Taking Up the Cross (Mark 8:31–38) — A Sermon by R.C. Sproul
訳出時間枠:23分33秒から27分16秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書に戻って改革派神学の基礎教理を学ぶ。
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一体全体何故、説教のまだまだ途中にあって、そして十字架がまだ先の話しである時点において、イエスは十字架に関することを話したりするのでしょうか。
この時点で、主はまだ十字架を経ていません。
十字架がまだ起こってはいない時に、福音書記者が歴史的事項の中に、十字架に関する暗示を読み込もうとした編集上での訂正の1例なのでしょうか。
そうではありません、友よ。
ローマの権威による束縛の下で、イスラエルのユダヤ人は皆、「十字架」ということばの象徴的意義を十二分に承知をしており、また認識していたのです。
同時のローマ政府による迫害の主な手段は十字架だったからであります。
ローマやローマ管轄地において死刑執行の際に行われる手続きとして、有罪判決を受けた人は、判決を受けた場所から処刑地まで、十字架の大梁を運んでいくことが要求されました。
同様のことがイエスご自身の死のときにも要求されたのです。
それ故に、彼ら弟子たちも皆十字架に関するそのような知識があったのです。
イエスは言います、「私についてきたいのか。今、あなたはその十字架の大梁を取り、進んでいき、それを来る日も来る日も担いでいくことになる。何故なら、この醜行のしるし、この死のしるし、そしてこの恥辱のしるしは、あなたが私の名で自分を呼ぶ場合に胸に書かれたサインとなるからだ。クリスチャンになるつもりなら、十字架の大梁を取る決意をして私についてきなさい。」
「自分の命を救おうとする者は誰でも、それを失うが、私のために、そして福音のために自分の命を失う者は誰でも、それを救うだろう。」
ここに、壮大な逆説がある。
あなたが何に心を奪われていようとも、自分を否定することが自分を救うことになり、自分を救おうとする試みはあなた自身を破壊へと導くことになる。
親愛なる友よ、決して忘れてはいけない。
クリスチャンライフとは「捨て去る」人生であります。
このことを知っておく必要があります。
拒絶もなく、苦悩もなく、死もなく生きている瞬間瞬間は、まさに祝福であります。
しかし、神の民としての私たちの運命とは、この世の権力によって、この時代の権力によって、ごみ溜めの中へと投げ込まれるということであります。
このことを美化することは絶対にありません。
イエスは言いました、「その代価を計算してみよ。私についてきたいのなら、あなたは自分の人生を犠牲にすることになるであろう。」
しかし、実際にその代価とは一体いくらなのだろうか。
経済的手法によって、主はその代価について説明します。
「たとえ全世界を手に入れても自分の命を失うなら、その人に何の益があるだろうか。」
「自分の命と交換に、人は何を差し出せばよいだろうか。」
この疑問について話すには丸々1時間ほどの時間があれば良いのにと思う。
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賛美:
☞ All Hail The Power of Jesus' Name