みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#45 終末預言 by R.C. Sproul

2022年01月31日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Can We Enjoy Heaven Knowing of Loved Ones in Hell?

16分36秒から19分56秒まで

◇◇

引用聖句

黙示録21章
ローマ書8章

◇◇

教授は自分の車の方へと向かった。彼の車は車ではなく、フォルクスワーゲンのバスを改造したもので、図書室へと転用されていた。

私たち二人は駐車場へと向かったのだが、教授は私より背が高く、早足で、歩幅も大きいので、私は遅れないように、スキップしながら歩かなければならなかった。

そして、彼の改造された小さなバスに到着した時、何気なく私は次のように言った。

「もしもジョン・カルバンがあの説教を聞いていたら、墓の中でひっくり返っていただろう。」

即座に、ゲルシュナー教授は足を止め、振り返って、私を睨みつけて、こう言った。

「何と言った?」

私は言った、「ええと、何て言いましたっけ?」

教授は言った、「そこの君、ジョン・カルヴァンは今エンジョイしている最中だという表現ほど
上手い表現はないということが分からんのかね。」

「君はあの説教でいらいらしたかも知れない。一方で、あの説教が権威ある改革派神学者がすでに得ている永遠の喜びを減ずることはあり得ないと思うが、いかがかね。」

私は言った、「確かに、確かに。おっしゃることが分かりました。」

確かに、その通り。何故なら、カルヴァンは、もはや死もなく、痛みもなく、涙も悲しみもないところにいるのだから。

さて、本当に教授を困らせた別の出来事があった。

あるセミナーのこと、参加した学生はたった8名で、私たちは教授とともにテーブルを囲んですわった。

学生の一人が次のように質問した。

「ゲルシュナー教授、愛する人が地獄にいるのを知っていて、天において私はハッピーでいられる
のでしょうか。」

ゲルシュナー教授は何度も指を鳴らしながら、その学生を見ながらこう言った。

「君は天国にいるがゆえに、君の母親が地獄にいて、それに満足していることを知ることができるのだと思う。神の義が完璧に成し遂げられている証拠ではないか。」




#44 終末預言 by R.C. Sproul

2022年01月30日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Can We Enjoy Heaven Knowing of Loved Ones in Hell?

11分48秒から16分36秒まで

◇◇

引用聖句

黙示録21章
ローマ書8章

◇◇

キリストの最終勝利というストーリーは、真珠の門(天国の門)、金と炎と硫黄で舗装された通りというストーリーのこと。

それを手加減して語るという目論見は、神の呪いに晒されることになる。

しかし、どのように私の疑問を処理すればよいのだろうか。

愛する人たちが火の池にいることを知りながら、私たちは天においてハッピーでいられるのだろうか。

さて、この疑問に対する答えの前半部分は、先に読んだ黙示録のテキスト前半に書いてある。

「御座からの大きな声が、『見よ、神がいますところがともにあり、彼らは神の民となり、神ご自身が、彼らの神として、彼らとともにいるであろう』と言うのを私は聞いた」

私がこの4節、「彼は彼らの涙をすべて拭って下さるであろう、もはや死も悲しみはなく、泣くことも痛みもない、何故なら前の事々は過ぎ去り、神がすべてを新しくされるからだ」に至るのは毎年のことのように思う。

さて、あなたの友や親せきが地獄にいることを知りながら、あなたは天国においてハッピーでいられるであろうか。

私たちがまず最初に理解すべきは、天国というのは神が直接私たちの涙をぬぐい去って下さるところであるということ。

そして、ぬぐい去って下さった後、涙は絶対に戻ってこないということ。

新エルサレムから追い出されると、そこに住む人々には、死、病い、苦痛、悲しみが襲ってくる。

新エルサレムの中に住む人たちはみな、命の泉から価なく飲むことができる。

このメッセージにおいて、ばつの悪かった昔の出来事についてお話ししたいと思う。

セミナーが開催されていた時のこと、我が愛する指導教官であり教授だったジョン・ゲルシュナー氏が私に対して反対意見を述べた。

ゲルシュナー博士の学生だった頃、少なくとも2回以上彼を怒らせる事件があった。

あの偉大な教授をイライラさせるための悪癖が私にはあったようだ。

これが最初に起きた事件。

教授と私がセミナーのために礼拝堂にいた時のこと。そのセミナーはとてもリベラルで、正統派、特に正統改革派に対して敵対的な雰囲気があった。

私はセミナー担当の教授の話しをしぶしぶ聞いていた。

その教授のメッセージは、改革派信仰を愛する人たちにとって極めて大切なことをことごとく否定し、侮辱するような内容だった。

メッセージが終わると、私はゲルシュナー教授とともに礼拝堂を後にした。




#43 終末預言 by R.C. Sproul

2022年01月27日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Can We Enjoy Heaven Knowing of Loved Ones in Hell?

7分37秒から11分48秒まで

◇◇

引用聖句

黙示録21章
ローマ書8章

◇◇

5千人?

5百人?

50人?

5人です。それでもこの事件は大虐殺と呼ばれている。

ヨシュアによるエリコの破壊という住民迫害、すなわち、トーマス博士が大変優れた解釈をして下さっているが、聖戦によるこのカナン人大虐殺とは全く比較にならない。

私たちが神のご臨在の中で集う毎週日曜日、私たちは互いに手を握り合うために山へとやって来るのではないとヘブル書は教えてくれる。

そうではなく、シオンの山へ、天上の町へ、神の臨在の中へ、キリストの臨在の中へ、パーフェクトとされた人々の中へ、高きにおける集いの中へとやって来るのだと。

そして、霊において、賛美のために集うたびに、私たちは天の蜜の味を楽しむと教えてくれている。

しかし、アイの町エリコやカナン人の他の町々において経験したことは、地獄の味であった。

ボストン大虐殺については話すことはできるが、エリコ大虐殺のことは忘れてしまっているのではなかろうか。

たった一家族のみを残し、全人類を破壊した神による大洪水に目を向けようではないか。

神は言われた、「人々はみな自分の目には正しいことをしているが、我が霊はこれらの人々と争うことはない。」

それは、アモリ人がなした悪行どころではなかった。

神が裁かれたのは、全世界の邪悪だった。

デレックがつい先ほど述べたように、私もそれでよかったと思う。

神が創造された世界の統治の完了は、「分離」を必要とするに違いないし、そうなるだろうと思う。

信仰心があり、神の家族にあって相続分を受け、天の計り知れない喜びと満足を満喫する人々と、幕屋の外に出され、煮えたぎる火の池に投げ落とされる人々の間にアンチテーゼ(対比)が生まれるようになると思う。




#42 終末預言 by R.C. Sproul

2022年01月24日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Can We Enjoy Heaven Knowing of Loved Ones in Hell?

