みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#22 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年08月30日 | 創世記
第1章
キリスト教神学

p30~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

改革派信仰の防衛という疑問に目を向ける前に、われわれはまず、一般に、聖書とは何かについて知っておく必要がある。

1.神の教理

当然のことながら、神学体系においても弁証学においても、神の教理は基本的重要事項。

神は本当に存在するのかを理性的に議論する前に、クリスチャンがどのような神を信じているのかまずは確認しておく必要がある。

何がそのことに先行するのか。

言外の意味は表示に先行する。

まず前者を考えることなく、後者を理性的に議論することはできない。

われわれが「神」ということばを用いる時、われわれの意味することは何だろうか。

系統学は、神の属性(attirbute、ご性質)すなわち特性(property、特徴)について議論して、この疑問に答えようとする。

そのような神の特徴(ご性質)は、説明可能な特徴と説明不可能な特徴に分かれる。

説明不可能な特徴の下において:

第1に、神の非依存性、すなわち自存性(aseity)。

神はご自身の存在以外の何かに関連することも依存するもない。

神はご自身の存在(his own being)の源、否、源ということばは神に適応されない。

神は絶対。

神に不足はない。

第2に、神の不変性。

神は永遠の存在であり、変わることなく、また変わることもできない。

マラキ3:6
主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

ヤコブ1:7
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。 
→引用聖句の間違いか?

コメント:

>何がそのことに先行するのか。
>言外の意味は表示に先行する。

意味がよく分からない。次の文章はどうか。

>まず前者を考えることなく、後者を理性的に議論することはできない。

クリスチャンはどのような神を信じているのか考えることなしに、神は本当に存在するのかを理性的に(理知的に)議論することはできない。

すると「言外の意味」と「表示」の意味が何となく見えてくる。

つまり、「表示」とは、われわれクリスチャンが信じている(つまり、聖書に書かれている)具体的な神の特徴であり、また「言外の意味」とは、そのような(聖書を通して)神のご性質を把握した上で、ことばでは言い表すことができない神の実在を確信しうる何か、ではないかと推察される。



#661 神の法第六戒

2021年08月29日 | 神の法
第6戒
堕胎

268~
Abortion
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

最終提言:よく見かける修辞的例があり、次のように問いかける、「緊急時に、医師は母親の命を救うべきか、胎児の命を救うべきか。」

どちらの命が犠牲となるべきか。

胎児の命か母体の命か。

有能な医師にとって、これは実に不可解な疑問。

命を救うために危機的状況下で働く医師は、母体と胎児の両者を救うために全力を尽くす。

現場で働く医師は、そのような「選択」をしたことがない。

母体と胎児の命を救うために、瞬間瞬間できることはすべて行なうことが医師の責務。

道義とは、そのようなわざとらしい質問をすることによって為されるはずもない。

その目的は、人を神の座へと持ち上げること。

カリフォルニア州において自由化された中絶法は、急速に極めて深刻な危機へと発展した。

多くの人々はその危機的状況を無視することにした。

「その法は醜悪な状況を生み出している」と、1970年4月22日、州知事レーガンは述べた。

レーガンは言った、「1967年ベレソン自由化法案に、彼がサインしため、多くの魂の選別が行なわれた」と。

その法案が実行されると、母親の精神的肉体的健康が危機に瀕すると予見される時、あるいは妊娠が強姦や近親相姦によって生じた場合、人工中絶は許可される。それ以前は、女性の命が危機に瀕している場合のみ許可された。

「その自由とやらで一体何が起きているのかしゃべらせてくれないか」、レーガンは女性グループに言った。精神衛生部門を指さしながら、州知事レーガンは続けて言った。

「カリフォルニア州において現在の人工中絶の増加率が継続すれば、今からの一年間、この州における出生数よりも中絶数の方が上回るだろうと公衆衛生省は告げている。その大部分はカリフォルニア州健康保険Medi-Calから支払われることになる。」

レーガンはさらに続けた。「専門家の下で、若い未婚の女性が妊娠して、カリフォルニアにある福祉事務所へ行く。そして、自動的に人工妊娠中絶の資格を得て、希望すれば健康保険を使う。彼女がすべきことは信頼できる精神科医を得ることなのだが、安直な道を選択しようとする。誰か彼女のベッドサイドへ行って、彼女は自殺癖があると言ってくれる人はいないのだろうか。」

