みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#377 神の法第二戒

2019年07月30日 | 神の法
第2戒
いけにえと責任

◇◇

犠牲制度は、ある基本的な原則を法の中に導入する。

責任が大きければ大きいほど、違反も大きくなり、罪も深まるという原則。

これは、レビ記4章においてはっきりと宣言されている。

罪には4つの段階がある。

(1)大祭司の罪。大祭司の罪のためには、雄牛が捧げられなければならない。

レビ記4:3~12
もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持ってはいりなさい。その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。 

これはもっとも大きくて、高価ないけにえ。

民全体が罪を犯した場合とまったく同一の供物。

宗教的な指導者は、神の律法に関して主要な責任を負っていたので、それだけ罪も大きく、神によって厳しく裁かれた。

(2)民全体の罪。民全体が犯す罪はそれに次ぐ大罪とされている。

レビ記4:13~21
また、もしイスラエルの全会衆があやまちを犯した場合、集団はそのことに気づかなくても、主がするなと命じられたことの一つでも行なって、罪に定められる場合には、彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。 そこで、会衆の長老たちは、主の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛を主の前でほふりなさい。油そそがれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持ってはいり、 祭司は指を血の中に浸して、主の前、垂れ幕の前に、それを七たび振りかけなさい。彼は、その血を会見の天幕の中にある主の前の祭壇の角に塗らなければならない。彼はその血の全部を、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。脂肪全部をその雄牛から取り除き、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。彼らは赦される。彼はその雄牛を宿営の外に運び出し、最初の雄牛を焼いたように、それも焼きなさい。これは集会の罪のためのいけにえである。 

集会とは、ヘブライ民族を表する。

民が集団として罪を犯すことがあった。

無知のゆえであれ、律法を守り行うことにおいて欠けがあった場合であれ、それはやはり罪として扱われた。

この場合も、雄牛を捧げなければならなかった。




#376 神の法第二戒

2019年07月29日 | 神の法
第2戒
いけにえと責任


◇◇

エレミア7:30~34
それは、ユダの子らが、わたしの目の前に悪を行なったからだ。・・主の御告げ。・・彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。この民のしかばねは、空の鳥、地の獣のえじきとなるが、これを追い払う者もない。わたしは、ユダの町々とエルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである。 

罪人の体を供物として捧げることは、神に対する恐るべき罪であり、裁きを招来する。 

犠牲の本質は、神への献身。

それゆえ、人身御供は神の法を退け、神への人造接近法を発見する試み。

人身御供は徹底したヒューマニズムであり、人為的規準に基づく贖いの実現。

犠牲は、罪のない完全無欠な人間であるキリストを象徴している。

キリストは、神への完全献身によって、律法をことごとく守り通した。

罪なき人間として、選びの民の罪を贖うために、神に受け入れられる犠牲となった。

選びの民は、神の贖いの血によって贖われる。

信者はみな、神との平和と一致の絆としての犠牲を捧げなければならなかった。

キリストを象徴する犠牲の動物には、傷があってはならなかった。

キリストの犠牲によって罪を覆われていない人々は、死刑宣告の下にいる。

レビ記1:4
その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。 

この「置く」という言葉をもっと語義に忠実に訳すと、自分の手を「寄り掛からせ」た。

犠牲やあらゆる肉の特定の部分は、人間が食べることのできない部分として取っておかれた。

血、内蔵を支える腹膜のひだ(または脂肪)、脂肪のついた腎臓。

羊の場合は、尻尾(及び脂肪)。

関連聖句:
出エジプト29:22
レビ記3:9、7:3~4、8:25、9:19~20
受け入れられた動物犠牲は、牛、羊、子やぎ、家禽、キジバト、子バト
レビ記9:3、14:10、5:7、12:8
民数記28:3、9、11、7:16、17:22~23

