みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#6 終末預言 by R.C. Sproul

2021年11月28日 | 終末預言 
現在聴いているR.C. Sproulメッセだが、日本語字幕に設定できる。また、日本語字幕になっている動画もある。しかしながら、自動翻訳のようで全く役に立たない。

よって、日本語訳配信を続けようと思う。

今回の配信は、次のメッセージ(Mark 13:9–20)。

The Signs of the Times (Mark 13:9–20) — A Sermon by R.C. Sproul

配信第6回:始めから4分23秒まで

(開始)

今朝もマルコ福音書の学びを続けます。

引き続き13章、オリーブ山の説教を見ていこうと思います。

9節から20節まで朗読します。会堂の諸氏はご起立お願いします。

(聖書朗読)

「しかし、気をつけなさい。彼らはあなたがたを議会へと引き渡すだろう。あなたがたは会堂でむち打たれるだろう。あなたがたは、私のために、証言のために、支配者や王たちに渡されるだろう。そして、福音はすべての国民に宣べ伝えられなければならない。彼らがあなたがたを捕えて、引き渡す時、前もって心配しないように。また話すべきことを前もって熟慮しなくてよい。その時にあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではない、聖霊。今や、兄弟が兄弟を裏切って、死に渡し、父は子に、そして子供たちは両親に立ち上がって逆らい、死に渡すであろう。あなたがたは、私の名のゆえにすべての人々に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐える者は、必ず救われるであろう。それゆえ、預言者ダニエルによって語られてように、あなたがたは荒らす憎むべきものが立ってはならない所に立っているのを見たなら(読んでいる者に理解させよ)、その時は、ユダヤにいる者たちに山へ逃げさせなさい。屋根にいる者に家の中へ降りてこさせてはならない、何かを取るために家に入らせてはならない。野原にいる者に衣服を取るため家へ戻らせてはならない。それらの日々において、妊娠している人たちや乳飲み子の面倒を見ている人たちは悲惨だ。あなたがたの脱出(flight)が冬にならないように祈りなさい。それらの日々には、神が成し遂げた創造の初めからこの時まで、かつてなかったような、これからもないような患難があるだろう。神がそれらの日々を短くしなかったならば、一人も救われないだろう。しかし、神が選んだ選びの民のために、神はその日々を短くした。」(*)

(祈り)

みことばは以上です。

席について下さい。お祈りしましょう。
父よ、あなたの御子によって語られた不思議な預言を、続けて見ているところです。
真理の御霊が私たちに力を与え、みことばが理解できますようにお祈りします。
そのことを、主イエスの御名によってお願いいたします、アーメン。

(メッセージ)

13章のこの箇所に関する私の聖書の副題は次のように書かれている。

「その時のしるしとその時代の終わり」そして「大患難。」

オリーブ山の説教の学びを始めた先週日曜日にここにおられた方々に、私は次のように申し上げました。

この聖書箇所以外に、神殿崩壊とエルサレム崩壊に関する詳細な未来予知ゆえに、聖書とイエスという人物の超自然的性質に関する決定的証拠を確認できる箇所はないと申し上げた。

これらの事々は、主による預言の後1世代の時間枠内で成就した。同時に、オリーブ山の説教ほど聖書否定者らによる批判にさらされている箇所はない。

なぜなら、オリーブ山の説教の中で、その時代の終わりにおける栄光の雲の上の来臨のことを主イエスは語っているからだ。

オリーブ山の説教において主が知らしめている事3つとは、神殿崩壊、エルサレム崩壊、そしてその時代の終わりにおける主の来臨であり、これらはみなマルコが「これらすべての事々」と呼ぶ時間枠の中に存在する。

コメント:
(*)聖書箇所:神はその日々を短くしたので、神が選んだ民は救われた(過去)。
この箇所の主のことばを守る者を一人残らずローマ軍から助けるために、イエスは弟子たちにきつく命じている。私の言っていることを守らせよ、と。非常に切羽詰まった状況が感じ取れる。
メッセージの他の箇所にも出てくるが、当時のクリスチャンたちはこのみことばを遵守したので、ローマ軍による殺戮を免れた。このことばを聞き入れなかったユダヤ人は皆殺しにされた。