レーガンは言った、「今回で3度目の中絶を行なった15歳の女の子がいる。毎回世話をしている心理療法士は、彼女は自殺癖があると言っている。国家はこのようなビジネスに加担すべきではないと思う。」

州知事がそのように述べる前に、上院議員アンソニー・ベレンソンは一部の例外を除き人工中絶に関するすべての規制を撤廃する法案をすでに議会に提出していた。次期州知事候補ジェス・アンルーは、この提案に賛同した。



#660 神の法第六戒

2021年08月28日 | 神の法
第6戒
堕胎

267~
Abortion
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

人工妊娠中絶に対する要求の基本は、命を神の下にではなく、国家の下に置こうとする非宗教家による国家統制にある。

中絶の裏の意味は、胎児にとどまらず、すべての人間の命に関連する。

中絶に対する要求は、その核心部分において無律法主義。

ある婦人グループが反中絶法の全面廃止を要求し、ニューヨーク州法廷公聴会に乱入した。

婦人グループは、「本体女性に関することを男たちが議論することに飽き飽きている」と訴えた。

「何の権利があって、あなたたち男性は女性が子どもをもうけて良いとか悪いとか言っているのですか」と、ひとりの女性が叫んだ。

この主張の論理は明白。

経験がないのだから男性は出産に関して法律を制定することができないという女性の主張。

つまり、法律と法制定者の両者における法的正当性のリトマス試験紙は経験ということ。

この論理からすれば、善良な市民は殺人に関する法律を制定することはできない。

なぜなら、善良な市民は殺人行為を経験したことがないから。

ヒューマニズム(および、経験宗教哲学)は、あらゆることを人間の経験という試験まで引き下げる。

結局、あらゆる法と秩序の価値を下げる。

女性のように子どもを産むことのできない男性でも中絶に関する法律を制定することはできる。

何故なら、法の原則は経験ではなく、神の法言(法でありことば)だからだ。



#659 神の法第六戒

2021年08月27日 | 神の法
第6戒
堕胎

266~
Abortion
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

古臭い社会における中絶に関する研究は以下のような事実を明らかにした。

中絶の主な目的は、父親に対する復讐、責任に対する嫌悪、恥を避けたい願望、自殺の類似行為、命に対する憎しみ、人に対する憎悪、父親を骨抜きにすること。

親となることからの逃避行として、人工中絶の動機は
1.美貌の保持
2.自由と無責任の継続的享楽
3.多くの文化圏に共通する妊娠中および授乳期間中の性交渉禁止の回避

Deverauxによると、これら中絶の動機の根本は、成熟からの神経症的逃避行。

古臭い社会においてさえ中絶は殺人であることに気づいているという(Deveraux)。

中絶に関する有用な議論がAmerican Bar Association Journalに掲載された。

UCLA校、産婦人科学A.C.Mietus教授及び彼の兄弟Norbert J. Mietusによって書かれた記事。

違法人工中絶において年間5,000から10,000人の母親の命が絶たれていることを遺憾に思う人たちは、人の命の大量殺戮の過程で犠牲になっている、百万以上もの生まれざる子どもたちの命を無視している。

Mietus兄弟は言う。

「身体障害や機能欠損のある胎児の場合、中絶は正当化されると言う人がいる。」

「一方的な処置と比べるまでもないが、精神的肉体的欠損のある子どもたちを生かそうと努力するように提案する医師はいるのだろうか。」

「寝たきりの者たちよ、皆前へ進め。前進して、車椅子に縛られる者よ良くなれ。さらに前進して、杖を使う者よ良くなれ。さらに進んでいけ。眼鏡をかける者、補聴器を使う者、義歯を装着する者、太り過ぎている者、痩せ過ぎている者へと体が良くなるまで。」

「許容できる健康状態と許容できない健康状態との間の境界線はどの段階で引くのか。

「完璧な人間などいない。数百万もの障害者たちの命を奪えば、この世は良くなるのだろうか。世は、てんかん持ちミケランジェロから、つんぼのエジソンから、せむしのシュタインメッツから、喘息持ちのテオドール・ルーズベルトから、小児麻痺のフランクリン・ルーズベルトから得たものはなかったのか。」

