活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

固定観念3

2018-02-24 00:00:00 | 法理

私たち衆生が長期にわたって論理的な思考を中心とした精神活動を

続けていると、「心の働き」のためにあらゆるものを「既成の概念という

フィルター」を通して見るような習癖が出来上がってしまい、その世界観が

唯一、絶対であるかのような「錯覚」を生じるようになります。

 

いったんこの様な状態に陥ると、元々は「自分の心が造り出している

観念に自分自身が支配される」という自縛の罠が完成し、その人はそれ以外の

物の見方が出来なくなってしまいます。

 

本来は完全の自由を持っている意識を限定し、「固定観念」という迷妄の檻で

囲った牢獄に閉じ込めて「真実」を観えなくしてしまいます。

 

これは「感情」の領域でも同じことが言えます。

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固定観念2

2018-02-23 00:00:00 | 法理

「現在(今)」という瞬間の断面は、「過去から未来に向かって流れる時間」

というような感覚が遥か古代から共通の感覚として意識し続けてために、

強力なエネルギー、即ち「固定観念」を造り出してしまいました。

 

こうした事情のために、私たち衆生の多くは「時間」が実際にあるかのような

「現実観」を生み出してしまったのです。

 

ですから、仏教でいう「前後際断(悟り)」の必要が生じるのです。

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固定観念1

2018-02-22 00:00:00 | 法理

私たち衆生は、「物質」というと何か恒久的な存在とか、確かな実体のあるもの

というイメージを思い浮かべがちです。

 

これらのイメージは、心の中に造り上げた「固定観念」に過ぎません。

 

私たち衆生がいったん心の中に様々な「固定観念の枠組」を造ってしまうと

その人はあらゆることをこの枠組を通して判断するようになるのです。

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錯覚する

2018-02-21 00:00:00 | 法理

「ほとんどの科学者(私たち衆生も同じですが)」は、観察者の意識を

物質で構成される「五官」から生じるものだけに限定しています。

 

そして、それに因って世界観が唯一の絶対正しい認識であると思い込む

「錯覚」があります。


一切のものには影や実体がないのです。


「響」を例にとればたしかに「響」はあります。

ですが、「実体」はありません。


しかしそういう「実体」のないものを私たち衆生は間違って「実体がある」

と、「錯覚」しているのです。


その最初の「錯覚」は、自分が生まれたことを自分は識らないのに、

「自分が生まれた」と認めていることです。


「不知不識生(知らず識らずに生ずる)」なのです。

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観念3

2018-02-20 00:00:00 | 法理

「心」は未体験のあるものについては、外部からの情報を提供されると

それについての何らかの心象や観念を造り出す働きをします。

(※これは法の働きです)

 

この観念は極めて限られた経験の中で組み立てられた推測に過ぎないもので

「法そのもの」とは全く異なるものです。

 

しかし、この観念はいかにも「事実」であるかのようにその人の「識別心」を

幻惑する作用を持っているのです。

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観念2

2018-02-19 00:00:00 | 法理

つまり、「法(真理、事実)」の理解については、体験が全てに優先する

ものであって「自我意識」によるどんな推測もその代用には成り果たせないのです。

 

「法(真理、事実)」は、「法(真理、事実)そのもの」を以ってしか、

「成り果たせない(識ることは出来ない)」のです。

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観念1

2018-02-18 00:00:00 | 法理

「観念」はいわば地図のようなものです。

地図はある場所の状況を知るには大変便利な道具ですし、地図なしに

旅に出れば自分のいる場所や目的地の見当が全く付かず途方に暮れて

しまうかもしれません。

 

しかし、同時に地図はあくまでも一枚の紙切れですから地図を見ることと

実際にその場所に行って地図の表わしている世界を体験する行為とは

全く違った出来事であるわけです。

 

 

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宗教の宿命2

2018-02-17 00:00:00 | 法理

特にイエス様やおシャカ様を始めとする偉大な先達は、当時の人達の

用いていた言葉の表現力の乏しさを補うためや、聞き手の理解力の

程度にあわせる目的で、たとえ話を多用したためにその本来の意味が

長い歴史にわたって誤解されてきたということが多々あります。

 

「伝統的な宗教」のほとんどは「真理」をあらゆる人に内在している

「仏性(神性)」に因るのではなくて、人間の心の中で造り出されている

「観念」に因って解釈しようとしたために数多くの間違いを生み出す

ことになりました。

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宗教の宿命1

2018-02-16 00:00:00 | 法理

歴史的に長く続いている宗教の場合には、その創始者の認識においては

「ある適切な意味」を持っていた言葉も、後継者がその意味を「内観に因って

識る」のではなく、外側から得た「知識(観念)」として自己流に解釈したりすると、

組織が巨大になっていく宗教団体が免れることの難しい組織(自己)保存の意図

といった様々な地上的人間的事情で、人工的な夾雑物(きょうざつぶつ)に埋もれて逝く

という共通の経過をたどります。

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真の自分2

2018-02-15 00:00:00 | 法理

そこで、私たち衆生は「修行(今の事実に徹する)」に因って、自らが

「道(法)」であるということを知(識)らない限りは「平等」とか、

「差別(しゃべつ)」という言葉は、知(識)っていても自分のものには

なりません。

 

ですから、これは「止むを得ない」ことですが、しばらくの間おシャカ様や

その他の伝灯の祖師といわれる方(おシャカ様の教えを受けて、その道に因って

覚者になられた方々)の教えに従って勉強し精進していかなければならない訳です。

 

「道(法)」が自分のものになるまで務めて精進していくのです。

そうした時におシャカ様や歴代の覚者の教えに因って、「自分の道(法)」

に目醒め、「仏法(仏道)」というものが無くなるのです。

 

おシャカ様や歴代の覚者の教えが支えになっていては、本当に独立した

「真の自分」にはなることは出来ないのです。

 

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