのない存在、依存していない、有限ではない、不定ではない、派生的ではない存在であります。

それは、それ自身の中にパワーを持っている。

よくよく考えてみて下さい、友よ。

神とはどのような存在であるのか熟考してみれば、あなたの祈りははるか遠くまで飛んでいくでしょう。

神は必然的存在。

神は存在しないことがあり得ない存在。

神が存在しない時は決して存在しない。

神が存在しなかった時は存在しなかった。

「私はそれである」つねにいまし、永遠に在るもの。

神の存在が必然であるのは、存在論的意味にあるだけではなく、その存在が論理的意味合いにおいても必然であるからです。

再度、それが今存在するなら、論理的に必然的存在でなければならない。

つまり、論理が必要であります、4+3が7であるように。

論理が自己単立的存在、永遠なる存在を要求するのです。

論理的要求、つまり必然なる存在のために必要とされる論理をあなたが持っているとすれば、あなたは達観的確信を持っているわけです。

話はシンプルです。

確信をもってあなたが知っていることのトップテンの中に入れるべきこと、それは、神が存在するということを知っているということ。

ただ期待するのではない。

ただ信じるのでもない。

知っているのです。

存在しないことはあり得ない。

私がその真理を見出すのは、あなたを見たからでも、あなたと話したからでもない。

私はその真理を、私が生きているところで見出すのです。

そう、私の心においてであります。

お祈りしましょう。

父よ、私たちの心にあなたの知識を投影して下さり感謝します。私たちはそれを憎み、軽蔑し、それから逃避しようとします。しかし、あなたは、私たちが天の番犬から逃げること、そして私たちの心への必然的な投影から逃げることを決して許そうとしないことに感謝します。今の教会時代において、私たちがしっかりと目覚めていることができますようにお願いいたします。そして、純粋なる存在でありますあなたを必要とし、その甘さを必要とし、その栄光を必要とするこの世において、私たちが純粋なるあなたを愛し、あなたに心から服従できますようにお願いいたします。イエスの御名によりお祈りいたします。アーメン。



#70 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月23日 | 終末預言 
Defending the Faith

47分14秒から50分9秒まで

修正点あり:
感覚受容体 the deepest recesses of the human mind
→感覚受容体 the sense of the divine

◇◇

以下のメッセージを聴いて、直ちにひらめく聖書箇所がある。

伝道者の書3章11節
He hath made every thing beautiful in his time:
also he hath set the world in their heart,
so that no man can find out the work that God maketh from the beginning to the end.
(KJV)

新改訳で「永遠」と訳された単語は、上のKJVでは(the) worldと訳されている。

strong辞典を引くと
עֹלָם    עוֹלָם:
From H5956; properly concealed, that is, the vanishing point; generally time out of mind (past or future), that is, (practically) eternity; frequentative adverbially (especially with prepositional prefix) always: - always (-s), ancient (time), any more, continuance, eternal, (for, [n-]) ever (-lasting, -more, of old), lasting, long (time), (of) old (time), perpetual, at any time, (beginning of the) world (+ without end). Compare H5331, H5703.
Total KJV occurrences: 438

意味:適格に隠されている領域、消点、記憶のない時間枠、永遠、常在、永続、世界の初め(終わりのない)

世界の初めから始まり終わりのない永続する世界、つまり永遠(に継続している何らかの領域)

以上のような意味なのだが、面白いことに、神はこのעֹלָםを人の心の中に据えたと書いてある。

人は有限であるから、もちろん永遠に続く神の御業を見極めることはできない。

さて、上のKJV訳で(in their) heartと訳された単語は、strong辞典を引くと、

לֵב:
A form of H3824; the heart; also used (figuratively) very widely for the feelings, the will and even the intellect; likewise for the centre of anything: -    + care for, comfortably, consent, X considered, courag [-eous], friend [-ly], ([broken-], [hard-], [merry-], [stiff-], [stout-], double) heart ([-ed]), X heed, X I, kindly, midst, mind (-ed), X regard ([-ed)], X themselves, X unawares, understanding, X well, willingly, wisdom.