「中絶法の自由化は、安楽死の正統化を主張する圧力へと移行するであろう。このことを認識する必要がある。命への攻撃という意味では基本的に両者は同じ。」




#658 神の法第六戒

2021年08月25日 | 神の法
第6戒
堕胎

265~
Abortion
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

しかしながら、人工中絶は減少傾向にはない。

聖書律法の権威低下が中絶の増加へとつながってきた。

1946年のサンフランシスコにおけるアイネズバーンズ人工中絶事例によると、年間出産件数が16,000件だったのに対して、年間人工中絶件数は18,000件だった。

1958年の米国人工中絶件数は200,000から1,200,000件だった。

人工中絶の大多数は既婚女性によることが判明している。

1960年代に強烈な計画が起こり、米国公共健康協会によって、人工中絶に対する女性の権利が強く主張された。

ソビエト連邦では、人工中絶は自由、合法となった。

母親の精神的肉体的健康が損なわれる場合、人工中絶が容認されるという治療的妊娠中絶が、カリフォルニア州で合法化されたが、これも違法な人工中絶を止めることはできなかった。

この法整備をさらに進めていくという誓約が当局の回答だった。

ヒューマニズム(人間教)の強い影響の下で、法的状況に暗雲が立ち込めた。

ボストンで、まだ生まれていない子どもが事故によって流産した。

妊娠していたザベン・トリガン婦人が運転する車がトラックとの事故に巻き込まれたが、奇跡的にその子は事故による傷害から回復した。

もちろん、その子は未熟児だった。

聖書律法に準じた1つの好例。

しかし、ニューヨークにおけるロバート・スチュワート婦人の場合は大きく異なる。

彼女は麻疹に罹患しており、そのため知恵遅れを持つ子どもを出産することとなった。

彼女は病院側に中絶を拒否されたが、その病院を相手に訴訟を起こして裁判に勝利した。




#657 神の法第六戒

2021年08月21日 | 神の法
第6戒
堕胎

265~
Abortion
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

このような見方において、国家は究極の秩序であり、その体系を操る神。

何故なら、国家は中絶、子殺し、近親相姦を命ずることができる。

国家が認めた出生数が過剰となった場合には中絶は必要であるという点で、アリストテレスの意見もこのような考え方と同じだった。

中絶が違法であったローマでは、究極的な法的根拠によってではなく、法律で認められた子どもの父親を欺くために中絶が行なわれた。

極めて早い時期には、教会は堕胎を非難した。

使徒法典(Apostolic Constitutions)は次のように言明している。

「堕胎によって子を殺してはならない。授かりし子を殺してはならない。すべては形づくられ、神から魂を与えられた。殺すなら、不義に破壊されたがゆえに報復されるであろう」

出エジプト記21:23
しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。 

テルトゥリアヌスは次のように言明した。

「クリスチャンは堅く立つ。出生を妨げることは単なる殺人ではない。生まれる命を取り去るかどうか、あるいはこの世に生まれ出るものを破壊するかどうかが問題なのではない。それは一つの個体となろうとしている一人の立派な人間。その種の中に立派な果実を持っている。」

人工中絶に対する現代人の態度は、次第に寛容になっている。

A.E.Crawleyは、その主な理由は貧困にあると考え、「頻度は高くはないが、一つの理由は貧困」と述べた。

ハブロック・エリスは、生活が合理的かつ科学的になれば、文化生活は中絶減少へ進んでいくと考えた。

言い換えると、中絶は罪ではなく、経済的困窮や無頓着な性行為に対する古臭い治療薬。




#656 神の法第六戒

2021年08月20日 | 創世記
第6戒
堕胎

264~
Abortion
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

プラトン界は、この事についてはっきりと述べている。

20歳から40歳までに、女性は国家のために子を宿すべきだと考える。一方、男性は、人生における最高潮を終える頃まで、つまり50歳までに国家のために子をもうけるべき。

