みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#198 終末預言 ダニエル書に関する論考2題

2024年04月21日 | 終末預言 

David Murray: Jesus on Every Page

参考までに。

◇◇

前回の考察により、エゼキエル書38章とマタイ5:17との整合性の問題は解決されたので、今回はダニエル書に関する論考を2題提示しておく。

旧約における終末預言はイスラエル滅亡に関する預言であるから、人類史終焉の状況把握や教訓として用いるべきではないとは思わない。

先の記事でも書いたが、似て非なるものでありつつも、イスラエル滅亡の予兆は世界終末のそれとかなり類似している。

むしろ、それらを大いに参照して、これから起こるであろう出来事を大胆に予測し、それに対応・対抗しうる手段を探るべきと考える。

パウロが当時の諸教会に宛てた書簡に、現在あるいは将来の教訓として参考にすべき箇所が多数存在するように。

*旧約の預言は、比ゆ表現、象徴表現に満ち溢れているので、素人が口出しすべきではない。しっかりと研究を積み上げた神学者に任せた方がよい。

◇◇


1.ダニエル7章について


ダニエル7章13節にこうあります。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

この聖句はマタイ24章30節と酷似した内容であり、旧約時代の終わりを預言していると理解して良いでしょうか。

そうです。

次に22節。

しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。

「さばき」とあるので最後の審判と世の終わりの預言、そして「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」とあるので、万物の回復の預言と解釈してよいでしょうか。

「さばき」は、紀元70年の審判を指します。19節に「第四の獣」とあり、これはローマ帝国です。

「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」というのは、クリスチャンが神の国を受け継いで、世界を統治する者となった、ということを意味します。

紀元70年にイエス・キリストが再臨され、神殿崩壊とイスラエルの滅亡により、背教のユダヤ人に対する裁きが行われたと同時に、そのイスラエルを滅ぼしたローマ帝国に対する裁きも実行されました。ティトゥスの死です。

そして、それ以降の世界は、ローマ帝国は存続しますが、霊的(法的・契約的)な意味で、世界の主権は彼らから奪われ、イエス・キリストに与えられました。

現在も、アメリカが世界を支配しているように見えますが、実質的に支配者であるのは、イエス・キリストであり、イエス・キリストの体である教会(つまり、クリスチャン)です。

この支配は徐々に広がっていく性質のもので、霊的な変化は、徐々に実際的な変化となって現れます。

その後、キリスト教は、迫害していたローマを逆に乗っ取り、ローマ帝国の国教になりました。ローマ帝国からヨーロッパ諸国が生まれ、キリスト教はヨーロッパに広まり、実際的な支配は拡大して行きました。

現在は、一時的に悪魔側の勝利が続いていますが、それは、神が人間に悪魔の支配の本当の姿を見せて、御国を求めさせるためです。

人間だけでやっていくと宣言した共産主義によってどれだけの地獄が生まれたか。そして、その共産主義の黒幕であったタルムードユダヤ人の世界支配が広まるにつれて、人々の生活がいかに悲惨になっていくかをわれわれは目の前で見ています。

そうすると、15節以下は現在進行中の新約の時代について書かれていると理解されますが、いかがでしょうか。

この7章は、紀元1世紀のイエス・キリストの来臨(紀元27年からの初臨と紀元70年頃の再臨)によって、4つの世界帝国、つまり、サタンの支配の手段が滅びて、イエス・キリストに世界を支配する権力が与えられたことの預言です。

15節以下の第4の獣に関する預言は、「紀元1世紀においてローマ帝国に対するイエス・キリストの勝利と、それに続いて、全世界がイエス・キリストの支配下に入った」という意味で、現在進行中の預言でもあります。
 


2.ダニエル書9章の70週について


すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、
私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。
あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9:21-27)

この70週は、文字通りの時間を示しているのではない。

黙示書・預言書における数字は、象徴表現である。

ここでは、「7週」が一つの単位として扱われている。

70週は、「7週」という単位が10個並んだ期間を意味する。

7は完全数であるから、それぞれ1個の「7週」は「完全な期間」を示す。

70週は、次の3つの部分に分かれている。

1.「エルサレムを再建せよ」という命令から「君主の来臨」まで(7週)

2.君主による再建と君主の死(62週)

3.裁き:神殿崩壊及び「荒らす憎む(忌む)べき者」の滅亡(1週)

1.

これは、紀元前538年にペルシャの王クロスが神殿とエルサレムを再建せよと命令してから、イエス・キリストの来臨までの時期である。

「7週=完全な期間」であるから、「キリストによる再建の準備が整った」ということを意味している。

2.

再建の開始から君主の死まで62週。

62週=7週x8+6週である。

「7週」という完全な期間が8回連なる。

8は回復と復活を意味するので、再建は完全に行われたことを示す。

イエスによって、イスラエルは回復された。

「広場とほり」は、それぞれ集会と防衛を象徴する。

神の民の集会、交わり、神の国の防衛が回復する。

この期間の最後に来る「6週」の後に、君主が断たれる。

つまり、十字架である。

6は人間を表すので、「人間による殺害」を意味する。

3.

