みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#38 救いの達成 違う神

2023年10月31日 | 救いの達成

改革派神学を否認するサイトを見つけた。

彼らの主張(の一部)を聞いてみよう。

こういう見解と対峙することは、聖書を学ぶ上で有用な場合がある。

There is NO GOSPEL In Calvinism

時間がないので1か所だけ取り上げて議論する。

8分25秒あたり
they accept limited atonement. 
they do not believe Christ died for everyone's sins. 
カルヴァン主義者は、キリストは万人(everyone)の罪のために死んだと信じてない。

さて、この疑問に関してネット検索したところ、次のようなサイトに遭遇した。

統一教会サイト

カルヴァン主義の救済に関する五つの主要特質に対する批判があり、続いて次のように書いている。

統一原理は、神の真の愛を強調する。全ての人間が神の愛する子女であるがために、神は、人間全てが救われるのを願われる。それを心の底から知り尽くされた文鮮明師は、神を否定した共産主義者にも神の絶大なる愛を伝えるために・・・

上のサイトの管理者の考え方は、この統一教会のそれと非常によく似ている。

では、以下のようなみことばをどのように解釈すればよいのだろうか。

1.神がイスカリオテのユダをも愛していたのなら、何故彼はあのような死に方をしなければならなかったのか。彼はいま天国にいるのか?

2.
ローマ9:11~13
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。 
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。 

「まだ生まれてもおらず・・・行ないによらず」とある。これは「無条件的選び」の考えと一致する。また、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とは、「限定的贖罪」や「不可抗的恩寵」にも矛盾しないと思われる。

さて、このサイトの締めくくりに次のように書いている。

人類歴史を通して、真の愛の神は、たとえ人間が裏切って反逆しても、再び決意して忍耐し愛し続けて来られた・・・

これは、旧約聖書の記載と真逆の内容。

つまり、彼らはわれわれクリスチャンが信じる神とは異なる神を信じている可能性が極めて高い。

 

 

 


#37 救いの達成 Galatians with John Gerstner

2023年10月29日 | 救いの達成

初めに、シリーズで拝聴する(予定の)メッセージ説教者を紹介しておきます。

John Gerstner師:
Dr. John Gerstner was a professor of church history at Pittsburgh Theological Seminary and an expert on Reformed theology, especially the works of Jonathan Edwards. He was also a dear friend and mentor to Dr. R.C. Sproul.

Dr. Gerstner went on to teach theology, philosophy, and apologetics at the Ligonier Valley Study Center founded by Dr. Sproul. He wrote many books, including Primitive Theology, a collection of primers on fundamental biblical doctrines. In addition, he recorded several video teaching series with Ligonier Ministries, including a one-hundred-message overview of systematic theology. Known as an ardent defender of Christian orthodoxy, Dr. Gerstner also served on the International Council on Biblical Inerrancy.

ここにあるように、John Gerstner師は、R.C. Sproulの指導者兼教師。

John GerstnerとR.C. Sproulとの討論動画も配信されているので参考にして欲しい。

Galatians - John H. Gerstner


この説教シリーズを拝聴する予定だが、その前にキリスト(真)の福音とは何かについて、おさらいをしておく必要があるように思う。加えて、現代における偽教師による偽福音についても聞いておきたい。彼らは非常に狡猾であり、だましのプロ。羊の皮をかぶった狼。

まずは、R.C. Sproulによる神の福音に関するメッセージ。

R.C. Sproul: What Is the Gospel?

同時翻訳(日本語訳)も一部だが見てみた。過度に信用しないこと。意図的に?誤訳していると思われる箇所あり。プラットフォームはグーxル、自称6x6。

例1
誤訳:5分15秒あたり
私は人々を喜ばせようとしているのでしょうか。私はキリストの奴隷になりたくないです。
→for if I yet pleased men, I should not be the servant of Christ.
もし人(肉)を喜ばせるとしたら、私はキリストの僕ではない。

例2
誤訳:6分42秒あたり
何のために?「神の福音から離れました。」
→神の福音のために選び分けられた

註:11分52秒あたり
新約聖書を読み、どう解釈すれば神の国が遠い遥かに離れた未来にやって来るという結論に達するのか、私には分からない。
-全く同感。ロクな理論づけもなく進化論を盲信するのとよく似ている。

 

 


#176 終末預言 千年王国は将来起こる? 

2023年10月27日 | 終末預言 

危機迫る弟子たちに、2000年後の話しをするだろうか。

死の恐怖に瀕している読者たちに、2000年後のことを書き送るだろうか。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と主は言われたのに、2000年経ってもいまだに御国は到来していないのだろうか。 

・・・。

マルコ10:15
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

この世に御国はまだ来ていないのか。

来てはいるのに閉ざされているのか。

◇◇

既に拝聴したThe Narrow Way Dr Steven J Lawsonにおいても、御国(千年王国)に関して言及している箇所があります。各自でご確認を。

御国の入場門は狭い。それに続く道も狭いが、永遠の命に到る。

 千年王国(御国、天の御国、神の国)は、新天新地、新エルサレムではないことに注意。

黙示録20章後半、21章、22章は未完了(と考えられる)。

◇◇

(Q)黙示録20・4-6を読むと、明らかに千年王国は、将来起こることと考えざるを得ないのではないでしょうか。

黙示録20・4-6:
 「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
 その他の死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」

 

(A) 支配と復活は、「すでに」クリスチャンに与えられた特権であると聖書は主張しています。

 「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ2・12)

 ここで、「よみがえらされた」という言葉は、συνηγερθητεであり、不定過去時制が使われていますので、「もうすでにクリスチャンは、キリストと共に復活しているのだ。」と言われているのです。

 「・・・神は、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2・6)

 「よみがえらせ」という言葉はσυνηγειρενであり、同じく不定過去時制なので、これもすでに「神はクリスチャンをよみがえらせたのだ」と語っているのです。

 コロサイ2・12にあるように、クリスチャンにとって、バプテスマはキリストと共に死ぬことを意味します。そして、クリスチャンは、「復活の信仰」によって、キリストと共に「復活」したのです。

 そして、復活したクリスチャンは、エペソ2・6が示すように、キリストと共に「天の所に」座っている、つまり、キリストと共に支配の座についているのです。

 エペソ1・20において、パウロはキリストの王権を宣言しています。

 「神は、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に座らせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。」

 クリスチャンも、この王なるキリストと共に天に座している存在だと言われています。

 ヨハネは、すべてのクリスチャンが「王」及び「祭司」となったと述べています。

 「私たちを王(または王国)とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった・・・。」(黙示1・6)

