☞ Be Holy as I Am Holy: Fear and Trembling with R.C. Sproul
11分36秒から16分01秒まで。
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それが主の言いたかったことではないかと思います。
しかしながら、真のクリスチャンであることを立証するために、律法学者とパリサイ人の規範をはるかに超える聖のレベルを明示せよということがイエスの意図であるなら、私たちは戸惑ってしまいます。
恐れおののいて、聖なる領域に近づこうとしていないからです。
聖に関する当初の議論において、イザヤの体験を見ました。
高きにおられる神を見た時、イザヤは上げられ、セラフィムが聖三祝文(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな)を歌う光景を目撃しました。
イザヤ6:1~3
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
ここを読んだ時に、一度立ち止まったことを覚えているだろうか。
イザヤは自分に呪いが降りかかったと宣言しました。
「何と言うことか。私はもうだめだ」
もうだめだ、終わった。
神の聖の光景を目の当たりにした時のイザヤの経験は、「崩壊」という心理的プロセスの状態でした。
誰かがこう言うのを聞いたことがありませんか。
「しっかりしてくれよ。落ち着いてくれ。大丈夫か。」
しっかりするために、落ち着くために、人生は、あらゆる場面で、首尾一貫互いに結び合わされているのです。
つまり、人生はあらゆる面で互いに調和しています。
何かが崩壊すると、ばらばらとなる。
それが、「何と言うことか。私はもうだめだ」と叫んだ時にイザヤに起こったことなのです。
私の中のつなぎ目がばらばらになってしまった。
神を見るまでは平安だった。
自分は良い人間だと思っていたし、他の人もみな私の公正さをほめてくれた。
事実、エルサレムでは皆が私を美徳の手本とみなしてくれていた。
しかし、真の聖を目の当たりにした時、衝撃を受けた。
私を破滅へと追いやった。
その後の展開はどうなったか。
神は何と仰せられたか。
「私の前に留まれ、イザヤ。そこがあなたの居るべき場所。あなたは正しい。あなたの口は汚れている。あなたは唇の汚れた民の中に住んでいる。汚れの中でころげ回れ。私はそこにいるあなたを打つ。」
しかし、それは起きなかった。
では、何が起きたのか。
「祭壇から火鉢で取り出した燃えた炭を手に持って、セラフィムのひとりが私の所に飛んできた。そして、その炭で私の口に触れた。」
神の御前で恐れおののいているイザヤがいた。
降りかかった呪いの下で、イザヤが泣き叫んでいた時、神は天使のひとりを彼の下に送った。
燃える火鉢を手に持ち、熱い炭で溢れていたの祭壇の下にいたセラフィムの中のひとり。
その炭はあまりに熱くて、天使でさえ触れることができなかった。
そのため、セラフィムは火鉢を取り、燃える炭を掴んで、イザヤの下へと飛んで行った。
その炭でイザヤの口に触れた。
その焼ける音が聞こえるはずだ。
人の体で最も敏感な部分である唇に、燃える炭。
誰かに口づけをする時に唇を使う理由は、唇が意志疎通のための強力な感覚であるからです。
裏庭のバーベキュー所から取り出した燃える炭を口の回りに押しあてることを想像してみて下さい。