#5 終末預言 by R.C. Sproul

2021年11月25日 | 終末預言 
The Olivet Discourse (Mark 13:1–8) — A Sermon by R.C. Sproul

第5回配信:26分3秒から最後まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

すべての事々の2番目。戦争や戦争のうわさを聞いても惑わされるな。というのも、その様な事々は
必ず起きる。しかし、終わりはまだ来ない。

人々が今日の新聞を読んでいるのを見かける。彼らは、毎回、イランで戦争が始まったとか、それがどこでどうとか言っている。「ほら、これがその時代の兆候だ」と。

「イエスはすぐそこまで来ている。これらの戦争や戦争のうわさについてすっかり聞いているではないか。」と。

しかし、もちろん、歴史上全世代において、戦争も戦争のうわさもあったのは疑う余地がない。

話は変わるが、あなたがたはオリーブ山のあの場所にすわっている、弟子のひとりとして。他の弟子たちがイエスに聞いている、「これらの事々が起きる時、どのような兆候があるのですか?」

主は言った、「気を付けよ、だまされるな。これらの事々が起きる前に、戦争のうわさや戦争があるだろう。」

さあ、あなたはイエスの弟子。これらの戦争のうわさや戦争は、神殿崩壊の前に、そしてエルサレム崩壊の前にやってくるひとつの前ぶれのようなものでないかと思っている。

そこで、戦争や戦争のうわさに対して自分の生存期間について注意を払おうとするだろう。

紀元40年、狂った皇帝カリグラは、自分の銅像をエルサレム神殿の聖なる区域に建てようとした。

そのため、ユダヤ神殿の聖なる場所に自分の銅像を建てようとする皇帝の重大な冒涜に抗議するユダヤ人を止めようとローマ軍が侵攻し、間もなく戦争が起こるという数々のうわさが拡がった。


しかし、それは単なるうわさだった。ユダヤ人が紀元66年に再投票するまで戦争は起きなかった。

その後、紀元70年に神殿の破壊とエルサレムの破壊は終わった。

しかし、イエスは言った、「あなたがたはこれらの事々を聞くだろう。くよくよするな。そのようなことは必ず起きる。しかし終わりはまだ来ない。民族は民族に対抗して立ち上がるだろう。国は国に対抗し、いろいろな所で地震があるだろう、そして飢饉があるだろう、患難があるだろう、そして、これらの事々は、単に悲しみの始まり。」

そこで、もう一度、現代の予言者たちは、来たる数週間後の何時かにイエスの再来を期待して、現在世界を侵している深刻な飢饉の数々、例えばアルメニアで起きた飢饉、現在エチオピアで警鐘を鳴らされている飢饉、現在のアフリカにおける他の国々の飢饉など、に注意を呼び掛けている。

しかし、同時に、紀元41年から54年の間、カリグラの後、ネロの前に登場したクラディウス統治下において、東欧近くの社会で数回にわたる深刻な飢饉があった。

また、紀元61年、巨大地震がフリジア地域を襲い、63年にはポンペイの都市が襲われた。

最初の世代というその時間枠において、すなわち、多くの弟子たちと使徒たちの生存期間内に 深刻な飢饉、戦争、戦争のうわさ、地震などすべての事々が起きた。


歴史家、古代歴史家タキトゥスは、イエスの崩壊預言と紀元70年に実際にあった神殿崩壊の間に起きた数々の多方面にわたる詳細な災害状況を記録しており、これらのことから、終わりが実際に起きる前に起きなければならない兆候についてイエスが話しているのだと私は断言する。これらの兆候は悲しみの始まリ。

我らの主は、紀元1世紀に起きようとしている事々について注意を喚起しているのだと思う。それらは本当に1世紀に起きた。

私たちがこれらの事々を、まだ成就していない未来へと転嫁し、かつ置き換える理由は、栄光の雲の主の再来が起きているかどうか明らかではないからだ。

このような難題を理解しようとする時、どのようにこれらの問題が現在の教会に対してプレッシャーを与えているのかを見ていこうと思う。

その時代の兆候を探そうとするなら、まず初めに、最初の世代に目を向けようと思う。

この問題の解き明かし方を予想する前に、一言言っておこう。

40年前に、私がマサチューセッツ州のウェンハムのある通りを歩いていた時のこと。ウイリアム博士とだらだらと長話しをしていた。氏はマルコの福音書講解に関して10年以上も研究していた。一方、先に掲げた問題全般について、一緒にいたレーン博士はマルコ13章の研究を行なっていた。一緒に歩きながら、レーン博士は大きなめまいを感じた。何故なら、「これらすべての事々」と私がに言及した言い回しに調和し、かつオリーブ山の説教において見られるこれらの難題を上手く説明できる答えが突然閃いたからだった。