以前に予告した通り、今回からこの動画を見ていきたいと思う。

最初から7分37秒まで

◇◇

引用聖句

黙示録21章、22章
ローマ書8章

◇◇

このカンファランスにおける最後の質疑となりました。

国際カンファレンスをリゴニエ教会スタッフが取りまとめる時に必ず起きることが2つあります。

2つのことがいつものように起きています。

そのうちの1つは、彼らがいつも私を最後の演者にすることであります。

つまり、私が最後の口演者となり、安らぎとフィナーレを飾る機会を与えられるわけです。

もうひとつは、私が最後の演者をする度に話したくなることが終末論に関すること、つまり黙示録の最後の2章であります。

今年もそうする予定でおりました。

私たちの友人や愛する人々、家族が地獄にいるのに、私たちは幸せでいられるのかという疑問に答えようと思っていたところであります。

この疑問に手短かに答えるために、今朝は新約聖書の2箇所を読みたいと思っております。

最初は黙示録21章1節から8節まで、次いでロマ書8章にあるテキストを読みます。

黙示録21章。
その時、私は新しい天と新しい地を見た。というのは、最初の天と最初の地は過ぎ去り、海はもはやなかった。そして、私は聖なる町、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁として整えられ、神にから出て天から下りて来るのを見た。そして、御座から大きな声が「見よ、神の住まわれるところがともに在り、神は彼らとともに住まうであろう、彼らは神の民となるであろう、そして、彼らの神として、神ご自身が彼らとともにおられるであろう」と言うのを私は聞いた。神は彼らの涙をことごとくぬぐい去って下さるであろう、そしてもはや死はなく、悲しみもなく、痛みもない。というのは、前の物々は過ぎ去ったからだ。そして、御座にすわっているお方が言われた、「見よ、私は万物を新しくする」と。そのお方はこうも言われた、「このことを書き記せ、何故ならこれらのことばは信ずべきことばであり、真理である。」そのお方は私に言われた、「完了した。私はアルファでありオメガ、最初であり最後である。渇く者に、私は命の水の泉から価なしで与えるであろう。勝利する者はこの相続を得るであろう。私は彼の神となり、彼は私の息子となるであろう。しかし、臆病者、無信仰者、忌々しい者、殺人者、性的不道徳者、魔術者、偶像礼拝者、嘘をつく者に関しては、彼らの取り分は、火と硫黄で煮えたぎる池の中にあるだろう。それは第2の死。」

ロマ書に入る前に、この箇所に関するコメントを述べておきます。

後にその銃声が世界中に鳴り響いたとされる戦いが起きた。それは独立戦争の引き金となり、アメリカ合衆国は、植民地支配から独立国家へ移行していった。戦いは8年間続いた。

最初の発砲者に関して、マサチューセッツ州レキシントン市民は、マサチューセッツ州コンコード市民と激しい口論が続いていた。

しかし、最も挑発的な悲劇のひとつが、ボストンで起こった銃撃だった。

それは ボストン大虐殺と呼ばれ、サミュエル・アダムスやジョン・アダムスと志を同じくする人々を憤慨させた。

ボストンという町を超えて、ヴァーモントにいたイーサン・アレン、さらには、パトリック・ヘンリー、ジョージ・ワシントンに加え、多くの有志が終結した。

イギリス軍がボストンの非武装市民に向けて発砲し、冷酷にも彼ら市民を殺害したのがボストン大虐殺だった。

この大虐殺は大きな憤怒を巻き起こしたため、ボストン茶会事件がまるで色あせて見えるほどであった。

この大虐殺において、何人の市民が殺害されたかご存知でしょうか。




#41 終末預言 by T. Tomii

2022年01月23日 | 終末預言 
プレ・ミレでは教会を励ますことができない6(シリーズ最終論考)

◇◇


プレ・ミレでは教会を励ますことができない6ーシリーズ最終論考ー


<S様>
Y先生は、尊敬する牧師の一人ですが、まさか貴方のご実家
に泊まられたとは、世の中は狭いものです。
Y先生のディスペンセーション主義解説書を読みますと、現
代の教会は「主の祈り」を唱える必要はないなど、メジャーか
ら見れば、異端的な匂いがしますが、是非はともかく、これを
機に、ポストミレと比較しつつ、じっくり勉強し直したいと思
います。

<tomi>
O・T・アリスによれば、ディスペンセーション主義によれば、現代のクリスチャンにとって有効なのは、パウロの獄中書簡だけのようです。

ディスペンセーション主義は、時代によって聖書の中に有効な部分と無効な部分があると考えるため、実質的にリベラリズムと同じように聖書の十全性を侵す教えであると言えます。

聖書の一点一画たりとも、それを無効だと宣言する教えが正しいとは絶対に言うことができません。

「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」(マタイ5・18)
「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10・35)

片や無効個所を作りながら、片や「逐語解釈」を行うとは、ディスペンセーション主義は、自己矛盾していることに気づかないのでしょうか。

<S様>
また、プレミレとディスペンセーションに立つとは言え、Y先
生の注解書は、安価で堅実なので、いろいろ問題があること
を説明しつつ、人に勧めています。
正統なディスペンセーションは、退潮気味のようですが、やや
内容を変えつつ、神学者の間に残っているような気がします。
ご指摘のように、主要な神学校では、壊滅的のようですが、何
故か、中欧で根強く残っているようです。