 第1ペテロでは、クリスチャンについて次のように言われています。

 「あなたがたは、・・・王なる祭司・・・です。」(2・9)

 ここで「王なる」にあたる言葉はβασιλειουですが、これを形容詞ととるか、名詞をとるかによって、解釈が異なります。形容詞ととれば、「王的祭司」となり、「クリスチャンは、王宮で働く祭司である」という意味となり、名詞ととれば、「クリスチャンは、キリストと共に王的支配権を持つ者である」という意味になります(松木祐三、新聖書注解新約3、いのちのことば社)。

 「あなたがたも、・・・聖なる祭司として、・・・神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(2・5)

 このように、クリスチャンは、すでに復活しており、祭司であり、支配者なのだ、と言われているのですから、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間(*)王となる。」(6)という箇所は必ずしも未来のことを意味しているとは言えないのです。

 クリスチャンは支配のために召されています。神の御言葉を教え、バプテスマを授けることによって、全世界に神の支配は拡大されます。歴史が進むとともに、クリスチャンは、その支配の領域を拡大していくのです(マタイ28・19ー20)。

 現在、キリストは王であり、キリストの王国は進展しています。教会(エクレシア=目に見えない教会)は、生きている者だけによって成り立つのではありません。それは、すでに他界した信者も含めて、全体が教会なのです。キリストは、すでに他界した「モーセも、ユダヤ人たちを告発している。」と言われました(ヨハネ5・45)。ですから、信仰のゆえに迫害されて殺された人々も含めて、教会は御言葉を証しし、キリストと共に支配しているのです。(**)

 

 

(*)千年という数字は、キリストにつながる人間の支配がキリストによって永続的であることを象徴しています。ダビデ王国の支配は、千年続きませんでした。もしダビデ家が忠実であれば、キリストが来られる時に、まだダビデ家が存続していたはずでした。アダムの年齢(930才)や聖書に記されている最も寿命の長かったメトシェラでも千年に達しませんでした(969才)。神の子キリストがダビデの子としてやってくるまで、だれも千年王国を作り出すことはできなかったのです。

 

(**) キリストが昇天された時に、彼は、クリスチャンを共に天に引き上げて、御自身と共に治める者として下さったのです。それは、地上に生存している者だけではありません。旧約の人々も、ネロによって殺害された人々も共に、支配する特権を与えて下さったのです。

 生存しているクリスチャンに支配権が与えられ(4)、ネロ(***)によって殺害されたクリスチャンにも支配権が与えられています(4)。天にある人々も、地上にある人々も、共に、キリストの十字架によって購われ、交わりを持ち、すべてが王国の一員として、キリストと共に支配している、ということが、ここで言われているのです。

 

(***) 「獣」は、この手紙(ヨハネ黙示録)を受け取ったクリスチャンにとってなじみのある人物でした。そうでなければ、「獣の数字を数えよ。」(13・18)と言われなかったでしょう。私たちも手紙を書くときに、相手にとってチンプンカンプンなことは書きません。この手紙は、紀元1世紀の七つの教会を励まし、警告するために書かれたので、その主旨と矛盾することは記されないはずです。

 獣は、ネロを指しています(拙文「666とは誰か」参照)。ネロ・カエサルのヘブル語文字rsq nwrnに割り当てられた数字を合計すると666になります。

 当時、ネロは教会を迫害していました。ネロの迫害の中で、パウロとペテロも殉教したのです。

 

 


#175 終末預言 666とは誰か

2023年10月25日 | 終末預言 

危機迫る弟子たちに、2000年(or more)後の話しをするだろうか。

死の恐怖に瀕している読者たちに、2000年(or more)後のことを書き送るだろうか。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と主は言われたのに、2000年(or more)経ってもいまだに御国は到来していないのだろうか。 

*御国=千年王国。このように解釈すると、聖書全体を合理的、かつ平易に理解できる。

◇◇

ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は666である。(ヨハネ黙示録13・18)


 この問題は今日センセーショナルに取り上げられています。しかし、これは聖書の預言ですから、預言解釈の原則に則って解釈する必要があります。

 聖書解釈において、前提とすべきなのは、「聖書は第一義的に当時の人々に向けて書かれている」ということです。つまり、私たちも手紙を書くときに相手にとってちんぷんかんぷんなことは書きません。それはナンセンスだからです。したがって、この数字も、黙示録の読者(1世紀の7つの教会)にとって意味のある人物であると分かります。

 つまり、当時の人々がその数字から類推できる人物であるはずです。また、ヨハネは「思慮のある者はその獣の数字を数えなさい」と書いています。類推しても無駄な人物について類推せよとは誰も言いません。したがって、この数字が当時の人々が想像もつかない2000年後の誰かを示していないことは明らかです。さらに、ヨハネが黙示録を書いた目的は、当時の迫害下にあるクリスチャンを励ますためだったので(1:17ー3:22)、この人物がその目的と無関係であると考えることはできません。  また、黙示録の啓示は「すぐに」起こるはずでした(1:1、3、19、22:6)。「すぐに」(1:1)にあたるギリシャ語はεν ταχειで、ギリシャ語辞典では、shortly, quickly, soon, speedily という訳語があてられています。つまり、ヨハネは「時は目の前に近づいている」と述べているのです。私たちも手紙の中で「すぐにお支払いいたします」と取引先に書いておきながら、遅いので催促された時に、「いやー、2000年後に払うつもりでした。」と言ったら、それは立派なサギです。「すぐに」は「すぐに」なのです。これ以外の意味はありません。それゆえ、この獣もヨハネと同時代人であるということが分かります。

 一般に、獣の解釈で問題になるのは、獣の「二重性」です。黙示録において獣のイメージは「一般的」と「特殊的」の二つからなっていると、ほとんどの注解者は認めています。つまり、獣は、あるときは「王国」として描かれ(17:9ー11)、あるときは「その王国の一人の指導者」(13:18)として描かれているのです。

 「王国」は、7つの頭(7つの山、7人の王)を持つと言われています(17:9)。「7つの山」という表現は、当時普遍的にローマを指しました(スエトニウス、プルタルコスはローマの祭りを Septimontium [つまり、七つの山の町の祝宴]と呼びました。ヴェスパシアヌスの貨幣においてローマは「七つの山に座る女」として描かれています。テルトリアヌスやヒエロニムスなどのクリスチャン著者たちもローマを七つの山の町と述べています)。つまり、獣は「一般的」な意味においてローマ帝国を示すと考えることができます。