最後の1週は、神の裁きの期間である。

裁きはユダヤ人に対するものと、「荒らす憎むべき者」に対するものに分かれる。

(1)ユダヤ人に対する裁き

「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」

町と聖所の破壊、洪水、戦争、荒廃。

これらは、裁きの象徴である。

紀元70年に成就した。

(2)「荒らす憎むべき者」に対する裁き

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

背教のイスラエルに対する処刑人として選ばれた(後のローマ皇帝)ティトゥスは、ユダヤ人を迫害し、その宗教を冒涜した。

至聖所に、自分の像がついたローマ軍旗を建て、自らを神と宣言した。

しかし、皇帝になって2年で死んだ。

4.

最後の7週は、6週と1週に分かれる。

これは、労働日と安息日の関係に相当する。

つまり、人間は6日働いて、最後の1日は神が働かれる。

6週の最後にイエスは人間によって殺され、ついに、最後の1週、神がご自身の働きを開始され、審判の座に着かれた。

5.

この70週の目的は、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」ことにあった。

つまり、神に従順な民を起こすために、イエスは来られた。

イエスは、「不従順な民」と「従順な民」を分けられ、前者には裁きを、後者には「贖いと永遠の義」をお与えになった。

6.

70週は「イエスによる贖いと救い、イスラエルの再建と、不従順な民に対する裁きと報復」の予言であって、「終末のタイムテーブル」のようなものではない。

年数などを計算し、歴史上の事実との整合性を図るのは無駄な努力である。


 

 

 

 


#197 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.9

2024年02月26日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

31分48秒から最後まで。

◇◇

クリスチャンなら皆知っている。

神の日の到来を待ち望み、そして早めることができるであろう。その日の到来故に、天は燃え上り、溶けてしまうであろう。そして、天の大部分は焼け落ちるであろう。しかし、神の約束によって、私たちは、義が宿る新しい天と新しい地を待っている。

ペテロはイザヤ65章と66章を引用しています。

さて、16世紀にはカルヴァン主義者とルター派の間に論争がありました。

ルター派は、この宇宙は完全に滅んで、新しい宇宙が無から創造されると考えました。

しかし、カルヴァン主義者は、宇宙の創造自体に何ら罪深いところはないと考え、宇宙は完全に置き換わるのではなく、回復するのだと主張しました。

面白い議論です。

しかし、それよりはるかに面白いことは、新しい宇宙とはどのようなものなのかということでしょう。

私はいずれそこへ行きます。

でしょ。

そこに犬はいるのでしょうか。

「天に犬がいるのか」という疑問ではありません。

天とは中間状態であります。

私が知りたいのは、新天新地に犬はいるのかということです。

感傷的に、感情的に考えるのはやめましょう。

犬が大好きなあなたにとって、それが難しいのは分かります。

私もそうですから。

神学的に考えましょう。

神はどのような新天新地を回復されるのでしょうか。

「この世にあるものすべて」が、その答えです。

創世記1章において、良し、良し、良し、良し、非常に良し、と神が創造されたものすべてです。

本当に見てみたい。

新天新地にいる私の愛犬たち。

新天新地に関するカルヴァン主義者の見解から、そのように言えるのではないでしょうか。

測りがたいほど美しい場所。

苦痛、悲しみ、恐怖、死のないところ。

サタンは底なしの穴へと突き落され、2度と災いをもたらすことはない。(拍手)

これらのことから、どのように理解すればよいでしょうか。

神のこのようなタイミングとは何か、神のご計画とは何か。

13節と14節で、ペテロは「それを待ち望みなさい」と言っています。

続けて、「それ故、愛する人たちよ、それ(新天新地)を待ち望んでいるのだから、しみや傷がなきように、そして安心して、彼(神)に見出されるように勤勉でありなさい。」

あなたがたはそれを待ち望みなさい。

あなたがたはそれを待ち望んでいますか。

待っていますか。

あなたの心の目でそれが見えますか。

あなたが災いの只中にある時、暗黒に直面している時、病いに直面している時、あなたの心を新天新地へと向けていますか。

待ち受けているのはとてつもない美しさ。

待ち受けているのは栄光。

待ち焦がれて見ていますか。

信仰において見ていますか。

生きている間に、イエスが戻ってくるとすれば、どんなに素晴らしいことでしょう。

私は、しょっちゅうそのことを考えています。

私はもう70歳なので、主には急いでほしい。(笑)

