みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#667 神の法第六戒

2021年09月29日 | 神の法
第6戒
責任と法

271~
Responsibility and Law
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第2に、コミュニティーの責任とは、正義は行使されなければならないということを意味するが故に、正義が為されない場合、コミュニティーの罪が次に生じる。

このことが申命記21:1~9において取り扱われている。

申命記21:1~9
あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、 
あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。
そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、 
その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。 
そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。 
刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、 
証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。 
主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。 
あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。 

殺人事件が解決されていない場合、特定されていない殺人者は言うまでもなく、コミュニティー全体も責任を有している。

殺人者は、殺人ゆえに神の御前でその責任を負い、コミュニティーは、殺人事件の仇を打つことの失敗ゆえに、かつ殺人者を正義の下へ連行することの失敗ゆえに、神の御前でその責任を負う。

この犯罪は神に対する敵対行為であるがゆえに、コミュニティーのリーダーたちは罪を負わせられないように、神にその罪の贖いを乞う。

コミュニティは最中にある犯罪に無関心でいることはできなかった。

また、処罰されないままの犯罪は、慣例としての贖いを必要とした。

この法の様式は、旧約の犠牲体系のそれと同じ。

それはもはやわれわれにもたらされることはない。

しかし、その法の実体はいまだに有効。

神に対して、コミュニティは正義が為されているかを監視する責任がある。

同時に、コミュニティは、犯罪犠牲者に対する責任も有している。

参照:

先に紹介した動画において

「越えなければならない」と林千勝氏は締めくくっていた。

彼はクリスチャンかもしれない。

「超えなければならない」であり、「破壊しなければならない」ではない。

超えるのだ。

超えるとは上に立つということ。

彼らが積み上げてきたものを支配する。

奪うのではなく支配する。

実に聖書的だ。







#666 神の法第六戒

2021年09月23日 | 創世記
第6戒
責任と法

270~
Responsibility and Law
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

聖書は、コミュニティーの責任について何も教えていないだろうか。

当然の事ながら、聖書律法は、コミュニティーの責任(すなわち、正義が為されていることを確認するための責任)を強く主張する。

正義が為されなければ、コミュニティーの罪が存する。

第1に、正義に対するコミュニティーの責任を議論する。

個人の責任に関する法の直後に、正義に関する多くの法のひとつがある。

申命記24:17
在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。

家族が存在するところで、犯罪者の罪過ゆえに家族が有罪となることはない。

家族が存在しないところで、コミュニティーがその人の無力を食い物にしてはならない。

外国人(見知らぬ人)が係争中であったり、孤独であったり、友人がいない時、その人の正義に対する権利は依然として不変。

彼らの無力を食い物にしてはならない。

犯罪者の親戚の財産が没収されたり、彼らが攻撃されることも許されることではない。

正義とは社会的なことではなく、個別の事案。

社会正義の教理は、社会犯罪の教理と連帯する。

社会正義は、個人の責任に対する攻撃であると同時に、無罪放免に対する攻撃でもある。


参照:

以下の動画にも登場するが、林千勝氏の著書「The Rothschild」通読中。

もちろん聖書律法から外れてはならないのだが、われわれクリスチャンも、この世においてずる賢く生きるべきではないのか。

今、世界はどうなっている?

林千勝の有料特別講座「菅総理はなぜ辞めるのか『米中草刈り場』日本の総裁選」

いずれの動画も最後まで見ると、次のように締めくくっている。

越えなければならない、と。

どうやって・・。

われわれクリスチャンには無限のパワーが内住している。



#665 神の法第六戒

2021年09月20日 | 神の法
第6戒
責任と法

270~
Responsibility and Law
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