<tomi>
ディスペンセーション主義は、その大元で完全に崩壊していますが、しかし、風下のほうではまだ広く信じられていると感じます。

私が出会うクリスチャン(国籍を問わない)の99%が「終末が近い」「再臨は間近だ」と言います。

風下にまでディスペンセーション主義の崩壊が届くにはまだ時間がかかるかもしれません。

<S様>
T先生の終末待望論は、これでも話半分に読んでいますが、
ロシアが軍事的暴走を起こすとか、(周期を考慮しても)地震
や天災の頻度が上がっているなど、うなづけるところはありま
す。それでも「終わりの日は父だけがご存知」というのですか
ら、恐ろしい話です。
むしろ、T先生は、カリスマ派の奇矯な振る舞いを、聖書や
心理学を持ち出して、批判した功績が大きいと思います。私は
第三の波運動に惹かれていましたが、胡散臭さも感じていまし
た。T先生の本で、聖霊の働きで後ろに引っくり返るのは、
聖書的におかしいとか、海外の第三の波の指導者の著作は、大
袈裟であるという批判で、相対化することができました。
ハル・リンゼイという方は、よく存じないのですが、金と女性
に堕落するとは、情けない話です。リンゼイ兄の上に、リバイ
バルが起こりますように。

<tomi>
ハル・リンゼイは、現在の終末論ブームを作り出した人です。T先生の本は、明らかに彼の『地球最後の日』という本に影響されています。内容がそっくりだからです。
私は、学生時代にハル・リンゼイの本に深く影響され、その影響は就職活動などに大きな影響を与えました。
当時、携挙が1985年頃に起こるのではないかと本当に思っていましたので、就職しても上の空で、「こんな金儲けをやっていても仕方がないのではないか」と半分足を抜いた状態で仕事をしていました。
人生設計というものがまるでできずに、大いに苦しみました。

終末が間近だと信じながら、プロとしてまともな仕事ができるわけがありません。
私はクリスチャンの本当の姿とは、プロジェクトXの人々のように、技術を進歩発展させて、社会の進歩に貢献するプロフェッショナルにあると思っています。
しかし、終末が間近だと信じて、仕事に身を入れることができない中途半端な人間が何かの革新的仕事を行うことは絶対にできないのです。

クリスチャンの使命はあくまでも「地を従え」(創世記1・18)ることにあります。
この使命から引き離す教えは、神以外のものを中心とするカルトであり、異端
であると考えています。

カリスマ派などの現代的運動は、聖書から乖離すればするほど異教的な要素が強くなっています。聖書に帰り、聖書から考えていくことがなければ、知らず知らずのうちにサタンのコントロールのうちにあらぬ方向に引っ張られるということになりかねません。

<S様>
聖書の読み方については、いのちのことば社の復刊で、S先
生の「聖書読解術」などが出るそうで、予約しました。逐語解
釈の他に、様々な解釈方法を指南してくれるそうで、刊行が楽
しみです。

改革派で、バルトの好敵手、コーネリウス・ヴァン・ティルの
本が、いのちのことば社から出るそうですが、どうせなら、ポ
ストミレや再建主義についてのテキストにも、手を広げて欲し
いものです。いのちのことば社は、偏り気味です。

<tomi>
ことば社がヴァン・ティルの本を出すというのは非常に好ましい傾向と言えます。
ことば社はたしか同盟の関係で、プレ・ミレです。
ポスト・ミレや再建主義の本を出せば、日本の教会は現在の停滞を一挙に打破できるでしょう。

<S様>
かと言って、リベラルな大手は、ポストミレや再建主義は、ア
メリカ人の考え出した反動神学という扱いです。
ブース大将がポストミレでしたから、もしかすれば、救世軍に
テキストがないかなと思っていますが、閉鎖的な上に、東北地
方には救世軍小隊が無いので、上京して出版供給部に乗り込む
しか無いようです。

<tomi>
リベラルは今のところ、再建主義のことを正しく理解していません。
彼らの批評は、原書を当って行ったものではなく、誰か間違った意見を持つ人々の批評を丸のみしているに過ぎません。
「反動」なんて言葉がそもそも、ヘーゲル主義的、共産主義的なのです。
リベラリズムは、軽軽しく我々にレッテルを貼りをして一人相撲するのではなく、よく相手の主張を吟味して、再建主義の著書を読みながら、一度自分の思想的な基盤から反省して、その出発点を自己批判すべきです。

批判家の最大の敵は、「相手を理解したくない」という偏った心にあります。
偏見を持ったままで文章を出しつづけると自分の職業的な履歴に致命的な傷がつきます。

 


#40 終末預言 by T. Tomii

2022年01月22日 | 終末預言 
プレ・ミレでは教会を励ますことができない5

◇◇
 

プレ・ミレでは教会を励ますことができない5


コロサイ1・20はきわめて重要な聖句である。

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」

万物はすでに和解された、と断言している。

神と万物が調和したのである。一致したのである。

キリストと教会は結婚関係にある。

これから結婚する、というのではなく、すでに「結婚している」のである。

教会(エクレシア)とは、単に教会の建物や教会制度を意味するのではなく、神の御国を表す。神の御国とは、再生された被造世界全体である。

「church と訳されている新約聖書の言葉は ecclesia であり、これは、むしろ「神の御国」を指しています。ecclesia は、本質において、契約の民を表す旧約聖書の言葉 edhah (つまり「会衆」)及び qahal (つまり「集会」)と等しいのです。ecclesia と同様に、edhah や qahal は、契約の民全体、政治秩序、宗教秩序、軍隊等を意味します。新約聖書の church は、礼拝、政治秩序、福祉、教育等、あらゆる側面における神の御国を指しているのです。」(R・J・ラッシュドゥーニー:http://www.path.ne.jp/~millnm/postml.html)