死に際して、体や魂のねじれによる痛みを経験する必要は無くなるでしょう。

5秒後にイエスが戻ってくるとは思えません。

私と意見が合わないかもしれませんが、私は、まだ実現していない預言があると思います。

最終ゴールは、まず全世界に福音が宣べ伝えられることであります。

それは宣教師の仕事です。

世界の何処かには、まだ福音を聞いたことのない数千人、数万人の人々がいるはずです。

努力を惜しまなければ、私たちが生きている間に完了するのではないでしょうか。

それを待ち望んでいますか。

備えはできていますか。

「聖なる生き方、敬虔な生き方にあって、クリスチャンとして、あなたの人生を生き抜いていくべきだ」とペテロは言います。

来たるべき世界に備えて生きなさい。

この世は私たちの故郷ではない。

この世を良くすることはできます。

この世に支配権を行使するこはできます。

善良な市民になることはできます。

クリスチャンは最良の市民になるべきです。

2世紀に生きた神学者テルトゥリアヌスは、当時の皇帝にこう書き送った。

「クリスチャンを殺したらよい。足元であなたが弓を放っているクリスチャンは、あなたの帝国の中で最も善良な市民である。」

備えよ。

12節、「主の日の到来を待ち望み、それを早めよ」とペテロは言います。

もう一度言いますが、神にはご計画があるのではなかったか。

その計画は不可侵ではないのか。

その計画が破られることはあり得るのか。

絶対に破られることはない。

しかし、それは人の見方であります。

私たちは神のご計画を早めることができるのです。

どのようにすれば主の来臨を早めることができるのか。

すべての選ばれし神の民が集められる時、主は来ます。

だから、そのためには福音を宣べ伝えなければなりません。

決して止めることなく。

神の栄光を与えるために。

熱心に祈ることです。

主のトランペットが鳴り響ぎ、時が失せ、朝が永遠の光によって破られ、地上の救われし民が対岸からはるばるやって来て集う時、あの巻物が向こうで呼び出される。(hymmの歌詞)

私はそこにいる。

何と素晴らしい確信。

Sinclair Ferguson(シンクレア・ファーガソン)と私は、2011年から2013年の2年間一緒に仕事をしてきました。

私は彼の子分でした。(笑)

私の宣教人生の中で、最も貴重な2年間でした。

礼拝メッセージの最後に、彼は何度もこう言うのを聞きました。

「クリスチャンであることの何と素晴らしいことよ。」

「クリスチャンであることの何と素晴らしいことよ。」

日々そのことに思いを馳せることはありますか。

時にクリスチャンであることが重荷であったり、試練があったり。

苦痛、悲しみ、自己否定、自分の十字架、屈辱を思う。

しかし、それらは皆価値があるのです。

自分否定の仕方は何であれ、それは価値があるのです。

新天新地がやってきます。

「目がまだ見たことのないもの、耳が聞いたことがないもの、人の心に浮かんだことのないもの、神が愛する民にために備えられたもの。」

来たるべきものとは最高のものであります。

「あなたはまだ見たことがないのか」という人がいるかどうかは分かりません。

(祈り)

父よ、感謝します。
素晴らしき難問であるこの聖句を与えて下さり感謝します。
希望が満ち溢れてます。
約束が満ち溢れてます。
それで満たして下さい。
お祈りします。
主イエス故に、私たちが喜びではちきれるまで。
アーメン。

 

 


#196 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.8

2024年02月25日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

26分16秒からまで31分48秒まで。

◇◇

科学者は、熱力学第2法則について語ります。

世界はネジを巻く古時計のようなものであり、チクタクと時を刻んでいます。

しかし、ある時、それは止まります。

太陽の燃焼が止まり、地球上の生命を維持できなくなります。

そして、万物は死滅します。

それが、神の存在しない世界観であります。

神は歴史を担っておられます。

神は、過去、現在、そして未来を担っています。

私たちは終わりの日々を生きています。

ペテロはこのことをペンテコステの日に言いました。

約束された通り、聖霊が注がれました。

その時、終わりの日々が始まりました。

ヘブル人への手紙最終章に(*最初ではなく)、終わりの日々における生き方が書かれています。

終わりの日々のためのご計画があるのです。

イエスのみがひとつの計画をお持ちです。

「私は私の教会を建てる。地獄の門は、それに打ち勝つことはできない。」

マタイ16章にあるように、イエスは、ピリポカイザリアで、このことをペテロに明らかにしました。

ご自身のご計画に従って、イエスはその計画を明らかにします。

その計画とは何か。

新しい天と新しい地であります。

私たちは天のことを口にしますが、時に「天」と「新天新地」を混同します。

クリスチャンはそれを宝くじと考えているようです。

死んで5秒後、一体何が起こるでしょうか。

5秒と言いましたが、5秒でなくても良い。

この世において目を閉じて、天において目が醒めます。

あなたは主とともにいます。

肉体から離れるということは、主とともにいるということです。

あなたは、天使や大天使、そして勝利した教会とともにいます。

先に世を去った人たちによって歓迎されて、主イエスと一体となります。

聖書は多くを語りませんが、これが中間状態といわれる領域です。

「今日、あなたは私とともにパラダイスにいます」と、イエスは瀕死の泥棒に語りかけました。

第2コリント12節で、パウロは同じことばを用いて「第3の天」と表現し、第3の天に引き上げられました。

クリスチャンとして、死んだ時何が起きるでしょうか。

あなたは意識があります。

それは、あなたの魂の部分。

あなたは自分が誰か分かります。

自意識があり、周囲のことにも気付いています。

金持ちとラザロの例えにあるように、意識はあるのです。

しかし、これは、第2ペテロ3章に書いていることとは違います。

それは大変貴重なことであり、素晴らしいこと。

この世から次の世へと時間が過ぎていき、あなたは愛する人のそばにいる、イエスを宣べ伝えた人とともにいて、お互いに手を握りしめる。

彼らは皆イエスとともにいるという実感に満ち溢れている。

何と素晴らしいことか。

素晴らしい希望。

すべてのクリスチャンはこの希望を持っている。

すべてのクリスチャンはこの希望と確信を持っている。

しかし、ペテロがここで語っているのは主の日であります。

終わりの時を宣べているのです。

主イエスの再臨(second coming)のことを語っているのです。

主イエスの再臨に引き続いて何が起こるのだろうか。

もちろん、もちろん、この箇所において異なる終末論があることは知っています。 

しかし、私は最も聖書的なことをお話しします。(笑)