感情、意志、知性など広く使われる単語。勇気、親愛、理解力、知恵などの意味も含む。
日本語では「心」がやはり最も意味が近く、ギリシャ語であればψυχήに意味は近いか。

かなり大雑把ではあるが、לֵב(心)の中でも思考機能を有する知的領域にעֹלָםがあるということになる。但し、この領域には感情などを制御している領域が混在しているようだ。

神が行なわれる御業の中で最も重要な御業は何だろうか。

それはご自身の啓示ではないだろうか。

無神論者にさえ、その心の中に絶対に消すことのできない聖なる感覚受容体があるとR.C. Sproulは宣べているが、さらに何かとても重要な教理が隠されているように思われる。

永遠への思いעֹלָםと聖なる感覚受容体the sense of the divineとは同じものかどうかについては検討を要する。

神の存在を確信し、神の啓示を得る受容体と捉えれば同一器官で良いとなるのだが・・。

◇◇


天空は神の手細工を示している。

創造された秩序を通して、その秩序の中に、かつその秩序によって仲介された神の啓示の大劇場を見ることなしに、この世界を見ているとは言えないのです。

故に、神の存在について、それほど多くの議論がくりかえされてきたのです。

私たちが見ることのできる宇宙の存在根拠は神ご自身にあるということ。

私たちは、宇宙の創り主である神を見ることはできない。

しかし、神がなさることは見ることができます。

神の指紋を見ることはできます。

神が生み出すものの中に、ご自身の芸術性の刻印を見ることができる。

このことは、キリスト教弁証論において極めて重要であります。

それを無視することはあり得ない。

しかしながら、一般啓示には異なる側面があります。

それは、直接的啓示であります。

媒介(medium)の作者の背後にある媒介をいろいろ検索する必要はありません。

何ら仲介を経ることなく、人間の心の最も奥底に、直接に、即時的に、直ちに、神はご自身の存在を教えて下さるのです。

聖書は、オーガスティンが言っていることが正当であると主張しています。

自分を内観することにより、自分自身で自我意識を洞察することにより、オーガスティンは、容赦なく、必然的に、神の存在は疑う余地がないという結論へと導かれていくのです。

さて、オーガスティンの偉大なる弟子だったカルヴァンは、同様の主張をして、次のように述べています。

パウロがローマ書1章と2章で宣言しているように、あらゆる人間は外界における間接的啓示という大劇場の利益を享受できるだけでなく、私たちの心、つまり私たちの魂の中に、神の直接的啓示を得ることができるのです。

カルヴァンは、これを、私たち自身の内部にあり絶対に消すことのできない聖なる感覚受容体と呼びました。

これは普遍的なことです。

だから、人はホモサピエンスではなく、ホモレリジオサス(宗教の人)なのです。

人は神の知識から逃れることはできません。

何故なら、神の知識はあちら(外)にあるのではなく、ここ(心)にあるのです。

かつて、神の存在に関して、無神論の人たちと話す機会が与えられました。

彼らの質問を繰り返し聞いて、それに答えるよう努力しました。

「確かに、あなたがたは知的な議論をいろいろとしてくるが、分かりました。それらすべてに答えましょう。」

「しかし、私が何処から来たか説明する必要がある。すべてを明らかにしようではないか、それも、包み隠さずに。」

神に関するあなたがたの問題は、決して知的なことではない。

神に関するあなたがたの問題は、神が存在するかどうか分からないということでもない。

あなたがたの問題は、的確な判断ができないという点にある。

あなたがたは神を憎んでいる。

あなたがたは神に我慢がならない。

神を追い払うためには手段を選ばない。




#69 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月22日 | 終末預言 
Defending the Faith

43分14秒から47分14秒まで

◇◇

達観的確信をもって、私はそれを知っています。

それが真実であることを私は知っているだけではなく、あなたもそれが真実であることを知っていることを私は知っています。

月曜日、火曜日、水曜日にそれが真実であることを知っているだけではなく、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日にもそれが真実であることを知っています。