 それでは、「特殊的」な意味での獣とはだれを指すのでしょうか。それは、<ネロ>です。ネロ・カエサルのヘブル文字綴り NRWN QSR は(それぞれの文字に割り当てられた数を)合計すると666になります。獣は「偉大な権威」(13:2、7)のある人物(つまり、政治的な人物)であり、邪悪な偶像崇拝者で、神を冒涜する人物でした(13:4ー7)。ネロはローマの皇帝であり、大きな政治的権威を持っていました。また、その行動は極めて邪悪で、神を冒涜し、最初の異邦人クリスチャン迫害者となりました。また、自分を神として礼拝させました。ローマの歴史家スエトニウス(紀元70ー160年)は、ネロの獣のような性格を記しています。自分の気の向くままに妙な言いがかりをつけて人々を殺害しました。評判の良い400人の元老院議員と600人のローマの騎士を闘技場で戦わせて死なせました。スポルスという名の少年を去勢し、彼と結婚しました。男性を強姦し、拷問にかけることを楽しみました。また、野獣の毛皮をかぶって檻の中に入り、扉を開け放たれると、その狂気の欲望が満足するまで杭に繋がれた男女の性器を襲い続ける、というゲームを考案・実行しました。(Suetonius, Nero 29)。

 タキトゥスはネロのことを「残虐な性質をもち、数多くの無実の人々を殺した」と言いました。ローマの自然主義者プリニウスはネロを「人類の破壊者、世界の毒」と呼びました。ティアナのアポロニウスは、ネロが当時「獣」と呼ばれていたと述べています。彼は次のように言いました。「私は他の誰にもましていろいろな場所を旅し、アラビアやインドの野獣をたくさん見てきた。しかし、・・・自分の母親を食べる野獣の種類があるなどという話を聞いたことがない。だが、ネロは自分の母をむさぼり食ったのだ」。ラクタンティウスは彼のことを「忌まわしい、破滅的専制者・有害な野獣」と呼びました。サルピシウス・セヴェルスは、「ネロはあらゆる人間の中で最も下劣であり、野獣の中でさえも最も卑しいものである。彼は・・・クリスチャンの名を消そうとした最初の人物であった」と述べました。

 カリギュラとネロは皇帝礼拝を極限にまで押し進めた人物でした(エドワード・ローゼ)。彼らは存命中に、自らを礼拝することを人々に強要しました。アルメニアの王ティリダテは、ネロの前にひれ伏して拝みました。ローマ人だけではなくギリシャ人や様々な種族が彼を礼拝しました(13:7)。元老院議員のスラサエはネロの音楽の才能を評価せず、彼にいけにえを捧げなかった咎により、処刑されました(13:15)。  ネロの指導によるローマ帝国のクリスチャン迫害はローマ大火後(64年11月中頃)から彼の死(68年6月9日)まで続きました。合計でほぼ「42カ月」(13:5)でした。彼はクリスチャンを残虐な拷問にかけ殺し、汚れたことを行わせ、侮辱しました。彼の迫害は史上類を見ないものでした。タキトゥスは、次のように述べています。「彼らは獣の皮を着せられ、体は犬に咬みちぎられた。日没後の照明のために彼らは十字架に縛られて焼かれた。」教会は2人の最大の指導者を失いました。ペテロとパウロはネロの迫害時に殺されたのです。ヨハネは流刑に処されました。このことからも、ネロの迫害がキリスト教会にとって非常に大きな衝撃だったことがわかります(13:7)。

 13:10にあるように、ネロはクリスチャンを剣で殺し(パウロは斬首刑でした)、自分も短剣を喉に刺して自殺しました(Suetonius, Nero 49)。「一般的」獣ローマ帝国は、その7つの頭の内の一つであるネロが「剣の傷」(14)を受けて死んだ後、混乱の中に放り込まれました。事実、ユリウス・クラウディウスの皇帝の血統が途絶え、帝国の創設者の家系が突然統治権を失いました。スエトニウスが述べるように、「カエサルの種族はネロと共に潰えた」(Galba 1)のです。これはローマ帝国にとって致命的な問題を引き起こしました(13:3)。帝国に大きな内乱が勃発し、帝国はほとんど崩壊状態になったのです。「永遠のローマ」は瓦礫の山と化したのです。タキトゥスは次のように記しています。「4人の皇帝が剣によって殺された。3つの内乱が発生し、さらに多くの外国における戦いがあった。これらが同時に帝国に襲いかかってきたのだ。・・・イリリクムは混乱し、ゴール地方は不安定な状態にあった。・・・サルマテとスエビは反乱を起こした。・・・豊かなカンパニアの海岸の都市は飲み込まれ、圧倒された。ローマは大火によって荒廃し、そのほとんどの古い寺院は破壊され、議事堂までもが市民の手によって焼き払われた。神聖な儀式は汚され、神聖な場所において姦淫が行われた。海は難民の群で埋まり、岸壁は死体で汚された。ローマではさらに恐ろしいことがあった。・・・人々に数多くの不幸が降り懸かっただけではなく、空や大地に不思議な現象があった。」(Histories 1:2-3)これらの混乱は、市民・被支配民・近隣諸国民・敵の目に、ローマ帝国の末期の苦しみとして映りました。ヨセフォスは、この時期に帝国がほとんど「滅亡」しかかったと述べています。「この時期に、四方からひどい災難が襲ってきた」(Wars 4:10:1)「・・・[ゲルマン人は]帝国の支配下にある居住地域のいかなる場所も不安定で、崩壊しかかっていると思っていた」(Wars 7:4:2)。「全地の人々はローマ帝国が大変病んでいると」理解していました(Wars 7:4:2)。偽預言書・第四エズラ記(紀元100年)の12:16ー19には、次のように預言されています。「帝国の歴史の半ばにおいて、大きな紛争が起こる。そして、帝国は滅亡の危機に瀕するだろう。」

 しかし、この後何が起こったのでしょうか。ヴェスパシアヌスの下でローマ帝国は奇跡的な復活を遂げたのです。「・・・3人の皇帝の虐殺の後に帝国は長い間安定を失い、いわば、漂流状態にあったのだが、ついに、・・・フラヴィアン家の手によって再び安定を獲得したのであった」(Suetonius, Vespasian 1)。ヨセフォスは「ローマ人の国家的問題が予期せぬ方法で解決され、破滅を免れるや否や、・・・」(Wars 4:11:5)と述べています。ジェームス・モファットは次のように言いました。「ネロが死に、その後の空位時代の血で血を洗う戦いのために帝国は傷を受けた。傷から立ち直ったのは、やっとヴェスパシアヌスのもとにおいてであった。このことは、『傷ついた頭』という使徒の預言を実現するものであった。・・・革命の後で自力更正するという力の内に示された異教の帝国のバイタリティーは、いやがうえにもその名声を高めたのであった」。獣は生き返ったのです(13:3)!