主イエスが来られる時、新天新地が到来する。

(*原典において使われている単語はπαρουσία、パル―シア)

世界はそれを待ち望み、それに向かってうめき声を上げる。

今、私はそこへ行くことはできない。

しかし、そのことに関する真理はごくわずかしかないけれども、この世がうめき声をあげて、生みの苦しみを受け、万物の刷新を待ち望んでいる。

この世はあなたの故郷ではない。

この世は永遠に続くことはない。

 

 


#195 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.7

2024年02月24日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

20分25秒から26分16秒まで。


◇◇

この聖書箇所に登場することばパルーシアについてもう一度確認しておきたい。

原典で使用されていることばはπαρουσίαで、意味は

parousia
par-oo-see'-ah
From the present participle of G3918; a being near, that is, advent (often, return; specifically of Christ to punish Jerusalem, or finally the wicked); (by implication) physical aspect: - coming, presence.

specifically of Christ to punish Jerusalemとあるが、先に考察したように裁きといった暗いイメージを有する単語ではなく、むしろ祝福すべき日という意味合いが強い(以下を参照のこと)。つまり、「凱旋」という訳出が適訳。

参照:#2 携挙 The Rapture is NOT in the Bible, NO.2

さて、この聖書テキストにおいて、παρουσίαが登場する箇所は2箇所。

同3:4
彼らは言うであろう、「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠りについて以来、創造の初めから万物はそのままの状態ではないか。」


同3:12
神の日の到来を待ち望み、そして早めることができるであろう。その日の到来故に、天は燃え上り、溶けてしまうであろう。そして、天の大部分は焼け落ちるであろう。

以上から、この箇所は、イスラエル滅亡の預言and/or世界終末の預言と解釈しうる。従って、先に書いたような結論でお茶を濁した次第。

Derek Thomas師も諸説があることは重々承知しているようだ(次回の記事参照)。

◇◇

ご自身が定められた方法において、神は時間と空間の世界に入ってくる。

私たちが住むこの世界、有限の領域へと入ってくる。

そして、私たちに話しかけてくる。

神は幼児語で語りかけてくるとカルヴァンは言っています。

「私は長きに渡り辛抱している」と神は言う。

「私は誰一人として滅びることを望まない。あなたが悔い改める時間を与えよう。」

あなたは言う「よく分からない」と。

そして、私はあなたに言う、「順番を決める番号札を引け。」

これが聖書が啓示していることであり、神の冷酷なご計画を教えています。

予定説という教理であります。

時空間の世界において、神は召し、求め、そして引き出す。

1940年、50年、60年初期のウエストミンスター神学校の組織神学教授を務めたジョン・マレーは、次のように書いています。

神が決して望んではいないことを認識しようとする意志、すなわち神が喜んで定めたのではないことに対する一種の快楽が存在する。

それは取り下げてくれたと信じたい。

カルヴァン主義者からの驚くべきことばであります。

「神が決して望んではいないことを認識しようとする意志、すなわち神が喜んで定めたのではないことに対する一種の快楽が存在する。」

失われし者たちの救いを心から望むお方として、神は私たちにご自身を明らかにする。

選ばれし者たちの救いのみを願うという差別を神はなさらない。

ペテロはそんなことは言ってはいない。

ペテロの言わんとしていることとは、神は万人の救いを願っているのであって、選ばれているかどうかではない。

万軍の神の心には愛があるのです。

決して救われない人たちに対しても。

私たちも同じ愛を持つ必要があります。

何故なら、私たちは選ばれし者と選ばれざる者が誰か分からないからです。

故に、私たちは、選ばれし者たちのためにではなく、(万人のために)福音を宣べ伝える必要があるのです。

選ばれし者たちのための福音という考え方は超カルヴァン主義であり、この考え方は二度と出てくることができない牢獄へとあなたを閉じ込めてしまうでしょう。

私たちは全被造物、すべての民族、すべての言語領域、すべての国に対して、福音を宣べ伝えなければなりません。

不敬虔な者たちの死に対しても喜ぶことはない。

彼らにも悔い改めの余地を与えて下さいます。

これが我らの神であります。

神は、罪人にご自身の下へ来るように呼び求め、彼の手を握りしめる。

そして、神は彼の行動を抑制せしめ、静かにお待ちになる。

今の世は裁きに値すると思いますか。

大いなる裁きが、ワシントンDC、サンフランシスコ、或いはあなたの町に下るでしょうか。

もちろん、それらの町や都市は裁きに値します。

神の命令に対して完璧な違反を犯しています。

日々神の顔に泥を塗っています。

神は正しいお方であり、この世に大火をもたらすかもしれません。

一方で、神は忍耐のお方であり、あなたがたをもう一度呼び求めます。

神は脱落者に呼びかけます、「私のところに来なさい。弱り果てて、重荷を背負っている者よ。あなたに休息を与えよう。私のくびきを取り、私に学びなさい。私のくびきは負い易く、私の荷は軽い。」

神の時間は私たちのものとは異なる。

ある意味で、神は時間の外にいる。

しかし、差し迫ると、神は時空間へと介入してくる。

だから、主にとっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようだ。

詩篇90篇4節からの引用。

そこで、まずは、神のタイミングについて見ていこうと思います。

次いで、神のご計画について見ていきます。

すでに言いましたが、もう少し詳しく見ていきたいと思います。

歴史はくり返さない、とヒンズー教は言います。

歴史には最終ゴール、すなわち終点があります。

 

