みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#561 神の法第五戒

2020年05月31日 | 神の法
第5戒
権威主義
199~
The Principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

かくして、神の正義を拡大するために国家は成立する。

申命記16:18~20
あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。 

この法の目的として、父権を仮定することは馬鹿げている。

その目的は、市民の正義。

この正義の確立に不可欠なのが権威。

両親について説いてはいるが、含みがある第5戒、すなわち神が定められた権威は、すべての神の権威の中で、第1位を確立している。

結局のところ、神は、両親にせよ、支配者にせよ、教会員にせよ、教師にせよ、指導者にせよ、皆罪人であることを知っておられる。

神の興味は、罪人であることを確定することではない。

エデンからの排除、歴史上連続して起きる裁きは、そのことの明白な証拠。

罪人たちを廃棄し、神の法秩序を確立せんとする神の方法は、権威に服することを要求する。

この従順は、何よりもまず神に差し出されるべき。

これは、神の秩序樹立の1部分。

罪は、革命的無政府状態を招く。

敬虔なる従順は、敬虔なる秩序へと至る。

コメント:

プレ・ミレの千年王国論は体制変革後のグランドデザインがない革命的教説である



#560 神の法第五戒

2020年05月30日 | 神の法
第5戒
権威主義

198~
The Principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

中世および宗教改革時代の研究家は、過度に古典に拘った研究によって正道から逸れてしまった。

国家の親的役割の証拠として挙げられている聖句がイザヤ49:23。

イザヤ49:23
王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたのうばとなる。彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」 

しかし、この聖句はイスラエルの残りの民レムナントについて言及している。

レムナントはエルサレムに帰還し、他の国家の庇護の下で一つの国家として再建される。

彼らは面倒を見る父たちとなる。

参考とすべきは、ネヘミアの下で行なわれたヘブライ共和国の再建。

メディアペルシャ帝国の庇護があった。

国家の役割に関する印象は、親が果たす役割とは全く関係がない。

あらゆることは、再建途上の小さな市民秩序に対する大帝国による優秀な保護政策と関係する。

神の法秩序における原則的かつ基本的権威は家族。

他のすべてのあるべき権威も、同様に神の法秩序を象徴する。

しかし、その領域は異なる。

両親以外に子どもが敬い、従うべき権威は他にはない。

かくして、神の法は、鍵となる権威について語る。

その権威次第で、社会秩序が成立したり、瓦解したりする。

神の法秩序を表明することは、あらゆる領域の権威にとって基本。

コメント:

どのように祈るべきか1

どのように祈るべきか2

どのように祈るべきか3



#559 神の法第五戒

2020年05月29日 | 神の法
第5戒
権威主義

198~
The principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

そのような敬虔なる従順が悪を是認したり、悪に服従することはない。

それは旧約聖書の預言者の歴史や教会史から極めて明白。

むしろ、敬虔なる従順は、悪に抵抗するための最善の土台。

何故なら、そのような従順は、元々神に対するより高度な忠誠によって成立している。

それゆえ、従順という点において、人に依存しない。

専制君主に抵抗するため、より上位に位置する神の権威に従順となる。

しかし、先に掲げたカルヴァンの注釈は、聖書的考え方ではなくローマ法的考え方が反映されている。

支配者と両親を比較する時、支配者の権威を両親の権威となぞらえている点。

両親、支配者、教師、指導者に共通する点は、親子関係ではなく権威ということ。

両親の権力を支配者や国家権力に帰することは重大な誤り。

両親は、子に対する神の権威を代表する。

市民判事や支配者は、市民に対する市民法秩序により、神の権威を代表する。

彼ら両親と支配者はともに権威を有している。

それは親子関係などではない。

権威という点に関して言えば、親子関係というのは権威とは全く別物。

国家を神格化したがゆえに、ローマ法によって、国家と支配者は効果的に市民の神となった。

そして、民はその神の子どもとなった。

皇帝はその国の父となった。

これは市民理論の重要な要素だった。

コメント:

旧約聖書の神と新約聖書の神は違う神か?