キリストが十字架について万物を神と和解させてくださったときから、全世界は神の御国であり、キリストの花嫁になった。

もう一度言おう。

全世界、全被造物は、キリストと結婚したのである。

しかし、キリストの時代のユダヤの結婚制度と同じように、結婚したことが即同居を意味したわけではなかった。

結婚後一定の別居期間があった。

この期間は、「法的には」結婚関係が成立して「いた」が、「実際的には」成立して「いなかった」のである。

私は、現在の世界を説明する上で、この結婚関係がよい象徴になると考える。

つまり、今の世界は、法的にはキリストの花嫁だが、実際的にはそうではない。

世界には、クリスチャンは多くはなく、キリスト教の勢力は限定的である。

今の世界は、「実際的な結婚関係に向かう途上」なのである。

将来、世界は文字通り「キリストと同居し、実際的な花嫁になる」だろう。

我々は、「花嫁としての教会」を「制度的、宗教的、地方的教会」に限定してしまう傾向がある。

しかし、エクレシアは、「神の国」であり、被造世界全体を表す。

ということは、被造世界全体が、将来、実際的キリストの花嫁になることになる。

つまり、被造世界全体が、キリストの花嫁としてふさわしいい状態になり、キリストを崇め、聖書を生活全般の基準として受け入れるようになる。

クリスチャンの伝道活動を通じて、世界は徐々に「キリストの花嫁」になるべく変わりつつある。

プレ・ミレは、これが起こるのは、再臨後の千年王国時代になってからだという。

しかし、我々は、全世界はすでにキリストの法的花嫁であり、歴史を通じて徐々に実際的花嫁になりつつある、と述べる。

この考えこそ、クリスチャンに伝道の意欲をかきたて、世界の変革への励ましを与える唯一の思想である。


注)最後の文章;唯一の思想、と書いてあるが、思想ではなく「真理」と宣言するのが適切。

コロサイ1:20
and through him to reconcile the all things to himself—having made peace through the blood of his cross—
through him, whether the things upon the earth, whether the things in the heavens.
(YLT)
ご自身を通して、ご自身の中へと万物を和解させるために、
ご自身を通して、ご自身の十字架の血潮を通して、
平和を生み出した(ので今も平和が保たれている)
地にある物々であれ、天にある物々であれ


イエス自らによる十字架の血潮を通して平和を生み出したが故に
今や万物は神と和解した状態にある。









#39 終末預言 by T. Tomii

2022年01月20日 | 終末預言 
プレ・ミレでは教会を励ますことができない4

◇◇
 

プレ・ミレでは教会を励ますことができない4


>  T先生,皆さん,お久しぶりです。プレミレのご論考,興味深く拝読していま
> す。
>  実は,NSの直弟子(もう80近い?)の牧師と信仰があります。言ってみれ
> ば,プレミレの親玉です。昼食(お互いに軽くワインを飲む)の折,牧師は,「終末
> も再臨も大事だ。でも,終末終末! 再臨再臨!と浮き足だって何か良いことある
> の?」とおっしゃっていました。
>  その牧師は,実は,事業家を兼任していて非常に商才に長けており,「その辺に
> ミッションスクールが出来るらしい」という情報をいち早くキャッチし(大学と提携
> している訳じゃない),農地を買いあさった上で,学生用アパートを建て,儲けてい
> ます。大学・学生からも,貧乏農家からも感謝され,しかも儲けるというので,クリ
> スチャン実業家としては見上げたものです。
>  「先生(私のこと)! 株に投資するよりも私に投資しなさいよ」とおっしゃって
> いました。
>  実際のところ,自称「プレミレ」の人も本当のところは(生活感・人生論レベル)
> ではかなり違う思想・神学を持った人が多いように思えます。それが酒の席でぽろっ
> とでたのでしょう(笑)。

まさに、実業家ほどプレ・ミレでは駄目だということを悟っている好例ですね。
ある実業家から、「プレ・ミレよりも、tomiさんの考え方のほうが会社の社長なんかは好むだろうね」と言われたのを思い出します。
終末や再臨が切迫していることを強調しても、何が良いことがあるのでしょうか。
それで会社の業績が上がりますか?
「終わりが近い」ということによって、人々は無作為になる。

「この株は近々大暴落します」と言って、株を売りつける証券マンはいません。

切迫再臨論は、有害無益のカルト教です。

>  統一協会関係の訴訟で,お世話になっている牧師(カルバン派系の福音派)と話し
> たこともあります。神学的雑談が出来る弁護士はその辺にはいないので,結構深い裏
> 話もしてくれたのですが「先生(私)。だからね,ア・ミレがちょうど良いのよ」と
> 言っていました。教会には「レフトビハインド」宣伝ポスターが貼ってあり,「先生
> の教会,こんなの推奨しているのですか?」と聞いたら,「いやさー,いのちのこと
> ば社とかライフセンターとのつきあいがあって」と弁解していました。

ア・ミレは、別名「地上的期待を奪われたプレ・ミレ」と言います。

なぜならば、ア・ミレは、「この地上においてクリスチャンは王ではなく、それゆえ、クリスチャンが勝利する保証はない」と唱えるのですから。

プレ・ミレの場合、同じことを唱えますが、最後に「しかし、千年王国時代が始まれば、クリスチャンは王となれる」と付け加えるので、地上における勝利という意味では、ア・ミレほどひどくはないのです。

ア・ミレは、最悪の悲観主義的終末論なのです。

それを勧めるなんてのは、終末論の内容がまるでわかっていないからでしょう。

注)この国の世俗教会はどうしようもないほどレベルが低い。

まあ、この手の議論に対して、人々はあまり関心がないということなのかもしれませんね。

再建主義に関して、ポスト・ミレだけは、非常に抵抗が強くなかなか浸透しません。

そんなに早く終末が来て欲しいのでしょうか?