契約の仲保者は、神に対して血を捧げる。

これは純粋な生命を表す。

神と民との間に現れ、民の罪を覆い、贖いを成し遂げる。

祭壇への血の振り掛けは、神が血を受け入れたことを象徴するだけでなく、神が民と交わるために入る場所を聖別する役割も果たす。

神によって受け入れられた血は、民にも振り掛けられた。

民の贖いのために捧げられたまさにその生命が、民自身を聖別し、神との契約的交わりを可能にするためにも備えられたということを示すためだった。

聖別の行為は、生命の刷新の行為、すなわち、イスラエルを神の御国へ導き入れる行為を意味する。

神の御国は、神の生命エネルギーに満ち溢れている場所であり、祭司の王国、聖なる民の国として聖別された場所。

あらゆるものは血によって清められなければならない。

犠牲制度は、ある基本的な原則を法の中に導入する。

責任が大きければ大きいほど、違反も大きくなり、罪も深まるという原則。




#375 神の法第二戒

2019年07月28日 | 神の法
第2戒
いけにえと責任


◇◇

犠牲制度は人間の原始時代の遺物に過ぎないと一般の人々は考える。

聖書から犠牲制度について示そうとする人々の言葉に、まじめに耳を傾けようとしない。

このような慇懃(いんぎん)な拒絶の背後には、人間の自律への信仰と反神的世界観がある。

犠牲は、聖書の教理の基礎であり、聖書律法の土台。
 
犠牲は法にとっていかなる意味を有するか。 

聖書の犠牲制度は、人間犠牲の教理の上に成立している。

イサクの犠牲に関して、人間犠牲は原則として非難されるべきものではない。

罪の中にある人間は、自分の生命を自分の名において捧げる資格がない。

人間の生命の犠牲が非難されているのではなく、罪人の生命を捧げることが否定されている。

犠牲は「償い」と「聖別」のどちらにとっても有益である。

犠牲とは、犠牲を捧げた本人の生命そのものの献上。

罪による資格喪失によって、神が備え給うた代理の原則が導入される。

供物全般の本質は、神に対する人間の献身にあり、外面的な行為において表現される。

これが犠牲の本質。

すなわち、犠牲の真の意味とは、神に対する人間の全的献身。

神に対する真の全的な献身が実現するためには、愛と信仰に根ざした神の律法への服従が不可欠。

十戒の宣言に続いて、完全献身に基づく服従が要求されている。

申命記6:5
それゆえ、あなたがたは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたがたの神、主を愛さなければならない。

出エジプト19:5~6
今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである」 

律法が与えられ、犠牲が捧げられたのは、第三日目になってからのことであった。

エレミア7:21~24
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたの全焼のいけにえに、ほかのいけにえを加えて、その肉を食べよ。わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。 

エレミア33:10~11
主はこう仰せられる。「あなたがたが、『人間も家畜もいなくて廃墟となった。』と言っているこの所、人間も住民も家畜もいなくて荒れすたれたユダの町々とエルサレムのちまたで、 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。』と言って、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる。それは、わたしがこの国の捕われ人を帰らせ、初めのようにするからである。」と主は仰せられる。 