 17:10ー11において、ローマ帝国の「7人の王」は、ヨハネが黙示録を記した時(紀元64ー67年頃*)に五人はすでに死んでおり、一人は今治めており、もう一人が後に登場するはずであるとされています。そして、この七番目の王は「しばらくの間(つまり、短い間)とどまるはず」だと記されています。さて、カエサルと呼ばれたローマの7人の王を順番に挙げていくとこの聖書の記述とピタリと当てはまるのです。

1.ユリウス・カエサル(紀元前49ー44年)
2.アウグストゥス・カエサル(紀元前31ー紀元14年)
3.テベリウス・カエサル(紀元14ー37年)
4.ガイウス・カエサル(カリギュラ)(紀元37ー41年)
5.クラウディウス・カエサル(紀元41ー54年)
6.ネロ・カエサル(紀元54ー68年)


そして、七番目の王ガルバ・カエサルの在位期間は紀元68年6月から69年1月15日までのたった7カ月だけでした!

 666はローマ及びネロを指しています。このことは、大患難時代がすでに1世紀にユダヤ戦争において終わっていることを裏付ける証拠の一つになります。

これらのことの他にも様々な証拠があります。詳しくは、Dr. Kenneth Gentry, "The Beast of Revelation"(Dominion Press, Fortworth TX) を参照してください。

 

 


#36 救いの達成:Paul vs. James? with R.C. Sproul, NO.4

2023年10月24日 | 救いの達成

Paul vs. James?: Justified by Faith Alone with R.C. Sproul

 

17分16秒から最後まで。

◇◇

救いの順序、ordo salutisについて議論する時、私たちは物事の一時的順序についてではなく、物事の論理的順序について話します。

時間的一時的優先順位と論理的優先順位の違いとはこうです。

私たちが信仰のみによる義について語る時、あの人は信仰があるから5年後には義とされるでしょうという言い方をしません。

信仰があるという場合、神によって義と数えられ、キリストの義の衣で覆われ、義の恩恵をすべて持っていると判断されます。

そこには、時間的ギャップは存在しません。

しかし、論理的に信仰は義の前に現れ、義は信仰によると言うのです。

あるいは、信仰は義認のみによると言うことが常であります。

義認が信仰より先にあるのではなくて、論理的順番によると、信仰は義認に先んずると考えるのです。

大多数の福音派クリスチャンに、「信仰と新生ではどちらが先か」と尋ねると、彼らは「信仰が先にあり、キリストにある信仰の結果として新生される」と答えます。

そこで、改革派神学者は、「いや、違う」と反論します。

ヨハネ福音書3章に戻りましょう。

イエスとニコデモとの会話の場面。

イエスは言いました、「人はもう一度生まれなければ、神の国を見ることさえできない。」

エペソ書2章には、生き返りについて書かれています。

信仰によって生き返る時、その時私たちはどのような状態にあるのでしょうか。

私たちは霊的死の状態にあります。

そこで、神である聖霊は私たちの心の性質、傾向を変えて下さるのです。

その結果、以前には信じることを否定していた人が、今や信じ、受け入れ、愛することができるようになります。

かつて語られた偉大なる説教のひとつ「神の超自然的光」の中で、ジョナサン・エドワードは聖霊の御業についてこう語っています。

聖霊は私たちの心と性質を変えて下さるので、私たちは神のご計画(proposition)を知るのみならず、その甘さ、その愛おしさ、その美しさ、その栄光を感受できるようになります。

義とされる信仰というのは、神なる聖霊の賜物として、私たちの心に創造される信仰であります。

それ故、以前には同意することを拒否、従うことも拒否して、肉の中に閉じ込められ霊的死の状態にあった私たちが、今や霊の性質を有するに至るのです。

クリスチャンの残りの人生は、肉すなわち古い人と、御霊すなわち信仰とともに(unto)命を与えられた新しい人との戦いです。

私たちは信仰と義とともに(unto)新生したのです。

ローマ書8章において、パウロが救いの順番について簡単に挙げています。

ローマ8:30
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 

この順序において明らかなこととは、あらかじめ知られている人たちは、皆あらかじめ定められている人たちの中に含まれる。

あらかじめ定められている人たちは、皆召し出される人たちであり、召し出されている人たちは、皆義とされ、義とされている人は栄光化される人たちであります。

ここで、パウロが語っているのは、召しとは外的召しではありません。

外的召しというのは、人々に福音を伝えることを言い、福音に反応し「はい、信じます」という人もいれば、「いいえ、信じません」と言う人もいます。

ローマ書9章においてパウロが言っている召しというのは、ある意味、召し出された人は皆義とされる、つまり順通りに、召しが義認に先行するということであります。

つまり、召しとは、新生、すなわち神の効果的な内的召しを言っているのです。

神の効果的な内的召しによって、私たちは信仰、生きている信仰へと導かれます。

生きている信仰を通して、私たちは義とされるのです。

 

 

 


