みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#110 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月31日 | 終末預言 

A Wolf in Sheep’s Clothing - Theological Liberalism: The Classic Collection with R.C. Sproul

訳出時間枠:8分32秒から12分40分まで

◇◇

偽装を見破れ


正しい考え方ができないから、聖書や世の状況を正しく解釈できない、偽装が見破れない、騙される、そして悲しきウルトラマン信仰へ堕ちていくという図式。

現役で働いていると次々生々しい情報が入ってくる。さすがこの世、われわれが考えているほど甘くはない。ネット情報だけだと方向を見誤る。「世」の中から「世」を見るべき。

◇◇

いわゆるリベラルや保守主義の通常の観点から離れて、神学的概念上、リベラルというのは、ありふれた日常的なことばとして使われる場合よりもはるかに狭い定義を有することばであります。

リベラリズムということばは、神学的に、特異な協議事項を有する特異な運動として定義されます。

そして、19世紀のヨーロッパにおいて神学的背景をもって起きた運動であります。

故に、神学者がリベラリズムについて話す時には、いわゆる19世紀リベラリズム、あるいは19世紀リベラル神学について話しているのであります。

お話ししたように、それは明確な協議事項を有する明確なスタンスを持っています。

さて、19世紀、西洋文明はあることを経験しました。

それは地球が縮小するこという自覚でした。

現代技術によって旅行客は増え続け、文化はお互いに混ぜ合わされ、以前には予測できなかったほどに混合してきました。

世界はるつぼと化し、母国語が通用するほどに世界は縮小し、さらに小さくなっています。

今朝、ある人が私にこう言いました。

「2年間もの間会ったこともなかった人と、2日の間に2度ばったりと会いました。2回とも違う場所でした。同じ人と偶然会ったのです。」

彼は私を見て、言いました、「R.C.少年じゃないか。何て小さな世界なんだ。」

少し間をおいて、彼は言いました、「しかし、世界全部を描こうなんて思わんけどね。」

ある見方では小さいが、しかし別の見方からは大きい。

19世紀に起きたことというのは、ヨーロッパにおけるそのような自覚の拡大でありました。

西ヨーロッパの思想家たちは、東洋やイスラム圏など世界の他の地域に出かけて行った。

新しい科学が学問の世界に登場したのもこの頃で、それは比較宗教学という科学であります。

西ヨーロッパの宗教学の学生たちは、キリスト教を学ぶだけでは、あるいはキリスト教とユダヤ教を比較するだけでは満足できなかった。

彼らはイスラム教、仏教、ヒンズー教、神道、道教などを研究したかった。

そして、世界中のすべての宗教を見たかった。

比較宗教学という新しい科学から生まれたものは、異なる世界中の宗教を研究する努力、すなわちリベラルだったのです。

さて、リベラルということばは、時に何か他のことを意味する場合があります。

新しい考え方に完全に門戸を開くことを意味したり、リベラルやリベラリズム以外のことにある程度寛容であることを意味したりします。

さまざまな方法によってさっと調べ上げて、その本質部分を発見すると、リベラルは世界中の異なるすべての宗教を剥ぎ取ったり、縫い合わせたりするわけです。

一例を挙げると、ドイツの学界において、本やジャーナルなどの学術出版に再三出現し始めたひとつのことばがありました。

それは9世紀の神学者の遊び場でほとんど決まり文句のようになっていました。

そのことばとはドイツ語のwesenであります。

ドイツ語を知っている方ならご存じだと思いますが、wesenということばはドイツ語動詞の分詞形‘to be’に由来します。

意味は、単純に‘being’(であること)ないし‘essence’(本質)。

だから、宗教の本質、すなわちキリスト教の本質を検証している本をずっと見ていたということです。

◇◇

賛美:

Blessed Assurance - A Cappella Hymn

 

 

 


#109 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月29日 | 終末預言 

A Wolf in Sheep’s Clothing - Theological Liberalism: The Classic Collection with R.C. Sproul

訳出時間枠:4分秒から15秒から8分32秒まで

◇◇

一方、リベラルであるということは、オランダ語の意味においても、ドイツ語の意味においても、ラテン語の意味が示唆するように、freethinker(自由な考え方の持ち主)であります。

一体何から自由なのでしょうか。

最も気高い、そして最も高潔な意味において、リベラルであるということは、批判的に考えることができる、人間のあらゆるしきたりや慣習の罠から自由であるという意味において、自由に考えることができるということ。