犠牲は服従と結びつかなければならない。

それは、回復の日に実現する。

形だけの犠牲は預言者によって非難された。

犠牲が神に対する完全献身を意味するためには、どうしても服従が必要不可欠である。





#374 神の法第二戒

2019年07月26日 | 神の法
第2戒
祭壇と死刑


◇◇

新約聖書になると、いくつかの点で刑罰に変更が見られる。

しかし、死刑の基本的な原理は、キリストの贖いの死によって強化され、明言された。

人間が神に対して罪を犯し、神の律法を破れば、間違いなく死に渡される。

この事実は、キリストが贖いの死を遂げられたことによって、明白化された。

それゆえ、祭壇の血と、祭壇が存在する事実によって、死刑が必要であることがはっきりと示された。

神の律法に定められている死刑を否定することは、キリストの十字架の拒絶であり、祭壇の価値を否定することに等しい。

祭壇は死刑の原理を明示している。

祭壇は死を証ししているがゆえに、生命の宣言でもある。

祭壇は、われわれの生命は神の小羊の死の内に存するということを宣言する。

さらに、祭壇は、われわれの生命の保全は、死刑の存在によって確実なものとなるということをも宣言している。

この点で、神の律法を拒むならば、土地は汚される。

それゆえ、わたしはその罪をその上に報いる。土地はその住民を吐き出す(レビ記18:25)。

死刑を正しく実行するならば、土地は清められ、義人は守られる。

申命記21:18~21
かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。 

頑固な未成年の非行者を死に渡すように求める律法は、判例法である以上、頑固な成人の犯罪者にも適用される。

死刑を否定することは、悪を許容することに等しい。

法と秩序を破壊する権利を与えることになる。

殺人者は、自分の生命を失うことなく殺人を犯す権利を保有することになる。

犠牲者は生きる権利を奪われることになる。

ある人は、無条件の愛や無条件のあわれみを唱うかもしれない。

一人の人に無条件の愛やあわれみを許すならば、それ以外の人々の生存を否定することになる。

もし殺人者に愛とあわれみを示すならば、彼によって生命を奪われた犠牲者に対して愛とあわれみを示すことができなくなる。

神と神の律法を公然と侮蔑することにもなる。

神は律法の中で、死に当たる罪を犯した者に対していかなるあわれみも示してはならないと語っておられるからである。

民数記35:31
あなたがたは、死刑に当たる悪を行った殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。

民数記35:33,34
あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。

レビ記26章では、神の律法を無視する土地にのろいが下ると言われている。

もし民が土地から悪を除かなければ、神がその土地から住民を除かれる。

祭壇は、悪に対する確固不変たる死を意味する。

一方、祭壇は、キリストの贖いの血によって贖われた者たちにとって生命である。

祭壇は、死刑の有効性を示す最高の証言者。

死刑はイエスキリストの人格の上に成就された。

これは神の恵み。

神の律法を軽視するならば、必ずキリストとその犠牲の御業をも蔑み、それによって自らの堕落した性質を明らかにすることになる。

ヘブル10:26~27
もしわれわれが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていない。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない

祭壇は、その意義を認めるわれわれにとって生命。

そして、神と神の御国に敵対する者たちにとって裁きの保証。




#373 神の法第二戒

2019年07月24日 | 神の法
第2戒
祭壇と死刑


◇◇

真の贖罪が現れない場合には、必ず、お手前の贖罪が持ち出されることになる。

ローマ3:31
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。 

もっとも際立った方法で律法を確立したのが福音の本質であった。

福音の本質によって、福音が律法から区別されることになった。

祭壇のこの側面を否定する人々は、無律法主義に陥ることになる。

この見解に立つ人々は、祭壇を神の無条件の愛の徴と見なす。

彼らは、祭壇を決して義の要求によって制限された愛の徴とは見なさない。

祭壇は法と正義を証言しているということ、祭壇の意味は法と正義にあるということが確認され、支持されなければ、異端がはびこることになる。

祭壇の血は、律法が頑固に、しかも永久に求め続けている要求を厳格かつ持続的な方法で象徴する。

その要求とは神の義が成就すること。

祭壇は、律法にとって死刑が基本的な要素であることをはっきりと証言する。

死刑の教理を第六戒「殺すな」と結びつけて誤りを犯している人々は、第六戒の意味を制限するだけではなく、死刑からその深遠な神学的な基礎を奪い取っている。

もし死刑が神の律法にとって根本的な要素でなければ、キリストの死は無駄になってしまう。

死刑以外の方法によって神の義が満足されることはない。

死がなくても贖いが可能であると考えたり、人間が神に近づく上で祭壇を無視できると考えることは、三位一体の神を退けて、人間を偶像とする行為であり、人間に自分自身を救う力を付与することに等しい。

民数記35:31
あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。

様々なプロテスタント及びローマ・カトリックの教会指導者たちや、俗界の権威者たちが、ローデシア当局に、数人の殺人者の死刑差し止めを求めて嘆願書を提出したことがあった。

これは、明らかに神の律法を無視し、軽蔑する行為である。

さらに、彼らはキリストの十字架をも蔑んでいた。

彼らは「自分たちの言葉」を神の御言葉の上に置いていた。

死刑に関する律法:
民数記35:31、贖い金では償えない。
創世記9:5~6、民数記35:16~21、30~33、申命記17:6、レビ記24:17、殺人。
レビ記20:10、申命記22:21~24、姦淫。
レビ記20:11、12、14、近親相姦。
出エジプト22:19、レビ記20:15、16、獣姦。
レビ記18:22、20:13、男色。
申命記22:25、婚約している処女を強姦した場合。
申命記19:16~20、死罪に関わる事件における法廷偽証罪。
出エジプト21:16、申命記24:7、誘拐。
レビ記21:9、姦淫を犯した祭司の娘。
出エジプト22:18、魔術。
レビ記20:2~5、人身御供。
出エジプト21:15、17、レビ記20:9、父母に対する暴力とのろい。
申命記21:18~21、悔い改めない頑固な非行者。
レビ記24:11~14、16、23、冒涜。
出エジプト35:2、民数記15:32~36、安息日の冒涜。
申命記13・1-10 偽預言する者。偽りの教えを伝える者。
出エジプト22:20、偶像神へ犠牲を捧げること。
申命記17:12、神的な法秩序に従うことをむやみに拒否すること・律法否定・法廷に対する反抗的態度・行動。
申命記13:9、17:7、証人による処刑について。
民数記15:35、36、申命記13:9、会衆による処刑について。
民数記35:30、申命記27:6、19:15、2人に満たない証人の証言では処刑できない。