もちろん、その説明の中で、彼はその閃きを明らかにした。

40年前の大興奮をいまだに覚えている。

「この箇所には何かあるに違いないと思っていた、そうだろ。それがこの超難問に対する答えだと思う。」

私はまだその問題について満足はしていない。

学者が通常行なうことは、一つに型として直ちに成就するであろうことの予言的預言について語ることと同時に、十分な拡がりの中で後に成就するであろうことの予言的預言を語るのが通常だ。

恐らく、13章に書かれていることもそうでないかと思う。

この世代ということに関して、この箇所をこねくりまわしている人たちもいるだろうが、さらに詳細を見ていこうと思う。

しかし、再度、少なくとも自分の満足のいくまで、それらの難問に対して完璧に答えてくれる解答を見つける必要がある。

牧師としてあなたがたの前に立ち、説教するのは辛い仕事だが、ある特定の聖書個所に関して、一つだけなく多くの説教の後で、最後に「分かりません」と言うかもしれない。

しかし、一つの問題を解こうとする前に、私たちがその問題について余すことなく理解しておくことが極めて重要だ。

ここで取り上げていることは、主イエスの信頼性について、また、独特な終末論、つまり特殊なミレニアム論を弁証することよりもはるかに多くの関心を持っていることの信頼性に関する何かだ。

知っていると思うが、クリスチャンを分裂させる、深刻なレベルまで分裂させる事柄が、この聖書箇所にはいろいろと存在する。

しかし、テキストが進んでいくように、私たちも徹底的にこれらの問題を見ていこうと思う。

(祈り)
父よ、ここに書いてあることの困難さゆえに、私たちがうろたえることがないように力をお貸しください。
主による将来の事々の預言の驚くほどの正確さによって
私たちに歓喜が満ち溢れますように。
十分な確信が得られますように。
主の語られたことがことごとく成就しますように。
究極の真理をもって主が語っておられるとは、まさしくその通り。
アーメン。



#4 終末預言 by R.C. Sproul

2021年11月24日 | 終末預言 
The Olivet Discourse (Mark 13:1–8) — A Sermon by R.C. Sproul

第4回配信:20分35秒から26分3秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

このことに対する主イエスの反応を読み解こうとする時、次のような疑問が湧いてくる。

あなたがたがその質問をイエスにした弟子のひとりであるとしよう。

主イエスは神殿崩壊に関する特別な預言をした。そして今彼らは「それは何時ですか」と聞いた。

実に単刀直入な質問だ。

このことすべてが起こるはずの兆候、目に見える形での現れは何ですか?

弟子たちは、その時代の兆候について質問している。

彼らが聞いているのは、その預言の成就の兆候。その預言は、後に見るように栄光の雲の主ご自身の再来の預言をも含んでいる。

テキストに内包されている内容、つまり「これらすべての事々」という言い回しの中に、その時代の終わり(エルサレム崩壊)に主ご自身が再来する預言が含まれていることを後で見ることになる。


次のようなことを間にはさんで説明しておこう。

イエスは言った、「これらの事々は起きるであろう。一つ、神殿は破壊されるであろう。2つ、エルサレムは破壊されるであろう、3つ、私は栄光の雲に乗ってやってくるだろう、その時代の終わりに。

弟子たちの口から出た最初の質問は、「ええ!それは何時ですか。」

クリスチャンの間で今日見られる標準的見解は、それはおそらくすぐに起きるだろうということ。多くのことがイスラエルやエルサレムで起き、最後にイエスが戻ってくるまさにその時、弟子である私たち(私たちは弟子のひとりと仮定)はそこにいて、かつオリーブ山の説教におけるすべての預言が成就するであろうまさにその時にそれは起きる。

最初の世代が去って長い時間が過ぎた。しかし、あなたがたは弟子たちの靴の中に(その場に)いると思って欲しい。弟子たちはイエスに言った、「これらの事々は何時起きるのでしょうか?」

主は弟子たちに言った、「これらすべての事々が成就するまでは、ひとつの世代は過ぎ去らない。」

主イエスの言った意味をどのように考えるだろうか?