罪と天性(nature)の違いは、聖書釈義及び法にとって基本。

その違いは、イスラム教のように法体系の中に存在するというものではない。

法は罪を取り扱い、罪を処罰するが故に、聖書の法釈義における他人へ移すことのできない罪の性質は、極めて重要。

罪を移すことのできるところでは、処罰も移すことができる。

これが、血で血を洗う争いの基本原理。

ハットフィールド家のある者が犯罪を犯すなら、ハットフィールド家全員がその罪を分け合い、そして全員が処罰される。

同様に、すべてのアメリカ人がケネディー大統領暗殺で有罪判決を受けるなら、この非宗教的理論に従って、アメリカ人全員が処罰されなければならない。

責任、罪、処罰は、法的に不可分。

違反に対する責任があるところでは、有罪責任があり、処罰やペナルティーが適応されなければならない。

今日、個人の責任に関するこのような教理は、進化論によって見下されている。

環境保護主義は進化論を基本とする。

人間は環境の産物であり、変化する環境とその振る舞いとの関係において進化する。

つまり、人間は環境の産物であるのみならず、神の被造物ではなく環境の被造物という結論になる。

人間とは、進化する世界が創り上げた何かであり、人間の行ないとは、そのような環境の産物であり、
環境による鋳型。

つまり、人間の罪の責任は、周囲の環境、社会、私的世界にあり、人が罪を犯す時処罰されるべきはこの世界であるということになる。

以上から、社会が過失や犯罪のために避難され、両親が子供の罪のために責められる。

かくして、社会や両親が処罰の対象となる。

このような物事の図式においては、無法が赦免され、有罪が無罪となる。

コメント:

ここに書かれているようなことは、わが国においても日常茶飯事であり、当たり前となってしまった。

この原因を、Rushdoonyは「世界が聖書律法から離反したからだ」と説明する。

この悪(要するに、人間教)の根底にあるのは進化論。

この世に流されて生きているクリスチャンは、進化論から脱却できていない可能性がある。

参考:

これまで新型コロナウイルス感染症に関して、小生が思い描いていたことをズバリ解説してくれている動画を見つけた。

高橋泰教授のコロナ7段階モデルを支持します!

是非参考にして頂きたい。






#664 神の法第六戒

2021年09月15日 | 神の法
第6戒
責任と法

269~
Responsibility and Law
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

責任に関する疑問に関して、基本の一つは、誰に対する責任であるかということ。

責任があるというのであれば、誰に対して責任を負うのか。

家族に対してなのか、コミュニティーに対してなのか、国家に対してなのか。

責任に関する聖書的教義は、人間の根本的責任は神に対して負っているということ。

そして、2次的には、自分の配下にある人々に対して責任を負う。

主権者としての主張と聖書律法全体により、神はアダムの前に立ちはだかり、次に人間の前に立ちはだかる。

第4に、この法によって、罪は他人に転嫁できなくなり、周囲の人々へと移行することも不可能となる。

罪の責任は移すことはできない。

性格や気質は遺伝しうるが、罪は遺伝しない。

人はアダムの堕落した天性を受け継ぐが、神の御前におけるアダムの罪は完全にアダム自身の罪。

コメント:

この動画で医師が述べているように、確かに重症化予防に関してワクチンはかなり有効。

しかし、次のような論文もある。

コロナのスパイクタンパク質が、「テロメア」を短くしている?

テロメアとは、細胞の寿命(分裂回数)を規定している遺伝子。

#653 神の法第六戒に、次のように書かれていた。

神の法を否定し、自分の潜在能力を求めようとするあらゆる領域において、同じペナルティー、ごく僅かな報酬と長期に渡る不毛が科せられる。

聖書ないしはRushdoonyのような預言者を通して、現在進行中の事象の将来を予見し、生活の道しるべとしなければ聖書研究は全く意味がない(と思う)。




#663 神の法第六戒

2021年09月08日 | 神の法
第6戒
責任と法

269~
Responsibility and Law
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

この法を分析するためには、その中心にある面を認識することが重要となる。

第1に、責任とは、あらゆる法体系の一側面。

違反に対する責任を負わせる必要がある。

責任がないところに、法の行使は存在しない。

責任者とは誰かという疑問は重要であり、その疑問に対する答えは宗教的答えとなる。

責任は、家族に、コミュニティーに、環境に、神々に、また個人に付与される。

責任の所在は、社会的秩序における基本的相違を促進する。

第2に、申命記24:16にあるように、聖書教義は、個人の責任の一つを明らかにする。

創世記3:9~13によると、個人の責任を避けようとする試みが罪の本質。

創世記3:9~13
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」 
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」 
すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」 
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」 
そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」 

アダムとエヴァは自分たちの罪を認めることを拒んだ。

彼らは他人に責任を転嫁した。

アダムはエヴァと神を非難し、エヴァは蛇を非難した。

敬虔な人は責任をもって行動し、自分の行動に対する責任を当然の事と考える。




#24 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年09月07日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p31~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