#35 救いの達成:Paul vs. James? with R.C. Sproul, NO.3

2023年10月22日 | 救いの達成

Paul vs. James?: Justified by Faith Alone with R.C. Sproul, NO.3

12時53分から17分16秒まで。

◇◇

さらに、にせの実である腐った実をもつ人たちを愚か者扱いするでしょう。

さて、私たちの信仰告白が本物かどうかが明らかになるまで、神はどれくらい待つ必要があるのでしょうか。

神は私の心を読むことができるでしょうか。

神は私の心を読むことができて、待つ必要もありません。

私が告白する信仰が本物かどうかを見極めるために、1週間、2週間、6か月、あるいは7章(の間、つまり15章と22章のギャップ)、神は待つ必要はありません。

この疑問に答えることは大変重要です。

ヤコブもパウロも自分の意見を主張するために、アブラハムに訴えてはいますが、彼の人生上異なる時期について訴えています。

15章を指し示して、パウロは、律法の行ないとは関係なく、私たちは信仰によって義とされることを主張します。

15章には、アブラハムは神を信じた。それにより彼は義と数えらえれたとあります。

22章を指し示して、アブラハムは行ないによって義とされたとヤコブは主張します。

15章と22章との間には7章ものずれがあります。

22章では、祭壇にイサクが捧げられたことが書かれています。

次いで、ヤコブはアブラハムが行ないによって義とされたと言います。

神の目からして、アブラハムは義とされたとヤコブは主張しているのでしょうか。

あるいは、人間の目からして、アブラハムは義とされたとヤコブは言っているのでしょうか。

だれの前に、人は信仰告白をするのでしょうか。

ヤコブの答えはこうです。

「信仰はあると言うが、行ないのない人の信仰は、その人を救うことができるだろうか。」

彼の答えはNO。

救いに至る信仰は死んでいる信仰ではない、生きている信仰。

生きている信仰であれば、行ないによって具現化するはずだ。

つまり、22章において、(行ないという点から)アブラハムには、証拠がある、実証できる、信頼性を有する信仰があるとヤコブは主張するのです。

信仰があると主張する時、私たちは行ないによって信仰を実証する必要があります。

信仰を持っていると主張し、行ないがなくても救いがあるとする反律法主義について、先に言及しました。

この考えは、私たちが今日も論争する肉的クリスチャンの概念であります。

以上の説明がこの問題を掘り下げ、同じことば・同じ例を使うことにより、2つの異なる疑問に答えようとしていることを理解できるのではないかと思います。

信仰告白と行ないの両者によって、ヤコブがアブラハムの正当性を立証しようとしていることが分かります。

これがヤコブ書を理解するための方法であるとしても、それに対する反論はないと思います。

問題を解決するのは難しいかもしれませんが、私の説明に異議を唱える意見はないはずです。

あまり時間がありませんので、もう一つの疑問に話を移したいと思います。

「キリストにあって救いの信仰を生み出すものは何か」ということ。

その信仰はどこから来るのか。

この疑問に対する答えは、改革派神学の本質そのものの定義であると言っても過言ではないと思います。

改革派神学の本質をワンフレーズで説明するなら、「新生は信仰に先んずる」ということ。

すなわち、信仰の力、信じることのパワーとは、ひとつの結果にすぎないということ。

信仰とは、(神とは)独立してなされる私たちの意志の行為ではない。

ではなくて、私たちの心の性質を変えて下さる、権威者としての神の働きの実。

神の働きの実(結果)として、信仰という賜物が与えられる。

それが私たちの信仰であって、私たちは信じる存在ではあるが、私たちがその信仰を生み出すのではない。

信仰は、神の瞬間的超自然的働きの御業から生み出される。

聖霊は、霊的死から私たちを生き返らせ、私たちの心に信仰という賜物を与えて下さる。

 

 


#174 終末預言 Charles Haddon Spurgeon

2023年10月21日 | 終末預言 

 「世界の諸国をキリストの御国と変えるなど、夢遊病者のたわごとに過ぎぬ。」

 現在の成長のペースからすれば、このような言葉にだれもがうなずくことだろう。


 事実、教会の多くの信者は、キリストが再臨されない限り、御国の到来などあり得ないと諦めを決め込んでいる。


 安逸を好むわれわれの耳に、この言葉は心地よく響く。それゆえ、再臨の教理は、今日大変な人気を博している。


 しかし、私は、王なるキリストが世界を統治され、偶像がことごとく滅ぼされ、かつて世界をくつがえした同じ力が、これからも世界を変え続けるだろうと確信している。


 聖霊は、「神は世界を変えることができない」と主張する者たちの傲慢をお許しにならない。彼は、神の聖なる御名に加えられたこの冒涜を黙って見過ごすことがおできにならないのだ。


              


#173 終末預言 マタイ24章の来臨預言について

2023年10月19日 | 終末預言 

(Q)キリストの世代内にイエスが来られた事実があるでしょうか。 そして、その時、神による審判が起き、その結果、神の国が成就したのでしょうか。

 

(A)マタイ24章は、すでに掲示しましたように、イスラエルに対する審判の預言でした。

 イエスは、弟子たちが宮の崩壊について(24・1)、「いつこれらのことが起こるのでしょうか。」(3)と尋ねました。それに続いて、「あなたの来られる時や時代(του αιωνοs)の終わりにはどのようなしるしがありますか。」

 ここから明らかなのは、神殿の崩壊が起こる時が、キリストの来臨の時であるということであり、「時代」(*)の終わり(神殿と犠牲制度、契約の民イスラエルの終焉)だということです。

 この来臨は、再臨とは異なるものであることは明らかです。もし、神殿が、世界の終末に建っている神殿であるというなら別です。しかし、終末期に建っている神殿である証拠はどこにもありません。むしろ、ルカでは、この神殿が何を指しているかをはっきりと示しています。

 「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。・・・『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どのような前兆があるのでしょう。』」(ルカ21・6)

 「あなたがたの見ているこれらの物」-つまり、弟子たちが目の前に見ている神殿について言っているのです。それが、崩壊するのはいつであり、それが起こるときには、どのような前兆があるのか、について、弟子たちがイエスに尋ねたのです。

 注解者たちは、次のように述べています。

「この言葉が語られた時点では、これほど信じがたい出来事はなかった。神殿は壮大で、豊かで、見事な建造物であった。神殿はイスラエルの誇りであり、国民は平和に暮らしていた。しかし、40年後にこのことはすべて実現したのだ。紀元70年に、ティトス率いるローマ軍がエルサレムを占領した。・・・ヨセフォスは、次のように記録している、ティトスは、『エルサレム全市と神殿をことごとく破壊せよ、との命令を下した。』・・・マイモニデスは、次のように記している。『ティトス軍の将軍、テレンティウス・ルフスは、鍬を使って神殿の土台を根元から覆した。』」(Barnes)

「この第一の質問は、もっぱら神殿の崩壊に関するものである。」(Gill)

 このように、神殿とは、紀元70年に崩壊したあのエルサレムの神殿のことを指しているのですから、弟子たちの神殿崩壊の前兆についての質問に対して、イエスが、語られたキリストの来臨の預言も、その時に成就したと見なければならないのです。

 また、前兆(しるし)を列挙した後で、イエスは、しめくくりとして、次のように語られます。

 「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(34)

 先にも述べましたように、この時代(γενεα)とは、イエスの同世代を指しているので、キリストの来臨も、この世代内に起こったと考えなければならないのです。

 それでは、実際に、キリストはどのようにして来られたのでしょうか。

 それは、キリストの可視的来臨と考えることはできません。聖書において、主の到来は、かならずしも可視的ではありません。「主が来られる。」と述べられている旧約聖書の預言において、それは、国家や権威者に対する攻撃とそれらの崩壊を意味しています。