私たちの考え方は、神の権威の下にあって、しかも神の領域に従うべきであると思います。

私はリベラルでありたいとは思わないので、神の権威に依存していることをはっきりと申し上げておきます。

一方で、見つけることができるのであればどこでも神の真理を見つけたいというポジティブな情熱を持っているという点においてリベラルでありたいと思っています。

歴史的に言って、本物のリベラルとは、人間のしきたりによって隷属されることなく、可能な限り自由に真理を追い求めることを切に望む人のことを言います。

すなわち、高貴な企てとか、高貴なことばとかであります。

ここで私が定義しているリベラルという意味からすれば、クリスチャンはリベラルではないことを私は希望します。

何故なら、見つけられるからと言って徹底的に真理を追及するのがクリスチャンではないと思うからであります。

それは単に愚かなことです。

批判的に考察することなしに、いくらでも降って来るような愚かな策略に対して広く門戸を開くというのは知性的に愚かだからです。

それは決して確信へと移行することはありません。

ロッテルダムのエラスムスが、ルターと激しい論争を行なった時のことです。

ふたりとも文筆の才がありました。

エラスムスは痛烈な非難記事を書きました。

それに対抗して、ルターは奴隷意志論という古典的作品を書き上げたのです。

ルターに対するエラスムスの批判のひとつが、自分の考え方によって、ルターはそのような結論に到達してしまったのだというもの。

エラスムスはルターに次のように言いました。

「これらの事に関しては、私は批判的な立場をとり続けようと思う。純粋に学問的でいたいことと、一時停止していた私の決断を永久的に保持したいがためである。」

すると、強烈なドイツ魂をもって、典型的なドイツ人ルターはそれに対抗した。

彼はエラスムスに言いました。

「猜疑論者なんぞ追い払え、学問信者なんぞ追い払え。」

その時彼が言ったのは、「Spiritus sanctus non est scepticus、つまり聖霊は批判論者ではない。私が明らかにした真理の数々は、命そのものよりも確かなものだ。」

常に学んではいるが、決して真理の知識に到達できないことに何らかの価値を見いだそうしている人々によって催眠術をかけられたり興奮させられたりしないように注意してい下さい。

キリスト教はひとつの宗教であります。

確信と宣言の土台の上に構築されるのが信仰であります。

ルターはエラスムスに言いました、「あなたは断言を受けたくないのです。そして断言をしたくもないのです。」

さらに、彼は「断言の生成場所が、まさにクリスチャンなのです」と言いました。

断言を追い払えとは、キリスト教を追い払えということ。

このことを理解することは重要です。

只々流浪するばかりで、決して真理のどこにも着地できないという意味において、私たちはリベラルになりたいとは決して思いません。

◇◇

賛美:

The Church in the Wildwood - A Cappella Hymn (4 verses!)

 

 

 


#108 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月28日 | 終末預言 

A Wolf in Sheep’s Clothing - Theological Liberalism: The Classic Collection with R.C. Sproul

訳出時間枠:最初から4分15秒まで

◇◇

先に、リベラリズム(リベラル派、リベラル)に関して、実体験ならびに然るべき文献を参考にしながら若干の考察を行なった。

「経験したことがないので天国は存在しない」とか「私たちクリスチャンは神だ」などと宣う牧師までいるほどに非常に堕落している異端領域だ。

改革派神学に基づいてリベラルとは何かをしっかりと定義し、正統神学との違いを明瞭にしておきたい。

基礎教理ではないので信仰の成長には役立たないが、聖書信仰を堅持する(キリスト教弁証論という)ための学びとしては有用ではないかと思い取り上げてみた。

牧師の考え方に疑問を持ったら「そのお考えを支持する聖句や注釈書あるいは教会の見解など、できるだけ多くの資料を教えて下さい」と聞いてみる。終いに怒り出すか、貧弱な資料提供しかできない場合は異端の可能性が高い。


マタイ7章15節
偽預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

テトス3章10節
異端者は、1、2度訓戒した上で拒否しなさい。


◇◇

最近、南キャロライナ州チャールストンまで旅することがありました。

その地で、チャールストン郊外にあるエピスコパル教会でお話しをする機会を得ました。

教会へ行くと、リベラリズムとは何かというお題で日曜学校成人クラスで講義をしてくれないかと依頼されました。

その構成要素があまりに多岐にわたるため、何か奇妙な質問ではないかと思いました。

リベラリズムとは何かという疑問はあまりに範囲が広くて、諦め半分で回答を模索しながら、しばらくの間四苦八苦しました。

私たちの文化において、一般的な分類法がよく使われるのですが、その使われ方があまりに乱暴なので、そのことをまずは理解することが大事ではないかと思います。

そこで、リベラリズムということばを黒板に書いてみましょう。

このことばの始めではなく、後ろに着目して、後ろ3文字に注目します。

ことばに付加されている接尾語ismとは、考え方という積み荷全体が語幹に付加されているという意味や、ismとは生きざまや世界観、あるいは基本的人生観という意味をもつということが分かります。

