活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

全異全同3

2017-09-26 00:00:00 | 仏教

般若心経の「色即是空」とは「色」に惑う人の為に設けた

「応病薬」なのです。

 

「空即是色」は「空」に惑う人の為の一時の設けです。

本来は、「空即空」です。「色即色」です。

 

男性これ男性、この男性は、かの男性ではありません。

女性これ女性、この女性は、かの女性ではありません。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

全異全同2

2017-09-25 00:00:00 | 仏教

いくら遠ざかっていても同じものなのです。

それほど親しいものはありません。

 

離れていながら一つ物なのです。

「元来一つ物」なのです。

 

「波」は変われども、「水」は一つなのです。

「全異波全同水」なのです。

 

「同」に偏してはいけないし、「異」に堕してもいけないのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

全異全同1

2017-09-24 00:00:00 | 仏教

世間法すべて「名(な)」です。

「物物元来同一性(もつもつがんらい どういつしょう)」です。

 

「四大(地・水・火・風)」は古今に通じています。


同じものから「縁」に触れて千差万別があるのです。

言い換えると、千差万別のままで同じものなのです。


これを「全異全同」といっています。

 

男性は男性、女性は女性、天は天、地は地と別々にいて

そのままで一つ物なのです。

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

身心脱落・脱落身心

2017-09-23 00:00:00 | 法理

「此の物(自分自身)」は、今の私たち衆生の考えている、

思っている「体」といい、「精神生活」というものから外れている

のです。

 

ですから、「此の物(自分自身)」を無くする事ではありません。

 

現在の皆自分を問題にしているものから、かけ離れた生活があると、

この様にあるのです。

 

「知(識)らないうち」にひとつに成れ、次のことが、それを

捨てなくてもきれいに入って来るのです。

 

何故なのでしょうか。

 

それは、始めから身心を脱落・脱落身心しているからです。

 

そういうことは、やはり自分を捨ててみないとはっきりしない

のです。

 

「新三法印(実相無相・不知不識生・本来成仏)」を体得

しなければならないのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

修養について4

2017-09-22 00:00:00 | 法理

言葉の約束の範囲では、「こういい得ます」と言えるのですが、

「これが真実であるかないか」といったら問題があると思います。

 

ですから、多くの哲学者は最終的に「宗教」に飛び込むか、

混乱して終わるかのどちらかなのです。

 

哲学者のような真剣で真面目な人達ですら、最終的にどうしようも

ないのです。

 

「これが本当なんだ」と自分で確信が持てる人に成って頂きたい

と思います。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

修養について3

2017-09-21 00:00:00 | 法理

人間的にどんなに最高だと思って事が運んだとしても、

最終的には、「真実とは何か」「本当の自分とは何か」という

ことが問題になるのです。

 

哲学者が、理論を立てて自分の理論通りの結論が出せたとしても

それで満足でしょうか。

 

ある数学者は、「フェルマーの最終定理」を証明しても満足

出来なかったという「事実」があります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

修養について2

2017-09-20 00:00:00 | 法理

人格的に欠点もなく、厳格な生活もし、自他共に許せるような

人であっても「本当の自分とは何か」という問題になってくると

どうしようもないのです。

 

「仏法(仏教)」と言うのは、「本当の自分とは何か」という、

その事の解決なのです。

 

人間生活における程度の、良いとか悪いとか、というような

ことではないのです。

 

苦しみの根元を根こそぎ救う道なのです。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

修養について1

2017-09-19 00:00:00 | 法理

儒教では、「修養」ということがあります。

日々のことを抑えていくことが大切であるという教えです。

 

しかし、それは人間(にんげん)の世界における、人間的範囲の

言うべき事柄です。

 

そのようなものは、どんなに積み重ねても満足することは

出来ません。

 

たとえ、それが出来たとしても、上手く出来ましたという

範囲で、やはり問題が起きて来るのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

此の道3

2017-09-18 00:00:00 | 法理

その時、分かったようで自分の疑問が解決したようであっても、

数時間あるいは、数日たつと、すぐに又わからなくなるものです。

 

それでは、本当に分かったということは言えません。

 

ですから、しっかりと「どのようにして此の道を歩くのか」

そのことを尋ねて頂きたいのです。

 

始めもないから、終わりもない世界です。


一歩一歩がその時、地限り場限りが目的地なのだということを

よく「理(理論)」において納得して修行しないと、目的地に

居ながら「自分の到る所はどこだ、どこだ」と言って捜し回ら

なければならなくなるのです

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

此の道2

2017-09-17 00:00:00 | 法理

いつでも何か分からないことがあると、尋ねる。

そうすると分かる。

 

また分からないことが出て来ると、又、尋ねる。

 

いかにもそういうことが(分からないことが分かったことが)

自分で納得したことのように思われるかもしれません。

 

しかし、それは「教えて下さった人のお言葉」ではないでしょうか。

 

それでは「自分のものにならない」ということです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加