みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#8 携挙 N.T. Wright on the Second Coming of Christ NO.1

2024年03月03日 | 携挙

再臨(パルーシア、παρουσια、parousia)について

参照:Understanding the Parousia: The Last Days According to Jesus with R.C. Sproul

この動画の内容がかなり高度。

そこで、N.T. Wright師の見解を拝聴しようと思う。

上に提示したR.C. Sproul師の動画内容と似ていますが、こちらの方が短くて分かりやすい。

N. T. Wright on the Second Coming of Christ

「この世において天の文明を築き上げよ」という力強いことばを師は発出している。

◇◇

帝王とその帝国への期待を例にとると、この終末論は実によく理解できます。

パウロがパル―シア(parousia,παρουσια)、すなわち再臨(キリストが再び現れること)は旧約聖書の専門用語ではありません。

これは、帝王専用の専門用語であります。

parousiaとは、旅行や戦闘のためにローマから離れて、帝王が帰還する、王が現れる、神である王が出現する時に起こる現象を指します。

何故なら、その時、帝王家のある人たちは聖なる名誉を自らに与え、全住民が出て行って、帝王の帰還・入城を大歓迎する。

これがパル―シアです。

これが、第1テサロニケ4章において起こっていることであります。

イエスが再臨し、万人が膝を屈めて挨拶をする。

ピリピ3章にこうあります。

ピリピ3:17
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

私を見習って欲しいとパウロは言っています。

パウロは、彼がユダヤ人としての特権、ヘブル人の中のヘブル人としての特権に加え、自分に帰属するあらゆるものを如何に断念したかについて語っています。

ピリピの人たちは自分たちの特権を断念することができたでしょうか。

彼らの多くはユダヤ人ではありません。

しかし、彼らの中には、ローマ帝国の市民権を持っていて、それにより利益を得ている人たちがいました。

自分たちの権利の上に胡坐をかくのではなく、それを捨てて欲しいとパウロは彼らに言います。

何故なら、地上の事々に思いを置いても恥とも思わず、むしろあの(空虚な)袋のようなものを自分たちの神であると誇っている。

しかし、わたしたちの国籍は天にあります。

言っておきたいことがあります。

今日の午後お話ししませんでしたが、私たちの国籍は天にあるというパウロの言っている意味は、ある日私たちはそこに行くだろうという意味ではありません。

それは、国籍ということばの意味を考えれば分かることです。

ギリシャ世界の周辺、特にギリシャの東側に沿って、ローマは植民地を作っていました。

何故なら、パウロの時代の1世紀前、彼らはありとあらゆる市民と戦わなければならなかったからです。

そこにはあらゆる古参兵士たちがいて、ローマが望んだ最後のものは、イタリアへと帰ろうとする、或いはローマに帰属する古参兵士たちだったのです。

沢山の戦利品と分捕り物を両手に持って帰ろうとする兵士たちだが、ローマのような人で溢れている小さな町は、もはや彼らの住む場所ではなく、これが彼らの頭痛の種でした。

そこで、彼らは植民地を作ったのです。

ローマ市民だが、ギリシャの植民地に生きている人たち、或いはローマ文化を有してはいるが、その地で生きている人たちと同じように、パウロが私たちの国籍は天にあると言う時、退職した後に戻る場所のことを意味しているのではありません。

注)ローマ市民の国籍はローマ、しかし今生きているのは植民地。一方、クリスチャンの国籍は天、しかし今生きているのはこの世、という比較対照。

クリスチャンとは、天にある文明を今置かれているこの世界へと持ち込む人であるということをパウロは言っているのです。

主を、王を、イエスを、(これら3つのことばは帝王のことば)私たちは天から期待する。

誰が、この恥ずべき体を、主の栄光の体に変えてくれるだろうか。

主にすべてのことを委ねさせることのできる御力によって。

パウロはしばしば詩篇8篇を引用します。

詩篇8篇4~6
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。 
パウロは、「これはアダムを表現したものであり、同時にイエスを表現したものである」と言います。