#372 神の法第二戒

2019年07月23日 | 神の法
第2戒
祭壇と死刑


◇◇

マタイ26:39
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」 

主イエスの真剣な求めにもかかわらず、処罰への厳格なる要求は逃れることができなかった。

まさしく、法の本質the bosom of law」に対して投げかけられている要求だ。

破られた法は償いを要求するのであり、それは満たされなければならない。

神は流血を喜ばれる方ではない。

しかし、真理と義に対する至上の関心は、どのような代償を払っても擁護されなければならない。

このように、祭壇は、契約の箱と同様に、「法及び法の正義」を表している。

恵みを受けるには、法の要求が満たされなければならない。

神にとって法は極めて重要な意味を持っている。

主イエスキリストは、新しいアダム、新人類の頭として、法を完全に守られた。

新人類が神に服従する性質を持つ者たちであることを示すために。

恵みは法を無効にはしない。

恵みは法を満たす。

それゆえ、神の恵みは、法が有効であること、そして、法の要求が十分かつ絶対なる義であることを証言している。

われわれは、自分の足で立つためのしっかりとした土台を必要としている。

神の御前で確信を持って生きるために、確実でしっかりとした基礎を持たなければならない。

われわれが神の法を破り、罪を犯す時に、神は御自身の義の要求を満足させるために、キリストを苦しめ、殺された。

初代(昔の)教会は、キリストの苦しみと死にこのような意味を見いだしていた。

満足とは、神の義の要求に対するものである。

この点に躓く者たちは、神の栄誉の求めに対する満足を主張するが、けっして神の義の求めに対する満足を言わない。

神の義をおいて、一体何が神の栄誉なのだろうか。

神の栄誉とは、神の倫理的な御性質を反映する行動であり、その表出に他ならない。

この倫理的な御性質の現実化に際して、その中心となり、それを制御する要素となるのは義である。

御性質は、そのすべてが何かによって制限されている。

愛は、義の要求によって制限されている。

義の要求において愛の働きに範囲を設けることは、贖いの真の土台及びその理由となる。

その土台と理由は、神の御旨の中に存在する。

それ故、神の生ける像、すなわち人間の良心の中にもそれらが生じることになる。

人間の良心は、刑罰が永遠なる正義の法が違反者に対して下した報復であることを本能的に悟る。

有効な贖罪の媒介を経ないでは、良心が確固たる平和に至ることはあり得ない。






#371 神の法第二戒

2019年07月21日 | 神の法
第2戒
祭壇と死刑


◇◇

律法には祭壇の規定がある。

出エジプト記20:22~26
主はモーセに仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。 

幕屋が建設される前の暫定的な期間に作られた祭壇は天然の材料で出来ていた。

祭壇は被造物を表すのではなく、神が人間を受け入れ、御自身との交わりに入らせるための場所。

引き続いて、祭壇の型が指示される。

これは、幕屋の律法の一部として与えられた(出エジプト27:1~8、38:1~7)。

祭壇はアカシアの木で出来ており、その全体を青銅が覆っていた。

大きさは、5×5×3キュビット。

犠牲は贖いの事実を指し示す。

つまり、神御自身が罪人の救済の方法を提示された。

祭壇上に捧げられた動物はイエスキリストを象徴する。

主イエスは「世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)」

われわれを愛し、御自分の血によってわれわれの罪を洗い清めてくださったお方(黙示録1:5)。

イエスキリストという贖いの犠牲を受け入れることなしに、救いも信仰もない。

イエスキリストは、御自分が人の子であること、多くの人の身代金として御自分の生命を与えるためにやって来られたこと(マタイ20:28、マルコ10:45)をお示しになった。

