みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#6 生活指針 The Bible & Politics, NO.6

2024年03月20日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

20分8秒から最後まで。

◇◇

勝手にまとめます。

師の結論:
1.治安などの理由から、国家は無い(無政府状態)よりはまし。
2.国家も教会も共に神の支配下にある。
3.国家と教会は敵対関係にあるのではない。
4.国家は必要悪。
5.神のことばを否定する行為を強要された場合、それに従ってはならない。

◇◇


政府ということばの最も単純な定義をお話ししましょう。

社会的なものであれ、共同体的なものであれ、あるいは少数独裁的なものであれ、富裕層によるものであれ、民主的であれ、君主的であれ、何であれ存在する政府とは、すなわち権力であります。

政府(統治機構)とは権力である。

悪を抑制するための権力として、神の下に政府は存在する。

どんな目的のためにそれは存在するのか。

最低基準として、競争を生き残るためであり、保全・維持のためであり、また人間の生活と繁栄のために存在する。

神は、政府に権威を与え、権威を支えるための権力を与える。

それ故、政府は法を持つだけでなく、法を執行するための機関を有する。

数年前に、ある上院議員と話す機会がありました。

ランチを食べながら、私に次のようなことを言いました。

「市民に何かを強制してやらせるような権利を持つ政府なんて存在しないと思う。」

「それは気高い意見ですね、先生。あなたの言っていることは、統治する権利を有する政府は存在しないということですよ」と、私は返した。

「もしも政府に強制執行権がないとすれば、政府はどう対処すればよいのでしょうか。あなたの言っていることは、執行できない法を持っているという意味です。」

「武力は旧約聖書で確立されていますし、ローマ書13章にもくり返し書かれています。3節からお読みします。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」 

つまり、パウロは、神が行政長官に武力を与えていると言っているのです。

神は教会に武力を付与してはいない。

ゲッセマネの園において、イエスはペテロと彼の仲間から剣を取り上げました。

教会は政治的強制力を持っていませんが、国家は持っています。

剣の機能や計画、目的は、善良な市民を守るため、悪人を抑止するためにあります。

善人を抑圧し、悪人を守るために、政府は剣を使ううことはあり得るでしょうか。

ありえます。

もちろん、そのような政府は堕落しており、悪魔的で、神の民の預言的批判に耳を貸すべきです。

政府が邪悪であるということは、それを確立し、定め、第1位に任命した神の上に影を落とすことになります。

オ-ガスティンの「私たちクリスチャンはどのような態度であるべきか」という本質を捉えた手短なコメントを紹介しましょう。

オーガスティンはこう述べています。

「政府とは必要悪である。すべての政府が悪ではないが、悪である必要があるという事実によって政府は悪なのだ。」

たとえ、政府が抑圧的で、搾取的、堕落しているとしても、最も悪い政府でも・・よりはましだ。

何よりまし、か。

無政府よりはまし。

絶対的自由を保証する無政府症候群は、力や堕落を振り回す不義なる人々にも絶対的自由を与えるため、善良な人や弱者に対する保護は期待できない。

完全なる無政府状態とは、望みのないジャングルの中にいるようなもの。

この世の政府の背後におられる神は、ご自身の目的と栄光のために、それらを利用しておられる。

原則として、悪の力を抑圧する道具として、世の政府を利用している。

その政府が如何に善(の言い間違いか)であろうとも、事態はさらに悪くなることもあるだろう。

神がすべての人間の抑圧を取り除くなら、生命は存続不可能。

それ故、神が政府を設けた時、可能な時は何時でも、私たちが義に服するように剣を与えたのです。

ひとつの最終地点。

クリスチャンが政府に奉仕するように召し出されているとすれば、どうでしょうか。

それは軍隊や州議事堂などを含みます。

もしも、神がするように命じている仕事を政府がしているとするならば、クリスチャンは参与してはいけないのかという疑問を持ちます。

とすれば、教会は神と関係を持ち、国家は神との関係を持たないという考え方を受け入れることはできません。

重要な点は、歴史的に、この国において、教会と国家はそれぞれ独立しているが、両者は神の下にあるという考え方を私たちは持っています。

教会には教会の役割があり、国家には国家として果たすべき役割があります。

神が要求する役割を国家が果たす時、神に従属する私たちもそれに抵抗してはいけないし、むしろ参加すべきだと思います。

現代において起こっていることは、教会と国家の独立という考え方が、多くの人たちにとって、国家と神の独立を意味するようになってしまっている、内在する権威に基いて、国家が自動的に支配しているかの如くになっていることです。

クリスチャンはそれを受け入れてはなりません。

私たちは、神に対して責任のある、神によって立てられたものとして、国家を見る必要があります。

神に仕える、神の民のための法的乗り物として、国家を捉えるべきです。

休暇中、政府の同胞として世に仕える機会があっても、キリストに敵対するのではない。

私たちクリスチャンと政府との関係とは、義を訴える証人として召し出されている競技場のようなものであり、またキリストご自身が証しされる場としての政府となるべきではないかと思います。

教会を国家の中へと組み入れるのではなく、クリスチャンを国家の中へと組み入れるのです。

何故なら、神は教会と国家の上におられるが、クリスチャンは教会と国家の中で生きています。

そして、クリスチャンは教会に対して一種の責務を負っている一方、権力を有する国家に対してもある種の責務を負っています。