みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #332 Ephesians 4

2019年03月31日 | コーヒーブレイク
エペソ4章26節
怒れ
しかし
罪を犯すな

◇◇

外なる人が砕かれている人は外なる人の影響を受けない。

外なる人が砕かれている人の怒りは、その人の怒りではない。

外なる人が砕かれている人の思いは、その人の思いではない。

神の思いであり、怒りであり、聖なる怒りだ。

外なる人が砕かれていないクリスチャンの場合、怒りによって主の臨在が絶たれてしまう。

外なる人の怒り、つまり、肉の思いが神の臨在を遮断する。

外なる人が砕かれている人の怒りは、神の臨在を遮断しない。

若干の影響はあれ、怒りながら神との平安を保つことができる。

外なる人が砕かれている人は、怒った後、神との平安を取り戻すために神の下へと馳せ参ずる必要はない。

罪を犯している兄弟姉妹は、厳しく嗜められる必要がある。

敵の術中に嵌まっている兄弟姉妹を厳しく叱責しながら、神の臨在を感じることができるなら、その者の外なる人は砕かれている。




Coffee Break, #331 Ephesians 4

2019年03月24日 | コーヒーブレイク
エペソ4章26節
怒れ
しかし
罪を犯すな

◇◇

(日本語訳聖書より)こちらの表現の方がズバリ爽快、まさに神のことばと以前に書いた。

再考する。

この聖句において、「罪を犯す」と訳された単語はἁμαρτάνωで、意味は

ἁμαρτάνω:
hamartanō
ham-ar-tan'-o
Perhaps from G1 (as a negative particle) and the base of G3313; properly to miss the mark (and so not share in the prize), that is, (figuratively) to err, especially (morally) to sin: - for your faults, offend, sin, trespass.

解説の文頭に

to miss the mark

とあるように、この単語の本来の意味は「的を外す」ということ。

この聖句、次のような文と比較すると分かりやすい。

愛しなさい
しかし
罪を犯すな

赦しなさい
しかし
罪を犯すな

いずれも相当な違和感があるが、上の聖句には違和感がない。

どういうことか。

怒るという感情が、それだけで罪を犯す危険を孕んでいるということを示す。

ちなみに

上の文の「怒る」は英語訳ではangry、続いて、和訳で「憤る」と訳された単語は英語訳ではwrathと訳されている。怒りの程度を比較するとangry≪wrathであるから、時間経過とともに、単純な怒りが激高へと変化していくことをこの聖句は示している。

最悪、殺意へと移行しかねない。

故に、怒り続けながら御心に従うということは不可能であるということ。

・・つづく。



Coffee Break, #330 2 Corinthians 4

2019年03月20日 | コーヒーブレイク
第2コリント4章16節
私たちは決して挫かれない
我々の外なる人が砕かれ
内なる人は日々新たにされていく

◇◇

主の臨在を感じることのできるのは、主の下へと馳せ参じる時のみなのか。

日常において、神から遠く離れてしまっていると感じる時がある。

一旦この世の何かに夢中になると、いつの間にか思いが神から遠く離れてしまう。

祈りの前に握りしめているものを一旦置くべきだと感じる兄弟姉妹も多いのではないか。

神の臨在を楽しむことと日常の仕事をこなすこととは相反することなのか。

世の事を片づけてからでないと神の臨在を楽しむことができない、そう思い込んではいないか。

外なる人が砕かれると状況は一変する。

この世の事を行ないながら、神の臨在を十二分に楽しむことができるようになる。

祈りと神の臨在に浸るために小事を中断する必要がなくなる。

障壁となっていた外なる人が砕かれているので、神の臨在が我々の内へと常に流れ込んでくる。

ただそれに浸るだけでよい。




Coffee Break, #329 2 Corinthians 4

2019年03月17日 | コーヒーブレイク
第2コリント4章16節
私たちは決して挫かれない
我々の外なる人が砕かれ
内なる人は日々新たにされていく

◇◇

ご自身と応答できるように、神は我々の中に霊をインストールした。

外なる人は外界から来る情報にしか反応できない。

外なる人が四六時中外部環境に反応するため、我々は神の臨在を楽しむ機会を失っている。

神との応答を回復するために、外なる人が砕かれる必要がある。

この世において数限りない事象が我々の外で起きている。

我々の外なる人は、これらの雑音につい過剰反応してしまう。

外界から入り込んで来る雑音を遮断しなければ、平安の中で神の臨在を楽しむことはできない。

外なる人が砕かれる必要がある理由の一つだ。






Coffee Break, #328 2 Corinthians 4

2019年03月10日 | コーヒーブレイク
第2コリント4章16節
私たちは決して挫かれない
我々の外なる人が砕かれ
内なる人は日々新たにされていく

◇◇

この聖句において「新たにする」という意味の単語ἀνακαινόωは、ロマ書12:2においてリニューイングと訳出した単語ἀνακαίνωσιςの動詞形。

我々の思いがリニューイングされる必要があるということは分かる。

我が思いは旧創造から脱出しなければならない。

一方、新生し、かつ今や主の霊と一つになっている我が霊が日々新たにされていく(リニューイング)とはどういうことなのか。

思いのリニューイングと霊のリニューイングに関して、別角度から説かれている聖句がある。

第2コリント3:18
我々は皆
蔽いを剥き取られた顔をもって
主の栄光が
鏡の中に捕えるように
同一のイメージへと変容を遂げていく
栄光から栄光へと
主の霊によって

>蔽いを剥き取られた

とあるが、「蔽い」とは敵の攻撃、あるいは旧創造のままの我が思い。

敵の妨害を主とともに突破しながら、我が思いは旧創造から脱出していく。

「蔽いを剥き取られた顔をもって」とは、我が思いのリニューイングが完了した様を表現していると思われる。

我が思いのリニューイングが完了すると

我々は皆、栄光から栄光へと主と同一のイメージへと変容を遂げていく

つまり

内なる人のリニューイングとは

我が霊が主イエス(の霊)と同一のイメージへと変容していく過程

と定義できる。

栄光から栄光への変容であって、下から上への変化ではない。

思いのリニューイングとはかなり違うという印象を受ける。

なかなかタフで面白い。




Coffee Break, #327 2 Corinthians 4

2019年03月03日 | コーヒーブレイク
第2コリント4章16節
私たちは決して挫かれない
我々の外なる人が砕かれ
内なる人は日々新たにされていく

◇◇

霊が解き放たれると、常に神の臨在を楽しむことできるようになる。

みことばの背後にある霊感に触れることができるようになる。

霊の経験を通して、神の啓示を受け取ることができるようになる。

霊と共にみことばを解放する時、強力なパワーを有する証しとなる。

霊によって、他の人の霊に触れることができるようになる。

霊によって、他の人を量ることができるようになる。

その人の思い、意志、感情に触れることができるようになる。

外なる人が固く閉ざされている人の霊に触れることはできない。

外なる人が砕かれていないクリスチャンの霊にも触れることはできない。