2000年以上も先に起こるであろう何かについて、主が話していると思うだろうか。

或は、近い将来に起こるであろう何か、少なくともひとつの世代の時間枠(ユダヤ単位では40年)において起こるであろうことについて、主イエスは話しているのだろうか。


他の箇所における同様の預言において、イエスは言っている、「あなたがたがイスラエルのすべての町を巡り尽くすまでは、力をもって神の国(人の子)がやって来るのを見ることはない」(*マタイ10:23)

他の箇所で、「あなたがたの幾人かは、これらすべての事々が成就するまで、死を味わうことはない」と、イエスは言っている。

これら3つのテキストを見ると、批判的学者が言っているように、またバートランドラッセルも言ったように、「明確に、40年の時間枠内で自分の王国の完成が起きることを教え、預言する」とイエスは言っているのだ

しかし、それは起きなかった。そこで私たちは、イエスの骨とマグダラのマリアの骨を掘り起こそうとしている。

さて、弟子たちの単刀直入な質問に対して、イエスがどのように答えたのか見ていこうと思う。

イエスは弟子たちに答えた。始めに言ったことは、誰にも騙されないように気をつけなさい。

つまり、主イエスが弟子たちに警告した第1番目は、騙しだ。

弟子たちは聞いた、「何時、これらの事々は起こるのですか?」

イエスは言った、「まず第1に、あなたがたはみな気を付ける必要がある、なぜなら、これらの事々について、あなたがたを騙す試みがあるだろう。ゆえに、気をつけよ。」

「というのは、多くの人々が私の名によって来るであろう、「私がそれだ」と言いながら。そして、多くの人々を騙すであろう。」

つまり、イエスがご自身の預言の成就に関して発出する最初の兆候は、来るであろう偽メシアたちの兆候。

さて、もう一度言うが、いまだに特定されない将来を待っている人々がいる。また、神が具現化したと主張する世の人々たちやそこかしこにいる偽預言者たちにとっては、今この時が成就の時なのだ。

しかしながら、1世紀は、自分がイエスの再来であると主張する非常に多くの偽預言者たちがいたことでよく知られていた。

これらは、ユダヤの歴史、特にヨセフスの著作物に記録されている。

だから、イエスは、現れるであろう偽預言たちを預言し、神殿が崩壊する前にすでに来ていた偽預言者たちを預言した。


このことをまず心に止めておきましょう。




#3 終末預言 by R.C. Sproul

2021年11月23日 | 終末預言 
The Olivet Discourse (Mark 13:1–8) — A Sermon by R.C. Sproul

第3回配信:15分30秒から20分35秒

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

今朝の朗読で、荒れ野にある神殿家具の構造物に関する使用書、つまり契約の箱の外部に挿入された棒が、どのようにして純金によって覆われたアカシアの木によって作られたかについて聞いた。