私は、クリスチャンが、どんどんと金儲けをして、クリスチャンの団体や宣教師や牧師に金が渡るようになり、もっともっとこの世界がよくなればよいと考えています。

クリスチャンは王であり、王権をすでに与えられているのですから、実際に、王らしくなる必要があります。

つまり、この地上で最も裕福で、豊かで、力を持つべきと考えています。

>  年に1回統一協会関係の合宿をやるのですが,3-4人の牧師と温泉につかってい
> たところ議論になり,「先生方の考え方は,ヒューマニズムじゃないですか?」と批
> 判しました。私自身,かなり保守的なルター派なので,その辺の「福音派牧師(同盟
> 教団)」より,ずっと保守的なわけで,「先生がちゃんと提言して女性牧師の道を開
> いてくださいよ」などと言われました。
>  ブログで「キリスト業界」の話をしているのですが,ある程度うち解けた関係にな
> ると,結構,すごい話が聞けます。
>
> http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/

女性牧師を認めるならば、聖書からはっきりと女性が牧師になることを承認できるだけの根拠を提示できなければなりません。

女性解放なるヒューマニズム的運動の尻馬にのってクリスチャンも同じことをするならば、彼らと同じサタンの罠にはまります。

男性と女性は、キリストと教会、つまり、保護者と被保護者、権威と権威下の者の関係を象徴しています。

男性はキリストの権威を表すべく、礼拝において被り物をかぶってはならず、女性も、短髪の場合は被り物をかぶるべきです。長髪は、神が女性に与えられた「保護を受ける権利」を表すしるしです。

これは、性別によって、人間としての価値に差をつける男女差別主義ではありません。

人間として男女に価値の差はありません。

しかし、人間は単独で生きているわけではなく、社会の中において生きているわけですから、神が立てられた権威の差があります。

この権威の差を守らないと、どの社会でも混乱し、収拾がつかなくなります。

たとえば、社長の命と、社員の命は神の御前において、本質的に価値の差はありません。

しかし、会社の中において、社長は命令を出し、社員はその命令に従うことによって、会社がうまく機能し、統一的な行動を取ることができます。

聖書では教会において、女性が男性を教えることに対して禁止命令があります。

聖書が設定した権威の差について、もし聖書が違うことを教えているということが事実であるならば、反対論者は根拠を示し、意見を述べるべきだと考えます。

注)ちゃんと聖書に則った議論をしましょうということ。聖書に則っていない議論など意味がない。




#38 終末預言 by T. Tomii

2022年01月19日 | 終末預言 
プレ・ミレでは教会を励ますことができない3

◇◇


プレ・ミレでは教会を励ますことができない3


> プレミレとディスペンセーション主義が理論化されたのは、最
> 近のことだと聞いていますが、大勢の学者の手で理論が構築さ
> れ、その殆どが熱心な方、悪く言えばセクト的な方なので、著
> 作のパワーに圧倒されて、信じざるを得ませんでした。

ディスペンセーション主義は、非常に影響力がありますが、残念ながら、批判に対抗する力がありません。

これは、学説としては致命的であり、批判に対してはきちんと対抗しなければ学説としての価値をほとんど失います。

O山さんや、その他のプレ・ミレ論者と様々な場で議論しましたが、まともに答えていただけませんでした。このような逃走姿勢は、20世紀はじめにO・T・アリスに対するディスペンセーショナリストの無回答から伝統的にある姿勢で、それゆえに、ディスペンセーション主義は、アカデミズムでは現在大きな退潮を経験しつつあります。

ディスペンセーション主義の総本山である3大神学校(ダラス、グレース、タルボット)のうち2つが完全に伝統的なディスペンセーション主義を捨てました。また、最後に残ったダラス神学校も、ディスペンセーション主義の主要な学者2人チャールズ・ライリーと、ウェイン・H・ハウスが学校をやめました。


> ディスペンセーション主義の代表格である、Mキリスト教
> 会のY岸登先生などは、福音派からでさえ、過激派とみなされ
> ているようで、だいぶこき下ろされています。ですが、先生の
> 書いた、ディスペンセーション主義は確固とした理論で、プレ
> ミレは当然の帰結であるという、自信にあふれた理論書や注解
> 書を読むと、確かにプレミレが正しいなあと思うので不思議で
> す。

Y岸先生は、私の実家に泊まられたこともあって、よく存じております。
先生は、大変伝道に熱心で優れた先生と思います。

ただ、先生のディスペンセーション主義については、問題が多く、下記で批判しておりますので、ご一読をされることをお勧めいたします。

http://www.millnm.net/qanda/dispenr.htm
http://www.millnm.net/qanda/DISPRO.htm

> また、故人ですが、T木K太先生の本も、聖書の終末に関する
> 予言と、現在の状況を対比して、いかに終末に近づいているか
> を説いており、確かにその通りだなあと思います。問題は、終
> 末が近い、だから、どうすべきだ、という回答を出さずに、著
> 作が未完に終わってしまったことです。

T木先生の本は、学生時代に読みました。
お言葉ですが、残念ながら、その世界情勢予言のほとんどが外れてしまいました。
当時のプレ・ミレの予言本では、ソ連が石油輸出国から輸入国に転換する1985年あたりにイスラエルに攻めこみ、携挙がその前に起こる可能性を示唆していましたが、外れました。
ソ連の同盟国になるといわれたエゼキエル書の国々(イラン、リビア、エチオピア、東欧諸国、etc)も、ソ連崩壊とともにばらばらになりました。
10カ国同盟になるはずのEU諸国の数はそれをはるかに越えてしまいました。
そこから反キリストが出るといわれていましたが、候補者として挙げられていたミッテランもクライスキーも死んでしまいました。
ハル・リンゼイは1989年までに携挙が起こると半ば断言していましたが、見事に外れました(彼は本の印税で、現在、3番目の奥さんと裕福に暮らしています。