それは、人間存在において信じるべき何かであったり、実存主義において信じるべきもうひとつ別の何かだったりするのです。

わたしたちはみな人間でありますが、だからといって、全員がヒューマニズムを受け入れているとは限りません。

この3つの文字ismを付与するやいなや、ある人生観、ある体系、そしてある体系的思考法について話していることになります。

ismが付加されて、リベラリズムと呼ばれる構成体のようなものがあるのです。

さて、ismを理解するために、語幹を見ていきたいと思います。

この中に含まれている別のことばがあります。

このことばの語幹はliberということばであります。

ラテン語が分かる人であれば、そのことばの元々の意味は単純にfree(自由な)であることを知っているでしょう。

liber arbitriumということばの意味は、ラテン語でfree will(自由意志)。

libertasということばは、英語でliberty(自由)という意味です。

これらの単語はすべてラテン語のliberという語幹に由来し、意味はfree(自由な)。

ヨーロッパで研究生活を送っていた時、大変苦労したのがオランダ語でした。

研究において学んでおく必要があった単語がふたつありました。

ひとつはrechtzinnigで、意味はorthodozy(正統信仰)。

rechtzinnigの意味は、「正しい」または「正しい考え方」です。

もうひとつのことばはvrijzinnigで、意味はliberal(自由な、リベラル)または「自由な考え方」です。

さて、ここで注意して頂きたいことは、その対照性のことを言いたいのではありません。

この2つの異なることばのうちひとつはorthodox(正統的)であり、もうひとつはliberal(自由な、リベラルな)。

orthodoxという意味のオランダ語に関して好きだったことは、「正しい考え方」という意味であります。

保守的であろうと、リベラルとか中庸に分類されようと、何であろうと、望むべきことは私たちはみなrechtzinnigでありたいということ、つまり正しい考え方の持ち主でありたい、考え方が適切でありたいということであります。

◇◇

賛美:

Above The Bright Blue

 

 

 

 


#107 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月26日 | 終末預言 

Private Interpretation: Knowing Scripture with R.C. Sproul

訳出時間枠:21分から最後まで

◇◇

第2ヨハネ9~11
だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。 
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。 
そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。


◇◇

お分かりですか、友よ。

「矛盾」を明確に理解することなしに、キリストと反キリスト、敬虔と不敬虔、義と不義、真理と偽り、の違いを把握することはできません。

聖書的に、矛盾は真理の太鼓判ではないのです。

すなわち、矛盾とは偽りの太鼓判です。

意見が異なる時、私たちは不愉快になります。

平和や調和そして交わりを望むからであります。

私たちが神のことばを取り扱う時に知っておくべきことは、意見の不一致が生じた際、本当にお互いに理解しあっていて、意見の違いが実際に存在するのであれば、明らかに誰かが間違っているです。

神の無謬性を犠牲にしてまで問題を避けて通り、安価な解決策を取ってはなりません。

神は決して2枚舌を使いません。

神のことばは真理であります。

神のことばは決して矛盾しません。

神のことばを相対化してはいけません。

各聖句の正しい意味はたったひとつしか存在しないのです。

各聖句は多くの適応、多くの重要なニュアンスを持っていますが、正しい意味はたったひとつしか存在しません

私的解釈の原則とは主観論あるいは相対論を確立するための原則ではないということを理解することが重要であります。

このことは、16世紀においてさえ明確には理解されていませんでした。

ルターは私的解釈に関する独自の原則を、「信仰のみによる義」という出版物に書き記すと(諸君は当時の状況を思い出すように)、ローマ教会との間で争いが起きました。

ローマ教会と言い争いとなった。

「さてさて、教会評議会が言っていることと意見が一致しないとは一体どうしたことか」と彼らはルターに質問しました。

「教会評議会も間違いを犯すことはあり得ます。パウロがここで言っていることを読み返してみると、パウロは信仰のみによる義を言っているように私には思えるのです」とルターは返した。

すると、教会教皇たちは言った、「分かった、ルター。パウロは信仰のみによる義を教えているとそう思うのだね。しかし、パウロの教えはそうではないと教会は宣言したではないか。」

「教会は間違っていると思います」とルターは返す。

「教会が間違っていると言うのか。そんなことはあり得ない」教会評議会委員は言い返す。

「彼らも私たちと同様に人間です。絶対に間違いがないとは言い切れません」と言い返す。

「しかし、ここに来て見てみろ。ローマ教皇に間違いはない。」

「ローマ教皇でも間違うことはあると思います。」

「ルター、教会と評議会に盾突くとは、何と傲慢な奴だ。」

次に、ルターは何と言ったでしょう。

自身の見解を撤回するよう求められた時、「聖書によって完璧に確信を得ており、私の心と私の良心は神のことばによって完全に捕えられてしまいました。従いまして撤回することはできません。最後の分析を終えて、私はあの時の聖書理解に従って行動しなければなりません。」

私的解釈の権利はローマ教会で誕生したのであります。

聖書を誤謬なく解釈するために、ルターは教会の排他的権利に挑んだのです。

反宗教改革という形で、教会はそれに対抗しました。

トレント評議会において、誰にも聖書を曲解する権利はないと宣言されました。

そのことに関して、私たちもローマカソリック教会に賛同します。

私たちは聖書を捻じ曲げる権利を持ってはいません。

すなわち、私的解釈の権利とは正しい解釈の責務を負っているのです。

私的解釈の権利は、正しい解釈の責務を負っている。

私は自分で聖書を研究することができる。私は自分で聖書を解釈することができる。2000年間教会で見逃されてきた方法により私は自分で聖書を理解できるということは理論上可能である。