#558 神の法第五戒

2020年05月27日 | 神の法
第5戒
権威主義

197~
The Principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

何にもまして、神は、われわれに裁判官や判事職に与る人々に対して慎み深い配慮をせよと命ずる。ヘブル語のよく知られる慣用語において、神は同じことを2度以上くり返し、結果として、同じ人々が神々(gods)と呼ばれたり、民の支配者たち(rulers)と呼ばれたりする。これには疑問の余地がない。神の御名は、比喩的にではあるが、極めて合理的に判事たちに対して用いられているのだ。神の大使として、彼らには神の栄光の刻印が刻み込まれる。栄誉は父親次第ということを見てきた。名前の占有において、父親は神ご自身と関連している。それ故、神ご自身の威厳は裁判官にも要求される。民が彼らに敬意を表するためだ。彼らは神の象徴であり、神の副官、司祭だ。それゆえ、キリストは最高解説者として、こう説明した。詩篇82:6を引用し、イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神々である。』と書いてはありませんか(ヨハネ10:34)。神のことばを受けた人々を、神々と呼んだ(次節)。これらの聖句は、すべての神の子らに向けられた一般的な訓令としてではなく、支配者のための特殊な命令と理解すべきだ。

神は判事を両親と同等の立場にある者と見做しているだけでなく、神の御名によってわれわれが威厳を得られるように彼らを召し出している。

これは判事たちに対する賛美の証し。

彼らが罰則に対する恐れからだけでなく、良心ゆえに神に従うことが明らかに示されている。

ローマ書8:5
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

彼らゆえに神が侮蔑されないように、敬意を表されるべきであること。

権力を乱用している者たちの悪行を賞賛することなど間違っていると異議が唱えられた場合
はどうか。

答えは簡単。

たとえ最善ではないが、裁判官は最善であるかの如く生まれてきたということ。

彼らが帯びている名誉は、悪行を包み隠す蔽いではないということ。

神は彼らの過ちを称賛せよと命じているのではない。

横柄で扇動的な思いでかき乱し、時の政府を倒すのではなく、ただ静かに彼らを遺憾に思うようにと神は命じているのだ。

コメント:

世界回復のヴィジョン

われわれクリスチャンが目指すべき最高峰。



#557 神の法第五戒

2020年05月26日 | 神の法
第5戒
権威主義

196~
The Principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

d'Aubigne(ドービニェ)とPascal(パスカル)は偉大な人物であり、天才少年だったと認めなければならない。

音楽において、科学において、そして他の多くの分野において、天才少年は現在よりもはるかにふつうの存在であったと付け加えておく。

さらに、当時は一般人でさえ、知的レベルは極めて高かったと認識する必要がある。

礼拝説教のレベルもまた、そのような例として挙げられる。

教会メンバーの2時間にも及ぶメッセージを聞く能力、その週の後半に30から40ポイントにも及ぶ説教内容を忠実に再現できる能力、そしてそれらのポイントについて議論できる能力は、十分に証明されている。

その時代、法律はもちろんあったが、訓練による高度な秩序も存在していて、この訓練により知性の使用は大いに促進された。

クリスチャンの初期の時代や宗教改革とその後の時代に、西洋文化と自由の基礎を築き上げた人々は、信仰と従順の人たちだった。

彼らは従順アカデミー学院で勉学に勤しんだ。

神によって正当に立ち上げられ、任命された権威と権力に対する十分な敬意は聖書によって要求されている。

出エジプト記22:28は宣言する。

出エジプト記22:28
神々(gods)をのろってはならない。また、汝の民の支配者に悪態を付いてはならない。

ARV訳では、godsをGodと訳し、欄外注にjudges(裁判官)と付している。

Calvinカルヴァンは、この聖句、レビ記19:32、申命記16:18、20:9に関して、次のように注釈した。

第5戒では、提喩により、権威に関してすべて上位にあるものが含まれている。

コメント:

カント流二元論からの解放

>教会が2000年をかけて積み上げた遺産をすべて否定して

とあるので、(1)の場合は進化論哲学の影響も強く受けている。



#556 神の法第五戒

2020年05月25日 | 神の法
第5戒
権威主義

196~
The Principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

Van den Bergは、Montaigneの時代とそれ以降の時代の成熟した子どもの例を2つ掲げた。

その子たちの詳細は引用に値する。

Montaigneの時代における子どもの天性に関するデータをわれわれにはある。Theodore Agrippa d'Aubigne(テオド-ル・アグリッパ・ドービニェ)、Huguenot(ユグノー、フランスカルヴァン派)Henri Ⅳの友人。1550年生まれ。Montaigneは1533生まれ。Montaigneが分別のある年齢に達した頃、d'Aubigne(ドービニェ)はまだ子どもだった。このd'Aubigneと同年齢の子らを見ても、Montaigneは成熟を感じることは何もなかった。d'Aubigneについては、6歳の時にギリシャ語、ラテン語、ヘブル語を読むことができたと言われている。そして、8歳の時に、Platoプラトンをフランス語に翻訳した。
Platoプラトン。Montaigneモンタギュは子どもに哲学的論議の読書と説明を勧めた。8歳の子どもがプラトンを翻訳することができるのなら、4歳の子どもに翻訳版を読んであげることに何か抵抗はあるだろうか。
d'Aubigneドービニェがまだ8歳だった時、父に連れられて、アンボワーズという町に行ったことがあった。あるユグノーのグループが処刑された直後のこと。彼は断首された遺体を見た。父親のリクエストに対して、d'Aubigneは彼らの復讐を誓った。2年後、彼は宗教裁判者らによって捕えられた。死の瀬戸際という恐怖に対して、10歳の少年が取った反応は、火の前で踊る喜びのダンスだった。ミサに対する嫌悪感が、火の恐怖を取り去ったのだった。後に彼はこう説明した。10歳の子どもが分かってそのように言っているのだろうか。プラトンを翻訳し、4歳で古典をよく読んでいたとは言うものの、自分が何が欲しいのか、自分が何をしているのか分かっているのだろうか。しかし、彼を子どもと呼ぶことは到底できない。処刑の効果を知的に観察する人物。人生を通して自分は正しいと誓う人物。聖餐式を自分なりに解釈できる人物。死の瀬戸際の恐怖を推し量る人物。彼は子どもではなく、立派な成人男子。
Montaigneが他界した頃、大発見を極めようとしていた子どもがいた。Blaise Pascal(ブレーズ・パスカル)、1623年生まれ。12歳の時、当時の専門家たちが大真面目に受け取った音に関する論文を、誰からの手助けもなしで書き上げた。その頃、彼は数学ということばをたまたま聞き、父親にその意味を聞いた。父はわざと不十分な答え方をした。数学以外の科学に対する興味を失ってしまうことを恐れたからだった。数学というのは、もう少し時間が立ったらもっと教えようと思うが、完璧な数式の構築に関与する学問であり、数式の持つ特性を見出す科学だ。うら若きパスカルは余暇の間を使って、この答えをじっくりと一人で考えた。彼は円と三角形を作図し、これは後に父が言おうとした、ある種の特性の発見へとつながった。一例をあげると、三角形の内角の和は2つの直角に等しい。

コメント:

ポスト・ミレは人生の分水嶺である

勝利の終末論とは?



#555 神の法第五戒

2020年05月24日 | 神の法
第5戒
権威主義

195~
The Principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

最善の機能を有する心とは、従順かつ訓練された心。

訓練され従順となった子どもは、奴隷の子ではなく自由人。

従順の訓練によって十二分に自身を統制することができ、自助努力の領域において、意のままに行動できるのがそのような人。

昔のヒューマニズムは、クリスチャンの修練という環境下で育まれたので、鍛錬される心を持つことができた。

モンタギュMontaigneは、子供教育のカウンセリングの場で、当時の優良なトレーニングについて目新しいことは何もないかのように語った。

一生のうち数年だけが、教育のために残されている。15~16年という長い年月ではない。この数年を有効利用せよ。大人たちよ、子供が正しく発達することを望むのであれば。余計なことは放っておくがよい。何か建設的なことをしたいのであれば、子どもに哲学的な話し合いの場を設けよ。もちろんあまり複雑なことではなく、話して聞かせるには価値のあるようなこと。きめ細かく話し合うこと。子どもというのは、多かれ少なかれ自分で何とかできるようになる時から、その事を消化吸収できる能力がある。Mongaigueが実際に書いたのは「子どもが離乳した時から」だが、恐らく、その表現はそれ程文学的なものではなかったようだ。いずれにせよ、読み書きを教えこもうとする試みよりもはるかにうまく、哲学的な議論に耐えることができるだろう。

Montaigneの時代には今ほど早急に離乳を開始しなかったので、彼の記述はまんざら嘘ではないだろう。ピューリタン・アメリカでは、2歳から4歳の頃に母親によって読み方が教えられた。

コメント:

直前の記事に訂正あり。
訂正:宗教において、経験が優先され、教理に取って代えられる→宗教において、経験が優先され、教理に取って代わる。

新約時代において、クリスチャンは律法から解放された?




#554 神の法第五戒

2020年05月23日 | 神の法
第5戒
権威主義

194~
The principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

この手の人格障害の根はかなり深い。

John Lockeは、人間教(ヒューマニズム)的信仰という不安定な精神状態を明確な平板概念(tablet concept)によって公式化した。

彼は真の教育について次のように考えた。

あらかじめ与えられたあらゆる観念、両親による教育、宗教、社会などから、心を一掃するよう求めるのが真の教育であると。

Lockeの概念あるいは心理学に依れば、教育は革命的でなければならないとされる。

ルソーの自然の人に加えて、前もって考えられる観念のすべて、過去から踏襲された財産のすべては、切断すべき鎖であると。

Marx(マルクス)とFreud(フロイト)は、John Locke(ジョン・ロック)、Rousseau(ルソー)、Darwin(ダーウィン)の哲学から論理的結論を導き出した。