私たちは皆、イエスは主であり帝王であることを知っています。

 

 

 


#7 携挙 Where Did Rapture Theology Come From? NO.2

2024年03月01日 | 携挙

Where Did Rapture Theology Come From? Ben Witherington III

3分6秒から最後まで。

◇◇

20世紀中頃、一般人による神学運動が起こりました。

この運動は、ギリシャ語新約聖書あるいはヘブル語旧約聖書に基いた研究ではなかったことを(つまり、素人による研究であったことを)私は強調しておきます。

それは、一般人による神学運動で、アメリカ合衆国全土のみならず世界中至るところに拡大していきました。

19世紀から20世紀にかけて、学術的援助や学術的釈義によって、この神学を支援する機運が高まりました。

その結果、1920年代に長老派によってダラス神学研究所が設立されました。

この研究所は、後にダラス神学校となり、米国ディスペンセーション主義を研究する2つの主要施設が創設されました。

両者はアメリカ中西部にあり、ひとつはシカゴに、もうひとつはダラスに建てられました。

ダラス神学校の歴史や学長の名前(中にはよく知られた名前も多くある)を調べてみると、それらの人々の大多数はディスペンセーション主義の教えを喧伝するために、ハルマゲドンなどの多くの本を出版して論争していたことが分かります。

ウォルバー教授やウオルフ学長、それから、もちろんあの有名なティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンソンなどが名を連ねています。

携挙がテーマである映画となったレフトビハインドシリーズ、そしてレフトビハインド現象が世に生み出されました。

以上のようなことに関して是非御理解頂きたいことは、教会史1800年にわたり、誰一人としてこの神学を信じる人はいなかったし、精密な聖書解釈であると考える人もいませんでした。

今日、この状況はかなり現代に偏った現象であるように思われます。

また、現代風の現象として西洋の教会に特異的であり、プロテスタントの中のある宗派に特異的な現象であると言えます。

言い換えるなら、これは、カトリック教や正統神学には見られない現象と言えるでしょう。

実際に、プロテスタントの少数派がこの神学を受け入れているのです。

以上から、この神学に関して言っておくべきことは、これは聖書の釈義解釈を基盤とはしていないこと、広く受け入れられてはいないこと、新約聖書には携挙に関する神学的証拠が存在しないことなどが挙げられます。

レフトビハインドの教えは、今後を待つ必要があるということを、私的に付け加えておきます。

 

 

 