本当にそうでしょうか。

そんなことはあり得ません。

だから、教会の解釈を調べたり、優秀な注釈書を紐解いたり、他の人たちが努力して収集したものを参照するのです。

何故なら、多くの事を他のクリスチャンたちから学ぶことができます。

実際、ルターもそれを実行しました。

彼は過去の偉大な巨人たち、オーガスチンや他の人々から学びました。

オーガスチンは、16世紀の間に失われてしまっていたことを再読してルターに教授しました。

つまり、信仰のみによる義を発見することができた契機は、自分自身の青写真からではなかったのです。

教会の考えや研究者の考え、そして注釈者の考えを追い求めて聖書に臨む時、私たちは可能な限り謙虚にならなければなりません。

聖書をロウでできた鼻へと変貌させ、陳腐な私的解釈を施して罪を犯さないようにする必要があるのです。

違いとはこうです。

聖書研究に際して、学んでおくべき2つの技術的事項があります。

すなわち、釈義(exegesis)と私論(eisegesis)の2つ。

両者はギリシャ語の動詞‘ex’に由来します。

出口(exit)サインなど、多くのex由来のことばがあります。

exとは、「~の外」あるいは「~から」という意味。

釈義(exegesis)学とは、テキストに到達した時にそのテキストから引き出されるということ。

テキストから出てくる、つまり実際にテキストの中にある何かのこと。

eisというのは、ギリシャ語で「~の中へ」を意味するeisに由来します。

私論(eisegesis)とは、テキストに到達して、そのテキストの中には存在しない何かを、その中に読み込むことであります。

これが聖書の曲解ということ。

実際には存在しない何かを、テキストの中に読み込むこと。

または、法的にはテキストから引き出されていない何かを、テキストから引き出すこと。

私たちは、聖書に書いてあることを読み取る時には十分注意を払う必要があります。

具体的実践的な規則を学ぶことは、私論(eisegesis)から自分たちを防護するのに役に立ちます。

そして、それにより、釈義(exegesis)の腕がさらに磨かれ、神のことばの無謬性を満喫できるようになるのです。

◇◇

賛美:

As the Deer - A Cappella Hymn

 

 

 


#106 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月24日 | 終末預言 

Private Interpretation: Knowing Scripture with R.C. Sproul

訳出時間枠:18分44秒から21分まで

◇◇

第2ヨハネ9~11
だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。 
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。 
そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。


◇◇

私たちは現在、私を心地よくしてくれるものは何であれ真理であり、現実にそぐわなくても私のために働いてくれるものは何であれ真理であるという文化の中で生きています。

いやそれ以上であり、私とは離れて向うの方に誰かが本当にいてくれるのです。

さて、話を戻しましょう。

矛盾とは真理の太鼓判である。

(本当かどうか)それを聖書の第1章に適応してみましょう。

神は、ご自身の創造物に語りかけます、「アダムとエヴァよ。」

「この木から食べれば、あなたは死ぬ。」

このことを論理に沿ってちょっとだけ翻訳してみましょう。

「食べれば、死ぬ」

もしもAであれば、次にBとなる。

数分後、サタンがやって来る。

蛇に化けたサタンが誘惑のために、創造物に近づいて言います、「食べてはいけないと神は言ったのか。」

サタンは続けて、「あなたは死にません。あなたは神々のようになるのです。」

神は言ったのは「食べれば、死ぬ。」

サタンが言うのは「食べても、死なない。」

これは直接的矛盾であります。

単なる不思議でもなく、単なる逆説でもない。

これが矛盾です。

分析してみましょう。

もしも矛盾が真理の太鼓判であるなら、次にくるアダムの考え方はどうなのでしょうか。

彼は、堕落の諸問題について、私たちがするように頭の中であれこれこね回す必要はありませんでした。

アダムは清純で、純粋な男。

しかも、鋭くて、大変晴朗。

彼はとても鋭く理屈を理解できる。

彼は言います、「ムム、神は、もしもAならば次はBと言っている、サタンは、もしもAならば次はBではないと言っている。これは矛盾だ。確かに矛盾している。」

アダムは矛盾していることを認識したのだが、あの神学者の原則「矛盾は真理の太鼓判」に基づいて考えてみた。

止むを得ず彼が下した結論とは何だったでしょうか。

もしも矛盾が真理の太鼓判なら、彼は次のように理由付けするだろう。

サタンは矛盾することを言っている。

矛盾は真理の太鼓判。

つまり、サタンが言っていることは、真理の太鼓判に違いない。

従って、サタンは真理を代表しているはずだ。

もしも神が真理ならば、サタンは代表。

私は行って食べることができる。

そうであれば、その木の実を食べていなければ、罪となってしまっていた。

堕落は、実は堕落ではなかったのです。

つまり、それは人類史における偉大な第1歩だったのです。

◇◇

賛美:

He Leadeth Me

 

 


