みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #306 Ephesians 4

2018年12月30日 | コーヒーブレイク
エペソ4章21節
ただし
ほんとうにあなたがたがキリストに聞き
キリストにあって教えられているのならばです
まさしく真理はイエスにあるのですから

この聖句は、英語訳にあるように【as A so B】構文のように理解すると分かりやすい。 

意味は、BであるようにA、つまりBとAは同義、ということ。

A=ye have heard him, and have been taught by him
B=the truth is in Jesus

Aは簡単に言うと、キリストを知ること
Bは、真理はキリストの中にある

この2つが同義ということ。

どういうことか。

真理はキリストの中にある
→真理はあなたがたの中にある

真理はキリストの中にあるのだから、あなたがたはすでに真理を得ているのではないのか(20節)

20節は否定疑問文(反語)と解釈した方が分かりやすい。




Coffee Break, #305

2018年12月28日 | コーヒーブレイク
エペソ4章21節
ただし
ほんとうにあなたがたがキリストに聞き
キリストにあって教えられているのならばです
まさしく真理はイエスにあるのですから

本論に入る前に、おさらいを。

霊は神と交信するための器官
心は霊の良心と魂の思いから成る
霊は心を介して魂と連絡する
魂は人格(すなわち私)の大部分を形成する
我々は、知識や知恵を得るための3つの能力;
体においては、脳
霊においては、直覚
魂においては、思い
を有する
脳は5感によって得られた情報を分析する
直覚は5感によって感知できない霊的何かを察知する
思いは直覚によって制御される
思いは脳と直覚の間に位置する
魂は体と霊の間に位置し、その2つをつなぐ媒体として働く




Coffee Break, #304

2018年12月27日 | コーヒーブレイク
エペソ4章19節
道徳的に無感覚となった彼らは
好色に身をゆだねて
あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています

学生の頃、らい病患者のみを収容する療養所を訪れたことがある。隔離施設で、四国の離島の中にあった。当時の副学長がその島の療養所長と同級生で、かなり親しい間柄だったようだ。らい病について、その先生から詳しい講義があり、次いで島の中を一周した。氏の講義の中で、今でも記憶していることが一つある。らい病患者の問題点は、知覚神経が麻痺して痛覚を失うということ。手足にけがをして重症感染症から壊死を起こしても痛みがない。結局、壊死を起こした手足を切断せざるを得なくなり、多くの患者が義足や義手を必要としていること。

上の聖句にある「無感覚」と訳された単語ἀπαλγέωの意味は

ἀπαλγέω:
apalgeō
ap-alg-eh'-o
From G575 and ἀλγέω algeō (to smart); to grieve out, that is, become apathetic: - be past feeling.

無感覚、無痛。

痛みがあるということは決して悪いことではない。

パウロは

性的堕落に無神経になっているどころか、自らものめり込んでしまっている

と警告する。

最終的に、手足の切断、敗血症による死が待ち構えている。

これが思いの廃用化の末路。

我々の歩みは真逆だ。

(ロマ書12:2)




Coffee Break, #303

2018年12月26日 | コーヒーブレイク
エペソ4章18節
彼らは
物の考え方が暗くなり
彼らのうちにある無知故に
頑なな心の故に
神の命から遠く離れている

病む心は、神の光が思いの中へと入り込むことを拒む。

ついには心が死んでしまい、異邦人と同じ状態へと堕ちてしまう。

そうならないために、ローマ12:2の実践が極めて重要。

日々上へと新たにされますように。

アーメン




Coffee Break, #302

2018年12月26日 | コーヒーブレイク
エペソ4章18節
彼らは
物の考え方が暗くなり
彼らのうちにある無知故に
頑なな心の故に
神の命から遠く離れている

異邦人(かつての我々)の場合の頑なな心と、信徒の場合の頑なな心では意味合いがかなり異なる。信徒の場合は霊とみことばとの結合が内にあるために話がより複雑。

心が病んでいる信徒の特徴について、具体化しておきたい。

聖書に書かれている事柄、例えば洗礼を無意味であると一蹴する者。心が病んでいるため、他人の言うことを聞こうとしない。口先では、主よ、従いますと言うが、兄弟の忠告には一切聞き従おうとしない。