契約の箱の蓋に関する説明書や純金製の装飾造形を耳を傾ける。

そこで、ヘロデによって建立され、ほぼ完成していたその巨大な神殿に関して、大理石と金でできた山と考えられていた。

その神殿の壁は、高さ150フィートあった。

至聖所も高さ150フィートあった。

33フィートはこれぐらい。

(150フィートは)これよりも5倍ほどの高さがあり、エルサレムの神殿の至聖所内部の高さが分かる。

最近エルサレムに行ったことがあればわかるが、砂漠の床から立ち上るエルサレムの壁を見ることができる驚きの光景に出会う。

夜になると、それは巨大なサーチライトで照らされ、古都を取り囲むその壁は高さ75フィートあることが見て取れる。

息を飲む光景だ。

中に入ると、考古学者が壁の下を75フィート以上も掘り進んでいることが分かる。その個所は、イエスの時代にエルサレムを取り囲んでいた壁の付け根部分に及ぶ。

イエスの時代にそこにあったもののほんの半分しか今は見ることができないと知るや、ただただ圧倒されるばかりだ。

前廊を支える柱であるが、柱の周りを3人の男が指先まで両腕を伸ばなければ届かないほど太かった。

これ以上なにも言う必要はないと思う。

これは仰天するような建物だったわけだ。

彼らはこれを見ながら、畏敬の念をもって、破壊されるとは想像さえできない難攻不落な構造体の前に立っている。

弟子たちは畏敬の念をもってその荘厳な建物の前にいる。そしてイエスが彼らに反応し、「あなたがたはこれらの偉大な建物を見ているのか」と言った。

「たったひとつの石さえ残されることはない、みな投げ落とされるだろう。」

見ているのは60×8×11フィート、重さ百万ポンドの石の壁。

これらの石は塵となるまで徹底的に砕かれるだろう。

私たちは、最近起こっている傾向から将来の予測をすることがある。

しかし、偉大な建物の石壁が崩れ落ちる光景を見て、何が起こるか予測する、あるいは予知するという習慣は、古代社会にはなかった。

実際、その後の歴史上において、この預言の成就を確定するために、ローマ軍の総兵力量の測定が徹底的に行われた。

さて、弟子たちはオリーブ山に着き、神殿を背にして山の頂にすわった。

ペテロ、ヤコブ、そしてアンデレがこっそりと、主イエスに質問した。

ここで、ある問題に出くわす。弟子たちは、神殿崩壊に関する預言についてイエスに聞いた、「教えて下さい、そのような事々は何時あるのでしょうか、そのようなことすべてが成就する時どのような兆候があるのでしょうか?」

この箇所において、十分に注意しておかなければならない言い回しがある。というのは、オリーブ山の説教全体を通して起きている。その言い回しとは、「これらの事々(tauta)」であり、そして「これらすべての事々(tauta panta)の兆候は何時なのか、これらすべての事々が過ぎ去るであろう。」

2つの疑問とはこうだ、起きるはずの兆候とは「何時」であり、「何」なのかということ。」



#2 終末預言 by R.C. Sproul

2021年11月21日 | 終末預言 
The Olivet Discourse (Mark 13:1–8) — A Sermon by R.C. Sproul

第2回配信:9分39秒から15分30秒まで

全文(英語字幕参照)の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

「最後の日々に関するイエスの考え方」という題の、このテーマについての本をかつて書いた。

その中で、私は部数が極めて少ないレポートの中のさらに少数派のレポートを提示した。聖書の中の特殊な要素について、どのようにアプローチしたかを付け加える必要がある。

来たる数週間で見ることになるが、極めて複雑な聖書個所を取り扱うことになるということを理解すべきだ。また、教会告白の中心に触れる箇所であることも理解しておく必要がある。

先ほどニカイア信条を読み、そして、ニカイア信条を確認したように使徒信条を確認するのは、私たちがキリストの死のみならず、キリストの復活も信じており、未来の来臨、すなわちご自身の王国を完成するための栄光の再来もまた信じているからだ。

これらの信仰告白があるならば、何をすべきか。

現代の批判的理論がある中で、来臨延期論や再臨(イエスの栄光来臨)遅延説と呼ばれるものに多大な注目が集められている。

批判的研究者は、新約聖書後半、つまりパウロの書簡にあるように、教会が徐々に衰退し始めているのを見ているのだと言っている。

万人が期待するような時間枠内においてイエスが来臨することはなく、従って新約聖書はキリストの再来に関する期待を修正する必要に迫られた。

以上が、この問題にある背景だが、さて私たちは時間を割いて、テキスト自体を調べていこうと思う。そして、これから数週間にわたって、極めて骨の折れる難題を見ていこうと思う。神のご加護により、それらの難問を読み解く選択肢が与えられますように。

マルコ13章、「イエスが宮から出て行くと、弟子のひとりが彼に言った、これは何という石の構築、何という建物でしょう」

ひとりのやもめがなけなしの金を献金箱へ投げ入れているのをイエスが見ておられた場所、多くの口論が行なわれていたその場所から彼ら一団が立ち去り、神殿の反対側にあるオリーブ山へと通じる道を歩きながら、弟子のひとりが古代の不思議のひとつであった荘厳な建築物に目を向けた。