#6 携挙 Where Did Rapture Theology Come From? NO.1

2024年02月29日 | 携挙

携挙に関する動画その他

Book Review: Rapture! A Dangerous Deception

The Rapture: The Last Days According to Jesus with R.C. Sproul

先に、異端神学であるディスペンセーション主義の歴史に関する動画を前回紹介したが、短時間で解説している動画があるのでアップしておく。


Where Did Rapture Theology Come From? Ben Witherington III


最初から3分6秒まで。

◇◇

さて、ディスペンセーション主義の由来とは何か。

説明しましょう。

聖書を読んで、ディスペンセーション主義に関して最初に申し上げておかなければならないことは、それは19世紀以前には存在しなかったということです。

事実、およそ1820年以前には、この考え方は存在しませんでした。

スコットランドのグラスゴーにおいて、小規模なリバイバルが起こりました。

その地にマクドナルドという名の10代の善良なスコットランド女性がいて、艱難前に教会がこの世から天へと携挙される(引き上げられる)という夢を見たと訴えました。

このうわさは広がったり廃れたりしましたが、教会自体に大きな影響を与えることはありませんでした。

しかしながら、ダービーという名の牧師がこの話を聞きつけ、この理論は正しいにちがいないと確信し、宣べ伝えるようになったのです。

ダービー牧師は、19世紀におけるプリマス(イングランド南西部の港市)ブレズレン教会の創始者のひとりでした。

このストーリ-は初めは勢いよく広まりましたが、次第に話題に上ることがなくなっていきました。

教会史の1800年代初頭、誰も信じてはいなかった独特な信仰(携挙)を有するとても規模の小さいキリスト教宗派がありました。

ダービーだけがこの宗派の信仰(携挙)信じ、この教えを携えてアメリカ合衆国へと持ち込んだのです。

ダービーは、時の人ビリーグラハムやムーディ聖書研究所兼ムーディータイムズの創設者であるDE ムーディーとコンタクトを取りました。

太平洋両岸において、長年にわたり、ムーディは携挙という教えと前艱難携挙説の世界規模の発信者となりました。

それ以来、私たちはその神学に浮かれてしまいました。

レフトビハインドシリーズ以前に、この携挙ストーリーは、「イエスがやってくる」と銘打ったさまざまな小説となっていきました。

「イエスがやってくる(Jesus is coming)」と呼ばれる最初の頃の多くの小説は、シカゴに創設されたDE ムーディ研究所が公開したこの教えに嵌まったシカゴの実業家によって書かれました。

当時、ムーディはシカゴでは大変な影響力を持っていました。

その後、スコフィールド レファレンス バイブルなるものが世に出回ることになります。

CIスコフィールドは、欄外にチェーン式関連事項を有する研究用聖書を作ろうとしただけでなく、聖書テキストの中に「イエスは携挙を預言する」といった見出しをつけ、かつ各ページ下段に研究ノートを付した聖書を作ろうと考えた人物です。

この聖書を購入した一般人は、「ほら、マタイ24章の中程の見出しに、イエスが預言すると書いてあるじゃないか。これは正しいにちがいない」と言うことになるのです。

それで、20世紀初頭から、スコフィールド レファレンス バイブルや他の関連書物によって、私たちは本当に振り回されるようになっていきました。

 

 

 


#5 携挙 Is the Rapture Biblical? NO.2

2024年02月28日 | 携挙

Is the Rapture Biblical? 

5分9秒から最後まで。

◇◇

パウロはこう言っています。

彼は復活について語っています。

キリストは復活した-初穂として-主は死人の中から復活した。

しかし、それぞれに順番がある。

最初にキリスト、23節。

初穂であるキリスト、その後、キリストの来臨(παρουσία)の時にキリストに属している人たち。

それで、このことは何時起きるのでしょうか。

この復活が起きるのは、イエスが来臨した時です。

第1テサロニケ4章でも、全く同じことを言っているのです。

(質問者:分かりました)

そして、終わりが来ます。

つまり、イエスの来臨後復活があり、それから終わりが来る。

以上です。

さて、これはどのようにして起こるのでしょうか。

この箇所において、パウロは少し詳しく説明しています。

「見よ、あなたがたに奥儀を話します」という箇所なんですが、何処だったでしたでしょうか。(51節)

では、50節。

この章の後半で、パウロはこう述べています。

「私はこれを言います、兄弟たち。」

このことに十分注意を払って下さい。

「血肉は神の国を相続できない。」

さて、血肉とは何を意味しているのでしょうか。

パウロの意味することとは、生まれながらの人間の体のことです。

それがすべてであり、何も想像を掻き立てることはありません。

生まれながらの人間の死ぬべき体にあって、私たちは御国を相続することはできない、とパウロは言っています。

御国に入城するために、不死の何かに変えられる必要がある。

あなたがすでに死んでいるなら、不死へと復活する。

しかし、あなたがまだ死んでいないのなら、(生きた状態で)不死へと変えられる必要がある。

何も不思議なことはありません。

聖書にこうあります、「さて、このことを言っておきます、兄弟たち。血肉は御国を相続できない。朽ちるものは朽ちないものを相続できない。見よ、私は奥義を話している。」

さて、ここに、いままで聞いたことがないようなことが書かれています。

良く聞いて下さい。

これは新しいことです。

「私たちは皆眠るのではない。」

言い換えると、私たちは死なないということです。

復活するために死ぬ必要がない。

しかし、私たちは変えられる。

瞬時に、瞬きの瞬間に、最後のトランペットの音とともに。

第1テサロニケ4章に、最後のトランペットが出てきませんでしたっけ。

つまり、これは全く同じ出来事なのです。

「トランペットが鳴り響き-注目して下さい-死者がよみがえる。」

パウロは、第1テサロニケ4章でも言っています、「死者が初めに」と。

「・・死者が朽ちないものへとよみがえり、そして私たちは変えられる。というのは、この朽ちるものは朽ちないものを着なければならない。この死ぬものは不死を着なければならない。」