私が長老派であろうと、バプテストであろうと、メソジストであろうと、それが真実であることを知っています。

4+3は7であるのと全く同じ。

それは全宇宙的真理であります。

すべてに優先される真理であります。

それは、それ以上分析の必要がない真理であります。

それは、定義上真理なのです。

それが真理でないことはあり得ない。

それと相対する事象の不可能性の尺度から判断しても、それは真理。

この種の真理を凌駕する確信は存在しません。

私たちの心に埋め込まれているのは、自己単立の存在であり永遠なる神に関する真理であります。

この真理は何処から来るのでありましょうか。

神ご自身から来るのです。

デカルトは、我々が真理について考えることができるのは唯一神によると言いました。

神はご自身の啓示を私たちの心の中に焼き付けるのです。

さて、啓示については、キリスト教信仰の中で話しているが、一般啓示と特別啓示の違いを理解しておきたい。

特別啓示とは、聖書から得られる啓示のことであり、聖書を通して、救いの順、イエスの人格と御業、そして私たちが如何にして救われるのかを知ることができます。

一般啓示とは、全世界に対して、あらゆる人に対して、神が与えて下さる啓示であります。

聞く人すべてという意味において一般的ということです。

その内容という意味において一般的ということ。

一般啓示は主の十字架について教えません。

昇天について教えません。

一般啓示が教えるのは、神ご自身が全世界に明らかにする神の天性とご性質、神の永遠の御力と神性であります。

一般啓示には2種類あり、この違いは重要です。

最初は、間接的(mediate)一般啓示と呼ばれる啓示であります。

2つ目は、直接的(immediate)一般啓示。

間接的とか直接的とか言っておりますが、ここでは時間について言っているのではありません、やや関係はありますが。

私が小さかった頃のこと、私が砂場で遊んでいると、夕食の時間となった。家の裏にある窓のところにやって来て、私を呼び、「子、家に入りなさい」と声をかけた。砂の中にミニカーやいろんなものを埋めて遊んでいて、おもちゃに心が奪われて、しばらく家に入るのが遅れてしまった。次いで、母は腰に両手を立てて、「ハイ、今すぐ家の中に入りなさい」と言った。母の言うことは理解できた。彼女の言いたいことは、「遅れちゃダメでしょ。今すぐ、家の中に入ることになっているのよ。」それで、私はそうしたのです。

直ちに(immediate)と言いましたが、一般啓示の場合にはそういう意味ではありません。

間接的一般啓示とは、ある仲介を通して神がご自身を明らかにするという啓示であります。

例えば、新聞を通して、ラジオを通して、テレビを通してなど、しかしテレビやラジオや新聞よりもはるかに広範囲にわたるものを通してであります。

神がご自身の存在を放映するために使う手段は、すべての自然であります。

使徒パウロはローマ書1章で私たちに教えてくれています、「神の見えない事々、永遠の御力と存在は、創られし事々を通して知られる。」

山々を見てはいるが、直ちに、あるいは直接的に神を見ることはない。

その山を見ることによって、その山の造り主の刻印を見るのです。

天は神の栄光を宣言します。





#68 終末預言 by T. Tomii

2022年03月21日 | 終末預言 
旧約聖書のエゼキエル書から「今後の世界情勢」を語る牧師はすべて偽預言者である

◇◇

旧約聖書からこれからの世界情勢を解き明かすことはできない。

なぜならば、旧約聖書はイエス・キリストによって成就されたから。


わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5・17)

「律法や預言者」とは旧約聖書のことを指す。

旧約聖書の預言でまだ成就していないものは、まったくない。

すべてイエス・キリストによって成就された。

十字架上で「完済した」「完了した」という意味の「テテレスタイ」と叫ばれた。

つまり「もうやり残したことはない。旧約聖書はすべて成就した!」と言われた。

今でも旧約聖書の中で成就していない預言があるというならば、それは、イエス・キリストの御業の拒絶である。

旧約聖書のエゼキエル書から「今後の世界情勢」を語る牧師は、すべて偽預言者である。

 
コメント:

こんな単純な真理も分からないとは・・。

耳が塞がれ、目も塞がれているのに気が付かない。

魂まで塞がれている。

一体今まで何を学んできたのだろうか?





#67 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月20日 | 終末預言 
Defending the Faith

