みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#123 終末預言 by R.C. Sproul

2022年06月30日 | 終末預言 

Taking Up the Cross (Mark 8:31–38) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:23分33秒から27分16秒まで 
 
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書に戻って改革派神学の基礎教理を学ぶ。

◇◇

一体全体何故、説教のまだまだ途中にあって、そして十字架がまだ先の話しである時点において、イエスは十字架に関することを話したりするのでしょうか。

この時点で、主はまだ十字架を経ていません。

十字架がまだ起こってはいない時に、福音書記者が歴史的事項の中に、十字架に関する暗示を読み込もうとした編集上での訂正の1例なのでしょうか。

そうではありません、友よ。

ローマの権威による束縛の下で、イスラエルのユダヤ人は皆、「十字架」ということばの象徴的意義を十二分に承知をしており、また認識していたのです。

同時のローマ政府による迫害の主な手段は十字架だったからであります。

ローマやローマ管轄地において死刑執行の際に行われる手続きとして、有罪判決を受けた人は、判決を受けた場所から処刑地まで、十字架の大梁を運んでいくことが要求されました。

同様のことがイエスご自身の死のときにも要求されたのです。

それ故に、彼ら弟子たちも皆十字架に関するそのような知識があったのです。

イエスは言います、「私についてきたいのか。今、あなたはその十字架の大梁を取り、進んでいき、それを来る日も来る日も担いでいくことになる。何故なら、この醜行のしるし、この死のしるし、そしてこの恥辱のしるしは、あなたが私の名で自分を呼ぶ場合に胸に書かれたサインとなるからだ。クリスチャンになるつもりなら、十字架の大梁を取る決意をして私についてきなさい。」

「自分の命を救おうとする者は誰でも、それを失うが、私のために、そして福音のために自分の命を失う者は誰でも、それを救うだろう。」

ここに、壮大な逆説がある。

あなたが何に心を奪われていようとも、自分を否定することが自分を救うことになり、自分を救おうとする試みはあなた自身を破壊へと導くことになる。

親愛なる友よ、決して忘れてはいけない。

クリスチャンライフとは「捨て去る」人生であります。

このことを知っておく必要があります。

拒絶もなく、苦悩もなく、死もなく生きている瞬間瞬間は、まさに祝福であります。

しかし、神の民としての私たちの運命とは、この世の権力によって、この時代の権力によって、ごみ溜めの中へと投げ込まれるということであります。

このことを美化することは絶対にありません。

イエスは言いました、「その代価を計算してみよ。私についてきたいのなら、あなたは自分の人生を犠牲にすることになるであろう。」

しかし、実際にその代価とは一体いくらなのだろうか。

経済的手法によって、主はその代価について説明します。

「たとえ全世界を手に入れても自分の命を失うなら、その人に何の益があるだろうか。」

「自分の命と交換に、人は何を差し出せばよいだろうか。」

この疑問について話すには丸々1時間ほどの時間があれば良いのにと思う。

◇◇

賛美:

All Hail The Power of Jesus' Name

 

 

 


#122-2 終末預言 by T.Tomii

2022年06月29日 | 終末預言 

☞ 人間教の枠内に留まる限り問題は解決しない3

◇◇

荒らしや異端対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
◇◇ 

以下に

自然に存在するものは、ことごとく堕落の影響の中にある

とあるが

これは、人間理性という迂回路を経由して理解された自然に存在するものは、ことごとく堕落の影響の中にある

とした方が分かりやすい。

だから、人間理性という色メガネを通して認識される自然法も自然理性も頼りにならない。

となる。

◇◇

 