Darwinは、自らの進化論信仰によって、過去のすべてのものを、より下等なもの、より原始的なものと見下した。

そして、進化のために過去の一掃を強要するために、Darwinは正当な理由を追加した。

鍛錬と従順に対するこのような敵意は、20世紀におけるほとんどすべての良心的な努力を食いつぶしている。

芸術において、絵画や図法において駆使される技術の修得能力は無視され、理性や様式を欠く自発的かつ無意識の表現に取って代えられる。

宗教において、経験が優先され、教理に取って代わる。

政治において、権威は下層出身者やより低いレベルの人々出身に占められ、カリスマ的リーダ―が大衆を大いに満足させる扇動者となる。

音楽において、ろくに鍛えられていないような感情に走る者たちが賞賛を浴びる。

従順や修練に対する敵意が一般的となり、深く根付いていく。

訂正:宗教において、経験が優先され、教理に取って代えられる→宗教において、経験が優先され、教理に取って代わる。

コメント:

ピカソのような抽象画が進化論哲学の影響を強く受けているということを初めて知った。これはビックリ。

神学なんて学ぶ必要はないという教えにも進化論哲学が関与していると書いている。思想的に背後でつながっているのだ。

われわれが住んでいる現代社会は、知らず知らずのうちに、あらゆる領域において人間教と進化論哲学に侵食されているということ。

クリスチャンであれば、この由々しき事態をなんとかしたいと願うのは当然のことではないだろうか。




#553 神の法第五戒

2020年05月22日 | 神の法
第5戒
権威主義

194~
The principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

重要なことは、従順。

人間教徒(ヒューマニスト)によって共通に認識されていることがある。

子どもの法によって要求される、疑問を持たない誠実な従順とは心の破壊。

これによれば、自由な人とは反乱の産物であり、権威に対する絶え間ない挑戦の産物。

真の教育とは、子どもや青年たちを刺激することによって、権威を破壊し権威の要求を否定すること。

今日の若者の文化とは、権威に対する反抗と、それと連動するその場しのぎの要求。

Ross Snyderは、「若者と文化」の中で、自分は正しいと勝手に思い込んでいるのが今どきの若者であると書いている。

彼らは十分成長した発達段階にあると思いこんでいる。

その場しのぎの理解を要求するのは、幼稚症の特徴。

お腹がすくと泣き、したいときに排便・排尿する。

すぐに満足しないと、飢えと怒りで泣く。

甘やかされて育てられた世代は、破壊的革命的憤怒に関する高い素養を持つ。

しばしば、興奮すると、人前で排尿や排便をする。

丁稚奉公や勉学に対して素質が全くない。

革命的思いのエッセンスは、その場しのぎの理想郷を追い求めること。

瞬間的な満足を得ることであり、それを与えることができない秩序に刃向かう破壊的で、幼児的怒り。

Freudは口唇性格と肛門性格ということばを創り出した。

成熟したあらゆる年齢、あるいは成人男性とは全く釣り合わない状態を言う。

幼児期と任意の年齢との間の相反するパーソナリティ、あるいはそういう人たちのこと。

コメント:

人間教(ヒューマニズム)とは、人間(自分)中心主義。

この国でも上に書いてあるような人間教徒が増えてきているように思う。一言で言うと、救いようがないほど我儘な人たち。いずれ神の御前に立つ時が来るのだが、それが現世で起こることを願うばかり。そうでなければ、永遠の苦しみが待っている。

人生のすべての過程は予定されている



#552 神の法第五戒

2020年05月21日 | 神の法
第5戒
権威主義

193~
The principle of Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

詩篇82:1、6において、市民の権威が神々と関連付けれられている。

神々という表現は、イエスキリストによって追認された使い方(ヨハネ10:35)。

以上から、すべての正当な権威は神の法秩序の代表であるがゆえに、第5戒は第1のテーブル、すなわち神に対するわれわれの義務に関連する諸項目と直結していると考えられてきた。

隣人に対するわれわれの義務に関連する諸項目、すなわち第2のテーブルとは対照的。

2つのテーブルに分ける分類には妥当性があるが、過度に協調することはできないし、すべての命令は神に対するわれわれの義務に関連しているという点で、やや意図的ではある。

カルヴァンはこの命令を第1のテーブルに分けることはばかげていると考えた。

面白いことに、カルヴァンは自分の意見を弁護するために、マタイ19:19だけでなく、ロマ書13:9を引用した。

ローマ13:9
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

しかし、これらの聖句はこの問題点について決定的ではない。

より適切な聖句はいろいろある。

両親、安息日遵守、そして偶像忌避を、従順と関連付けている聖句は、レビ記19章に書かれている。

レビ記19:1~4
ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。 

コメント:

あなたは何を土台として家を建てるつもりか