この年齢以下か、またはこの年齢を超えている男が、社会のために子をもうけるという行為を行なうなら、宗教および正義に反する行為と宣言されてしかるべき。国家のために育てられている子どもだというが、その子は、発覚することが避けられ、正当な犠牲や祈り(それは司祭や女司祭、町全体によってすべての結婚および祝宴の席で捧げられるべきであるが)の下でもうけられたのではなく、両親よりもより崇高でありかつ有用であるという趣旨において、差し迫った不摂生のために暗闇の蔽いの下で授けられたのだろう。

行政長官の紹介もなく、いまだに父たりうる年の男が妊娠適齢期の女性に手を出した場合、法がそのような男に適応されるだろう。国家に対して、保証人がおらず、邪悪な私生児を国家のためにもうけた罪によって告発されるだろう、

しかしながら、男性であれ女性であれ、規定の年齢を過ぎた人は、娘や母、娘の子どもあるいは祖母以外の誰とでも交際しても良いと想像する。同様に、息子や父、あるいは直系の親戚でなければ、女性も誰とでも関係を持つことを許可される。偶発的な懐妊を避けるために、また、そのような結合の果実は育てるべきではないという理解に基づいて胎児を処理するために、全力を挙げて厳格な秩序を達成する場合においてのみ関係を持つことが許される。

その計画は道理にかなっている。しかし、父、娘、ここで記載した関係者をどのように区別するのか。実は不可能ではあるが、次のように答えておく。家族の一人が結婚した日から7か月と10か月の間に出生した場合、その男の子どもであるとする。男子なら息子、女子なら娘と、その男は呼ぶ。彼らはその男を父と呼び、子どもの子どもを孫と呼ぶ。彼らは彼を父、花婿と花嫁、祖父と祖母と呼ぶ。同様に、父と母が彼らを世に送り出す同時期に生まれたがゆえに、お互いを兄弟姉妹と認める。ここで説明したように、これらの人たちはすべて、お互いに性交渉はできない。しかし、運命の機会がそのようになるなら、アポロンの神信託が許せば、法は兄弟姉妹間の性交を許可するであろう。

コメント:

当たり前のことが難しく説明されているが、これが法律(≒定義)というもの。

子どもを設けることができる男女の適齢期について定義されている。

彼らは法的な制限を設けていたようだ。

国家のために子供を作れと書いてある。

父母、兄弟、姉妹、祖父母、孫、親戚が法的に定義され、近親相姦も法的な許可が得られれば違法ではない。

これがプラトン界(Plato's Republic)の法律。




#21 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年08月20日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p29~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

哲学的に議論をするということは、聖書を抜きにして議論を始めるということではない。

理性的、かつ経験に訴えることによって、まず初めに哲学的に有神論を防衛し、その後に知恵を得るために聖書に立ち返り、キリスト教を防衛するのではない。

われわれは、聖書からキリスト教信仰のみならず、有神論を得る。

聖書が語ることすべてにおいて、聖書は権威があると考える。

そして、聖書は万物について語っている。

聖書が、直接、野球について語り、原子について語っていると言っているのではない。

直接的に、あるいは間接的に、聖書は万物について語っている。

聖書が告げていることは、キリストとその御業のみならず、神はどのようなお方であるか、宇宙はどこから来たのかということ。

それは、歴史のみならず歴史原理をわれわれに与えてくれる。

さらに、これらの問題に関する情報は、解決不能な全体へと織り込まれている。

聖書を神のことばとして受け入れることを拒否する場合にのみ、(例えば、物理学的宇宙など)いわゆる宗教的道徳的教えを、聖書が言っていることから分かつことができる。

それ故、われわれが世に対して提示しなければならないのは、聖書に含まれている真理体系だ。

この真理体系を明らかにするための教義上かつ体系的神学分野があり、いくつかの主要項目から成る。

そこで、これらの諸問題を解決できるように、組織神学(systematic theology)の主題をいくつか取り上げることにする。

例として、ルイス・ベルコフ(Louis Berkhof)教授が書いたマニュアルがある。

その中に、神の教理、人間の教理、キリストの教理、教会の教理、救いの教理、最終事項の教理、に関する議論がある。

いずれの場合にも、改革派の立場は、聖書の教えであることが示される。

ローマカソリック、アルミニウス学派、そして他の見解は、あまり聖書的ではない。



#655 神の法第六戒

2021年08月19日 | 創世記
第6戒
堕胎

263~
Abortion
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

この聖書箇所が判例(case law)、すなわち、少数の例によって、多くの含みのある事柄を表現していると理解する時、出エジプト記21:22~25の重要性がさらに明らかとなる。