#105 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月21日 | 終末預言 

Private Interpretation: Knowing Scripture with R.C. Sproul

訳出時間枠:15分18秒から18分44秒まで

◇◇

何故か。

働いている原則は何でしょうか。

働いている原則とはこうです。

真理は決して矛盾しない。

学校の講義でそんなことを言えば、人は「もちろん、真理は決して矛盾しない。それは確かに正しい」と言うでしょう。

そのことについて悩んだりはしない。

相対主義を過度に受け入れるために、本当の真理は矛盾しているのだと信じている人たちが実際に存在する文化の中で生きているのが私たちであります。

今世紀初頭、次のようなコメントをした有名な神学者がいました。

真理は、すなわち本当の真理、究極の真理、気高い聖なる神学的真理はしばしば矛盾する。

何故なら、それは非常に気高く、高尚であり、素晴らしいため、論理や道理に関して人間の能力を超えているから。

そして、神の真理は矛盾している可能性があるというだけではなくて、しばしば実際に矛盾している。

実際この神学者は、キリスト教におけるこの特徴をあまりに熱狂的に褒めちぎっていました。

その矛盾は真理の太鼓判であるとさえ言い放ったのであります。

さて、私たちが合理的に理解するにはあまりにも気高くて聖であるのが聖書の真理であり、時に神の方法とはとても神秘的であるため、それを切り刻んで論理的に分析することはできないばかりか、神の真理の潤沢性を人間の知恵に基づいて論理立てることはできない、と彼が言いたいのであれば、誰がそれに抗弁できるでしょうか。

しかし、この神学者はそれ以上のことを述べています。

確かにそうなのだが、キリストの真理は理性を超えると一方で述べて見たり、キリストの真理は理性に対抗するのも述べている。

まずは、矛盾は真理の太鼓判であるという考え方を見ていきましょう。

矛盾とは、単なる皮肉でもなく、捻じ曲がった意味でもなく、逆説でもなく、精密に検討すれば解決策が得られる明確な矛盾のことであります。

私たちが言っているのは本当の矛盾であって、その両端がお互いに排除し合っている矛盾のことであります。

つまり、神は存在する、神は存在しない、というようなこと。

これら2つの言い分は互いに矛盾しています。

つまり、両者が真理であることはない。

かつて、次のようなことを言うご婦人がいました。

「あなたが神の存在を信じていて、あなたにとって神を信じると言うことがあなたの人生において意義深いのであれば、神は真理なのです。私は神の存在を信じません。私にとって神は意義深いものではないからです。だから神は存在しない。」

私は言った、「ちょっと待って。私が言っていることとあなたがを言っていることは同じではないですよ。」

「私が言っている神とは、私が断言している神というのは、実在する神のことです。あなたが信じているとかいないとか、私が信じているとかいないとかではありません。祈り、歌、説教によって、私が神を作り出そうとしているのではありません。

かりにそんな神がいたとしても、あなたの不信によって神を破壊することはできません。

私たちは客観的な真理について語っているのです。

あなたが真理であって欲しいと思うことや、あなたにとって役に立つことや、あなたを心地よくすることでもありません。

◇◇

コメント:

重要なテーマが語られている。

R.C. Sproul師は紳士なので、穏やかにかつやんわりと否定するが、実体験を踏まえて、実践的かつ徹底的に批判すると次のようになる。

what you want to be true is true.
what works for you is true.
what makes you feel good is true. 

こんなことを宣言するような偽教師には十分気を付けよ。
心地よい甘いことばで誘う偽預言者から離れよ。
彼らはクリスチャンではなく滅びにいたるリベラルかヒューマニスト。
ノンクリスチャンより質が悪い。
 

◇◇

リベラルとは、啓示を絶対と見ずに人間理性を最高権威として据える異端のこと。啓示の中に受け入れられない個所があると、それを「合理化」と称して、受け入れられるように変えてしまう。つまり、何らかの意図(カネとかプライドとか)のために聖書原義を自分の都合に合わせて改ざんし、昇華しようとする。

第2ヨハネ9~11
「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。」

神学の枠にとらわれるなというのはリベラルの常套手段。時の試練を経て歴史的に認められてきた宗教改革神学に、未熟で無学、無責任な凡人が勝てるわけがない。救いに予定されていない人は聖書を理解する霊が与えられていないので、正統神学と意見が対立するのも当然と言える。

リベラルに見られる信仰の本質は、学校で叩き込まれる「人間は万物の尺度である」というヒューマニズムの教えであり、よほどの事でもない限りこの誤謬から抜け出すことができない。背景に進化論的共産主義思想がある。

◇◇

謙遜になり教会の神学に学べ


最近流行しているのは、「私は聖書を信じているのであって、神学を信じているわけではない」という意見である。

聖書を読んでそこから教えを直接受けていれば、神学など自分にとって不要である、なんてことは絶対に不可能である。

それでは、私はその人に尋ねたい。

「あなたは、神学の恩恵から完全に自由になれますか?これまで教会が2000年かけて聖書に基づいて築き上げてきた、正統神学の神論、キリスト論、教会論、三位一体論、キリストの二性一人格、予定論、再臨論…を無視し、独自に聖書から自分流の教理を築き上げるのですか」と。

