みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#626 神の法第六戒

2020年12月30日 | 神の法
第6戒
国家の起源:預言的オフィス

242~
Origins of the State: Its Prophetic Offices
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

この出来事の意味は一般に無視されている。

その理由は法が無視されているから。

モーセは、王キリストの代表として、神の霊という恵みを仲介した。

これが特別な出来事ではなかったということは、サウルの油注ぎによって明らか。

彼サウルも預言した。

第1サムエル10:1~7
サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。 
あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は、雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます。』と言うでしょう。 
その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、 
このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。 

預言という事実は、70人の長老やサウルにおける任務すなわち召しではなかった。

彼らは市民的支配者だった。

霊に満ちた預言の証人は、彼らに対して、これは神の授任であるということを証言した。

これらの2つの市民的ペンテコステは、イスラエルにおける2つの市民統治の形態、すなわち、共和国と君主国の出発点となった。

他の人々の授任は、油注ぎによった。

初代の教会は、戴冠の礼典によって、ペンテコステ教会の継続を確認した。

信仰は消滅したが、その礼典はいまだに残されている。

女王エリザベスⅡ世に要求された誓いがその典型例。

あなたは、最高権威に対して、神の法と福音の教授を堅持しますか。あなたは、最高権威に対して、イギリスにおいて、法によって確立されたプロテスタント改革派キリスト教を堅持しますか。あなたは、犯すことなく、英国教会の安定、教理、礼拝、修養、統治を、イギリスにおいて確立された法によっても堅持、保全しますか。あなたは、イギリスの司教や聖職者の上に、そして負債を委ねられた諸教会のために、法によって彼らと彼らの誰かに属している権利と名誉を保全しますか。

この誓いの後に、スコットランド教会総会議長が女王に聖書を手渡し、次のように述べた。

恵み深いわれらの女王よ。生涯に渡り、法として、またクリスチャン王女の統治として、神の法と福音を心に留めて下さるように、あなたに、この世で最も価値のある、この本を贈呈致します。

ここに知恵があります。これが王の法であり、神の生きた託宣であります。

任命後、ソロモンの油注ぎに言及し、次のことばをもって、ヨークの大司教が侍従から受け取った国家の剣が女王へと贈呈された。

この王の剣をお受取り下さい。これは神の燭台からもたらされました。そして、僭越ながら、神の奴隷である私たち司教たちの手によって、あなたのもとへとお持ち致しました。この剣により正義を行ない、不義の増殖を止めて下さい。聖なる神の教会をお守りください。やもめとみなしごを助けお守り下さい。廃れ行く物事を再建して下さい。再建された物事を保全して下さい。不適正なものを罰し、改革して下さい。良き秩序にあるものを強化して下さい。こうすることによって、あなたはすべての美徳において栄誉ある方となります。主であるイエスキリストに忠実の仕えるならば、来たるべき世において、彼とともに永遠に支配できるでしょう。R.アーメン。

参考:

天に属する人らしい話をしよう

人間教に合せる必要はまったくない

聖書の中心的メッセージを回復しなければならない

新約時代における聖俗の基準

このまま非聖書的神学を受け入れるならば、滅亡は避けられない




#625 神の法第六戒

2020年12月23日 | 神の法
第6戒
国家の起源:預言的オフィス

242~
Origins of the State: Its Prophetic Offices
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

至聖所とは、これまで見てきたように、神の王室だった。

イスラエルの市民政府が成立した時、至聖所の前で事が行なわれた。

そこで神は民の中の7人の長老たちと話をし、彼らにご自身の霊を注いだ。

最初の五旬節は、市民権の按手における市民の五旬節だった。

民数記11:16~17
主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。
わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。 

同11:24~30
ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。 
すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。 
そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。・・彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。・・彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。 
それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で恍惚状態で預言しています。」 
若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」 
しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」 
それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。 

参考:

Message from President Donald J. Trump

方向性に大きな違いはないと思う。

聖書に基づく世界の再建。




#624 神の法第六戒

2020年12月20日 | 創世記
第6戒
国家の起源:預言的オフィス

241~
Origins of the State: Its Prophetic Offices
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第6戒、「汝、殺すことなかれ」は、ネガティブな側面とポジティブな側面を持っている。

ネガティブな側面、すなわち不正に暴力を犯した者たちの処罰、そして、ポジティブな側面、すなわち神の法に基づく命の保護。

国家は、ネガティブな側面に基づいているのが通例であり、神の絞首刑執行人だ。

事実、国家は悪者にとっては脅威であり、善人にとっては保護する者、安全保証。

ローマ13:3
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。 

命を保護したり、家族や宗教の安全を促進することにより、運営上、国家は明らかにポジティブな存在。

保護とは、単なる否定ではない。

それは、平和と安全が現存および持続する状態のこと。

王ヨシャパテがユダの裁き司たちの罪を暴露している。

第2歴代誌19:6~7
さばきつかさたちにこう言った。「あなたがたは自分のする事に注意しなさい。あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからです。この方は、さばきが行なわれるとき、あなたがたとともにおられるのです。
今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行ないなさい。私たちの神、主には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。」 