 

 


#194 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.6

2024年02月23日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

 

14分57秒から20分21秒まで。

◇◇

神の御心を知ることは不可能。

神に異議を唱えるとは、あなたは何者か。

これはヨブに放たれた疑問ではなかったか。

神に異議を唱えるあなたは何者ぞ。

神は理解不能。

神の究極を測ることは不可能。

神の全知を測ることは不可能。 

神の全能を測ることは不可能。

神の方法は私たちの方法ではない。

神の思考は私たちの思考とは違う。

神タイミングは私たちのタイミングとは異なる。

神は決して遅れることはない。

神はつねに時間通り。

神にはご計画がある。

私たちはこのことを知っている。

確かなご計画がある。

決して破られることのないご計画。

それは、私たちが安息と平安を見出すことのできるご計画。

嵐の只中にいる時、私たちは神のご計画というバブルの中にいる。

そこには、平穏があり、平安があり、調和があり、希望があり、確信がある。

しかし、その外にあるのは、混沌であり、不確実。

神のご計画のひとつは、現在の世界秩序を終わらせることであり、ご自身の創造を新たにすること。

これが神のご計画の一部分。

永遠のご計画。

そのご計画を、神はいつまでも反故にしておかない。

人の意志の絶対的自由を上げて、神のご計画を現状に留めようとする神学者がいる。

毎秒毎秒、神は軌道修正をしている。

常に計画が目標を逸脱しているから。

しかし、約束がある。

三位一体の神により永遠の協議会においてまとめ上げられた約束だ。

父子聖霊が創造し、堕落を認め、仲介者を送り、選ばれし者が選ばれ、邪悪な者たちが放っておかれることが盛り込まれた約束。

この法は不可侵であり、破ることができない。

これが私たちの信じるものではないのか。

これが今ここに私たちとともにあるべきものではないのか。

神の全権の中にある信頼。

神のご意志なくして何も起きない。

神の意志なくして。

私たちにとっては、まるで遅れがあるように見える。

人の見通しからすれば。

私たちの有限の見方からすれば。

それは神の辛抱だとペテロは言う。

これは驚くべきこと。

何ゆえに神は辛抱しているのか。

何ゆえに神は忍耐しておられるのか。

何ゆえに神は、遅れているがごとくに、遅らせているのか。

「神は誰一人として滅びることを望まない」とペテロは言う。

神は万人が悔い改めることを望んでおられる。

神のご計画と調和しているではないか。

神は万物の計画者ではないのか。

選ばれし者の数は増やしうるだろうか。

選ばれざる者の数は増やしうるだろうか。

否、できない。

世界の基が据えられた時から、神は選ばれし者たちを選んだのではなかったか。

そして、彼ら選ばれし者たちは、必然的に、不可侵的に、そして無情にも救われ、他の者たちは、死ぬと永遠の地獄へと引き渡されるのだろうか。

神のご計画に柔軟性があるのだろうか。

この世には柔軟性のあるプランはあります。

私は生命保険には加入してはいませんが・・。

ここに生保の外交員がいても、私に話しかけないでください。

確かに、フレキシブルなプランというのはあるのは知っています。

プランを売り買いして、お金を設けるというもの。

用意ができたら教えて下さい。

但し、調和のとれた方法で。

 


#193 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.5

2024年02月19日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

3分41秒から14分57秒まで。

◇◇

神は聖、みことばは無謬です。

この聖書の学びに、神のご加護がありますように。

さて、「終わりは間近にある」と表題を付け、今日のメッセージをしようと思います。

このことはクリスチャンの生き方を総括することになります。

この世の事々ではなく、預言者イザヤのことば「新しい天と新しい地」を投影するペテロのことばにあるように、終わりの日に到来するはずの事々に焦点を当てる生き方をしようではありませんか。

今日は詳細には触れませんが、ペテロはこの手紙をAD68年に書き上げました。

同年彼は殉教しました。

ほぼ同じ時期に、使徒パウロもローマで殉教しています。

従って、この手紙は、そのおよそ1年前、AD67年に世に出たものと思われます。

私たちは、イエスの死と復活の後の世代であります。

今も、新約聖書の手紙は神によって息づいています。

そして、神の人イエスキリストがあらゆる御業を完遂して下さった、その義によって、それらの手紙は教理や非難、修正、そして教えにとって大変有用です。

イエスの昇天と最初の新約聖書の手紙、そして福音書が世に出るまでの時期は、およそ50年代後半から60年代前半であり、教会にとって、大いなる争いや困難、そして誘惑の期間でした。