39分15秒から43分14秒まで

◇◇

何か判然としない。

200年前私は存在しなかった。
つまり、私は無だった。
しかし、今私は存在している。
これは、無から有が起きたのではないか。
シンプルな疑問。
只今検討中。

◇◇


故に、自己創造という選択肢は直ちに消去することができます。

ナンセンスであります。

先日、私はおかしな夢を見ました。

このことに関して、私がリチャード・ドーキンスと正式に討論するという夢です。

これは実際にあった話ではなく、ただの夢です。

単なるファンタジーです。

夢の中で、彼は自己創造についての言い訳をしていました。

彼との会話を通して、私は「どうすれば無から有が創造されるのか説明してくれないか」と聞いた。

彼はしばらく考え込んでから、私を見て、次のように言った。

「さて、ただそうなるです(笑い)。」

「おいおい、それを言うなよ。逃げるなよ。リチャード・ドーキンスはそんなことをいうような男じゃないだろ。」

彼がそんなことを言う夢を見ました。

彼に罪があると言っているのではありません。

もし仮に私たちが会話をすれば、恐らく彼はそう言うのではないでしょうか。

「ただ、そうなるのです。」と彼は言う。

「ただ、そうなる?」と私が聞くと、「ただ、そうなるのです」と彼が答える。

「ミスター・ドーキンス、自己創造に関して、その答えはあまりにひどくないか」と私は言う。

すると、彼は私を見て、「ひどいとはどういうことか」と聞き返す。

私は答える、「ただそうなのです。(笑い)」

私は司会者の法を向いて、言う「議長、弁護側は以上です。」

私は言った、「以上、議論は終了しました。」

私もドーキンス氏もこれ以上言うことはなかった。

ただ、そうなのです。

それが、私たちがいる場です。

さて、オーガスチンは、不可能性を理解していました。

不可能性とはありそうもないことではなく、自己創造が合理的に不可能であること。

このことを数えきれないくらい説明してきました。

もし無であった時が過去において一度でもあったならば、今ここにおいてあり得る可能性はただ一つ、無のみなのです。

このために、自我意識を確立することは、オーガスティンの出発点にとって極めて重要だったのです。

それ故、無条件で、絶対的に、数学的に何かがあるということを証明することが、デカルトのCogito(我思う・・)にとって極めて重要だったのです。

以上から、今何かが存在するのならば、それは自動的に常在的かつ継続的に何かが存在しているということを意味するのです。

これすなわち、常在的かつ継続的に存在しているのは何か、あるいは誰かなのかを発見する契機となるのです。

つねに存在する・・。

その存在が不定ではなく、依存性ではなく、誘導されたものではなく、有限ではない、非依存性であり、非誘導性であり、自己単立性であり、永遠である何か。

この考えは、私たちに強制的に植えつけられます。

私たちの指にではなく、私たちの目にでもない、私たちの耳にでもない、私たちの心の中に植え付けられるのです。

何故なら、私たちの心には、真理をきちんと確信できる領域があるからです。

オーガスティンはこのように考え、精神的構成体(4+3は7といった単純計算を理解するような数学的構成体のような)の存在に関して論じています。

さて、私はその通りだと思います。




#66 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月19日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:36分28秒から39分15秒まで

◇◇

いよいよ、佳境のど真ん中に突入。

ここからが本番。

聖書のことばがそのまま信頼に価するのと同様に、神の存在証明もことばのみによる。

霊的領域の事々において、世俗の科学は無力であるばかりか、むしろ害毒。

◇◇


自己創造という考えは、これら3つの中で消去することが最も容易な考えであります。

そして、まずは消去される必要がある、その理由ですが、分析によってその考えが誤りであるということ、つまり定義において誤謬であるということです。

それが誤りである理由は、それ自体の重さによって自滅しているからです。

このことは何度も説明しており、すでに考え尽くしておられると思います。

理解するために哲学者になる必要はありません。

自己創造されるために必要とされる何かがあり、それはそうなる前に存在しなければなりません。

それが存在する前に、それはすでに存在している。

同時に、かつ同じ関連において、それは存在しており、かつ存在していない。

これは無矛盾性の法に違反する。

極めて不合理、馬鹿げている。

実に笑止千万なのだが、いろいろな種類の博士号を取得、あるいは極めて価値ある業績を達成した人たちが、いつもこの手の考え方に拘束されています。

私たちはもはや自然発生学説を信じないと言った西海岸出身のノーベル賞受賞者についてお話ししておきたい。

わたしたちは、何かが無から発生することはないことを知っている。

もしそこにあるのが無であれば、その無から何も得ることはできない。

弁明するがよい。

言いくるめて見るがよい。

はぐらかすことはできても、そうなることはない。

何故なら、無からは無が生じるだけ。

そのノーベル賞受賞者は、「自然発生はもはや信じることはできない。しかし、段階的な自然発生はあり得る」と言いました。

嘘を付いたら止めて下さい(笑い)。

実に深刻な戯言と言わざるを得ない。

段階的な自然発生・・。

すぐには無から何かを得ることはない。

忍耐が必要(笑い)。

待てば、海路の日和あり(笑い)。

これがノーベル賞を受賞した物理学者が残したコメントです(笑い)。

何故なら、啓蒙運動の只中において、つまり古典的統合の崩壊の只中において、Aufklärung(啓蒙思想)が宣言されました。

啓蒙思想の原則とはこうです。

宇宙の起源或いは人類の起源を説明するために、神を前提とする必要はないというもの。

いまや私たちは、宇宙は自然発生、自己創造、つまり無から生まれた何か、により誕生したということを知っている。

帽子もない、うさぎもない、マジシャンもなしで、帽子からウサギが誕生したのです。

十分な根拠もなく、正当な理由もなく、無から誕生したのです。