宗教改革では神の法(セオノミー)が唱えられたが、〇ー〇・カ〇リックはギリシア由来の自然法を唱えていた。

そして、現在、プロテスタント各教派が、イエズス会が送り込んだエージェントを通じて〇ー〇・カ〇リック化しているので、自然法が復活しようとしている。

私は、この〇ー〇・カ〇リック化したプロテスタントの教会において、「神の法」を唱えたために、実質、除名された。

今のプロテスタントの教会は「自然法で何が悪い?神の法を社会に適用しようなどという君の考えは危険だ」と言う。

自然法の思想の基盤は「自然秩序」である。

神の法のそれは「神の創造秩序」である。

聖書は「神が世界を創造されたので、神の法は絶対である」と教える。

ギリシア思想及び〇ー〇・カ〇リックは、「神の創造の前にすでに自然が存在した。それゆえ、神の法は絶対ではない」と教える。

自然秩序を、神の創造の上位に置くのが、ギリシア思想及び〇ー〇・カ〇リックである。

〇ー〇・カ〇リックによれば、教皇は、この自然秩序に関する権威であり、それゆえ聖書よりも権威があるという。

なぜ〇ー〇・カ〇リックが異端であり、キリスト教でないかご理解いただけただろうか。

ただの人間に過ぎない教皇を、神の啓示の上に置くので、教皇教と呼んだほうがいい。

プロテスタントは、アルミニウス主義とディスペンセーション主義、自由主義神学(リベラル)を通じてこの教皇教の中に取り込まれてきた。

今日、宗教改革陣営は瀕死の状態にある。

真のキリスト教を取り戻すには、第2の宗教改革が必要である。

口火を切ったが、ヴァン・ティルである。

〇ー〇・カ〇リックが、人間理性に対する信頼に基づいているのに対して、ヴァン・ティルは宗教改革の教えを守り、人間理性に信頼を置かない。

人間は全的に堕落しており、理性すらも罪によって汚染されていると。

それゆえ、人間が正しい知識を得るには、次の2つが必要であると。


1.聖書による外的啓示

2.聖霊による内的啓示

人間には、神からの啓示が必要である。それだけではなく、生まれ変わって、聖霊を受け、その解き明かしを必要とする。

聖書を理解するには、聖霊が内側からわれわれにその教えを理解させてくださることが必要である。

この2つによらない限り、人間は正しく世界を理解することはできず、サタンの欺きから解放されない。

理性に信頼している〇ー〇・カ〇リックが、今どういう状態になっているだろうか。

世界政府のために活動している。

イ〇ミ〇ティといっしょになって、ルシファーによる世界統一を目指している。

イ〇ズ〇会によって騙されているプロテスタントも同じようにこの運動に参加しつつある。

人間理性に対する信頼を捨てない限り、ダメである。

「科学に関しては、聖書がなくても、聖霊が内住されなくても、やっていける」と叫ぶことをやめるべきだ。

聖書と聖霊による啓示は、あらゆる知的活動の前提である。

世俗科学が何を発見したとしても、世界は六日で創造されたと主張しよう。

「いや、科学的に証明されないと信じない」という人は、神を捨てている。

知的領域においても、神は主権者である。

世俗社会も〇ー〇・カ〇リックもプロテスタントも、人間理性の自律を信じたために、イ〇ミ〇ティの世界政府の中に取り込まれつつある。

自然に存在するものは、ことごとく堕落の影響の中にある。

だから、自然法も自然理性も頼りにならない。

ここから出発しよう。
 

 

2018年6月7日

 


#122 終末預言 by R.C. Sproul

2022年06月28日 | 終末預言 

Taking Up the Cross (Mark 8:31–38) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:19分47秒から23分33秒まで
 
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書に戻って改革派神学の基礎教理を学ぶ。

◇◇

 

直ちにイエスは反応して、ペテロに言い返します、「サタン、引き下がれ、サタン。」

「神の事々を気にかけず、人の事々を気にかけている。」

神の事々を気にかけず、人の事々を気にかけている(とは、どういう意味か)。

友よ、これは次のようなことであります。

敬虔な人というのは神の事々に深く関心があるが、不敬虔な人というのは神の事々には全く関心がないということ。

不敬虔な人はこの世のことに心が奪われている。

私たちはこのことを鏡をのぞき込んで確認する必要があります。

鏡をのぞき込んで、「オーケー、R.C. あなたの心は今どこにあるのか。あなたの主な関心事はどこにあるのか」と問うてみる。

この世の事々に心が奪われて、身動きが取れなくなっていないか。

神の事々に対して胸が躍っているか。

まず第1に、神の国とその義を求めているか。そして、その他のあらゆることはなるがままにしているか。

突き動かされて優先順位が先に来ているものはないか。

止められない野心はないか。

この世において、すべてのエネルギーを捧げている目標はないか。

第2次大戦中、「師弟制の代価(The Cost of Discipleship)」という本を書いたドイツ人牧師がいます。

私はディートリヒ・ボンヘッファーが発表した神学すべてに魅了されてはいませんが、彼はヒットラーを暗殺する陰謀に参加した男でありました。

ディートリヒ・ボンヘッファーは、ヒットラーと彼の政策に盾突いたとして、第3帝国によって殺害され殉教しました。

彼は安っぽい恵みの精神、犠牲のない師弟制、危険を伴わない信仰生活に陥っている教会に警鐘を鳴らしました。

さて、イエスは弟子たちと師弟制に関与している人々に話しかけます。

如何なる長子制がご自身のために関与しているのかということだけではなく、イエスがメシアであるとは一体何を意味するのかということだけでなく、あなたや私がメシアに従うとは何を意味するのかということを諭します。