 例えば、紀元前8世紀に記されたミカ書の1章は、捕囚前のユダとイスラエルに対する審判の預言であり、再臨の預言ではありません(新聖書注解旧約第4巻、いのちのことば社、562ページ)。

   それにもかかわらず、主が来られると記しているのです。

「見よ。主は御住まいを出、降りてきて、地の高い所を踏まれる。」(1・3)

 これは、歴史上実現したのでしょうか。主は、実際に天から文字どおり降りてきて、地の高い所に足を置かれたのでしょうか。

 また、これも紀元前8世紀に活躍したホセアは、当時イスラエルに住んでいた人々の罪を裁くために、主が「国々の民」を集めると預言しました。

 「わたしは彼らを懲らしめようと思う。彼らが二つの不義のために捕らえられるとき、国々の民は集められて彼らを攻める。」(10・10)

 これは、アッシリア軍の多種族を意味します(鈴木 昌、新聖書注解旧約第4巻、493ページ)。

 続いて、ホセアは「主が来られる。」と預言します。

 「ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」(12)

 これは、主が目に見える形で天から降りてこられることを示しているのでしょうか。いいえ。ここで主の来臨は、アッシリア軍による侵略を意味しているのです。

 「あなたの要塞はみな打ち滅ぼされる。シャレマンがベテ・アレベルを踏みにじったように。その戦いの日には、母親が、その子どもたちの上で、八つ裂きにされた。イスラエルの家よ。あなたがたの悪があまりにもひどいので、わたしはこのようにあなたがたにも行う。イスラエルの王は夜明けに全く滅ぼされる。」(14ー15)

 これらから明らかなように、主の来臨預言を、神御自身の可視的な来臨と必ずしも解釈することはできない、ということです。

 同じように、マタイ24章におけるキリストの来臨も、キリストの可視的な来臨と考える必要はないのです。多くの注解者は、この来臨が、エルサレムの破壊を意味していると解釈しています。

 バーンズは、「エルサレムの破壊は、彼らの大きな罪を裁くために、キリストが来臨され、事を行われたことを示している。」(Barn’s Notes on NT, Kregel, p.116)と述べています。

 ギルは、次のように述べています。

 「この預言は、最後の審判について語っていると解釈してはならない。・・・というのは、これが、エルサレムの破壊の前に起こらねばならないからである。この預言は、御怒りと報いのために、主が、御民、イスラエル民族を打ち砕き、イスラエルの都、そして神殿を破壊する目的でやって来られることについて語っているのである。」(Gill, Notes in Online Bible ver.2.5.2, Ken Hamel Box 168, Oakhurst, NJ 07755)

 つまり、キリストの来臨は、ローマ軍によるエルサレム破壊という形で実現したのです。

 因みに、初期キリスト教の教父たちは、エルサレムの崩壊が、ダニエルの70週(ダニエル9章)の成就であると考えています。「荒らす憎むべき者」(マタイ21・15)も、ティトスが神殿の中にローマの旗を据えたことにおいて成就したと述べています(The Epistle of Barnabas 16:6; Clement of Alexandria, Miscellanies 1:21; Tertullian, Against the Jews 8; Origen, Matthew 24:15; Julius Africanus, Chronography; Eusebius, Demonstrations 8; Athanasius, Incarnation 40:1, Augustine, 199th epistle(G.Bahnsen and K. Gentry, House Divided, ICE, p279 からの転載))。マリー・スモールウッドによると、これは、軍旗であり、崇拝の対象とされていました(Mary E. Smallwood, The Jews Under Roman Rule (Leiden: E. J. Brill, 1976))。ヨセフォスは、次のように述べています。

「(ティトスの兵士たちは)旗を神殿の中に運び入れ、東の門の反対側にそれを据えた。そして、旗にいけにえを捧げた。」(Josephus, Antiquities of the Jews, 6:6:1)

   マタイ24章には、具体的に、キリストの来臨がどのようなものであるか、記されています。

 

(A)

「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくようにちょうどそのように来るのです。」(27)

 これは、キリストが円盤か何かに乗って、猛スピードで空を駆けめぐることを指しているのではありません。

 これを文字どおり解釈するならば、次の節の「死体のある所には、はげたかが集まります。」(28)も、「これは、再臨の時に、死体のある所にはげたかが集まることを指しているのだ」と解釈しなければならないはずです。

 しかし、これは、ナンセンスです。ほとんどの注解者が解釈しているように、この節は、「死体に群がるはげたかのように、生きていても、神の目には死んでしまったような霊的破産者の所には、裁きが必ず襲ってくるのだ。」という霊的意味にとらなければならないのです。

 「いなずま」は、キリストの審判が明瞭であることを象徴しています。

 キリストの来臨は、前節に記された偽キリストの現れ方と対照的に記されています。偽キリストの到来の方法は、荒野に現れたり、部屋に現れたり(25-26)、日常的です。しかし、それに対して、キリストの到来は、非日常的であり、特異な出来事として他とはっきりと識別できるものです(Foerster, Theological Wordbook of New Testament, vol. I , p. 505)。

 ルカにおいては、さらに明らかです。

 「人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても、行ってはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。・・・人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」(ルカ17・23-27)

 キリストの来臨は、非日常的・破局的であり、それを洪水と比べることができる、と言われているのです。人々が、平凡な日常生活を送っているときに、洪水が襲いました。それと同じようにキリストの来臨も、けっして日常的なものではなく、破局をもたらすものなのです。だから、「となりの部屋にいる」とか「荒野にいる」と誰かが言ってもついていってはならない。それは、けっしてキリストの来臨ではない。キリストが来られるのは、いなずまがひらめくように、人々が震え上がるような異常事、つまり破局的出来事なのだ、と言われているのです。

 

(B) 

 「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(29)

 これも、再臨の時に人工衛星が天から落ちてくることを示しているのではありません。

 これと同じ表現が、ヨエル書にあります。

 「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」(2・10)

 「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」(2・31)

 使徒行伝において、ペテロは、このヨエルの預言がペンテコステの日に成就した、と述べています。

「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。・・・また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下には、地にしるしを示す。それは、血と火と立ちのぼる煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。』」(17-20)

 