神のご性質(attributes)は、ひとつの単純かつ根源的存在とする以外に考えようがない。

全体は部分部分と一致する。

他方、神のご性質は、神ご自身が次第に獲得してきた特質ではない。

そのご性質は、その存在を根本とする。

各部分が集まり、その全体を形成する。

その全体から、われわれは、神における単一性と多様性が等しく基本的であり、かつ互いに依存していることを知る。

弁証学に関するこの教理の重要性は、次のような事実から知ることができる。

(キリスト教)哲学における課題全体は、単一性と多様性の関係という疑問の中に要約しうる。

いわゆる「一つと多数」の問題は、神の単純性の教理から究極的な解答が得られる。

コメント:

ヴァンティルが言うところの「神における単一性と多様性」とは何か。

脚注を参照にすると、「三位一体」のことを指していることが分かる。

部分とは、聖霊、御子、御父という3位の部分。

神における単一性とは、先の記事にあるように、神は唯一お一人であるということ。

欄外注14(要点):

神の単純性に関する教理は、「神はどのようなお方か」という疑問に対する(改革派神学の)解釈の中心にある。神の単純性に関するヴァンティルの理解は、われわれが三位一体を理解する仕方と類似している。すなわち、神の単一性と多様性の等価の極限が存在する。神の単純性の教理に関する重要な点は、神におけるそのような特質が実際に存在するとは考えられない。以下省略。




#23 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年09月02日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p30~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

第3に、神の恒久性。

時間に関して言えば神は永遠であり、空間に関して言えば神は遍在(偏在ではない)。

永遠とは、神の存在あるいは神の意識において、時間の始まりと終わり、時間の継続がないということ。

詩篇90:2
山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

第2ペテロ3:8
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

一時的な世界の意義に関する疑問全体を包括しているがゆえに、永遠という概念は弁証学において極めて重要。

永遠は、歴史の不変的原理と関連する。

遍在とは、神は空間に含まれている、あるいは空間に存在しないことはないということ。

神は空間を超越しているが、空間のすべての部分に存在する。

第1列王記
それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。 

使徒17:27
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 

第4に、神の単一性(unity)。

われわれは、単独の単一性と単純の単一性を区別する。

単独の単一性とは、数値である1に関連する。

唯一お一人の神が存在する。

単純の単一性とは、神は決して先立って存在する部分や側面から成り立つことがないということ。

エレミア10:10
しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。 

第1ヨハネ1:5
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

--

富井師が凱旋帰国されたようです。
聖書に忠実であるあまり、多くの悪口雑言を浴びせられていた。
神に忠実であるあまり、同様の仕打ちを受けた主イエスと似ている。
神がこよなく愛された「この世」において
われわれクリスチャンが実行すべき数多くの重要事項について
大変分かりやすく解説してくれた師の努力と労力に激しく感謝を申し上げたい。
今しばらくは、御父のもとでゆっくりと休んでいてください。
栄光在主


#662 神の法第六戒

2021年09月01日 | 神の法
第6戒
責任と法

269~
Responsibility and Law
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

聖書律法の中心部分は、一つの文章に要約される。

申命記24:16
父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。 

この法は、第2列王記14:6と第2歴代誌24:4において引用されている。

アマツヤは、父を殺した者たちの子どもたちに危害を加えることはなかった。

エレミアは同様の教義を強調した。

エレミア31:29~30
その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。
人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。

エゼキエルも同様。

エゼキエル18:20
罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。

この法に関するライトの注釈は興味深い。

個人が基本単位であり、地域団結意識が希薄ないしは欠落している現代社会において、このような法律は不要。しかしながら、家長制度や半遊牧的生活にとって、地域の責任感、とりわけ家族の責任感は極めて強かった。遊牧民の長年の争いは、構成員一人の犯罪のために一族が全滅するほどだった(ヨシュア7:24~25、第2サムエル21:1~9)。

ヨシュア7:24~25
ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに、彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行った。 
そこでヨシュアは言った。「なぜあなたは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけた。 

「遊牧人の長年の争いが、この法固有の原則を拒んだ」というWrightの声明は正しい。

しかし、この法に対する同様の脅威が、今日別の形で存在する。

ゼラフの子アカン(ヨシュア7:24~25)に関しては、Wrightの声明は間違っている。

アカンの場合、テント中央の地中に隠された金銀は、家族全員の連座を必要とした。

第2サムエル21:1~9に関する解釈も誤っている。

古代に共通して実行されたことは、違反者のいる家族全員の処罰、ペナルティー、そして死刑だった。