「死よ、あなたのとげはどこにあるのか。それは勝利に飲み込まれた」等々。

以上の2つの箇所は、人々が携挙と称する出来事について書かれています。

これらの箇所は、人々がそのように取り上げている箇所であり、この問題に関して最も有名な個所です。

両者ともに、それが何時起きるかについて書かれていて、その他のことを宣言しているわけでもない。

書かれていることは復活と呼ばれる出来事です。

主の来臨(παρουσία)の時に、起こると書いてあります。

第1コリント15:23
But every man in his own order: Christ the firstfruits; 
afterward they that are Christ's at his coming.
εκαστος δε εν τω ιδιω ταγματι απαρχη 
χριστος επειτα οι χριστου εν τη παρουσια αυτου

主の来臨の時に終わりが来る。

これは、初臨にとっても、再臨にとっても標準です。

前艱難携挙も中艱難携挙も存在せず、ただあるのは主の来臨の時の復活です。

「下るために上がるのは何故」と疑問に思うかもしれない。

それは重要なのでしょうか。

彼らはよく聖書を読んではいません。

重要なのは、上り下りではない。

重要なのは「変容」です。

死者は朽ちないものを着て、朽ちるものは朽ちないものを着る。

死ぬものは不死を着る。

というのは、死者の全復活も生きている者の全復活も、キリストの再臨の時に成就します。

ここには、何か異常なこと、不自然なこと、大げさなこと、神学的に異様なことは全くありません。

聖書テキストから自明の理です。

実際、いわゆる携挙のための証拠として人々が掲げる聖書箇所、すなわちキリストの体を引き上げるという奥義を必要とする携挙なる方法を巧みに説明できる聖書箇所を、私は見たことがありません。

携挙とは、歴史的には19世紀に登場した新奇な教理です。

聖書には、これを支持する箇所を見出すことはできません。

しかしながら、これらすべての箇所を、時代の終わりに起きる復活という概念により矛盾なく説明できます。

死者は不死を着る、すなわち死者は復活の体を着る、そして朽ちるものは朽ちないものを着る、そして、そこで私たちはみな主とともにいるのです。

千年王国は別の議論の余地のある問題であり、この特別な問題についてですが、私にはある閃いたことがあります。

これも複雑なことは一切なくて、私には問題なく解決できるでしょう。

注)すでに見たように、天とは中間状態であり、新天新地ではない。

 

 

 

 


#3 携挙 The Rapture is NOT in the Bible, NO.3

2024年02月21日 | 携挙

The Rapture is NOT in the Bible

8分48秒から最後まで。

◇◇

第1テサロニケ4:15
・・主の来臨の時・・
・・unto the coming of the Lord・・
・・εις την παρουσιαν του κυριου・・


