みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #240

2018年08月31日 | コーヒーブレイク
ヨハネ17章22節
またわたしは
あなたがわたしに下さった栄光を
彼らに与えました
それは
わたしたちが一つであるように
彼らも一つであるためです

主は、17章10節において、神によって栄光化された(→Coffee Break, #235)。

あるいは、神から栄光を与えられた。

神によって与えられた栄光を、主イエスは弟子たちに与えたと書いてある。

では、「栄光」の授受にはどんな意味があるのか。

2節にこうある。

ヨハネ17:2
As thou hast given him authority over all flesh
that he should give eternal life
to as many as thou hast given him

*power→authorityに変更(原語はἐξουσία〉

つまり、

主イエス(弟子たちではない)が、あらゆる肉(人ではない)を支配する権威を得るために、栄光を受ける(栄光化される)必要があった。

主があらゆる肉を支配する権威を得たら、何が起きるのか。

弟子たちに永遠の命を与えることができるようになる

と書いてある。

何故肉を支配する権威があれば、永遠の命を与えることができるのか。

分からない。

しかし、そう書いてあるからそうなのだろう。

栄光とはこのように授受できる。

恐らく「霊(のような何か)」なのではないか。

そして

主イエスは弟子たちに栄光を与えた。

神から受けた神の栄光だ。

主から神の栄光が与えられると(弟子たちは)一つになる

と書いてある。

もちろん、霊において一つになるということだろう。

つまり

霊的領域において、一つのエンティティ―(実在、恐らくエクレシア)になるのだ。

以前にも書いたことがあるが、エクレシアとは霊的領域において新しく創造された霊的生命体。

その新生命体(のメンバー)になるということだ。

ヨハネ17:23
I in them
and thou in me
that they may be made perfect in one
and that the world may know that thou hast sent me
and hast loved them
as thou hast loved me

主イエス(私)は、弟子たちの中にいる

と書いてある。

10節に戻るが

主イエス(私)は弟子たち(彼ら)の中で栄光化された

のだから、主イエスと弟子たちはこの時点でエクレシアを形成していた(一つになった)ということになる。

だから、主は言う。

私は彼らの中にいる

と。

そして、続けて

彼らは私の中にいる

と、主は言う。

神の栄光を共有するということは、霊的新生命体であるエクレシアのメンバーに加わるということだ。

もう少しつらつら瞑想していたいが、この辺で止めてアップしておこう。

ヨハネ17章、実に面白い。





Coffee Break, #239

2018年08月29日 | コーヒーブレイク
ヨハネ17章18節
あなたがわたしを世に遣わされたように
わたしも彼らを世に遣わしました

この聖句において「遣わす」と訳された単語が引っかかる。

表現がいかにも宗教的でうっとうしい。

検討してみよう。


As thou hast sent me into the world
even so have I also sent them into the world

日本語訳で「遣わす」と訳された単語は、英語訳ではsendと訳されている。

sendと訳された原語はἀποστέλλωで、意味は

ἀποστέλλω:
apostellō
ap-os-tel'-lo
From G575 and G4724; set apart, that is, (by implication) to send out (properly on a mission) literally or figuratively: - put in, send (away, forth, out), set [at liberty].

分かつ、送り出すなど。「遣わす」といった仰々しい意味はなさそうだ。

ἀποστέλλωの ἀποは分離を表し、στέλλωは stall(仕切りを付ける)。つまり、「仕切って分離する」というのが本来の意味だ。

聖書ギリシャ語に関する参考書では、ἀποστέλλωの訳として「遣わす」という訳が必ずあてられている。例えば、この単語の派生語ἀποστολοςは「使徒」「使者」といった訳語が使われている。しかし、この単語の原義は「使わす、遣わす」ではなく、「仕切って分離する」、あるいは「送り出す」だ。「福音宣教せねばならぬ」的思想統制が背景にあるため、こういった宗教色の濃い訳出になるのだろう。初めに神学ありきだ。

上の原義を使って、この聖句を言い換えてみる。


あなたがわたしを世から分離したように
わたしも彼らを世から分離しました

これは主が語っている真理の一つ。


あなたがわたしを世に送り出したように
わたしも彼らを世に送り出しました

これも真理。

違和感が全くない。

しかし、「遣わす」という単語に入れ替えたとたん、職業的、宗教的イメージが浮かび上がってきて、自由を失ったように感じてしまう。

では、この聖句にはcommisionという意味合いはないのか。

いや、ある(と思う)。

但し、組織とか組合とかに強制されたり、職業化・義務化してしまうのがうっとうしいのだ。



Coffee Break, #238

2018年08月27日 | コーヒーブレイク
第2ペテロ3章18節
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい
このキリストに
栄光が
今も永遠の日に至るまでもありますように
アーメン

>イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい

この文章の意味が分からない。

これも原典を見れば、すぐに理解できる。

εν χαριτι και γνωσει του κυριου ημων

英訳すると

in grace and knowledge of the Lord of ours

我らの主の恵みと知識の中で

全文和訳する。


我らの主であり救い主である
イエスキリストの恵みと知識の中で成長しなさい
彼に
その栄光が
そして今
そして永遠の中へ

イエスキリストの恵みと知識の中に留まり外に出るなとペテロは言う。

主イエス(の十字架と復活)によって、その中に神の栄光が今も明日も永遠に在るから我々は成長して行ける。

ところで

成長すると訳された単語はαὐξάνωで、意味は

αὐξάνω:
auxanō
owx-an'-o
A prolonged form of a primary verb; to grow (“wax”), that is, enlarge (literally or figuratively, actively or passively): - grow (up), (give the) increase.

“wax”とある。すなわち、油を塗る。成長するとは、油に塗れること。「油で塗れる」とは、言うまでもなく、聖霊に満ちるということ。


我らの主であり救い主である
イエスキリストの恵みと知識の中で聖霊に満ちよ
主イエスの十字架と復活によって
神の栄光が
その中に
今もそして永遠に在る
(意訳)






Coffee Break, #237

2018年08月26日 | コーヒーブレイク
第1ペテロ5章5節
同じように
若い人たちよ
長老たちに従いなさい
みな互いに謙遜を身に着けなさい
神は高ぶる者に敵対し
へりくだる者に恵みを与えられるからです

この聖句にも誤訳がある。

>みな互いに謙遜を身に着けなさい

この箇所だ。

早速英語訳。

all of you be subject one to another
and be clothed with humility

subjectと訳された単語はὑποτάσσωで、意味は

ὑποτάσσω:
hupotassō
hoop-ot-as'-so
From G5259 and G5021; to subordinate; reflexively to obey: - be under obedience (obedient), put under, subdue unto, (be, make) subject (to, unto), be (put) in subjection (to, under), submit self unto.

下位で、劣った、従属して、など。

あなたがたは皆、お互いに下位であれ
そして、謙遜を着よ

>みな互いに謙遜を身に着けなさい

ではなく、2つの独立した文章から成る。

さて、この聖句に出てくる「謙遜」「高ぶる」「へりくだる」とはどういう意味だろうか。

ワレ中心、かつ誤訳だらけの日本語訳聖書をいくら読んでも正解は得られない。

原典(神)に立ち返り、真意を確認する必要がある。

これが、まさに聖書で言うところの「謙遜」(神に従順な態度)という意味だ。

実際に確認していきたい。

上の日本語訳で「へりくだる」と訳された単語はταπεινόςで、意味は

ταπεινός:
tapeinos
tap-i-nos'
Of uncertain derivation; depressed, that is, (figuratively) humiliated (in circumstances or disposition): - base, cast down, humble, of low degree (estate), lowly.

(中央が)凹んでいる、平たい、低く抑え込まれている、など。

「高ぶる」と訳された単語はὑπερήφανοςで、意味は

ὑπερήφανος:
huperēphanos
hoop-er-ay'-fan-os
From G5228 and G5316; appearing above others (conspicuous), that is, (figuratively) haughty: - proud.

他者より上を気取っているという意味。

聖書というのは、神がすべて、神が中心、神が基準であるから

たとえば

上の「高ぶる」とは、自分を「神」より上だと気取っているという意味になる。

同様に

上の「謙遜」及び「へりくだる」の意味は

謙遜⇒神より下位、神に従属した状態

へりくだる⇒(神によって)打ち砕かれ、凹んでいる

と理解される。


同様に
若者たちよ
長老たちに自分を任せよ
あなたがたは皆、お互いに神より下位であれ
神に対する従順を身にまとえ
神は神によって凹まされている状態に恵みを与える
自分を神より上だと高ぶってる状態に反発する

*ταπεινός、ὑπερήφανοςは形容詞で使われているので「~の状態」と訳出した。
恐らく聖書は「魂」のことを言っているのだと思う。
神によって凹まされている魂
神より上だと高ぶっている魂