このような意見は反知主義である。

神学という人間の知的遺産を否定する反文化である。

*つまり、暴力革命を支持する共産主義思想に似ている。共産主義思想とは反聖書主義、つまり神への敵対。

神学は、神が命じておられる。

なぜならば、人間は、聖書の様々な個所にある様々な教えを連関させて、総合し、まとめて理解する必要があるからである。

生のままの聖書だけでは、人間は間違う。

人間は、キリストの体である教会の中で教えられる。

神がお与えになった様々な賜物の中において成長する。

教会から離れて理解など得られるはずがない。

教会が築き上げてきた様々な正統的教理に対抗するなど自殺行為である。

宗教改革神学に対して独自の新説を唱えて自己満足している人々に告ぐ。

傲慢を捨てて、時の試練を経て純化された教会の教え(改革派神学)に学びなさい。

教会の教えは、あなたがたが考えるほど偏っていない。

箴言18:1
「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。」

*すべてのすぐれた知性、つまり神に対する敵対行為でもある。

呪われよ、神の使者を愚弄する山羊ども。永遠の刑罰へ入れ。

アーメン。


◇◇

賛美:

Great Is Thy Faithfulness - A Cappella Hymn

 

 

 


#104 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月20日 | 終末預言 

Private Interpretation: Knowing Scripture with R.C. Sproul

訳出時間枠:11分48秒から15分18秒まで 

◇◇

私が今話していることを説明してくれるストーリーを実際にお示ししましょう。

キリスト教教育と牧師養成に関わる若者たちとともに仕事をし、ダラス神学校に勤務するある教授のお話です。

講義初日に学生に課題を出します。

「明日までに聖句をひとつ選んできて欲しい。」

彼らの課題は、聖書の中のひとつの聖句、ひとつの文章。

「そのひとつの聖句から学んだことを50項目書いて来てもらいたい。」

クラスのいたる所から唸り声が漏れ出る。

学生たちは席に戻り、小声で不満を漏らしながら、教室から出て行く。

選んだ聖句から学ぶことができた事柄を、1つ、2つ、3つ見つけていく。

6つ、7つまではすぐに見つけることができる。

その後すぐに困り果てて、寮の隣の部屋をノックする。

私がまだ見つけていないけれども、君は何か見つけたかと聞いてみる。

彼らは互いのノートを見比べ始める。

すると、間もなく、寮の向こうから、あの聖句からもう少しで50項目を見つけられそうだと声が届く。

学生たちは次の朝まで続けて、さらに3つ、4つの関連項目を見つける。

そして、ついに翌朝講義が始まる。

疲労困憊のために彼らの目はかすんでいる。

ひとつの聖句から学んだ50項目を開く。

教授は言う、「よくやった。さて、明日までの宿題は、もう50項目見つけること。」

聖書は真理の宝庫であるということを理解するための貴重な講義。

英語で、ものを書いたり、何かを調べたりする時に役に立つ本があります。

これを百科事典と言いますが、ロジャー百科事典などがあります。

Thesaurus(百科事典)ということばは、「宝庫」と意味します。

究極の百科事典が聖書です。

どの聖句ひとつ取っても、聖書は意義と応用の百科事典なのです。

すべての聖句は、私たちの人生の意義に関する示唆に富んでいます。

そして、教授は次の火曜日まで毎日出かけていません。

次の火曜日までもう50項目、そして次の火曜日までもう50項目の宿題が出されます。

最も優秀な学生は、それぞれの聖句から可能な意義と可能な応用を見つけることに疲弊しませんでした。

しかし、親愛なる友よ、正しい意味はひとつしかないのです。

真理に矛盾はない。

神のことばに矛盾はありません。

それは調和して働きます。

もし私が聖書のある個所を、あなたの解釈と矛盾するように解釈したなら、その発端には何か重要なことが分かります。

少なくとも、私たちのいずれかは間違っているのです。

あなたの解釈が私の解釈と矛盾するなら、少なくとも、どちらかが間違っています。

両者が間違っている可能性もあり、第3者がやって来て、「あなたがたの家の上にはやり病がある」と言って、私たち両者が間違っている箇所を指摘してくれるかもしれません。

つまり、私たち両者は考え方を変える必要があります。

私たち両者が間違っている可能性があり、また一方が間違っていて、他方は正しい可能性があります。

しかし、両者の解釈が互いに矛盾しているのであれば、両方とも正しいことは絶対にない(いずれか一方は絶対に間違っている)。

◇◇

賛美:

Be Thou My Vision

 

 

 