プレ・ミレは、1830年代(日本では江戸時代)から「終わりが近い」と繰り返してきましたが、みな外れてきました。

http://www.brain-jack.com/u_mail/u_20041129.html

1970年から80年代にかけて出版された終末予言本を信じて、人生の選択とキリスト教に対する見解が大きく狂った人々を前にして一度著者である牧師たち(=「奥義の管理人」(1コリント4・1))は公的に謝罪すべき(←謝罪だけで済む話だろうか??)と思います。

そうでなければ、過ちが繰り返され、惑わされる人々が増大し、ノンクリスチャンの前に躓きの石を置くことになるからです。

> プレミレとディスペンセーション主義は、説得力といいますか、
> 押しの強さはあるのですが、じゃあどうすれば良いのかという、
> 回避の方法を示さない点で、どこか問題があると結論づけざる
> を得ません。

プレ・ミレの理論を徹底すれば、「諦めろ」ということになります。

「これから大患難時代がやってくる。反キリストは全世界を統一し、クリスチャンとユダヤ人を迫害する。我々が現在築き上げるキリスト教的文化もすべて破壊される。これは、聖書に書かれている予言であり、神の定めなのだから回避は不可能だ。」

と実質的に言っているのですから。

これは、福音ではありません。
人々の気持ちを暗くし、文化的発展への参画という創世記1・18の使命とまっこうから矛盾します。

> では、ポストミレが正しいと結論づけるには、私はまだまだ勉
> 強が足りません。

残念ながら、日本において文献が圧倒的に不足しています。
ですから、私はプレ・ミレのクリスチャンを批判したり、見下すことはしません。
代替物がないので選択のしようがないのですから。

> プレミレとディスペンセーション主義の弱点は、無誤無謬説と
> 逐語解釈に拘束されることです。おかげで、救いの無い終末論
> が生まれてしまいました。しかし、聖書を象徴論的に解釈しす
> ぎると、聖書は道徳書に過ぎないという、リベラルに陥ってし
> まいます。この辺のサジ加減をどうするかが難しく、私はまだ
> まだ修業が足りないようです。

「逐語解釈」は無理があります。
聖書は、象徴表現が多用されており、それを逐語的に解釈することは絶対にできません。
リベラルの象徴論的解釈は、「象徴論」というよりも、「寓話的」解釈であり、そもそも聖書を霊感を受けた無誤無謬の神の言葉と扱いません。

私たちが提示しているのは、「聖書は聖書によって解釈する」という歴史的正統的な解釈原則です。
聖書を、最高権威として扱い、ある個所の解釈を他の聖書個所に基づいて解釈するという方法です。
聖書以上の権威がこの世界には存在しないのですから、これ以外に正しい方法はないと言えます。


象徴表現として解釈するか、それとも、文字通り解釈するかは、個別に見ていくしかないと思います。その個所を逐語的に解釈した場合、他の聖書の教えや個所と著しく矛盾する場合に、それを象徴的に解釈すべきだということになるでしょう。

(注)このようなことをトコトン追及するのはクリスチャンとしての責務、当たり前のことではないか。

たとえば、すでに述べたように、エゼキエルの第3神殿を文字通りの神殿と解釈した場合に、すでに聖書が「神殿とはイエス(及びクリスチャン)の体のことである」と述べた個所と矛盾します。

また今後新しい神殿を作った場合、至聖所と聖所の間に垂れ幕をつけるのでしょうか。

もし付けたならば、イエスが死なれたときに、この幕が真っ二つに裂けたことを無効にすることにならないでしょうか。(これは、イエスの贖いによって、人間が罪を拭い去られ、自由に神の臨在の中に入ることができることを象徴しています。)

さらに、エゼキエル書では、「動物による贖いの儀式が復活する」と記されていますが、本当に動物犠牲を捧げるのでしょうか?

そうしたら、パウロが「イエスの十字架の犠牲は、一度限りの犠牲であり、さらなる犠牲は不要である」と述べたことと矛盾しないでしょうか。

また神殿から流れ出る川が紅海に注ぐという預言は、地形上ありえません(一度死海に注がれた水がこんどは400mの高低差の上り坂をのぼり始めるということになる)。


> エゼキエル書は象徴的に解釈すべきという、貴方の見解に従い、
> もう一度、旧約の預言書を、様々な角度から読み返してみたい
> と思います。もっとも、旧約後段の預言書には、あまり興味が
> なかったもので、あまり読み込まずに、プレミレの先生による
> 注解書を鵜呑みにしていました。反省しないといけません。
>
> ヨハネの黙示録も、ディスペンセーション主義者が、終末の根
> 拠とする文献ですが、東方教会では、これは聖典に値しないと
> して、排除したことがあったそうです。福音派の金科玉条であ
> る、聖書66巻の規定も、歴史的には絶対的では無かったとすれ
> ば、プレミレも根底から見直されるかも知れません。

黙示録は使徒的文書として正典の中に入っていると思います。
黙示録が正典らしく扱われなかったとすれば、その難解さにあったと思います。

エゼキエル書をはじめ、黙示録も、そのほとんどは、紀元70年のイスラエルの旧い体制の崩壊に関する預言であり、その前提で読めば非常に明解になります。

黙示録の破局を我々よりも未来のこととして解釈することによって、幾多の矛盾が生じます。

たとえば、13章の「獣」が、我々よりも未来の人物であるならば、どうしてアジアに住む7つの教会の人々にヨハネは「読者よ、悟れ!」と言ったのだろうか。

この獣がヒトラーだとかロスチャイルド、ミッテラン、毛沢東…であるならば、黙示録という手紙の読者であるクリスチャンたちがどうして悟ることができるでしょう?