もちろん、その頃はまだ使徒たちが(生きて)いました。

また、偽使徒、偽教師で溢れている時でもありました。

「主イエスの再臨を信じるクリスチャンをさげすむ偽教師が現れる」と、ペテロは小アジアの教会に手紙を書き送っています。

生きている間にイエスが再臨すると信じていた多くのクリスチャンは、大変混乱しました。

彼らがイエスの来臨を信じていたというのはうなずけます。

イエスは来臨の時期を明確に言いませんでした。

それ故、当時のクリスチャンは、間もなく主は自分たちが生きている間に、25年か30年の間に、来られると期待し待ち焦がれていました。

しかし、主はなかなか来てくれない。

それで、主の日は来ないではないかと言う人たちが出てきました。

嘲り者や偽教師はこの問題に火を注ぎました。

マタイ24章、25章にあるオリーブ山でのイエスの説教を呼び起こします。

「気をつけていなさい。主の日がいつ来るか分からないのだから。しかし、このことは覚えておくように。泥棒が夜の何時に来るのか家の主人が知っていれば、彼は見張りを続け、家の中に入られることはなかっただろう。同様に、あなたがたも準備をしていなさい。何故なら、人の子はあなたがたが期待していない時にやって来る。」

イエスは、恐らく再臨を待ち望み疲れて、怠惰になっているクリスチャンに語りかけています。

彼らは家の玄関や窓を開け放ち、泥棒が侵入する機会を与えている。

「油断してはならない。あなたがたは私が戻る日を知らない。」

ヨハネや使徒パウロも、マタイ24章のオリーブ山の説教にある内容に言及しています。

ペテロやヨハネ、パウロは、この事を話す機会が何度かありました。

来臨の日、世の終わりの時には万物が変わります。

それは主イエスの再臨の時、すなわち裁きの日であります。

義が宿る新しい天と新しい地が訪れる時であります。

しかしながら、遅延があり、遅れている。

何故遅れているのか。

この遅延はどれくらい続くのか。

ペテロはAD68年に殉教しました。

つまり、少なくとも35年の遅れです。

ある人たちは、主の再臨や同時に起きる大火を疑い始めました。

またある人たちは、主イエスが言ったことは霊的な意味だったと考え始めました。

イエスは、家の扉を開け広げているという不信仰な心、無知、浅はかさについて言及しています。

私が若い頃は、1週間玄関を開けたままでも安全でした。

鍵をかけずに車を田舎の村に駐車しても何も起きませんでした。

しかし、今はそんな時代ではありません。

さて、始めに、ひとつ質問があります。

午後のセッションは難解です。

午後の礼拝のメッセージについて、スポルジョンは次のように呼びました。

「ローストビーフと不信仰タイム」(笑)

お腹がふくれると、睡魔に襲われます。

そこで、お願いがあります。

この場からあなたがたは見えないので良いのですが、頭がこっくりこっくりしているのは分かります。

目を閉じているかどうかは分かりません。

ここから、話の本筋に入ります。

次の箇所は神学的に異論のある箇所であり、特にリゴニエミニストリーにとってはそうです。

ペテロがこのテキストを書いていた時、恐らく彼の頭の中にリゴニエのことがあったのだと思います。(笑)

ここには、神の予定論に関する記載があります。

実に不思議に思えるような神の願いが書かれています。

注意深く解釈する必要があります。

今この午後の時間、最初に考えたいことは、神のタイミングということ。

神が遅れるということは絶対にありません。

ガンドルフ氏がそんなこと言ってませんでしたか。

神は決して遅れない。

私たちには、神が遅れているように思えることがあります。

何年も何年も何年も祈る続けることがあります。

放蕩している息子さんや娘さんが改心するように、病気が癒されるように。

数か月、数年、数十年と時が過ぎていきます。

そして、「神は遅い」と自問します。

「何かが神の邪魔をしているにちがいない。」

「神はのんびりしている。」

この35年もの歳月といい、イエスが昇天してからいまだ来ていないこれまでの間といい、この長い年月のギャップは一体何なのだろうか。

言うまでもなく、今に生きる私たちにとってはなおさらのこと、すでに2000年が過ぎ去りました。

ペテロは、これは神の忍耐である、と言います。

神の忍耐。

誰ひとりも滅びることがなく、すべて(all)の人が悔い改めるようにと神は願っている。

すべて(all)の意味とは何か。

「神は何処にいるのか」と問うことがあります。

これは、ヨブ記の中心にあるテーマです。

ヨブは苦悩の中にいた。

彼は自分の苦悩を無実の苦悩と表現しました。

彼は不正な被害者だった。

どこに神はいるのか。

何故神は祈りに応えてくれないのか。

何故神は沈黙するのか。

何故神は何もしようとはしないのか。

今のこの社会において、フォックスニュースを10分間聞いただけで、頭がおかしくなります。

日々限界です。

「何故神は何もなさらないのか。」

新聞の見出しを見るにつけ、そう思いませんか。

「何処に神はいるのか。」

「何故神は天を引き裂き、下りて来ないのか。」

「何故悪人が栄えるのか」と、常々疑問に思っている。

詩篇78篇におけるダビデの疑問と同じ。

私たちと同様、ダビデにとっても複雑な疑問。

「何故悪人が栄えるのか。」

カリフォルニアやフロリダでは(悪が栄えていますか)どうですか。

もちろん、その答えは、「私たちは神の御心を知ることはできない。」

 

 

 


#192 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.4

2024年02月11日 | 終末預言 

ペテロの手紙第二3章の学びを続けます。

上記テキストについて、いろいろなネット記事を検索してみた。以下のサイトが詳しく考察されており、引用聖句も豊富、また客観性も保たれていて、それなりに信頼性の高い解釈をしていると思われるので引用しておく。