◇◇

最初にパウロは、これは、大きな声とラッパの音による大変分かりやすい公的な到着の場面であると言っている。

第1コリント15章51節、52節でも、パウロは同じようなことを言っている。

キリストが来臨すると、ラッパが鳴り響き、死者は朽ちない体によみがえる。そして、私たちはみな変えられる。

大音響を伴う分かりやすい出来事であり、これは携挙ではない。

携挙は、自分たちの身に起きていることに混乱しているこの世から離れることを想定している。

次に、携挙擁護者は、地上での艱難を避けるために、まだ生きているクリスチャンだけが天へと上げられると言う。

結局、死んだ者は地上から携挙される必要はない。

彼らはすでに死んでいるからだ。

しかし、ここでパウロは生きている者と死んだ者の両者が空中で主と会うと言っている。

これは復活という出来事である。

死人がよみがえる。

これは携挙ではない。

第3に、パウロは「私たちは永遠に主ともにいる」と言って締め括る。

しかしながら、主とともにいる場所については何も語ってはいない。

携挙擁護者は「私たちは天において主ともにいる」と言う。

ここで、パウロは天ということばを使わないように気を使っている。

代わりに、パウロは別のことばを使っている。

私たちは「空中で」主と会う、と言っている。

空中と言う単語は、空の低い部分を意味する。

それは、天ということばの意味とは明らかに異なる。

「空中」ということばが意味を成すのは、イエスの地上への再臨の場合である。

そこで、私たちは主とともに統治する。

クリスチャンの一人たりとも、地上から天へと引き上げられることはない。

以上、まとめ。

携挙の概念は、黙示録のどこにも(書かれてはい)ない。

マタイ24章にある、「取られる」「残される」というイエスの有名なことばは、裁きであって、携挙ではない。

問題の箇所、第1テサロニケ4章は、イエスのパル―シアに関するテキストである。

パル―シアとは、イエスと王家の地上への再臨であり、クリスチャンの復活である。

艱難からの秘密裏の脱出ではない。

エデンの園のりんごやヨナのクジラ、3人の賢者の場合のように、聖書に関して知っていると思っていることでも再考を要することがある。

じっくりと構えて、聖書の実際のことばよりも、私たちの伝統や思い込みに過剰な権威を与えてはいないか確認する必要がある。

携挙は数多くの本を売り上げ、興奮するような映画を生み出してきた。

信仰へと向かう旅路の一端を担っていたのではないでしょうか。

しかし、その学説が如何に有名であろうとも、あなたの所属するクリスチャン共同体が如何に感情的になろうとも、携挙が聖書に書かれていないのであれば、後に残され(レフトビハインド)なければならないことは必然であろうと思われます。

 

 

 


#2 携挙 The Rapture is NOT in the Bible, NO.2

2024年02月20日 | 携挙

The Rapture is NOT in the Bible

4分46秒から8分48秒まで。

◇◇

ハル・リンゼイのベストセラー「the late great eplanet earth」は、レフトビハインドシリーズの前に出版され、携挙を大々的に世に広めた本だが、マタイ24章やルカ17章については言及していない。

主なディスペンセーション主義者たちは次のように言っている。

ディスペンセーション主義は、携挙を一義的に提唱する神学的体系であると説明するが、マタイ24章は携挙に関する記事ではないとしている。

さて、黙示録が携挙に言及していない、またイエスもそのことに触れてはいないとすれば、その学説は聖書のどこに由来するのだろうか。

携挙教理が土台としている聖書箇所を探ってみようではないか。

次の箇所が最も重要な個所。

聖書全体の中で、携挙に関して書いてあると思われる箇所はこの箇所のみ。

テサロニケ第一の手紙4章。

パウロのことばによると、まだ生きている私たち、主が来られるまで残されている私たちは、すでに眠りについた人たちに先んずることはありません。というのは、大きな命令とともに、大天使の声とともに、、神のラッパの召しとともに、主ご自身が天から下りて来られる。キリストにあって死んだ者が最初によみがえる。その後に、まだ生きていて、残されている私たちが、彼らとともに雲の中に引き上げられ、空中において主と会う。そして、私たちは永遠に主とともにいる。

このことを具体化してみよう。

先に死んだ兄弟姉妹について大変心配して、テサロニケの人々はパウロに手紙を書いた。

イエスが再臨(second coming)した時に、彼ら先に眠りについた人たちには何が起きるのだろうか。

彼らは、牧会者としてのパウロの見解を知りたかった。

15節で、パウロは主の来臨について語っている。

この箇所でパウロが使っているギリシャ語は、パルーシア(parousia、παρουσία)で、古代において、parousiaとは、王や身分の高い人による正式な訪問に関係したことば。