この箇所の含みある事柄とは何か。

第1に、聖句は故意の堕胎ではなく、偶発的堕胎を例示していることは明らか。

もし偶発的な場合に対する罰則でさえ、それほどまでに厳しいのであれば、意図的に仕組まれた堕胎はさらに厳重に禁止されなければならないことは当然である。

故意の堕胎はこの法によってすでに消滅しているので、法律で禁止する必要がない。

第2に、偶発的堕胎でさえも死刑が科せられる。

喧嘩をしている男が妊娠中の女性を突き飛ばし流産させた場合、その男は死刑を免れない。

故意に流産を誘発した場合には、はるかにそうであろう。

第3に、母体にも胎児にも傷害が及ばなかった場合でも、問題の男は罰金刑を負うべき、否負わせる必要がある。

すべての妊婦が強固な法的防護策を持ちうるように、法が強力に母体と胎児を保護するのは当たり前のこと。

第4に、卵を抱く母鳥と若鳥は法によって保護されているので(申命記22:6~7)、誕生という事実を損なうことは深刻な事態であることは明白。

神の法によって必要とされる、あるいは許可されている場合以外、命を破壊することは禁じられている。

ギリシャローマ世界において、状況が的を得ているとみなされる場合には、中絶は正当と判断されるという点において、当初からキリスト教はその事例と真っ向から対抗してきた。




#654 神の法第六戒

2021年08月15日 | 神の法
第6戒
堕胎

263~
6. Abortion
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

堕胎、すなわち胎児の破壊は、聖書の規準によって長い間殺人と見なされてきた。

この判断の土台は第6戒、出エジプト記21:22~25にある。

出エジプト記21:22~25
人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。その支払いは裁定による。 
しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。 
目には目。歯には歯。手には手。足には足。 
やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。 

カスト(Cassuto)が書いた「注釈的記述」の後半部分は、その意味を明らかにしてくれる。

男たちが争い、不意に身ごもった女性を傷つけ、胎児が出てきてしまう(流産する)が、損害が生じなかった場合、すなわち、母親も胎児も死ななかった場合、傷害者は罰金によって処罰される。しかし、何らかの損害が生じた場合、すなわち母親または胎児が死亡した場合、命に対して命を差し出さなければならない。

ケール(Keil)とデリツシュ(Delitzsch)のコメントは重要。

人が争い、平和を求めるために仲介に入った身ごもっている女性を突き飛ばし、結果として子が生まれてしまう(流産してしまう)が、母親にも子にも傷害がなかった場合、金銭的代償が支払われることとなった。その女性の夫は、加害者に宣言し、仲裁人によって(訴えに対する)罰金刑が課せられた。罰金が科せられる理由は、たとえ障害が母親にも胎児(胎の実)にもなかったとしても、殴打によって命が危険に晒されていたかもしれないからだ。複数形が使われている理由は、胎児が2体以上の可能性があるから。「母親または胎児に傷害が発生した場合、命には命、目には目、傷には傷が与えられなければならない」つまり、完璧な報いが執行された。

興味深いことに、無律法ディスペンセーション主義は、この箇所にも他の箇所にも法的意義を認めようとはしない。

ダラス神学校のウオルク(Waltke)は、この聖書箇所の堕胎に対する法を認めず、事実、堕胎は旧約律法において許されていたと考えている。

コメント:

この記事に書かれているように、ディスペンセーション主義は、旧約律法を完全否定するため、上記のような結論に至る。

理屈上当然の帰結として堕胎を容認する。

しかも、ディスペンセーション主義は、創造論ではなく進化論を土台とするために、キリスト教ではなくヒューマニズム(人間教)に分類されるべき宗教と考えてよい。

ちなみに、進化論を土台にしたイデオロギーが共産主義思想。

生活指針としての聖書律法を否定すると、神の教えではなく人間理性による判断が生活の規準となるため、強固かつ不変的土台を失い、結果、光の外へとさまよい出て、暗やみの中を歩むことになる。

前回記事に書いてある通りだ。