この獣は、ローマ皇帝ネロとしか解釈できません。

http://www.path.ne.jp/~millnm/no42.html




#37 終末預言 by T. Tomii

2022年01月18日 | 終末預言 
プレ・ミレでは教会を励ますことができない2

◇◇

レフトビハインドに関連して、以下の記事をアップした。

#28 終末預言 by T. Tomii

要点:
マタイ24・40は、携挙の証拠として誤って引用されることがよくある。携挙論者たちは、40節の”取られる人々”を、携挙される義人とみなしている。プレテリズムに立つ著者チャールズ・ミークは、この節は携挙を指しているようには見えないと指摘している。というのも、この節の文脈では、40節で”取られる人々”は悪人であって、義人ではないからである。39節と57節のノアの洪水で取り去られたのは悪人であった。

*上げられるのは義人ではなく悪人。

この考え方を受け入れると、以下の記事は矛盾なく理解可能となる。義人は地上に残り、神の御心にそって考え、改革し、発展させる、人命を預かる職業についているクリスチャンは地上においてしっかりとその職務を果たす、などなど。

いい加減で、怪しげな教えに不用意に飛びついてはいけない。まずは徹底的に吟味せよ。

万人(ノンクリスチャンと心を頑なにされた人々を除く)に受け入れられる教理というのは極めて合理的であり、しかも分かりやすい。

◇◇


プレ・ミレでは教会を励ますことができない2

<S様>
アメリカで話題の「レフトビハインド」や、日本の代表的な新
神学者(例えば聖霊派の奥山先生など)が、こぞってプレミレ
を支持しているので、プレミレが正しいと考えてきましたが、
どうも考えを改めるべきようです。

「レフトビハインド」は、ヨブ記のように、人類の訓練のため
に、主が人類を艱難に晒すという世界観のようですが、それな
らまだ納得がいきます。しかし、聖書に反して、人間が終末の
日時を特定しようとし、そこまで冒涜的ではなくとも、終末は
免れないという退廃的な空気が流れれば、ご指摘の通り、キリ
スト教はカルト信仰になってしまうと思います。

<tomi>
同感です。

カルトの特徴の一つは、実社会からの遊離にあります。

聖書は、クリスチャンに「実社会から遊離しなさい。」とか「世は汚れているので、救いようがない。あきらめなさい。」とか言っていません。

むしろ、「地の塩、世の光」となって、人々を指導し、堕落を防ぎなさい、といわれています。

また、アダムが創造されたそもそもの目的は、「地を従えよ」ですので、地上のことを神の御心にそって考え、改革し、発展させる使命があります。

<S様>
プレミレのおかしさを決定的に感じさせたのが、「レフトビハ
インド」の、人々が消えていく描写で、もし大きな原発に勤務
している人が、みな誠実なクリスチャンだったら、七年も待た
ずに、人類滅亡です。笑い話みたいですが、プレミレを厳密に
考えれば、こんな可能性もある訳です。原燃の街のそばに住ん
でいますので、そんなことを考えました。

<tomi>
恐ろしいことですね。

タクシーやバスの運転手や旅客機のパイロットであるクリスチャンも同じと思います。

突然携挙があって、彼らが天に召されたらどうなるでしょうか。

残された旅客は、たまったものではありません。

これで証になるでしょうか。

レフトビハインドされたノンクリスチャンは、「あいつらのせいで、旅客機は墜落するわ、バスは暴走するわ、今とんでもないことになっている。あんな無責任な奴らの信じている教えなんてろくなもんじゃない。」と言うでしょう。

もしプレ・ミレを真剣に信じているならば、それらの人命を預かる職業についているクリスチャンはただちに退職すべきだということになるでしょう。

<S様>
主、特にイエス・キリストは、そんな教会や世界の行く末を、
望んではおられないでしょう。少なくとも、携挙の教理は、何
かおかしいです。

ただ、ダニエル書とエゼキエル書に、神の予知に基づくと思わ
れる、終末の描写がなされていますが、これが免れない未来を
指すとすれば、結局はプレミレと変わらないのでは?という疑
問も残ります。

<tomi>
プレ・ミレは、エゼキエルの第3神殿がこれからエルサレムの岩のドームのあたりに実際に建設されると信じています。

しかし、この預言の細部を見れば、これがありえないことであることが分かります。

神殿の敷居の下から東のほうに流れ出た水は、大きな、渡ることができないほどの川となり、「アラバに下り、海に入る」ので、「エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所になる」(エゼキエル47・8-10)と記されていますが、

「アラバ」とは、死海から紅海に至る砂漠地帯で、「エン・ゲディ」は死海の西側半ばにあり、「エン・エグライム」は紅海の北端の港です。

死海は、海面下400メートルのところにあり、エン・ゲディは死海から60メートル程上のところにありますので、エン・ゲディからエン・エグライムまで川ができるには、川の水は340m以上の落差のある勾配を上らねばならない、ということになります。

この神殿の細部の描写の非現実性はこの神殿そのものが象徴であるということを示しています。

もはや、石でできた神殿は再建されません。

イエス・キリストご自身が神殿であり、また、イエス・キリストにつながるクリスチャンの体が神殿です(http://www.millnm.net/qanda2/PylcmpB37128.htm)。

このエゼキエルの神殿は、イエス・キリストとクリスチャンの体を象徴しており、神殿から流れる川は、聖霊が全世界を満たすことを象徴しているのです。





#36 終末預言 by T. Tomii

2022年01月17日 | 終末預言 
プレ・ミレでは教会を励ますことができない

◇◇

このシリーズだが、なかなか面白いことが書いてある。

第6話まである。

◇◇

プレ・ミレでは教会を励ますことができない


> ミレニアムウェブページを読み、後期千年王国主義も、捨て難
> い思想であると感じ入りました。
> 私は、単立教会でプレミレニアムを説く、山岸登先生の聖書解
> 釈を受け、プレミレニアムを信条としてきました。
> しかし、救世軍のブース初代大将が、ポストミレニアムを信条
> としたからこそ、救世軍主義による社会改革、典礼改革を断行
> し、神に千年王国を引き継ごうとしたと知り、プレミレニアム
> は実は聖書解釈を誤っているのではないか?と思うようになり
> ました。
> そして、ミレニアムのページのFAQを読み、ますます疑問が
> 湧いてきました。

