私たち衆生は知(識)らないでいる間に眠ります。
眠っている間は一体誰が、自分は眠っているということを
知(識)っているでしょうか。
おそらく、「私は眠っている」 ということを自覚して眠っている人は
一人もいないはずです。
それと同じように、目を覚ましても、覚ましたということは
つかみようがありません。
ただ、「此の物」 を認めて、「私は目を覚ましました」 と言っているだけです。
それでは誰が 「此の物」 を認めて、「私」 と呼んでいるのでしょうか。
考えたことがありますか?
「考える、考えない」 にかかわらず、「私自身が私自身のことをしている」 のです。
ですから、本当は 「考えるということが出来ないはず」 なのです。
「自分自身を差し挟んではいけない」 とは、そういうことを言っているのです。
自分自身を介在させるから、ものが比較して見えたり、分からなくなるのです。
「道」 の修行とは、自己の介在を離れる修行をすることなのです。