イエスは言います、「私についてきたいと思う人は誰でも、自分を否定して、自分の十字架を背負い、私に従いなさい。」

これって、時代錯誤のように聞こえませんか。

◇◇

賛美:

O Come, O Come Emmanuel

 

 


#121 終末預言 by R.C. Sproul

2022年06月27日 | 終末預言 

Taking Up the Cross (Mark 8:31–38) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:17分9秒から19分47秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書に戻って改革派神学の基礎教理を学ぶ。

◇◇

イエスはぺテロを非難して、言った、「引き下がれ、サタン。」

ほんの一寸前に、主はシモンを見て、彼に新しい名前を付けました。

「あなたは今やペトロス、岩です。この岩の上に、私は私の教会を建てます。」

イエスはまさにこの弟子を見て、「引き下がれ、サタン」と言いました。

何故イエスはペテロをサタンと呼んだのか。

宣教活動の初めに、悪魔が荒れ野で用いたのと同様の誘惑が、今まさに再来したからであります。

荒れ野でサタンがイエスを誘惑した時のことを覚えているでしょうか。

サタンはイエスに、「神の子なら、石をパンに変えてみよ」と言った。

「神の子なら、寺院の塔から飛び降りよ。」

そして、自分にひざまずいて服従するように要求した。

「誰も見たことのないようなこの世の王国をすべて与えよう。」

これらの誘惑には、その中心において王国を保証しているのですが、痛みを伴わず、苦悩を伴わない保証だったのです。

サタンは言う。

「ついて来い。この世のすべての王国を与えよう。

「何でも欲しいものはお前のものだ。それを手に入れるのに十字架を経る必要はない。」

「イエスよ。何も言わず私の前にひざまずけ。十字架なんてない。神の怒りの杯もない。」

「苦しみもない、拒絶もない、死もない。」

主イエスはこの誘惑に耐え抜いた。

サタンが荒れ野から追い払われた時のことを覚えているでしょうか。

新約聖書の記者たちは次のように書き記しています。

イエスから離れた後何が起きたでしょうか。

ある一定の期間を置いて、何らかの予兆や兆候、サタンはこの誘惑を完了してはいなかったという暗示、つまりサタンが再び来て、同様の安っぽい栄光を手玉に取ってイエスをたぶらかそうとする日が来るであろうということ。

弟子たちの間で最も気高い信仰告白がなされたまさにその直後に、サタンが現れたのです。

地を這う蛇ではなく、弟子の一人を代弁者としてうまく利用して、サタンは告げます。

「あなたはキリストです」と言ったあの弟子が次のように言います。

「キリストが苦しむなんてあり得ない。」

◇◇

賛美:

Christ the Lord is Risen Today

 

 


#120-2 終末預言 by T.Tomii

2022年06月25日 | 終末預言 

☞ 神の選びの中にいない人は、正統的な教えやクリスチャンを拒絶する

◇◇

荒らしや異端対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
◇◇ 


救いに予定されている人は、どんなことがあっても救われる。

逆に、救いに予定されていない人は、どんなことがあっても滅びる。

放蕩息子は、親の遺産を先にもらい、離れて、放蕩三昧の生活をしていたが、最後に復帰した。

ペテロは、パリサイ人の前でイエスを知らないと言ったが、後に信仰に復帰し、殉教した。

ユダは、イエスのもとにいて身近に教えを聞き、奇跡を目撃したにもかかわらず、イエスを裏切り、自殺した。

様々な異端的な教えの誘惑にあっても、それをはねのけ、聖書的な教えを最後まで信じ、イエスを主と告白する人は、予定されていたことがわかる。

しかし、どんなに熱心に教会活動をしていても、聖書的な教えを否定し、異端に走り、イエスを否定したまま死ぬ人は、予定されていなかったことがわかる。

死ぬまでその人が予定されているか予定されていないかはわからない。

長髪で仙人のような姿をしたイエス像を描く人は、聖書の記述に違反している偶像礼拝者である。

聖書は「わたしの顔の前にほかの神々を置いてはならない」と命令している。

聖書の記述どおりのイエスではないイエスは、あくまでも「イエスに似た誰か」であってイエスではない。

「旧約律法を廃棄した神」は「神に似た誰か」であって「神ご本人」ではない。

「証拠もないのに人を罪人扱いし、兄弟姉妹の交わりを拒絶する人」は、「クリスチャンに似た人」であって「クリスチャン」ではない。

理由なく兄弟姉妹を拒否する人は、イエスご自身を拒否する人である。


あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10・40-42)