私は最初プレ・ミレを信じていました。
しかし、プレ・ミレを信じると、どうしても運命論者のようになり、社会の堕落や崩壊を「終末の出来事」として受け入れる以外になくなり、教会に閉じこもって再臨を待つだけのカルト的心情」に陥る以外にないと悟ったのです。

注)この国の世俗教会が、うんざりするほどの退廃ムードを漂わせている原因はこれではないか。

これは、「地の塩、世の光」としてのイエスの教えたクリスチャン像とは異なっているのではないか。また、イエスが教えられた「天で行われるように御心が地上でも行われるように」との祈りとも矛盾するのではないか。さらに、「すべての国民を弟子とせよ」との大宣教命令とも矛盾するのではないか。

そのように感じ、考えを変えました。

この変化は、個人的な信仰をも変えました。

それまでは「時流に逆らうことはできない」という諦めの気持ちが大きかったのですが、ポスト・ミレを信じてから、「今は千年王国であり、我々はイエスとともに王である」と信じることができ、我々の活動が世界を変える力を持つことを確信できるようになったので、世の中の常識に合わせることをやめて聖書の教えに基づいて大胆に行動することができるようになりました。

プレ・ミレを信じているときには、「自分は少数派だ」という意識が強く、個人的な生活における勝利も確信できなかったので、人の目を恐れていました。しかし、今は、聖書が基準であり、聖書の基準に沿って行動していれば、必ず神が助けてくださるとの確信のもとに、心を常に安定状態に保つことができるようになりました。

プレ・ミレは、「ポスト・ミレは非現実的です。世界の現実を見てください。どうしてこれがキリストの王国なのでしょうか。」と言います。

しかし、イエスははっきりと「私はすでに世を征服した」と宣言しておられる。そして、聖書は「キリストは天に上られ、神の右の座につかれた」と王権宣言をしている。

たしかにプレ・ミレの人々も「我々は王である」「キリストは王である」と言います。しかし、プレ・ミレは、「王国は再臨の先にある。今、これからサタンは世界を制覇し、大患難時代が来る」と述べ、未来におけるサタンの勝利を前提としているので、首尾一貫性に乏しく、それゆえ、脆弱な立場であると思います。

注)これを一言で表現すると「やせ我慢」と表すことができる。

「これから、我々は大患難においてサタンの勢力に負けるが、再臨によって逆転勝利できる」と言われても力はでません。

本当に我々を励ます教えとは「これからの未来において、我々はサタンに勝利する。」と大胆に一点の疑いもなく宣言するものでなければなりません。

科学特捜隊の隊長は、メンバーにむかって「ウルトラマンが来るまでは、我々は必ず怪獣に負ける。どんなに努力しても無駄だ。しかし、がんばって戦おう」と言ったでしょうか。

「隊長、そんな励ましでは、やる気でませんよ。」と隊員から言われてしまいます。

ウルトラマンでは、科学特捜隊が勝ったのは私の記憶では1度しかなかったですが、彼らは勝てるという信念を前提として戦ったはずです。そうじゃなきゃ、あの組織の存在意味がありません。

プレ・ミレは、実質的に、サタンの勝利を前提としているがゆえに教会を励ますことはできません。

> 主イエスの預言により、戦争、飢饉、エルサレムの壊滅は不可
> 避ですが、ダビデ時代のイスラエルや、ニネベの町ように、主
> が情けをかけ、災いを中途で思い留まって下さる可能性は残っ
> ています。

お言葉ですが、プレ・ミレは、マタイ24章などを終末予言としてとらえていますが、ポスト・ミレはそのようにはとらえません。

あれは、紀元70年のイスラエルの神殿崩壊に関するものであり、世界の終末予言ではないと考えます。

詳しくは、以下を参照してください。

http://www.path.ne.jp/~millnm/no21.html
http://www.path.ne.jp/~millnm/no22.html
http://www.millnm.net/qanda3/11hra4Uy4ncxU60331.htm
http://www.millnm.net/qanda3/88DZAG9qrJpqE60532.htm
http://www.millnm.net/qanda3/551ruIEHDDRjc60652.htm

> プレミレニアムでは、時流に流されるだけですが、
> ポストミレニアムなら、主に誠意を示すことができます。

まったくそのとおりと思います。

> しかし、ポストミレニアムの概念は、二重予定説や奴隷意志論
> との整合性がどうなるか、私には分かりません。

ポスト・ミレは、クリスチャンの善行によって世界が次第に弟子化し、最後に万物が原初の秩序(神中心の世界)に回復し、その後にキリストは再臨すると考えます。

そして、これは、すでに神が永遠の昔に予定されたことです。

誰が救われて、その働きに参加し、誰が救われず、その働きを妨害するかは、永遠の昔に神が決定されたことです。

神にとって歴史とは、すでに撮影済みの映画のフィルムを上映しているようなものです。

すでにストーリーは決定して、撮影も終わって、起こることもすべて決まっています。

我々が「現在起こっていること」として目の前で見ている事柄は、すべて永遠の昔に神が決定していることであり、映写フィルムから銀幕に映し出されていることなのです。

映画館の観客が、映画の結末が変わるかどうか心配しないのと同じように、我々もキリストの勝利を心配する必要はありません。

> いずれにせよ、日本語による、ポストミレニアムについての文
> 献を読んで、少し学んでみたいのですが、聖恵授産所の本は品
> 切れでした。ウェブサイトで紹介の邦訳文献、頒布はしていら
> っしゃらないでしょうか?

以下の書物をご紹介します。

福音の勝利 ― 聖書的終末論への導入. 著者:ラルフ・A・スミス. 訳者:福音総合研究所出版部. 発行:福音総合研究所. 〒180-0006 東京都武蔵野市中町 1-28-1 丸和ビル. info@berith.com. 定価:1100円.