 では、ペンテコステの日に、実際に血と火と立ちのぼる煙があったのでしょうか。太陽はやみとなり、月は血に変わったのでしょうか。聖書のどこにもこのような物理的現象が起こったと記されていません。そのような証拠を示す文書は存在しません。

 これは、文字どおり解釈すべきではなく、預言の型として理解しなければならないのです。旧約聖書の預言者は、このような型を用いて神の審判について描写しました。

 イザヤは、13・1、11において次のように述べています。

「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。・・・見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、血を荒れ廃らせ。罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。」

   エゼキエルはエジプトの王パロに対する宣告を述べます。

「あなたが滅び失せるとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地をやみでおおう。」(32・7-8)

 アモスは、イスラエルに対して次のように預言します。

「その日には、・・・わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、・・・」(8・9)

 ミカも、イスラエルに対して次のように預言します。

「太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。」(3・6)

 このように、聖書において、預言に特有の象徴的表現が頻繁に登場します。旧約聖書において、これらの出来事が文字どおり実現しなかったように、新約聖書において同様の表現が出てきた時も、同じように文字どおり実現することはないと考えなければならないのです。

 チルトンは、旧約聖書において、天体は支配を行う神の僕であると記されているので(創世記1・16-18)、太陽や月や星の機能停止は、支配者の権威の失墜を象徴していると考えることができる、と述べています(David Chilton, The Days of Vengence, Dominion Press, Tyler TX, pp. 196-197)。

 ですから、このマタイ24・29は、「イスラエルの支配が終焉し、彼らの権威が失墜する。」と解釈しなければならないのです。聖書は、聖書によって解釈しなければなりません。新聞を用いて聖書を解釈することは預言の私的解釈になります。

 エルサレムが陥落し、神殿が破壊され、様々な苦難が続いた後で、イスラエルは、その契約的特権を奪われます。彼らは、諸国民のリーダー的地位を失うのです。

 

(C)

「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。」(30)

これは、原語では、

και τοτε φανησεται το σημειον του υιου του ανθρωπου εν ουρανω(And then will appear the sign of the Son of Man in heaven)

となっています。εν ουρανω(in heaven)は、「現れる」を修飾する副詞句「天に」と解釈することもできますし、「人の子」を修飾する形容詞句として「天にいる」と解釈することもできます。つまり、

「そのとき、人の子が天にいるしるしが現れます。」(30前半)

と訳することができるのです。事実、キング・ジェームズ訳はこのように訳しています。

 

 29節のイスラエルの滅亡預言に続いて、「人の子が天にいるしるし」=人の子が天の王座について、天地の主権者となったことのしるしが現れます。

   これは、それに続く後半の箇所と関連しています。

 

(D)

「すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。」(30後半)

 この「天の雲に乗ってくる」という表現は、マルコにおいて次のように記されています。

 「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(14・62)

 これは、イエスが裁判の席で、大祭司の質問「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」(14・61)に答えて言われたものです。

 それに対して、大祭司は、自分の衣を引き裂いて、「これは冒涜だ。」と述べます。(63-64)

 なぜ、彼らは、このイエスの言葉を冒涜だと考えたのでしょうか。それは、「天の雲に乗って来る」という表現が、次のダニエル7・13に言及していることに気づいたからです(参照:Oepke, Theological Dictionary of NT, Eerdmans, vol. 4. p. 909)。

 「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

 イエスは、このマルコ14・62において、自分は、ダニエル7・13において預言された人の子であり、キリストなのだと宣言されたのです。

 それゆえ、同じように、マタイ24・30における「天の雲に乗る」という表現も、明らかにダニエル7・13の成就であるということが分かります。

 そして、「地上のあらゆる種族は、悲しみながら、・・・見る」という表現も、全世界の住民がキリストの来臨を悲しみながら見るというのではなく、次のゼカリヤ12・10-14の成就であると考えなければなりません。

 「彼ら(ダビデの家とエルサレムの住民)は、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」

 というのは、「地上のあらゆる種族」における「種族」は原語ではφυλαιですが、これは、辞書によりますと、「族長ヤコブの12人の息子たちから出たすべての人々all the persons descended from the twelve sons of the patriarch Jacob (Greek-English Lexicon of the New Test. Baker, Grand Rapids, Michigan)」を指しているからです。つまり、ユダヤ人の諸氏族が人の子の来臨を見ると言っているのです。けっして、全世界の人々が見るわけではないのです。

 ある注解者は、次のように述べています。

 「そして、地上の諸種族が嘆くだろう。これは、ユダヤの地に住む人々を表す。・・・これは、最終審判のための来臨を指しているのではない。彼は天の雲に乗って来られる。そして、偉大な権力と栄光とを身にまとって来られる。しかし、この来臨は、御民の滅亡をもたらすためのものであり、最後のとどめを刺すためのものである。これは、彼らにとって暗闇であり、悲惨な取り扱いであった。とことん盲目であるならば別だが、もしそうでなければ、彼らは、神の御腕の力と、キリストの栄光を見ることができたであろう。キリストは、単なる人ではなかった。彼は、神の子に他ならなかった。ユダヤ人は、キリストをさげすみ、拒絶し、十字架に付けた。キリストは、異邦人の間において、もっと明瞭な、独特な方法で御国を築き上げ、栄光を表すために来られた。」(Gill, Mattew 24:30)

 

 まとめると、マタイ24・30の「人の子が天にいるしるし」と「天の雲に乗って来る」という表現によって言われていることは、先に引用したダニエル7・13の預言の成就であり、そのメッセージは次のようなものです。

 (1)神の右の座に着き、王権を取られたこと。
 (2)全世界がキリストの王国の国民になること。
 (3)キリストの王国は永遠に滅びることがなく、歴史において拡大して全世界に及ぶこと。

(つづく)

 

(*)原語αιωνの主要な意味は、「時代」ですが、それから、「世界」という意味も派生しました。しかし、この24章を見ますと、数々の前兆やキリストの来臨の記事の後に、「これらのことが起こらない限り、この世代は過ぎ去らない。」と締めくくられているので、「時代」と訳するのが適当と思われます。
 多くの英訳聖書が、これを「時代」と訳しています。

Tell us, when will these things be, and what [will be] the sign of Your coming, and of the end of the age?(NASB)

Tell us," they said, "when will this happen, and what will be the sign of your coming and of the end of the age?(NIV)

Tell us, when will this be, and what will be the sign of your coming and of the close of the age?(RSV )

(**) 旧約聖書において、「いなずま」は審判を象徴しています。

「主は彼らの上に現れ、その矢はいなずまのように放たれる。」(ゼカリヤ9・14)