法は、原則(十戒)として、具体例(十戒の細目)として与えられる。

その意義は、経験や試行によって叩かれ練り出される。

これは、法が発展途上のものであるということではない。

新しい状況が、法の可能性のある適応に光をもたらす時、人がその裏の意味に気づき始めるということを意味する。

詩篇119編の記者は、歴史の逆境に対抗して立ち上がるための成長や能力のためのポジティブな力として、(律)法を見ていたことは明らか。

参考:

クリスチャン政党、等について

これを理想論と考えることなかれ。
実現する必要がある。
今アメリカで起きていることを良く見て欲しい。





#16 信仰の防衛

2020年12月13日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p18~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

私が描いた見解、つまりkuyperの共通基盤に関する考え方を認める意見は、決して自然神学を暗示するものではない。啓示なしで、人間は神に関する知識を持つことはない。しかし、啓示は間違いなく存在する。カルヴァンが言うところの一般啓示は、正しい考えを持つ人が「神であり創造主なる宇宙の支配者が存在する」ということを確信するために客観的に明白であり、かつ十分。神の存在なしで、野にある花の美しさはあり得ない。
クリスチャンにとって、これは明らかに真実だ。さて、このことが真実であることを未信者である友人に納得させてみよう。まず初めに、そこに花があり、その花は美しいと彼の友人が知っている必要がある。これが共通基盤(common ground)。そこで、クリスチャンである彼は、美の例を説明するために、絶対なる美という原則があるということを証明しようとするかもしれない。このことに対して、彼の友人は同意するかもしれないし、しないかもしれない。仮に、友人が同意したとしよう。かくして、この議論は、聖なる存在、次いでキリスト教の神へと発展するかもしれない。

この議論において、2つのことが分かるだろう。

A)あらゆる点で、クリスチャンは証拠として明らかにされた事実を訴える。

B)神の救いの恵みがノンクリスチャンの思いの中に介入しなければ、彼が心から最終的な結論を確信することはないだろう。

ヴァンティル教授は、やや異なるアプローチの仕方をする。

彼は言う、「キリスト教信仰に関する唯一の決定的議論が、その教えが真理であるという前提にのみ立って、ロジックや記述が実際に真理に触れているということは確かな事実。」

それが良い議論であるというのは確かにその通り。

しかし、それが、唯一かつ最高の議論かどうかは明らかではない。

意味ある記述の事実を示すことによって、キリスト教の真実性を主張するのであれば、偶然の存在という事実を説明するために、創造主の必然性を議論することによって、それが真理であると主張することの方がはるかに適切ではないのか。

コメント:

この箇所も実に分かりにくい。

共通基盤とは、クリスチャンもノンクリスチャンも「在る」と認める事実の共有。この「在る」とは、上の例では、花の美しさ。個別の花の美は分かる。では、絶対なる美が「在る」とすれば、それは一体何なのか。そして、それを存在せしめている存在が神であるという共通基盤を共有できれば、彼の友人を神の救いの恵みへと導くことができるというように話(ロジック)が展開している。

簡単に、かつ乱暴にまとめると、(キリスト教の)真理とは、単純な事実という証拠を積み上げていくと、創造主である神に到達できるということを言いたいのではないかと理解(推察)しておく。但し、そのためには、神の介入が不可欠であるとも。

参考:

1776 in America again





#623 神の法第六戒

2020年12月10日 | 神の法
第6戒
国家の起源:預言的オフィス

240~
Origins of the State: Its Prophetic offices
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