ペテロの第二の手紙2章 偽教師を反駁する
ペテロの第二の手紙3章 主の日

この手紙の要旨は単純明快、(教会内部にいる)偽預言者・偽教師の教えに気をつけよ。

・小アジアのクリスチャンに宛てて、AD68年に執筆(イスラエル滅亡の2年前)された。

・イエスの終末預言(マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章)と類似する内容。

◇◇

さて、3章が世界終末預言とも取れる理由を、この章から抜粋してみる。

1.7節、今存在する天と地は、火のために保たれ

この箇所は、黙示録20:7、「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれ」と類似。

2.7節、裁きの日まで、不敬虔な者たちの破滅の日まで取って置かれ

この箇所は、「良い麦と毒麦のたとえ」と類似。

3.12節、神の日の到来を待ち望み

「神の日が来る」という表現を「怒りと裁きの来臨が来る」と解釈するにはやや無理がある。「待ち望み(look for)」と書いてあるから。

4.義が宿る新しい天と新しい地を待っている

イザヤ書65章に類似の表現がある。17節、見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。しかし、ここにある「新しい天と新しい地」は、黙示録21章の新天新地とは異なるとの異論がある。イザヤ書の新天新地には死があるのに対して、黙示録の新天新地には死がない。

以上から、このテキストは、間近に迫っているイスラエル滅亡、すなわち旧約時代の終焉を直接的に預言しつつ、世界(新約の時代)の終わりを二重写しに予見しているのではないかと結論しておく(とすれば、使徒行伝に、このことを支持する記事があるはず)。

◇◇

さて、関連動画を掲げておく。

聞き応えのあるメッセージなので、是非最後まで聴いて欲しい。

Derek Thomas: The End in Sight 

God is not willing that any (of the elect) should perish - RC Sproul on 2 Peter 3:9
このRC Sproulのメッセージを批判している箇所があるが、よく聴くと、彼は万人救済論者ではない。

最初から3分41秒まで。

◇◇

(挨拶)

今日の割り当ては第2ペテロ3章8節から13節までです。

内容の関係上、3章3節を始めに開こうと思います。

第2ペテロ3章1節から。

この手紙は、あなたがた愛する人たちに書き送る2通目の手紙です。この2つの手紙によって、注意を喚起して、あなたがたの純真な心を刺激しようと思う。聖なる預言者たちの預言と、使徒を通しての主なる救い主の命令を思い出させるためであります。まず第一にこのことを知っておいて欲しい。終わりの日に、罪深い願望に従って、あざける者たちがあざけりながらやって来る。彼らは言うであろう、「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠りについて以来、創造の初めから万物はそのままの状態ではないか。」彼らは意図的に次の事実を見過ごしている。天は長い前から存在していた。そして、神のことばによって水を介して地は造られた。これらによって、その時存在していた世界は、水によって氾濫し滅ぼされた。しかし、同じことばによって、今存在する天と地は、火のために保たれている。裁きの日まで、不敬虔な者たちの破滅の日まで取って置かれている。しかし、愛する人よ、このひとつの事実を見落としてはならない。主にあっては、一日は千日のようであり、千日は一日のようだ。ある者は遅いと数えているようだが、神はご自身の約束の成就を遅らせることはない。あなたがたに忍耐しておられます。だれも滅びることなく、皆が悔い改めに至ることを神は願っておられます。しかし、主の日は盗人のように来て、天は轟音とともに過ぎ去るだろう。天の大部分は焼け落ちて溶け、地とそこでなされた業は曝け出されるだろう。かくして、これらすべての事々は溶け落ちるであろう。あなたがたのどのような人たちが、聖と敬虔の生き方によって、神の日の到来を待ち望み、そして早めることができるであろう。その日の到来故に、天は燃え上り、溶けてしまうであろう。そして、天の大部分は焼け落ちるであろう。しかし、神の約束によって、私たちは、義が宿る新しい天と新しい地を待っている。

 

 

 


#191 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.3

2024年01月30日 | 終末預言 

How is limited atonement true when Scripture teaches that Christ died for the whole world?

知っていると思うが、John MacArthur師は、典型的なプレミレ教信者だ。

プレミレ信者であり福音派牧師であるJohn MacArthur師が、カルヴァン主義神学の中心的教理のひとつであるlimited atonement(限定的贖罪)について、どのような見解を有しているか大変興味深い。

正しい聖書解釈はひとつしかないことを考えると、結論が完全に一致するのは当然と言えば当然。

参考:

TULIP  
全的堕落(Total depravity)
堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
無条件的選び(Unconditional election)
神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる。
限定的贖罪(Limited atonement)
キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
不可抵抗的恩恵(Irresistible grace)
予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)
いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。

早速聴いてみよう。

◇◇

彼(主イエス)がこの世の救い主であることは皆知っています。

この世のための救い主は唯御一人しかいません。

世は唯一人の救い主しか持っていない。

しかし、私たちは、イエスキリストの贖いが限定的であることも知っている。

人々が地獄に行くという意味で、贖いは限定的なのです。

山上の説教で、イエスは、「私に対して主よ、主よと多くの人たちが言うだろう。しかし、私は言う、私から離れて行け。不法をなす者たちよ。私はあなたがたを知らない」と言いました。