おそらくその弟子は何百回も見ていたであろうその建造物に驚きながら、「あれをご覧ください」とイエスに言った。

「なんと貴重な建造物ではないですか」

その弟子がイエスの眼差しを見つめながら指さしたのは、旧約聖書にあるソロモンによって建てられた神殿(それはすでに破壊されていた)ではなく、ヘロデによって再建された神殿だった。

この神殿の建造は、イエスがこの状況において見ていた50年も前にヘロデによって始められた。

いまだに完成には至っていなかった。

ここで、ヘロデの神殿についてアイディアをひとつ提供しておきたい。

このヘロデ神殿は、外庭が500×300ヤード、フィートではなく、フットボール競技場5面×3面分あり、神殿自体も35エーカーの建坪を有していた。

今朝私たちがいるこの建物は、6エーカー弱の敷地の上に立っている。

この建物だけでなく、全建坪を6倍してみれば、ヘロデ神殿の大きさが実感できるだろう。

ヘロデは、その驚くほどの建造物やヘロデの石造体と称されていた建造技術の開発ゆえに世界的に名声を博していた。

ユダヤ人歴史家ヨセフスは、神殿を構成する石のあるものは60フィート長もあったと述べている。

ここで言っているのは、ひとつの石であり、こらが60フィート長、11フィート高、8フィート幅、重さは百万ポンドを優に超えていた。

エルサレムのヘロデ神殿は金で装飾された大理石の山のようであったと言う歴史家もいた。




#1 終末預言 by R.C. Sproul

2021年11月20日 | 終末預言 
The Olivet Discourse (Mark 13:1–8) — A Sermon by R.C. Sproul

初回配信:最初から9分39秒まで

全文の日本語訳を提示する。

本日は、マルコ13章1節から8節まで(のメッセージ)を始めます。

(聖書朗読)

注)
朗読箇所について、多少日本語聖書と英語訳ではニュアンスが異なる箇所がある。
4節。「実現」とあるが、やや軽すぎる。「成就」が良い。
8節。「生みの苦しみ」とあるがやや大げさ。英語訳ではsorrowsで「悲しみ」「悲痛」。
誤訳はない。

(祈り)
お祈りしましょう。
主よ、再び、私たちはあなたの御前で叫びます。
あなたが助けを送って下さるように。
今朝、この最も複雑で難しい箇所を取り扱います。
あなたの助けが必要です。
私たちが思わぬ間違いを犯すことからお守り下さり
また、この箇所を理解する上で生じる戸惑いから私たちを助けて下さるようにお祈りします。
これらのことを主イエスの御名によってお願い致します。
アーメン。

(メッセージ開始)

少し控えめに言うが、今朝、逆巻く波の中、船をこぎ出そうとしている。

マルコ福音書13章に、この福音書の中で最も長い主の説教。

この箇所は、いくつかの小さな違いはあるが、マタイの福音書やルカの福音書においても記載がある。

それは、未来の神殿崩壊とエルサレムの崩壊、そしてその時代の終わりにおける主イエスの栄光の来臨に関するご自身の長い説教。

他方、この下りは、新約聖書の中で、将来起きる出来事の中で最も驚くべき預言を代表する。

もし、主イエスの聖なる主張を証明する箇所があるとすれば、まさしくこの箇所において、実際に起きる数年前にエルサレム崩壊と神殿崩壊を主が十二分に預言している箇所であることは言うまでもない。

これは極めて重要な予言的預言。

御父が権威を与えた事のみを語るのが神の子であるとの主イエスの主張に信頼を与え、真実であることを証明しているのが、他のどの箇所よりもこの下りであることをあなたがたは知っている。

同時に、不気味なほどの正確性を以て、神殿崩壊とエルサレム崩壊に関する未来預言を語ったという点において、み言葉の霊感に対する劇的証言をしている箇所は他にない。

しかしながら、キリストの本性や新約聖書の価値に関して、この箇所ほど、よりしばしば、より高度な批判道具とされ、猜疑的文書が書かれている新約聖書の箇所はない。

他方、この箇所こそ、現代のキリスト論や聖書に関して、われわれが有している最も強力にキリスト教弁証論を支持する箇所だ。

また他方、この箇所は、キリスト教が主張する真理に対立する箇所でもある。

バートランドラッセルは自書「なぜ私はクリスチャンではないか」を書いた時、キリスト教を拒絶する主な理由として、このオリーブ山の説教の一部を引用した。

私は1週間あるセミナーに参加していたが、その時ある聖書研究者が、聖書に書かれている真理を論駁するために、今朝私が読んでいるオリーブ山の説教の一部を利用して、オリーブ山の説教の難しさにおいてわれわれに嫌味を言ったのは確かだ。