#103 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月18日 | 終末預言 

Private Interpretation: Knowing Scripture with R.C. Sproul

訳出時間枠:8分5秒から11分48秒まで

◇◇

彼らの予測は極めて正確でありました。

そこで、彼らは、当時よく行われていた身体折檻、肉体的打撃、拷問部屋を使用すると言ったのです。

地獄での永遠の苦しみから人々の魂を守るために、必要であれば体中の全関節を痛めつけると公言したのです。

行なわれた厳しい尋問がどんなものだったか知りたいのであれば、実際に人々が信じている地獄で起こることであると理解するのが良い。

現在の多くの教会はそのようなことは行われていませんが。

私はローマを称賛しているのではありません。

ルターと同じ立ち場です。

私的解釈に賛成です。

私的解釈と聖書の母国語翻訳には基本的には賛成です。

しかし、私が特に強調しておきたいことは、私的解釈の危険に対して警告を発したローマがさほど執拗ではなかったことであります。

実際、不正の水門を緩めたのです。

多くのケースで、ローマは不正の水門を開放しました。

一方、ルター自身もこの問題に関して悩み苦しみました。

彼は言います、「未熟で、訓練されていない無責任な人々が、文脈を無視し聖書の意味を曲解した場合、一体何が起きるのか私は知っています。それでもなお、単純で明快なメッセージのために、全世界がキリストの福音を聞くことができるということは絶対に必要です。」

さらに言います、「これにより、不正の水門が開かれるとしても、そうしておけばよいではないか。世界中の国民にとって福音の真理とはそれほど重大なことなのだから。」

しかし、やはり支払うべき代償がありました。

皆がお互いに一致しない場合でも、互いに平安を望む時、なすべき唯一の解決手段は主観主義と相対主義の両者を受け入れることであります、

つまり、全面的に相対的になることです。

大して重要な問題ではない。

あなたにはあなたの解釈があり、私には私の解釈がある。

衝突した場合、論争となった場合でも、平安、平安、つまりなあなあの関係。

これをネヴィル・チェンバレンの聖書真理アプローチ法と言います。

この方法により、時として平和は達成されるかもしれません。

しかし、至る所で真理は死んでしまいます。

聖書解釈の第1原則とはこうです。

この原則はあなたを憤慨させるかもしれない。

これを聞くやいなや、あなたは激怒するかもしれません。

今からそれを公言します。

大目に見てくれることを希望します。

最後まで聞いて下さい。

今こうしてここにいるということを理解しつつ冷静でいて下さい。

さあ、これが原則であります。

すべての聖句において、その正しい意味はただひとつしかありません。

もう一度言います。

原則その一、すべての聖句において、その正しい意味はひとつしか存在しない。

「彼は偏執狂だ」という声が何となく聞こえてきます。

「彼は一方向主義、偏狭で、頑固で、冷たい性格の持ち主だ」と言われるかもしれない。

いや、違います。

私が言っているのは、聖句の正しい意味はたったひとつしかないということ。

しかしながら、適応は複数ある可能性があります。

しかも、文脈の意義は、事実上限りがない可能性があります。

◇◇

Blessed Assurance

 

 

 

 


#102 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月17日 | 終末預言 

Private Interpretation: Knowing Scripture with R.C. Sproul

訳出時間枠:4分00秒から8分5秒まで

◇◇

もしもそれを許すなら、友よ、聖書の権威は失墜してしまいます。

聖書の真理は相対化し、神のことばは死んでしまいます。

しかし、次のように言う人がいるかもしれません、「ちょっと待ってください、R.C.先生。最初の講義で、宗教改革から生まれた大変重要な原則は、明晰性、つまり聖書を明快にすることだとおっしゃったじゃないですか。宗教改革には、より基本的な原則、すなわち聖書の私的解釈の原則と権利があったではないですか」と。

おっしゃる通りであります。

私的解釈の原則とは、私たちが宗教改革から得ることができた最も貴重な遺産のひとつであります。

ついでに言えば、それは私たちが当然と思いがちな原則なのです。

家にいて母国語で聖書を読んでいる時、この自由と特権は簡単に成し遂げられたと思うかもしれない。

しかし、それが可能となるために、殉教者の血がヨーロッパの至る所で流されたのです。

宗教改革が開始された16世紀に、最も重要なことのひとつがマルチン・ルターによって成し遂げられました。

聖書が母国語であるドイツ語に初めて翻訳されたのです。

母国語で印刷された聖書の出版をやめさせようと世の声や抗議が沸き起こりました。

当時のことを見たプロテスタントの中には、母国語聖書の出版を抑圧しようとはローマは悪質極まりないと言う人もいました。

しかし、皆さん、事態はそれほど単純ではなかったのです。

もう一度歴史を確認してみましょう。

聖書を英語やドイツ語、あるいは他の言語へと翻訳しようとした人たちは、男であれ女であれ拷問にかけられ、拷問台の上で八つ裂きにされました。

ある人たちは火あぶりにされました。

ローマ教会は何と残忍なのだろうと思うかもしれません。

必ずしもそうではありません。

ベストケース分析を施行してみましょう。

何故ローマ教会が母国語で読めるようにする聖書翻訳に対してそのような強い姿勢で臨んだと思いますか。

私たちが先入観をもってこのことを見るなら、次のように言う人がいるかもしれません。

「ローマ教会が聖書真理からどれ程解離していたのか人々に知られないように、常日頃のスキャンダルのもみ消し工作だったのではないか」と。

私はそれが主な理由だったとは思いません。

ローマ・カソリック教会教皇は次のように言っています。

「教会のマギステリウム、つまり聖書の誤った解釈から人々を守り導く教会の指導部局なしで、聖書が未熟な平信徒の手に渡った場合、不正の水門を開放することになるだろう。」