第1テモテ2:5~6
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリストイエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 

祭壇は、我らの主イエスキリストと彼の贖いの犠牲を示す。

残念ながら、教会中心の聖書解釈は、この点に終始し、それより先に進もうとしない

実際、祭壇は教会生活のみならず、人間の生活全般における基本である。

主イエスの死は、法的側面を備えている。

すなわち、主イエスは、罪人たちの代わりにこれらの要求を満たすために法的な死を経験された。

その死は、人間の罪に対する神の当然の審判であった。

と同時に、罪のないキリストにとっては相応しくないものであった。

律法の呪いから人間を贖うために自ら呪われた者とされた。

人間が律法違反者として自らに招いた刑罰を耐え忍んだ。

それは、人間がその刑罰から逃れるためだった。

本来イエスキリストが受けるはずであった好意と祝福を、罪人たちが代わりに受けることができるようにと、義なる神は罪人の身代わりに苦しみを受けられた。

イエスキリストはわれわれのために罪とされた。

それは、われわれが、彼にあって、神の義となるためである。






#370 神の法第二戒

2019年07月20日 | 神の法
第2戒
法の王座


通読中

◇◇

現在、キリストはこの玉座から、すべての敵を征服するために働いておられる(第1コリント15:25)。

勝利の預言が成就するために。

この世の王国が神の国となり、キリストの王国へと変えられ、キリストが永遠に支配されるために(黙示11:15)。

この目的を成就させるために、契約の民に対してイエス・キリストは次のように言われた。「天においても、地においても、あらゆる権力(あらゆる権威または支配)が私に与えられた。」と。

教会は、キリストの帝国建設を実現するため、すなわち、世界をキリストの御国と変えるために送り込まれた。

至聖所において、神の統治の座は法であった。

幕屋について:

まず、契約の箱は十戒(の書かれた石板)を納めた容器。

神が御自身の存在と栄光を明らかにされる御座または王座であると考えられていた(出エジプト25:2、9、40)。

契約の箱は幕屋の器具の中で最も神聖なもの。

民と神との交わりに関するあらゆる事柄がそこにおいて決定され、実行に移された。

契約の箱は、法を納めた容器であり、法を象徴。

法は、神の恵みとして、契約の民に与えられた。

神の王座は、まさにその法の上に存在していた。

法は神の正義と義であり、神の統治。

契約の箱の中身とは、神と人との契約であり、神の御支配の基本、神の王権を示す王座。

それゆえ、キリストの王権が法とは無関係であると考えたり、キリストの御業が法を廃棄したと考えることは、キリストの王権の意味の曲解であり、許すべからざる罪である。

神は祭壇を御自身の王座とはなさらなかった。

祭壇は贖いを行う場所であり、神の民が新しい人生を開始する出発点でしかない。

贖いの目的は、神の御国の建設にある。

御国とは、契約の法によって完全に統治される場所。

御国の民は、この法に喜んで従う。

喜んで法に従う完全な手本はイエスキリスト。

ヘブル10:5~9
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。 

キリストは、御自身がお与えになり、御自身において成就された律法によって地を治められる。

聖書律法において、幕屋は中心的な役割を与えられている。

「神の王座とは神の法である」という事実が幕屋においてはっきりと示されている。

法の王座は世界を支配している。

祭壇止まりの信仰は、中途半端な欠陥のある信仰。

祭壇は贖いを象徴し、信者の生まれ変わりを示している。

生まれ変わりの目的とは何だろうか。

法(すなわち、神)がなければ、人生は意味を失い、生まれ変わりの目的も見失われてしまう。

祭壇中心の信仰は、天国中心、携挙中心の信仰であって、神中心ではない。

それは、世から逃避することを求める信仰。

世において神の召しに応じて働き、御言葉を実行することを求める信仰ではない。

このような信仰は、王座についていかなる知識も持ち合わせていない。







#369 神の法第二戒

2019年07月19日 | 神の法
第2戒
法の王座

通読中

◇◇

幕屋に相当するものは、教会の中には存在しない。

キリストが死なれた時に、神殿の幕は真っ二つに裂けた(マタイ27:51)。

この時、神殿とは神の宮殿であるということが明らかとなった。

新しい神殿とはイエス・キリストである。

キリストは「私はまことの神殿であり、それは復活によって建つ」と宣言された(マタイ26:61、27:40、ヨハネ2:19~21)。

彼は、この御言葉のゆえに十字架につけられた。

クリスチャンには御霊が内住している。

それゆえ、クリスチャンは神の神殿(第1コリント3:16~17)。

教会も「神の家」(第1テモテ3:15、第1ペテロ4:17)と呼ばれている。

目に見える住居や構造物ではなく、目に見えないクリスチャンの集合体(キリストの教会)が教会。

今や、信仰者に対して真の至聖所は開放されている。

イエスの血によって、神の民は大胆に御座に近づくことができる(ヘブル10:19~22)。

幕屋には3つの場所があった。

第一の場所は、契約の民にのみ開放されていた中庭。

囲いによって外から隔てられていたが、天に向かっては開かれていた。

第二の場所は、祭司だけが入ることができる聖所。

覆いが掛けられており、内部には明かりが灯されていた。

第三の場所は、至聖所。

覆いが掛けられていて、中は真っ暗であった。

大祭司が年に一度だけ入ることが許されていた。

天は、宇宙の支配者として神が住まわれる住居。

幕屋は、契約の御民の統治者として神が住まわれる家。

神は、御恵みにより、自らへりくだって幕屋に住まわれる。

キリストの受肉後、神は、もはや幕屋ではなく、神人なるイエス・キリストの内に現臨される。

キリストの昇天後、聖霊が支配の御業を引き継がれた。

そのため、あらゆる意味において、聖霊を法や支配から切り離すことは不可能。

さらに重要なことは、天の聖所、世界統治の玉座にキリストが座ることになったということ。




#368 神の法第二戒

2019年07月18日 | 神の法
第2戒
法の王座

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「聖」は「礼拝」と関係しているのではなく、「神」と関係している。

神はそのあらゆる行動と存在において「聖」。

それゆえ、信仰に基づく活動(godly activity)は、それがいかなる領域においてであれ、すべて聖なる活動である。

家庭、農場、裁判所、教会、学校、どのような領域の活動も聖である。

現代人は、国家を何か悪い組織、世俗的な制度と考えている。

国家は、神の宮殿の外にあって、神から切り離された領域であると。

中世の人々は「君主は、神の義を行うために立てられた僕であり、王であられるキリストの副官として統治の任に当たっている。ゆえに、その職分は神聖である」と考えていた。

実際、王はキリストの似姿であった。

戴冠式を境に、儀式上、王は「神のキリスト」に変身した。

この儀式を通じて、新しい政府は、神の統治と結びつけられ、世界の真の支配者であるキリストの御支配と連関するようになった。

地上の王権をキリストの王権と重ね合わせることによって、王の威光を誇示するために、王を称える祝日は、主を賛美する日と同一日に設定された。

体制を維持する上で重要であるだけではなく、礼典の面から見てもきわめて重要な儀式なのである。

万物は、神によって創造され、完全に良かった。

完全に聖く、神のために聖別され、神にのみ捧げられた状態にあった。

人類は堕落した結果、神を冒涜するものとなった。

贖いの目標は、宇宙を聖いものに回復し、それを作り変えることにある。

呪われた者ども、すなわち、(霊的な意味での)カナン人たちを万軍の主の家から絶縁することにある(ゼカリヤ14:20、21)。

幕屋は神の宮殿である。

神の宮殿・住居であるがゆえに、それは聖所である。

初期に、神は、民と同様に天幕に住まわれた。

神は幕屋を王宮とされた。

「人々が自分の家に住んでいるのに、神はまだ天幕にお住まいになっている」という事実にダビデが初めて気づいたのは、かなり後になってからのことであった(第2サムエル7:2)。

神殿(神の宮殿)の実際の建設は、ソロモンの時代まで延期された(第2サムエル7:4~29)。

天幕(後に神殿)は、主に宮殿として機能していたのであって、礼拝の家と考えられていたわけではない。

礼拝は家庭で行われていた。

安息日は家庭において守られており、わざわざ聖所にまで赴くことはしなかった。

聖所だけではなく、至る所で神を礼拝する人も当時いた。

動物をいけにえとして殺し、その血を流して神に礼拝を捧げた。

サウルの罪とは、サムエルがやってくるのを待ち切れなくなって、自分でいけにえを捧げてしまった点にある(第1サムエル13)。