さて、神殿崩壊とエルサレム崩壊とともに、明確にイエスの言ったことが起きる時をどのように知り得るだろうか。

問題はこうだ。神殿崩壊とエルサレム崩壊に関する主の預言に加えて、この時代の終わりにおける栄光の雲の主ご自身の来臨が、このオリーブ山の説教の中に組み込まれているということ。

そして、問題はこうだ。弟子たちがこれらの出来事の時間的関連に関して考察してみると、そしてマタイの福音書においても、このオリーブ山の説教に含まれるすべてのことが(もちろん、主の栄光の雲の来臨も含んでいる)通り過ぎるまで、その時代は過ぎ去らないとイエスは主張している。

バートランドラッセルは言う、「イエスはひとつの時代の経過中に戻ってくると言ったが、失敗に終わったではないか」と。

「神殿崩壊とともにエルサレム崩壊があまりに劇的であったのと同様に、イエスが栄光の来臨を預言した時間枠とともに、イエスの信頼性と新約聖書の信頼性も崩壊してしまった」とバートランドラッセルは言う。

私の推測では、この聖書箇所のテンションと真剣に取り組んできた保守的バプテスト派クリスチャンや福音派聖書研究者は、多くの点で、この問題の真の重大さを感じることができなかったのではないかと言わざるを得ない。

私は、キリストと聖書の真理の主張という点に関して、それは新約聖書において私たちが抱えている最も重大な課題ではないかと思う。

逆巻く波の中へ船をこぎ出している時、確かに、私たちは逆巻く波の中へ船をこぎ出しているのであって、これが正直なところと言わざるを得ないのだが、オリーブ山の説教において現れるあらゆる難題をどのように取り扱うべきか、わたしは実際のところ良く分からないでいる。



#675 神の法第六戒

2021年11月14日 | 神の法
第6戒
復元すなわち回復

p274~
Restitution or Restoration
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

顕著な違いとは以下の通り。

聖書の法において、違反者とは神の御前において有罪であり、かつ直接復元をすべき被害者の前でも有罪ということ。

神に対する復元については、民数記5:6~8参照。

民数記5:6~8
「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、 
自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。 
もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものは主のものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。 

然るに、現代の法において、違反は、本来的原則的に国家に反する。

神と人は、景色の外へと取り残される。

Schaferによると

封建制貴族の野蛮な欲と中世僧侶らの権力により、被害者らの権力は次第に侵食されていき、最後には、権威によって大幅に占有されていった。彼らは、違反者の上に2倍の復讐を強要した。違反者は、被害者のためにではなく、権力者のために財産を取り上げられ、地下牢に放り込まれ、拷問を受け、火あぶりの刑や絞首刑にされた。一方、元々の被害者たちは、基本的に無視された。中世以降、復元は、処罰とは切り離され、退化していったようだ。被害者は刑法上軽視されるようになった。

参照:

The Olivet Discourse (Mark 13:1–8) — A Sermon by R.C. Sproul

The Signs of the Times (Mark 13:9–20) — A Sermon by R.C. Sproul

Christ Coming in Glory (Mark 13:24–36) — A Sermon by R.C. Sproul


eschatologyに関する改革派神学者の実践的解釈。

極めて謙虚かつ真摯に聖書に書かれている内容を吟味し、よく調べ上げて、明快に解説している。

聖書を聖書でもって理解することの実践、極めて痛快。

ノンクリスチャンであるBertrand Russelや聖書批判家たちは、この箇所を引用して、イエスの預言が外れたが故に、イエスの言うことも聖書も全く信用できないと断言する。