自分の信念や実践と異なるメッセージを聞くと、とにかく断罪しようとする者。神に正否を聞こうとしない。特に、動機が不純なケースでは、聖書を盾に取って持論を展開しようとする。聖書は六法全書と化し、相手を打ち負かすための道具でしかない。

自己中心的で主観が過ぎる者。思いにおいて神の光が遮断されている。心は平静さを失い、ついには思いも堕ちていく。エバが堕落したのは善悪を知る知識の実を食べたからではない。それ以前にすでに心に隙があった。サタンに誘惑される前に、神に対する忠誠心がすでに朽ちつつあったから。主イエスとの決定的な違いはここにある。

年がら年中思いを馳せている者。毒を撒いたり、泥を跳ね飛ばしていることが分からない。心が病んでいるために、他人の会話に土足で侵入してくる。思いが常にぐるぐる巡りしている場合は、心がかなり病んでいる証拠。自己正義、自己確信、偏見のために、修正が効かない。他人の忠告どころか、みことばすら聞こうとしなくなる。

やはり、ローマ12章2節に尽きる。




Coffee Break, #301

2018年12月24日 | コーヒーブレイク
エペソ4章18節
彼らは
物の考え方が暗くなり
彼らのうちにある無知故に
頑なな心の故に
神の命から遠く離れている

>頑なな心の故に物の考え方が暗くなる

と書いてある。

つまり

神の命から遠く離れている根本原因は、心が頑なであるからということ。

では、「心が頑な」というのは、具体的にどういう状態なのか。

ちなみに、殆どの英語訳は、hardness of their heartと訳出している。

マルコ8:17
And when Jesus knew it
he saith unto them
Why reason ye
because ye have no bread
perceive ye not yet
neither understand
have ye your heart yet hardened

何故悟らないのかと弟子たちは問い正される。

心が頑なだから。

すなわち、心が病んでいるから悟ることができない。

物の考え方が間違っているとか、思考回路が歪んでいるからではない。

心が病んでいるから悟ることがない。




Coffee Break, #300

2018年12月23日 | コーヒーブレイク
エペソ4章18節
彼らは
物の考え方が暗くされ
彼らのうちにある無知と
かたくなな心とのゆえに
神のいのちから遠く離れています

物の考え方が暗くされ

とは

下へと古くされ

という意味として理解できた。

では、心と訳されている単語καρδίαとは何か。

この単語が使われている聖句をいくつか拾い上げてみる。

マタイ13:19
When any one heareth the word of the kingdom
and understandeth it not
then cometh the wicked one
and catcheth away that which was sown in his heart
This is he which received seed by the way side

みことばという種は心の中に蒔かれる

と書いてある。

悟ることがなければ、サタンが侵入し、みことばを取り去ってしまう

とも書いてある。

では、みことばを悟るとはどういうことか。

ローマ10:9にあるように、神はイエスを死者の中から蘇らせて下さったと信じること。

読まれることや書いてある内容、すなわち神はイエスを死者の中から蘇らせて下さったということばを理解することが第一歩だ。この時点で受け入れることができたかどうかは問題ではない。これはふつうの思考回路があれば誰にでも分かる平易なことばだ。

次に、直感的にこの文章が正しいとされるかどうか。直感的にこのことばが正しいと受け入れることができる者はほとんどいない。まずは屁理屈をこねる。そんなことあるはずがないと。

しかしながら、自分なりにに聖書を調べ尽くして、時間の経過を経て、何某かのきっかけがあり、我々はこの事実を受け入れることができるようになる。みことばを悟ることができた瞬間、すなわち心の中にみことばが根付いた瞬間。理屈ではない。霊の領域、すなわち我々の良心がみことばと共有結合した結果だ。