イエスは御父の名によってこられたので、イエスを拒む人は、御父を拒む人である。

わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。(ヨハネ5・43)

つまり、理由なくクリスチャンを拒絶する人は、御父を拒絶する人であり、御父を拒絶する人は、永遠の刑罰を受ける。

なぜならば、御父にはライバルは存在し得ないからである。

こういった聖書の教えは、絶対に軽んじることができない。

一般の人間関係と同様にクリスチャン同士の関係を考えてはならない。

ノンクリスチャンは、イエスの名を帯びていないが、クリスチャンは、帯びている。

警察官は「日本国の名によって」活動する。

警察官を拒絶する者は、日本国の権威を拒絶する者である。

交通警察官の制止を振り切って逃走すると追跡されて逮捕される。

クリスチャンは「イエスの名によって」活動し、存在する。

それゆえ、クリスチャンを拒絶するとイエスを拒絶することになる。

イエスを拒絶する人は、御父を拒絶する。

それゆえ、滅びるしかない。

理由なくクリスチャンを拒絶したまま死ぬ人は、もともと予定されていなかったのである。

神の選びの中にいない人は、正統的な教えやクリスチャンを拒絶する。
 

 

2020年7月8日

 


#120 終末預言 by R.C. Sproul

2022年06月24日 | 終末預言 

Taking Up the Cross (Mark 8:31–38) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:13分32秒から17分9秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書に戻って改革派神学の基礎教理を学ぶ。

◇◇


なぜペテロはイエスを脇へと連れ出したのか。

教えるために。

さて、ペテロはイエスを脇へと連れ出して、彼を非難し始めた。

教師と意見が合わないこともありでしょう。

手を上げて、「先生、それ信じていいの」と言うのもありでしょう。

しかし、先生が教えている内容に関して、学生が先生を非難するのは別問題です。

しかし、友よ、この箇所は教師の問題ではないということを肝に銘じて欲しい。

ここで問題となっているのは、中学2年の地理の先生のことではありません。

神学校の教授のことでもない。

ここで問題となっているのは、受肉した神のことばであり、全真理を具現化したお方のことであり、神の権威以外に何も語ることのないお方であります。

しかるに、ペテロはそのお方を非難した。

ここで使われているrebuke(非難する)ということばは、地獄からやってきた悪魔を告発し非難するために聖書的に使用されることばです。

イエスは悪魔を黙らせたかった時、非難し(rebuke)、非難されるに価するものとして裁くことによって黙らせた。

つまり、ペテロの抗議は決して穏やかなものではなかったことです。

ペテロはイエスの前に立ちはだかり、イエスに対して敵対的非難の限りを尽くしたのです。

ほんの一寸前に「あなたはキリスト、生ける神の御子です」と言ったペテロであり、「バルヨナ・シモンに祝福あれ」と、イエスの祝福を受けた同じペテロであります。

さて、ペテロは出しゃばって、イエスを非難する。

ローマ教会はペテロを教会が建てられる土台であり、最初のローマ教皇と呼ぶのなら、私はこれを最初の回勅と見なそうと思います。

その中で、ペテロは権威をもって話し、新しい啓示を与えます。

そのペテロがイエスを非難した。

その非難の特徴とは何だったのか。

その個所の行間や他の箇所を読めば明らかであります。

マタイ伝では、この非難は次のように書かれています、「それは決してあってはならないこと、イエス様、決して。」

決して言ってはなりません、とりわけイエスに対して。

イエスが苦しみ、拒否され、死ぬという将来預言に対するペテロの反応は、「絶対にあってはならない、決して起こりません。」

そこで、今度はイエスがペテロに反応する。

イエスは振り返り、弟子たちを見て、ペテロを非難した。

ほんの一寸前に、主はシモンを見て、新しい名前を与えました。

◇◇

賛美:

A Soul Winner For Jesus

 

 


#119-2 終末預言 by T.Tomii

2022年06月23日 | 終末預言 

☞ 滅びる人は古巣に帰る

◇◇

荒らしや異端対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
◇◇ 


学生時代に、教会の学生会のキャンプで、聖書を学んでディスカッションすることをよくやっていた。

教会で、畑のたとえについて聖書研究した。


イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六倍、あるものは三倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。(マタイ13・3-14)