あれから2000年も経つのに、いまだにイエスの預言が成就しないとは一体全体何事かとわれわれクリスチャンがあざけり笑われている。

そんなものを信じているのか、と。

第2メッセの7分30秒あたりから、この聖書批判に対する反論が開始する。

第3メッセの後半部分はめちゃめちゃ面白い。

完璧に理解して欲しい。

一つでも多くの魂を救うために。


注1)
英語が不得手な人のために、上の3つのメッセに関する要点を日本語に訳出してアップする予定。
R.C. Sproul師のメッセには他にも大変有用なものが多々あるので、順次紹介していこうと思う。
注2)
富井師が残した貴重な資料「紀元70年以前に完結した話をそれ以降の歴史に適用してはならない」シリーズとの照合を行なっている。師も、「このシリーズにおいて信仰の根幹にかかわる非常に重要なテーマについて議論が行われている」と述べている。検討結果が出次第アップする予定。




#674 神の法第六戒

2021年11月13日 | 神の法
#674 神の法第六戒

第6戒
復元すなわち回復

p274~
Restitution or Restoration
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

復元の原則は、今日の法において完全にすたれたわけではないが、大きな違いがある。

Stephen Schaferによるこの課題に関する研究は、このような論点において意義深い。

Schaferによると

法的に徴収された国の費用で、モデル牢に泊り、食べ、着て、暖まり、光があり、楽しでいる有罪犯が、自分の負債を社会に負わせている。彼は被害者を無視できる。しかし、被害者は慰めを必要とする。国庫に納める税金により、父親のような配慮で貢献する。この配慮が、投獄中の罪人を保護している。1895年に開催されたパリ犯罪者会議において、ベルギーのPrinsは苦々しい、皮肉たっぴりなことばを残した。犯罪被害者に対する復元の問題についての討論中、被害者の利益となる提案を理論づけし実現するため提案にを攻撃する反論に対し、彼は自身の憤りを自制することができなかった。

長い間、復元はほぼすべての法体系の土台となり、時に、大変卓越したものだった。

初期の頃のアメリカの法律によれば、泥棒は、盗んだ物の3倍を被害者に返すよう命ぜられた。

倒産した場合は、一定期間、被害者の思い通りにできる権利の下に置かれた。

現代の法において、復元は、「代償」や「損害」に置き換えられているのが通常。

参照:

プレミレ教牧師による説教

プレミレ教を流布させたい人たちの解説には一種独特なパターンがある。

まずは、この世を見ると、世界は混とんとしていて、これから世の中はどんどん悪くなるだろうと脅す。

次いで、eschatologyを説くイエスのいことばを引用する。

上のメッセでは、マルコ13章。

1、2節では、イエスはエルサレムの神殿の崩壊を説いていると説明する。

そこまでは史実通り。

しかし、3節以降のイエスのことばについて、AD70年のエルサレムeschatologyから、未来(30世紀頃?)に起きるかもしれない世界eschatologyへと大きく話しが飛んでしまう。

面食らってしまう。




#673 神の法第六戒

2021年11月03日 | 神の法
第6戒
復元すなわち回復

p273~
Restitution or Restoration
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

復元に関する他の多くの法は財産を取り扱う。

現時点で、個人に対する危害に関することが主な関心事。

主な責務の原則は次の通り。

第1に、有罪となった集団は、けが人の医療費を負う義務がある。

出エジプト記21:19
もし再び起き上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に直るようにしてやらなければならない。 

第2に、有罪となった集団は、仕事から離れていた時間的損失の責任を負わなければならない(出エジプト記21:19)。

有罪となった集団が所有者であり、被害者集団が彼の奴隷だった場合、死亡や怪我に対する責任はあったが、時間的損失に対する責任はなかった。

時間的損失は、所有者自身の損失でもあったから。

所有者自身が、その時点で、損失を被っているから。

出エジプト記21:20
自分の男奴隷、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければならない。 

レビ記24:17~20
かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。
動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。
もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。
骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。 

第3に、人によって飼われている動物が傷害罪を犯したら、罰則が適応された。

その動物が人に対する危害歴がなかった場合、その動物は死に、危害を加えられた人は、代償として治療を受けた。

しかし、もしその動物に人に対する危害の経歴がある場合、所有者は殺人に対して死刑が適応された。

出エジプト記21:28~29
牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。 
しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。 

第4に、有罪となった集団は、時間的損害や治療費のみならず、裁判によって決定された被害相当分の責任も負う必要がある。