さあ、どういうことか。

王家の人たちが街に近づいてきた時、メッセンジャーがラッパを吹き鳴らし、市民たちが門の外や道に溢れ出て、大声をあげて王族たちの到着を歓迎する。

市民たちは王たちに連れ添い、門を通り、街へと入城する。

ところで、最も名誉ある市民、すなわちVIPは王家の人々に最初に挨拶した。

これは当時大変良く見られたことであり、ふつうに行われていた。

事実、聖書の中、福音書の中で、このことを確認することができる。

イエスがエルサレムへ入城しようとしているのを見ていたエルサレムの人々は、シュロの枝を通りに並べ、城門の外で彼を迎えた。

人々は大声を上げ、祝った。

そして、イエスとともにエルサレムへと入城した。

これを記念して、今日私たちはこの行事のことをシュロの主日(エルサレム入城の日)と呼んでいる。

これがパルーシア(parousia)で、パウロが第1テサロニケ4章において言及していること。

但し、大きな違いがひとつある。

パウロが言っているのは、王であるイエスは町を支配するために、道を通りやって来るのではない。

全地を手に入れるために、天からやって来ると言っているのだ。

真の王としてイエスが戻ってくる時、ラッパが鳴り響き、彼の民はこぞって、空中で主と会う。

しゃれたところがある。

キリストにあって死んだ者が最初に上げられ、主と会うとパウロは言う。

何故(死んだ者が最初)か。

何故なら、彼らはVIP(最も大事な人たち)、言い換えるなら、テサロニケで死んだ兄弟姉妹のことを心配しなくてよいということ。

イエスが彼らの面倒を見てくれる。

イエスが来臨する時、彼らは名誉ある地位を獲得する。

残っている私たちも空中で主と会う。

皆一緒に、私たちは地上へとイエスをエスコートする。

そして、主とともにこの地を統治する。

ここがポイント。

第1テサロニケ4章は、携挙について(書いているの)ではない。

違う。

この箇所では、地を統治するためにイエスが再臨することを告げている。

毎回このように代表団や高官らを出迎えることは、パウロの時代の観衆にとっては当たり前のことだった。

しかしながら、私たちはこのことを携挙の学説へと組み入れてしまった。

私たちがこのパル―シアという習慣を全く知らなかったからだ。

このことを支持する重要なことがさらにいくつかある。

 

 


#1 携挙 The Rapture is NOT in the Bible, NO.1

2024年02月14日 | 携挙

携挙は聖書的な教理か。

携挙は本当に聖書の中に(書いて)あるのか。

ディスペンセーション主義が危険な教理であることは、くり返し指摘してきた。

この考え方は1800年代にダービーが提唱した教理(近日中に視聴予定)。

この教理から誘導されたプレミレ、前艱難携挙、全民族的ユダヤ人救済、に関する教理も甚だ怪しいということになる。

つまり、検証が必要。

このようなことに疑義も呈さず丸呑みしている人は、本当に新生しているのかどうか疑わしい。

今回から携挙(rapture)というテーマを新設し、追及していく。

まずは、以下の分かりやすい動画を聴いてみる。

The Rapture is NOT in the Bible

注)途中マタイ24章を引用しているが、この箇所はイエスの再臨(second coming)の預言ではない。神の怒りと裁きによるイスラエル(旧約時代)滅亡の預言。引き上げられる人々とは、イエスに聞き従わず神殿を目指して虐殺されたユダヤ人を指すと考えられる。しかしながら、世の終わりにも極めて類似したことが起こると思われ(良い麦と毒麦のだとえ、黙示録20章など)、この動画内容の信ぴょう性は損なわれないと考える。