以上から、心とは、魂の思いと霊の良心から成ることが分かる。





Coffee Break, #299

2018年12月19日 | コーヒーブレイク
エペソ4章18節
彼らは
その知性において暗くなり
彼らのうちにある無知と
かたくなな心とのゆえに
神のいのちから遠く離れています

知性と訳された単語はδιάνοιαで、διάとνοῦςの合成語。

διάはthrough, byといった意味を持つ前置詞なので、この単語はthrough mindという意味を持つ名詞。

διάνοια=思いを通して現れる特性。その人特有の物の考え方。

先に、思いは臓器のようなものと書いた。

すると、διάνοιαの意味は、思いという臓器の属性とも理解できる。

上の聖句に戻る。

物の考え方が暗くされ

とはどういう意味なのか。

これは、リニューイングの逆の過程と考えると理解しやすい。

リニューイングとは、上へと新たにされること

その逆とは

下へと古くされること

下とは、もちろん地獄、或はそれ類似の環境・状態。

古くされるとは、旧創造へと戻ること

と考える。

ついには、神から遠く離れてしまった状態へと逆戻りしてしまう

と書いてある通りだ。

敵の支配下にある領域への回帰、我々も皆経験があるはずだ。

注:この世→領域、この世ばかりとは限らないので修正





Coffee Break, #298

2018年12月16日 | コーヒーブレイク
エペソ4章17節
そこで私は
主にあって言明し
おごそかに勧めます
もはや
異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません

心と訳された単語がνοῦς。

この聖句、かつて考察したことがある。

その中で

ματαιοτητι του νοος とは、「むなしい心」ではなく、「廃用化している思い(マインド)」と訳出すると原典に近い訳となる

と書いた。

つまり、思いとは一つの臓器のようなものではないかと思う。

特定の臓器、特に筋肉などを長期間使わず次第に廃れていく状態を廃用症候群という。

この聖句においてパウロが言いたかったことは、まさにこのことではないか。

神との交わりがない、あるいは神との交わりが絶たれた状態が長期間続くと、思いという臓器は萎縮していき、ついには廃用症候群に堕ちてしまう。

英語訳を見てみる。


This I say therefore
and testify in the Lord
that ye henceforth walk not as other Gentiles walk
in the vanity of their mind

*命令形ではないが、日本語においては命令形にしないと文意が伝わりにくい





Coffee Break, #297

2018年12月12日 | コーヒーブレイク
ローマ12章1節
そういうわけですから
兄弟たち
私は
神の憐れみのゆえに
あなたがたにお願いします
あなたがたの体を
神に受け入れられる
聖い
生きた供え物として献げるように
それこそ
あなたがたの合理的な礼拝です

*一部修正

体と訳された単語はσῶμαであり、生物学的な意味での体。

肉ではない。

霊と心はすでに新生した(いずれ考察)。

しかし、思考回路がいまだ古いために、新生後もいろいろと問題を抱える。

問題解決のための思いのリニューイングは、主イエスとの共同作業であると先に書いたが、実践するのは我々自身。

これをφρονέω(思いを訓練する)という(ピリピ2:5)。

上の聖句で、最初に問題となるのが「聖い」と訳されている箇所。原義は「世とは異なる」「世から分離された」という意味。世から分離されているから聖いのだ。

「生きた」とは、単純に「今」という意味であり、死んでしまってからではできないということ。

つい深読みしてしまいそうな聖句ではあるが、いつもの通り時間を割いて聖書と相対している状態と考えてよいと思う。

このような前提があって、2節が続く。

体(これは抵抗しない)を献げておけば、頑強に抵抗する思いが献げ易くなる。

だから、合理的なのだ。

リニューイングが進めば進むほど思いは先鋭化し、ますます御心を証明できるようになる。