そして、「そんなことを許せば、数多くの異なるキリスト教教派が生まれるであろう」と予言しました。

「各教派は、自分たちの聖書が真理であると主張するであろう」と。

1960年、アメリカ合衆国の宗教登録名簿には、2000もの異なるプロテスタント教派が登録されていました。

今現在どれ位あるのか分かりませんが、1960年には2000もの教派があったのです。

天国への階段NO.1教会や天国への階段NO.2教会があり、NO.2教会は聖書解釈の問題や言い争いのために、NO.1教会から分裂した人々の教会であります。

これらの異なる教派はみな、真理の源として聖書を主張する。

以上がローマが恐れていたことであります。

キリストの体がばらばらになることを恐れた。

そして、私的解釈の権利や母国語への聖書翻訳の権利を人々に与えてしまうと、異端が暴れ回ることを危惧したのです。

◇◇

Be Still, My Soul - A Cappella Hymn

 


#101 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月15日 | 終末預言 

Private Interpretation: Knowing Scripture with R.C. Sproul

訳出時間枠:最初から4分00秒まで

◇◇

今回は、私的解釈の諸問題に関して学んでみようと思う。

私的解釈をSNSのような公的な場において表明する場合、その影響力の程度に応じて重大な責任が発生する。

その解釈に自分の生命を懸かる価値があるのかどうか。

◇◇

聖書からある聖句を引用したり、ある聖句の意味に関する意見を述べたりした後に、或いはまた、あなたの方をじろりと見て、簡単な一言であなたの意見を全否定した後に、振り返りざまに「それって、あなたの解釈でしょ」と言う人に、これまで会ったことはないでしょうか。

多くの機会において私はそれを経験しております。

そして、しばしば自問するのであります、『「それって、あなたの解釈でしょ」と言う時、それは一体どういう意味なのか』と。

今日は、そのことやそのことから派生する枝葉について見ていこうと思います。

お祈りします。

父よ。私たちに話しかけて下さり、私たちのためにみことばを書き記して下さっていることに感謝します。加えて、みことばがいつでも利用できること、家の書斎で、主にある教会のために与えて下さった真理を読むことができることを感謝します。これらについてイエスキリストの御名により感謝します。アーメン。

「さて、それって、単にあなたの解釈でしょ。」

これまで何度も聞いたことのある否認のことばがこれであります。

そして、「そういうあなたもそうでしょ」と私の方もそう思っているのです。

「それって、あなたの解釈でしょ」と言う時、人々は心の中で何を思っているのでしょうか。

私の考えでは、たぶん彼らは、私Sproulが聖書解釈者の一人にすぎないということを誰にでも分かるように、そのように指摘しているだけなのだと思います。

それは私Sproulの解釈にすぎないということを誰もが知っていると指摘することによって、皆の時間を無駄にしたくはないということなのだろうと思います。

しかし、それ以上の意味もあるはずです。

つまり、私が言ったことを、単純で短い文章、すなわち、極めて単純な3段論法によって、できるだけ短時間に論駁できるように、オブラートに包んで反証しているということなのでしょう。

ことばの背後にある考え方は次のようなことでしょうか。

R.C. Sproulの解釈はすべて間違っている。

R.C. Sproulがこの聖書箇所を解釈したが、たどり着く結論は何なのか。

結局は間違いではないのか。

しかし、「それって、あなたの解釈でしょ」と人が言う時、彼らがとても不親切だとか、とても意地が悪いとは私は思いません。

それは間違いだという代わりに、そのことばをあなたの戸口の上り段に置いておくだけなのだと思うのであります。

何故なら、触れるものは何でも思い違いへと変わるのが常だからであります。

私はそうではないと思う。

私が何を恐れているのか話しましょう。

「それはあなたの解釈でしょう」と軽く否定する時に人が意図していることは、「それは、あなたの解釈でしょ。それは一つの読み方であって、私は別の見方をしている。第3者はさらに別の読み方をする」という意見をよく見かけるのであります。

これら3つは互いに排他的であり、お互いに相反関係にあります。

しかし、個別の主観的解釈の問題を取り扱うのが聖書であるから問題ない(ということになるでしょうか)。

「あなたにとって意味あるものは何であれ、それはそれで良いと思う」というようなことを私が言うとしましょう。

もしそれが人々の心に浮かぶのであれば、恐ろしいことではないのかと私は思うのであります。

その理由はこうです。

そのような考え方はいわゆる主観主義のためのスローガンの如くに成り下がっていて、神のことばの意味は個々人の解釈に縛られるということになってしまうのです。

これはルターが大変恐れたことでした。

聖書がろうでできた鼻のようになってしまうこと、すなわち、聖書を学ぶ個々人や読解する個々人のプライドや偏見に応じて、形を変え、変形して、型にはめられていくのです。

◇◇

賛美:Just As I Am - I Come Broken