最初から4分46秒まで。

◇◇

聖書にありもしないことを信じている人たちがいる。

例えば、エデンの園にある食べてはならない果物は、りんごと同定されたわけではない。

ヨナを飲み込んだのはクジラであると聖書に書かれていない。

イエス生誕の日に訪れた賢者の人数は福音書に書かれていない。

さて、携挙だが、実は聖書にはどこにも存在しない学説なのだ。

さあ、解説していこう。

多くのクリスチャン、特にアメリカのクリスチャンにとって、携挙(rapture)は争う余地のない教理であると信じられている。

処女降誕や復活に関しては問題はない。

ある日、瞬きする瞬間に、すべての真のクリスチャンが突如いなくなり、しわくちゃの衣服のままイエスとともに天に上げられる。

多くの人たちはこのように教えられてきた。

携挙とは、イエスがご自身の民を地上における神の裁きから救い出すための方法。

一方、残された人たちはみな恐怖と艱難に直面する。

偉大なストーリ-だ。

そうして、多くの年月にわたって、非常に多くの書籍や映画が創られてきた。

著作「レフトビハインド」だけでも、65億冊以上の売り上げを誇る。

ニューヨークタイムズのベストセラーリストの第1位を獲得した。

福音派の映画産業界、書籍、ラジオ放送局、巨大教会、テレビ業界、競技連盟などは、携挙物語を幅広く広め、多額の富を得てきた。

それを止めることも疑問に思う人もいなかった。

最も重大な問題は、実際に携挙が聖書の中に(書いて)あるのかどうかだ。

そこで、その証拠を見てみよう。

最初に、将来のこと、つまりキリストの再臨と最後の審判を考える時、多くのクリスチャンは黙示録を開いて、その中に携挙の記載があることを期待するだろう。

結局のところ、黙示録とはポートランド州やオレゴン州のようなもので、その中にあらゆる奇々怪々な記述を見ることができる。

獣、煙の立つボール、ドラゴンにまたがる売春婦、目玉で覆われた生き物などなど。

しかしながら、その中に、携挙の記載をひとつとして見出すことはできない。

一言も言及がない。

その代わりに、新約聖書の中に、携挙提唱者が唱える携挙の記事が2箇所存在する。

そこで、それぞれの箇所を開いて、その個所に何が書かれているかを検証していこう。

最初の箇所は、マタイ24章。

この章において、イエスは、突然に、思いがけない時に来るから、ご自身の来臨に油断なく備えるように弟子たちに話している。

40節、41節にこうある。

レフトビハインドという携挙の有名なことばがある。

イエスは、「ふたりの男が畑にいると、ひとりが取られ、もうひとりは残される。ふたりの女が手臼を引いていると、ひとりが取られ、もうひとりは残される」と言った。

そう、映画にある通り。

ひとりが天に携挙され(引き上げられ)、もうひとりは取り残されて、艱難に遭遇する。

違う、そうではない。

これらの聖句を、文脈から読み解く必要がある。

直前に書いてあることが大変重要だ。

それは、まるでノアの日のようだ。人の子がやって来るのもそのようだ。洪水が起きる数日前、人々は飲んだり、食べたり、結婚したり、嫁いだりしていた。ノアが箱舟に入る日まで。洪水が起きて、彼らが皆取り去られるまで、人々は何が起きるか分からなかった。人の子が来るのもそのようなことになるだろう。ふたりの男が畑にいると、ひとりが取られ、もうひとりは残される。ふたりの女が手臼を引いていると、ひとりが取られ、もうひとりは残される。

イエスは、ノアの洪水と主の来臨を比較する。

その話の筋において、ノアと彼の家族は取り残され、他のあらゆる人々は洪水にさらわれた。

これは神の裁きだった。

故に、イエスが来臨して、ひとりが取られ、もうひとりが残ると言う時、取られた者は天に携挙されるのではなく、神の御怒りと裁きのために取られるのだ。

残された人(レフトビハインド)は、実際にノアのように安全が担保される。

ルカ17章に平行記事があり、このことがより一層明らかとなっている。

その夜、ふたりの男がひとつのベッドに寝ていると、ひとりが取られ、もうひとりは残される。ふたりの女が臼を引いていると、ひとりが取られ、もうひとりが残される。

「(取られた場所は)どこですか、主よ」と、弟子たちは尋ねた。

イエスは答えた、「死体があるところには、はげたかが集まる。」

イエスは死と裁きによって人が取られると言っているのであって、はげたかが天を意味しているとは到底思えない。

つまり、取り残されるというストーリーは携挙のことを指しているのではない。

このことを携挙擁護者たちも認めているというのだから、馬鹿げた話である。