Coffee Break, #236

2018年08月23日 | コーヒーブレイク
ヨハネ15章9節
父がわたしを愛されたように
わたしもあなたがたを愛しました
わたしの愛の中にとどまりなさい

FBで廻って来た聖句だが、こう書いてあった。


私の喜びがあなたがたの内にあり
貴方がたの喜びが満たされるためです

「愛」と「喜び」が入れ替わっている。

原典と明らかに異なる内容であり、聖書の改ざんと言われても仕方あるまい。

何か啓示を受けてそうしたのであれば問題はないが、そうであればきちんと説明すべきだ。

しかし、そうでないなら絶対行なってはいけない。

聖書を使ってことば遊びをするのはやめた方が良い。





Coffee Break, #235

2018年08月15日 | コーヒーブレイク
ヨハネ17章10節
わたしのものはみなあなたのもの
あなたのものはわたしのものです
そして
わたしは彼らによって栄光を受けました

>わたしは彼らによって栄光を受けました

と訳しているが、本当か。

弟子たちに主を栄光化する力、主を栄光で輝かせるだけのパワーはあったのか。

前節に何と書いてあったか。

1節:glorify Thy Son

5節:O Father, glorify thou me

私を栄光化して下さいとイエスは神にお願いしている、

つまり、この時点で、イエスはまだ神によって栄光化されていないことが分かる。

神によって栄光化されていない者が、人によって栄光化されうるのだろうか。

原典に当たってみよう。

こう書いてある。

δεδοξασμαι εν αυτοις

英訳する。

I have been glorified in them

私は彼らの中で栄光化された

栄光化したのは誰。

もちろん神だ。

神は、主イエスの2度にわたる願いを弟子たちの中で叶えて下さったのだ。

なぜ神は主の願いを叶えたのか。

私のものすべてはあなたのもの
あなたは私のもの

と宣言したからだ。


私のものすべてはあなたのもの
あなたは私のもの
すると神は私の願いを聞いて下さり
今この時、私を弟子たちの中で栄光化して下さいました

これは普遍の事実ではないだろうか。

神によって栄光化されたイエスキリストは、今我々の中でも光り輝いている。




Coffee Break, #234

2018年08月14日 | コーヒーブレイク
エペソ1章10節
時がついに満ちて
この時のためのみこころが実行に移され
天にあるものも地にあるものも
いっさいのものが
キリストにあって一つに集められることなのです
このキリストにあって

>この時のためのみこころが実行に移され

この箇所の訳出が正しいのかどうか検討していく。

まずは、この箇所の英語訳。


in regard to the dispensation of the fulness of the times・・
(YLT)

原典には

εις οικονομιαν του πληρωματος των καιρων

と書かれている。

dispensationと訳された単語οἰκονομίαの意味は

οἰκονομία:
oikonomia
oy-kon-om-ee'-ah
From G3623; administration (of a household or estate); specifically a (religious) “economy”: - dispensation, stewardship.

つまり、「経済」「経営」「管理」「神の摂理」など。

さて、原典に戻り、この箇所を英訳する。

into the dispensation of the fullness of the times

timesと訳された単語は、καιρός( の属格複数καιρων)で、クロノスではない。クロノスとは時計で計れる普通の時間のこと。一方、カイロスは一般に実行や決断の時を指すが、聖書においては、神が予め定めた(何らかの意義を有する)時間と考えてよいだろう。

日本語に直訳する。

神が予め定めた時間の満了の管理の中へ

つまり

神によって予め定められた時が満ちて、神の管理下(の中)へ

ということになる。

この聖句全体の検討に入る。

同b
ανακεφαλαιωσασθαι τα παντα εν τω χριστω

英訳する。

to have summed up the all in Christ

すべてをキリストの中へ集め上げてしまったこと

同c
τα τε εν τοις ουρανοις και τα επι της γης

英訳する。

both those which are in the heavens and those which are on the earth

天々にあるそれらと地にあるそれら

全文直訳

神によってが予め定められた時が満ちて
神の管理下(の中)へと
キリストの中に集め上げてしまったこと
天々にあるそれらと地上にあるそれらすべてを

大凡分かればそれで良い。

「神によってが予め定められた時が満ちた」とは、キリストの死と復活の成就。

天々にあるすべてとは、霊的領域に存在する全ての構造物と全ての霊的生命体。

地上にあるすべてとは、この宇宙に存在する全ての構造物と全ての生命体。


神は予め定めておられた時が満ちたので
天々にあるすべてと地上にあるすべてを
キリストの中に集め上げて
ご自身の管理下に置いた




Coffee Break, #233

2018年08月13日 | コーヒーブレイク
ガラテア3章19節
では
律法とは何でしょうか
それは約束をお受けになった
この子孫が来られるときまで
違反を示すためにつけ加えられたもので
御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです

日本語は実に不便な言語だ。

物の単複が不明確、時制が曖昧で、この2点だけでも他の言語に比べると相当に不利。

その例を挙げてみよう。

上の聖句の英語訳を下に写しておく。


Wherefore then serveth the law
It was added because of transgressions
till the seed should come to whom the promise was made
and it was ordained by angels in the hand of a mediator
(KJV)

指摘したい箇所は「違反」と訳された単語だ。

下の英語訳を見れば分かるように、英語訳では複数形transgressionsが使用されている。

実際、原典で確認するとπαράβασιςの複数属格であるπαραβάσεωνが使われていることが分かる。

次にロマ書。

ローマ5:14
ところが死は
アダムからモーセまでの間も
アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました
アダムはきたるべき方のひな型です

この聖句に対応する英語訳を示す。


Nevertheless death reigned from Adam to Moses
even over them that had not sinned
after the similitude of Adam's transgression
who is the figure of him that was to come
(KJV)

同様に、注目したい箇所は「違反」と訳された単語。

下の英語訳では、transgressionと単数で訳されている。原典で確認するとπαράβασιςの単数属格παραβάσεωςで使用されている。

つまり

ローマ5:14によれば、アダムが犯した違反はAdam's transgression(単数)すなわち1回のみ。

一方

ガラテア3:19によると、because of transgressionsとあるように人類は複数回罪を犯したことになる。

よって

我々人類はアダムによる違反、すなわち原罪(Sin)含めて、複数回違反(sins)を犯していることになるのだ。

transgressionとtransgressions、及びSinとsinsは、日本語ではいずれも「違反」と訳され、その違いが全く分からない。

これでは、極めて緻密な論理によって積み上げられている聖書を読み解いていくことはできない。(←やや改変)

日本語訳聖書は信用せずに通読程度にしておいて、英語訳を活用すべきだと思う。

英語圏では、聖書理解のためのツールも多数無償提供されている(当ブログ左欄を参考)ので非常に便利だ。




Coffee Break, #232

2018年08月12日 | コーヒーブレイク
ガラテア3章:22節
しかし聖書は
逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました
それは約束が
イエス・キリストに対する信仰によって
信じる人々に与えられるためです

セルフ教神学による誤訳。

>イエス・キリストに対する信仰によって

原典で確認。

επαγγελια εκ πιστεως ιησου χριστου

イエスキリストの信仰から出る(εκ)約束


しかし
律法は閉じ込めた
すべてを
罪の下に
イエスキリストの信仰から出る約束が
信じる者たちに与えられるように

イエスキリストの信仰とは、言い換えるなら、主イエスが人として歩んだ公生涯そのもの。新約聖書のすべてだ。ここに、ワレがどうのこうのと入り込む余地など一寸もない。

上の日本語訳のような解釈では、ガラテア書を捉えることは絶対に不可能。

邦訳に基づいて書かれたガラテア書註解などは絶対に参照してはならない。

大きく口を開けて待っているabyssだ。




Coffee Break, #231

2018年08月11日 | コーヒーブレイク
2ペテロ2章4節
神は
罪を犯した御使いたちを
容赦せず
地獄に引き渡し
さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました

ペテロ、ユダに限らず、当時のユダヤ人はエノク書に精通していたようだ。

この聖句は、イザヤ書14章9節から15節に書かれている内容と同じ。

「御使いたち」とあるが、これは創世記6章にあるsons of Godすなわちダニエル記4章に登場するwatchersを指している。

神に対する反逆により、彼らは地獄に落とされた。

それにより、地上において神に対する謀反や悪はなくなったのか。

ノアの洪水によってネフィリム族は消滅したはずだ。

では何故、それ以降もなお地上に悪が蔓延っているのか。

実は、洪水によってネフィリム(巨人)族が消滅したかどうかは問題ではない。

また、罪を犯した御使いたちすなわちwatchersが地獄に落とされたことも問題ではない。

巨人たちの肉は洪水により死滅したが、その霊がこの地上にとどまった。

その霊が悪魔となって、人類を堕落させ続けているのだ。


P105, The Sin of the Watchers and Human Depravity
Reversing Hermon, MICHAEL S. HEISER

エペソ4:22
あなたがたは古い人を脱ぎ捨てたということ
以前の行動パターンに従う
それ(古い人)は堕落させられている
誤りの欲望に従って

>誤りの欲望に従って古い人は堕落させられている

と書いてあるが、誤りの欲望の正体はネフィリムの霊、すなわち悪魔だ。