「あなたの裁きは、光のように現れる。」(ホセア6・5)

「かすめる者が彼らをかすめ、・・・槍は揺れ、戦車は通りを狂い走り、広場を駆けめぐる。その有り様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る。」(ナホム2・3-4)

 雷は、出エジプトにおいて、主がエジプトに下された裁きの一つでした。

 「モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。・・・雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。」(出エジプト9・23-24)

 黙示録では、「いなずま」は、旧約聖書の象徴的表現と関連しており、同様に、主の審判を象徴しています(4・5、8・5、11・19、16・18)。

 

 

 

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#34 救いの達成:Paul vs. James? with R.C. Sproul, NO.2 

2023年10月18日 | 救いの達成

Paul vs. James?: Justified by Faith Alone with R.C. Sproul, NO.2

6分56秒から12時53分まで。

◇◇

さて、知恵はその子らによってjustifyされるとイエスが言った時の意味合いですが、justifiedということばの意味は、ある事柄の信ぴょう性を論証する、あるいは証明するという意味になります。

もし私が4分以内に1マイル走ることができると言っても、あなたがそれを信じるとは思えません。

手に正確なストップウォッチを持って、そのことを信じるために確認したいと思うでしょう。

私の言ったことを証明する唯一の方法は、4分以内に1マイル走ることです。

つまり、4分以内に1マイル走ることができると言ったところで、トリックでもしない限り、私の主張を信じるほど皆さんは愚かではないでしょう。

私は1マイル走ることができるだろうと言ったとしても、その主張を証明できるだろうとは思わない。

大学で哲学を教えていた頃のこと。

学生に哲学史を教えるために、幾人かの哲学者を紹介し、彼らの考え方を学んでいた時のことです。

哲学をマスターするためには、ある種の知力が必要であると学生たちは考えているようでした。

その知力とは大変難解であり、学生たちはもがいていました。

他の教科で優秀な成績を上げていた学生さんも、哲学に関しては問題を抱えていました。

そこで、私はある哲学者の業績を理解するのに役立つヒントを与えました。

そして、よくこう言ったものです。

「最初にして欲しいことはこの質問に答えること。この質問の答えを見つけて欲しいことです。」

「この哲学者はどんな問題を解こうとしているのか、そしてそれは何故か。」

なぜデカルトが明快で奇抜なアイデアを見つけようとしていたのかが分かれば、彼の論理についていくことができるし、知的な結論に達することができます。

パウロとヤコブの関係について私たちが抱いている難問についても、同様の原則を当てはめてみようと思います。

ヤコブ書2章を理解するために、次のような質問をしてみる必要があります。

「彼はどんな問題を解こうとしていたのか。彼が解こうとしていたのはどんな問題なのか。」

私の質問に対する答えは、2章14節から始まります。

ここで、ヤコブは次のように書いています。

「 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」

ヤコブが持っている疑問は、「行ないがないなら、信仰告白をしても何の良いことがあろうか」ということ。

その信仰に何の益があろうか。

そこで、ヤコブは、信仰告白はするが、その実を具現化しない人たちに対する問題点を取り扱っています。

信仰告白はしたけれども、信仰の事実を証明しようとしない人たちが、現代のアメリカには数千万人います。

彼らは信仰があると主張します。

これがヤコブが答えようとした疑問であります。

パウロが聞きたい疑問とは異なります。

パウロの疑問とは、「義であり聖なる神の御前に、不義なる者が立つことができるのだろうか」ということ。

義認に関するパウロの関心は、「神の御前に」という点にあるのです。

だから、パウロは、「律法の行ないとは無関係に、私たちは信仰によって義とされる」と訴えるのです。

しかし、ヤコブは次のように主張します、「信仰を告白するが、その証拠がない人たちとは何ぞや」と。

ヤコブ2:14~17
信仰はあると言っているがが、行ないが伴わないのなら、その信仰はその人を救うことができるだろうか。もし兄弟や姉妹が裸でいて、食べるものにも窮している時に、あなたがたのひとりが、安らかに離れなさい、そして満たされなさい、と言って、体のために必要なものを与えないのなら、それはなんの益になろうか。役に立つのだろうか。同じように、行ないがないなら、その信仰は死んでいる。

つまり、ヤコブは、死んでいる信仰と生きている信仰を区別しようとしているのです。

ルターが信仰義認の教理を主張して、それがどのような信仰なのかと問われた時、以前に説明したように、それは、あなたがただ信じて、ただ生きて、ただ欲しいものを望む、そういうことだけを意味しているのでしょうか。

パウロも同じ疑問に答えています。

彼の答えは、「神はそれをお赦しにはならない。」

そして、ルターは、「信仰のみによる義であって、孤立した信仰によってではない」
と答えています。

続けて、ルターは付け加えます、「十分な根拠を有する信仰とは、生きた信仰、生きている信仰。」

従順の果において信仰が具現化する時、その信仰は生きています。

さて、この部屋にいるあなたがたに、私は救いの信仰を持っていると言ったからといってそれを信じますか。

私の心を読み取ることのできる人はいますか。

誰もできません。

私の主張が本当かどうか評価できる方法は、生きざまにおいて、私がそれを明らかにしているかどうかを知る以外にありません。

「実によって、彼らを知ることができる」と言われている通りです。

 

 


#678 神の法第六戒

2023年10月16日 | 神の法

第6戒
賠償かそれとも修復か

p276~
Restitution or Restoration
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

目標は信仰や祈りを中心に置く。

主の祈りは宣言する、「御国が来ますように。御心が天に在る如く、地にも在るように(マタイ6:10)。

これが関係修復のための期待であることは明白である。

そして、あらゆる祈りはこのことを踏襲する必要がある。

賠償を規範とする、あるいはこの原則から切り離された社会が失敗した理由は、保証による保護が原因である。

賠償する意志のない無責任な人々に反して支払われるという点で、多額の保険料は自己賠償の形をとる場合が多い。

加入者によって支払われる高額な掛け金は、賠償を要求する法律非適応に対して、加入者の自己保全である。

そのような社会は、良心という点からすると、「御国が来るように」とは決して祈ろうとはしない。

何故なら、神の法を無視することによって、そのような祈願を否定するからである。

前千年紀(プレミレ)ディスペンセーション主義者は、神の法を否定するために主の祈りを祈ることを拒絶する。

結果として、神の法秩序を回復する意志がないがゆえに、保険を習慣的に利用する多くの人たちと何ら変わるところがない。