私たちは、このたとえは「土地の側の問題」としてとらえた。

つまり、福音を聞いても、土地が悪ければ実を結ばないと。

すなわち、「選びの問題」として考えた。

福音を聞いて悟り、それによって実を結ぶかどうかは、神の側の選びによって変わると。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」

どうして悟ることができないのか。見てもわからないのか。

選ばれていないからである。

努力の問題ではない。

はじめから決定している。

天地がはじまる前から、神は実を結ぶ人を用意された。

このような解釈をしたところ、オブザーバーとして参加していた若い牧師が「それは違う。努力の問題だ。頑張れば悟ることができる」と。

アルミニウス主義である。

カルヴァン派の教会なのに。

その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・11-16)

はっきり書いてあるではないか!!

なぜ人間的な解釈をするのか!!

ヤコブが選ばれ、エサウが退けられるのは、もともと神の側で「生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに」決まっていたのだ。

人間が救われるかどうか、そして、神の国のために実を結ぶかどうかは、人間の側の問題ではない。

最初から、「よい地」として生まれてきた人もいれば、「カラスに種を奪われる土地」「土の薄い岩地」「いばらが覆いやすい土地」もいる。

神の国の発展は、すべて神の側の問題であって、人間の側のそれではない。

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8・44)

なぜパリサイ人は、イエスを迫害したのか。

そのように選ばれていたからだ。

「悪魔から出た者」として生まれてきたからだ。

どこかで間違った道に入って悪魔に従うようになったというわけではない。

「悪魔が父親」なのである。

2.

では人間は、選びだから救いをあきらめるしかないのか。

救われたいと望んでいる人は、すでに選びの中にいる。

滅びに至る人々は、福音を笑う。

必死になって救いを求めている人は、選ばれているからそうしている。

人間は、霊的死人として生まれてくる。

あたかも、マリアナ海溝の1万メートルの海の中に沈み、サメに心臓を食べられて、死後ずいぶんたっている人のようだ。

救われたいとも思わない。

もがきもしない。

救いに予定された人は、まず神の側で命を与えられる。

心臓を復活させ、元通りにして意識を回復される。

そして自分が溺れていて、助けが必要だと気付いている。

そのとき、神が救いの手を差し伸べられる。

3.

どんなにプレ・ミレが間違いだと指摘しても、反応しない人は、死んでいる。

聖霊が与えられていたら、真偽・善悪の区別はつくはずである。

だから、時間がたてばわかるというようなものではない。

知識がないためにわからないというのであれば、時間が必要だということになるが、このサイトで十分な知識を得てそれでも正しいほうに舵を切らないのは、もともと滅びに予定されているからにほかならない。

だから、伝道とは、延々と行う類のものではない。

その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ャhムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。(マタイ10・13-15)

「家」が問題なのだ。

伝道者の熱意が問題なのではない。

営業セールスのように「熱意にほだされて買った」などということはない。

「ふさわしい家」でなければ、いずれ福音を捨てる。

滅びる人は、自分にとってふさわしい古巣に帰る。
 

 

2016年1月30日

 


#119 終末預言 by R.C. Sproul

2022年06月21日 | 終末預言 

Taking Up the Cross (Mark 8:31–38) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:10分15秒から13分32秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書に戻って改革派神学の基礎教理を学ぶ。

◇◇


特にイザヤ53章は、エベド・ヤハウエ、主のしもべは民の罪を背負い、見下され、人々によって拒絶され、神ご自身によって打たれ、苦しめられ、そして殺されるであろうと書かれている。

当時の新約聖書の読者はイエスの生涯を見た時、イスラエルの詩篇を回顧した時、詩篇22編を回想した時、そして証人のように十字架の記事を見た時、彼らは次のように証言したのです、「この記載を見よ」と。

来たるべきメシアの明確な預言がこの記事だったのです。

しかし、この点が指導者ラビによって完璧に見落とされていたのです。

詩篇22編、イザヤ53章、そしてイザヤのしもべ預言のいずれも、彼らはメシア預言に適応しようとはしませんでした。

あらゆる苦悩と苦渋を経験したイスラエルの民に対して、イザヤ53章を適応したのです。

王家のメシアとなるであろうひとりの人に注目しようとはしなかった。

だから、イエスが旧約聖書預言を手に取り、弟子たちにメシアが意味することを教えた時、彼ら弟子たちは衝撃を受けたのです。

メシアが苦しまなければならない、メシアが拒絶されなければならない、メシアが死ななければならないと言っているのですか。

弟子たちはバカではなかった。

メシアが苦しまなければならないのなら、メシアが拒絶されなければならないのなら、メシアが死ななければならないのなら、一体全体メシアに従う者たち、メシアの弟子たちはどうすればよいか。