イエスは、天国よりも地獄について多くを語りました。

地獄の存在は事実であり、人々はそこに落ちていき、永遠に滅びることを私たちは知っています。

私たちは皆、イエスの贖いは限定的であることを信じています。

全ての人が救われるのではない。

限定的贖いを信じるか、万人救済を信じるか、いずれかしかありません。

万人救済説を信じるなら、理屈上、地獄というものは存在せず、誰も地獄にはおらず、全員天国にいることになります。

非限定的贖いを肯定するのであれば、結局万人救済者と同じことです。

何故なら、もしも実際に主が全世界のために死んだのであれば、全世界は救われているでしょう。

しかし、私たちがそのような立場をとることはあり得ません。

何故なら、実際に地獄は存在し、そこは多くの人で溢れています。

事実、ほとんどの人は地獄に行きます。

つまり、贖いは限定的なのです。

次に、誰が贖いを限定的にするのかという問題です。

私たちですか、それとも神がそうするのでしょうか。

その答えは聖書的に自明の理です。

神が限定したのです。

神が選ばれし人たちに限定した。

或いは、誰を救い栄光を与えるのかを神が決定した。

或いは、贖いを通して神が(選ばれし人々に)栄光を与えた。

次のようなはっきりとしない選択肢もあるようです。

自ら贖いをつかみ取り、神の贖いの一翼を担う人たちもいるというもの。

しかし、神はそのようなことをお許しにはなりません。

というのも、私たちは限定的贖いを信じていることを覚えています。

さて、次の疑問です。

主権者は人か、神か。

神が主権者なら、神が限定したのです。

 

 

 


#190 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.2

2024年01月29日 | 終末預言 

第2ペテロ3:9b
・・・あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
 
「ひとりでも滅びる・・」「すべての人が・・」とあるので、この箇所を引用して、ある人たちは万人救済説を唱える。この説を唱える牧師はかなりの数いるようだ。

例えば、このグループ→2 Peter 3 (Part 1) :1-18 • The Day of the Lord
20分45秒あたりから。

メッセージ全体を通して、プレミレ説に則って説教をしていることが分かる。このため、プレミレ説に疑問を持っているクリスチャンにとっては怪訝さと違和感を強く覚える。

彼らの唱える説とその説に至る経緯には重大な欠落がある。

そのみことばが書かれた時代背景や筆者の意図などを一方的に無視し、その個所のみ取り上げて理解しようとするために論点がずれてしまっているのだ。

同1:20
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 

このテキスト箇所の序論NO.1を簡単におさらいする。

成立年代は、ネロによるクリスチャン迫害が吹き荒れていたAD60年代で、宛先は、ネロの迫害に戦々恐々としていた小アジアの異邦人(非ユダヤ人)キリスト教徒たち。

この手紙は、小アジアのクリスチャンに宛てた手紙であり、当時、彼らの教会には偽預言者、偽教師が偽教理を教会員たちに吹き込むだろうと書かれている。

同2:1
しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。 

そこで、問題となる箇所だが、

・・・「あなたがた」に対して忍耐深くあられるのであって、「ひとりでも」滅びることを望まず、「すべての人」が悔い改めに進むことを望んでおられるのです

ネロの迫害という外部の危険だけでなく、偽預言者・偽教師たちという内部の危機に晒されている「あなたがた」に対して、道を外さないように神は忍耐深くあられ、「あなたがたのうちひとりも」道を外れて滅びることを望まず、「あなたがたすべて」が再び神の真理へと戻る悔い改めを望んでおられる・・

というように読み解くべきであろう。

主イエス・キリストが語る地獄は絵空事ではない。

 

 


#189 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.1 

2024年01月24日 | 終末預言 

第2ペテロ3:1~13
愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。 
それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。 
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 
当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。 
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。 

◇◇

まず最初に、この手紙が書かれた当時の時代背景等について考察したい。

ペトロの手紙二


この記事の中から重要事項を抜粋する。

成立年代:
真正書簡と見る場合、これを踏まえて、執筆年代はペトロの殉教直前に置かれる。カトリック教会のフェデリコ・バルバロは66年末もしくは67年初頭と推測し[17]、福音派からは66年頃[10]、67年頃[18]、68年頃[19]などの説が出されている。

注1)つまり、ネロによる残虐なクリスチャン迫害が吹き荒れていた時代。
注2)1章14節に、「私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っている」とあるので、ペテロは目前に迫る死を覚悟しながら、この手紙を書いたことが分かる。

成立地:
使徒ペトロ自身の著作と見る場合、自らの殉教が間近に迫っていることを予見していることや第一ペトロ書との関係から、殉教した地であるローマが想定される。

宛先:
この手紙が第一ペトロ書の続きであることが仄めかされているため(3章1節)、実質的な手紙の受け手は第一ペトロ書を知っている人々、すなわちその宛先となっていた小アジアの異邦人(非ユダヤ人)キリスト教徒たちが想定される。

注)ネロの迫害に戦々恐々としていた小アジアの異邦人たちに、2000年後、3000年後の未来に起こることを書き送るだろうか???

内容:
この手紙は全3章で構成され、その執筆目的は、キリストの再臨(*)を嘲笑する人々を批判し、信仰を堅く守り、正しく生きるように勧めるものであったと言われている。

*注)正しくは、再臨(second coming)ではなく、(裁きのための)来臨。

序論において、すでに結論は出ていると思われるが、さらに追及していく。