A Wolf in Sheep’s Clothing - Theological Liberalism: The Classic Collection with R.C. Sproul
訳出時間枠:8分32秒から12分40分まで
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正しい考え方ができないから、聖書や世の状況を正しく解釈できない、偽装が見破れない、騙される、そして悲しきウルトラマン信仰へ堕ちていくという図式。
現役で働いていると次々生々しい情報が入ってくる。さすがこの世、われわれが考えているほど甘くはない。ネット情報だけだと方向を見誤る。「世」の中から「世」を見るべき。
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いわゆるリベラルや保守主義の通常の観点から離れて、神学的概念上、リベラルというのは、ありふれた日常的なことばとして使われる場合よりもはるかに狭い定義を有することばであります。
リベラリズムということばは、神学的に、特異な協議事項を有する特異な運動として定義されます。
そして、19世紀のヨーロッパにおいて神学的背景をもって起きた運動であります。
故に、神学者がリベラリズムについて話す時には、いわゆる19世紀リベラリズム、あるいは19世紀リベラル神学について話しているのであります。
お話ししたように、それは明確な協議事項を有する明確なスタンスを持っています。
さて、19世紀、西洋文明はあることを経験しました。
それは地球が縮小するこという自覚でした。
現代技術によって旅行客は増え続け、文化はお互いに混ぜ合わされ、以前には予測できなかったほどに混合してきました。
世界はるつぼと化し、母国語が通用するほどに世界は縮小し、さらに小さくなっています。
今朝、ある人が私にこう言いました。
「2年間もの間会ったこともなかった人と、2日の間に2度ばったりと会いました。2回とも違う場所でした。同じ人と偶然会ったのです。」
彼は私を見て、言いました、「R.C.少年じゃないか。何て小さな世界なんだ。」
少し間をおいて、彼は言いました、「しかし、世界全部を描こうなんて思わんけどね。」
ある見方では小さいが、しかし別の見方からは大きい。
19世紀に起きたことというのは、ヨーロッパにおけるそのような自覚の拡大でありました。
西ヨーロッパの思想家たちは、東洋やイスラム圏など世界の他の地域に出かけて行った。
新しい科学が学問の世界に登場したのもこの頃で、それは比較宗教学という科学であります。
西ヨーロッパの宗教学の学生たちは、キリスト教を学ぶだけでは、あるいはキリスト教とユダヤ教を比較するだけでは満足できなかった。
彼らはイスラム教、仏教、ヒンズー教、神道、道教などを研究したかった。
そして、世界中のすべての宗教を見たかった。
比較宗教学という新しい科学から生まれたものは、異なる世界中の宗教を研究する努力、すなわちリベラルだったのです。
さて、リベラルということばは、時に何か他のことを意味する場合があります。
新しい考え方に完全に門戸を開くことを意味したり、リベラルやリベラリズム以外のことにある程度寛容であることを意味したりします。
さまざまな方法によってさっと調べ上げて、その本質部分を発見すると、リベラルは世界中の異なるすべての宗教を剥ぎ取ったり、縫い合わせたりするわけです。
一例を挙げると、ドイツの学界において、本やジャーナルなどの学術出版に再三出現し始めたひとつのことばがありました。
それは9世紀の神学者の遊び場でほとんど決まり文句のようになっていました。
そのことばとはドイツ語のwesenであります。
ドイツ語を知っている方ならご存じだと思いますが、wesenということばはドイツ語動詞の分詞形‘to be’に由来します。
意味は、単純に‘being’(であること)ないし‘essence’(本質)。
だから、宗教の本質、すなわちキリスト教の本質を検証している本をずっと見ていたということです。
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賛美:
☞ Blessed Assurance - A Cappella Hymn