彼らはこのことをよく理解していたのです。

イエスのこれらのことばは、イエスご自身に対する死刑宣告のみならず、弟子たちに対する死刑宣告でもあったのです。

それは、彼らが聞きたかったこの世における最後のことばでした。

彼らの反応を見てみましょう。

まず第1に、イエスはこのことを公然とお話しになりました。

イエスが話されたことばには力があったのです。

単なるちょっとしたうわさ話でも、案内のアナウンスでもない。

ここの「ことば」は、十分な意味合いをもって使われたことばであります。

私たちが神のことばを宣べ伝える時、意味を伝えるだけのカジュアルな話しはしません。

神ご自身から発せられる深みのある内容を語り伝えるのです。

つまり、ここでイエスは神のことばを宣べ伝えているのです。

しかも、彼はそれを平易にかつ明快に語り伝えています。

弟子たちが誤解しないためです。

31節に「イエスは彼らに教え始めた」と書いてあることに注目したい。

さて、重点と焦点はイエスからペテロへと移っていきます。

◇◇

賛美:

I Will Praise The Lord All My Life - Praise And Harmony

 

 


#118-3 終末預言 by T.Tomii

2022年06月21日 | 終末預言 

☞ 異端を排除しない教会指導者へ

◇◇

荒らしや異端対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
◇◇ 
 

今の教会は、異端に対してのらりくらりとした態度をとり、その他の変な部分でやけに厳しい。

たとえば、服装がどうだ、髪型がどうだ、タバコを吸っている、酒を飲んでいる、などなど。

これは「ある意味で」どうでもいいことだ。

しかし、異端の教えはどうでもいいわけじゃない。

異端とは、彼らは羊を荒らすために送り込まれた狼である。

しかし、牧師が異端を信じていても、牧師を追い出す教会は少ない。

「いい人だし、熱心だし…」

いい人じゃないって。

目を大きく開いて見てください。

この人、本当にいい人?重大な誤謬をばら撒く人がいい人ですか?

ピントがずれていると、「異端ぐらいで人を攻撃するな!」なんて言う。

教会の長老は、異端牧師を排除するのが使命じゃないですか!!!

異端牧師の下では、羊が去っていき、山羊だけが残る。

山羊の教会にしたいんですか?

「能なしの牧者」(ゼカリヤ11・17)と神様から怒られますよ。

 

 

2004年2月28日

 


#118-2 終末預言 by T.Tomii

2022年06月20日 | 終末預言 

☞ サタンの狙い

◇◇

荒らしや異端対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
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以下に加えて、彼らグ〇ー〇リ〇トたちは国境を破壊しようとしている。

関税を撤廃して経済活動を自由化させるためだ。

やりたい放題、しかもあまりにも露骨。

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サタンの狙いは、「境界線を取り去ること」である。

善も悪も何もなくしてしまう。

愛という名のつくものなら、同性愛だって、少年愛だっていい。

「差」と名のつくものは、すべてダメ。

男女の権威差も解消すべきだ、と。

サタンの意図を例えていえば、列車の車輪のひっかかりを磨耗させることである。

列車の車輪には、「でっぱり」がある。それがあるから、列車は脱線しない。

しかし、これが磨耗すると、脱線の危険が高まる。

サタンは、あらゆる「差」「境界線」を「愛」という名の研磨材によって消滅させることによって、人類を脱線させ、最終的に自分の道連れにしようとしているのだ。

今、子供たちは、競争することを否定されている。ある幼稚園で、徒競走をするときに、ゴール付近でみんなで手をつないでゴールさせるという。

「勝者と敗者の差」を撤廃して、みんなで成功するのがいい、というのはサタンの発想だ。

なぜならば、努力した人も、しなかった人も同じように成功するならば、努力に価値はなくなるからである。

才能のある人も、才能のない人も同じように評価されるならば、才能に価値はなくなるからである。

善と悪の境界線を撤廃し、けじめもなにもない、何がなんだかわからない社会を作るのが、サタンの狙いなのである。

 

2004年1月16日