言うまでもなく、これが人間教(ヒューマニズム)の本質。

全てが良くないと、人間教徒(ヒューマニスト)は、神、人、そして社会に幻滅を抱く。

しかし、自分自身には決して幻滅することはない。

かくして、レバノン人で詩人のkahlil Gibranは、若い頃、宇宙は悪のない完璧なものと考えた。

世界と神に幻滅し、彼はニーチェの弟子となった。

ニーチェ哲学は、Gibranの著作に多大な影響を及ぼした。

この事に関して、彼はスーパーマンの時代が始まろうとしているのを見た。

「最も謙遜な者たちが、過去の時代の最も偉大な者たちよりも偉大となる時代の中に生きているのがわれわれだ。」

彼の態度は、登場したスーパーマンのように、完全なる独善者のようだった。

自分の中のスーパーマンや神のように、彼は批判を超越し、かつ法を超越した。

もし国家が神の国の一側面ではないとすれば、真実なる神が存在しないが故に、罪の概念は脱落するのは必然。

人間教下では自分が神であるから、法は神々を支配することはできない。

神々が法だ。

カルヴァンが述べたように、法なしで、国家や行政長官は生存できない。

同様に、行政長官がいなければ、法は抗力を持たない。

ゆえに、「法は無言の行政長官であり、行政長官は喋る法律である」という観察ほど正確なものはない。

それゆえ、ある程度神の法秩序を維持する時、国家は自身を訴える証人である。

そして、ある程度までの神の法秩序を維持できない時、国家は無政府状態へと転落していく。

国家は、神の下で人間が服従しなければならないひとつの秩序として認識される。

聖書はくり返しこの従順を要求する。

権威がネロの時でさえ、服従が義務。

たとえ金銀が不敬虔な者の手の中にあっても、それを蔑視できない。

反対に、われわれは、敬虔な方法によって、それらを自分のものとしなければならない。

誰が所有していようと、どのように使われようと、金は金であると言わざるを得ない。

神の国の一部として創造され、運命付けられ、神の法秩序を施行することにより神を拡大化すように召し出されているが故に国家は国家であり、その支配者が如何に不遜な者であろうとも、軽蔑することはできない。

もしわれわれが金を軽蔑し捨て去るなら、次の所有者がわれわれの好みに合わなくても、われわれは文句を言うことはできない。

もし国家が神のお墨付きであり、かつ神の重要な部分であることを否定するなら、悪人がそれを悪用しても、文句を言えるだろうか。

参考:

理屈を聖書啓示に優先するような人はクリスチャンではない

隙を作らないことである

問答無用の信仰

信仰において自立するために自分を鍛えよう




#622 神の法第六戒

2020年12月06日 | 神の法
第6戒
国家の起源:預言的オフィス

240~
Origins of the State: Its Prophetic offices
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

国家の第一義的基本的義務は、神と神のことばの主権を認識することによって、かつ神の法言を確信することによって、神の御国を推し進めていくこと。

かくして、国家はクリスチャンであることの義務を負っている。

人や家庭、教会、学校、すべてのものがクリスチャンでなければならないように、国家もクリスチャンである必要がある。

その他のモノを握りしめるということは、国家という領域において神の死を主張すること。

国家はクリスチャンであるべきだと要求しないが故に、また、「神の死」神学を暗に認めるが故に、教会は、国家に背教の口実を与え、そして悪魔へ引き渡してしまった。

教会がこうなってしまった理由は、神の法を否定したからだ。

実際、教会の外では神は死んでいることが暗にほのめかされ、教会は、教会の内で神の死を主張しなければならない。

堕落と罪において見出されるものとしての国家の概念が失敗した理由は、神の平手打ちという意味を除いて、疫病や飢饉のように、神から離れてしまったからだ。

そのような状況下で、国家のポジティヴな意義が求められる時、それは神の国の中ではなく、自然的な理由、つまり自然の人の自律的理由の中になければならない。

国家が神の国から分離された場合、罪という観念はどれくらい持続するのだろうか。

結局、罪とは、神の王権の中にあって神に反逆すること、そして神の国の法に対する反逆。

国家が神の国の一部でないなら、正義と人間関係の世界、つまり国家には罪はない、ということになる。

参考:

イヴァンカさん演説

自分の人生の中で一番大事なスピーチ

トランプ大統領緊急声明発表!




#621 神の法第六戒

2020年12月02日 | 神の法
第6戒
国家の起源:預言的オフィス

239~
Origins of the State: Its Prophetic offices
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

カルヴァンは次のように指摘している。

市民パワーの創始者である彼(神)の摂理を蔑視することは、彼(神)と戦いを行なうということ。パワーは神から来るということを理解すべき。疫病、飢饉、戦争、罪に対する災いは、神からは来ない。しかし、彼は世界の法と統治のためにそれらを任命した。

疫病、飢饉、戦争は、人間の罪に対する結果であり裁き。

しかし、邪悪な支配者が存在するとしても、国家は災いではなく、神の義なる統治の一側面。

天に在るのと同様に、地上にも在らねればならないのと同様に、新創造においても統治があるはず。

正義と公正であることの必要性は、新創造においても決して消滅しない。

むしろ、完全なる服従は完全なる統治に対する反応となる。

今や、統治とは国家よりもはるかに広大な言葉。

統治とは、初めに個人統治、ついで、家庭、教会、国家、学校、職場、私的仲間、その他もろもろを意味する。

より高次ではあるが、しかし最高位の権力ではない国家は神の正義の省。

神の正義の省とは、天においても地獄においても見られる神の義の充満。

新創造における神の国において、教会、家庭、学校、職場とともに最高位にある国家は、誕生の時が胎児の死であるように神の国の完成ではない。

むしろ、それは最も真実なる命。

参考:

TV政治家たちの「コロナ便乗商法」と日本没落のカラクリ(藤井聡)

レビ記5:2
あるいは、人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れるなら、それに彼が気づかなくても、彼は汚れた者となり、罪に定められる。 

広義に、あるいは判例的に解釈し、ウイルスを汚れたものと考えるなら、ウイルスとの接触をさけるためにマスクをすべきだと思う。

【米軍が国家反逆者を尋問中!5人の犠牲を無駄にするな!】