活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

心外無仏法2

2017-11-24 00:00:00 | 仏教

おシャカ様の「法(道)」、歴代の覚者の教えに従っていかなければ

「法(道)」には到達しません。

 

しかし、到着したならば自分のものなのです。

「仏法(仏の法)」ではないのです。

 

れぞれの人の、それぞれの人の「法(道)」なのです。

「今の自分以外」に他を求めてはいけないということです。

 

本当に「六道輪廻(りくどうりんね)の衆生」になりさえすれば

何もそれから抜け出して声聞(しょうもん)、縁覚、菩薩、仏

というような所に行く必要はないということです。

 

 

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心外無仏法1

2017-11-23 00:00:00 | 仏教

「心外無仏法(しんげむぶっぽう)」とは、どんな状態であっても、

その状態しかないということです。

 

「自分の今の心の動き」が「仏法(仏の法)そのもの」なのです。

 

おシャカ様がそのことを人類で一番最初に気が付かれましたので

「仏法(仏の法)」といっています。

 

仮に「Aさん」がそれに気が付いたならば、おシャカ様(仏)と

比べられない「Aさんの法」そのものなのです。

 

ですから、「法(道)」というものは、

「自己の正体を見極めた人のもの」なのです。

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二つの方法2

2017-11-22 00:00:00 | 法理

「ただ坐っているだけ」では、いつも「坐ってものを考える」

という結果に終わってしまいます。

 

しかし、自分自身の問題を持って坐っている人には、本当は

余分なことなのです。

 

指導者は、坐禅(功夫)が純一にならないという様子に見受け

られる方には「こうしなさい、ああしなさい」と手取り足取り

して指導しているのです。

 

「こうすべきだ、ああすべきだ」というのは、本当は余分な

ことなのです。

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二つの方法1

2017-11-21 00:00:00 | 法理

「惑い」をなくすには、具体的にどうしたらいいのかというと、

ある時は「祇(只)管打坐(しかんたざ)」をし、又ある時は

「公案功夫(こうあんくふう)」をすることです。

 

この二つの方法による以外は、「坐禅が坐禅になる、本当に満足する

坐禅」というのはありえないのです。

 

ですから、歴代の覚者は、この二つの方法を「親切に、丁寧に、

真心を込めてしなさい」といっているのです。

 

私たち衆生は行じていかなくてはならないのです。

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惑い2

2017-11-20 00:00:00 | 法理

「有る」と思っていることが間違いですから、

その思いー「思惑(しわく)」、その考えー「見惑(けんわく)」を

なくしなさいと、歴代の覚者が言われているのです。

 

思惑、見惑ともに「惑(まど)い」です。

 

ですから、そういうものがなくなったときを「悟り」と言っているのです。

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惑い1

2017-11-19 00:00:00 | 法理

歴代の覚者が言われるのに、「必ず自己を忘じなさい」と。

 

「自分があってもよろしい」というような教えをした人は

一人も居られません。

 

みんな本来、「私」というものが無いにもかかわらず

「有るかのごとく」に妄想しているのです。

 

それは「迷い」です。

「迷いに迷わされている」訳です。

 

「自分」というものは、どこを探しても無いのです。

 

「自我」だとか、「本来(本当)の自己」とかよくいいますが

どこを探しても、そういうものは無いのです。

 

 

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道中2

2017-11-18 00:00:00 | 語録

ですから、職場にいる時は坐禅のことも、法のことも、悟らなければ

ならないことも、落ち着かなければならないということも、一切忘れて

仕事三昧(仕事の鬼)になっていただきたいと思います。

 

今すでに「道中」というその人なのです。

自分でそれが納得出来るか出来ないかだけなのです。

 

その人のことです。


決して「誰々のように成れない」なんていうことは言わずに

「自分が自分に成る」ことですから、務めて頂きたいと思います。

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道中1

2017-11-17 00:00:00 | 語録

「自己本道中(じこもとどうちゅう)にあって迷惑せず、

顚倒(てんどう)せず、増減なく誤謬(ごびゅう)なし」

 

という、道元禅師のお示しがあります。

 

迷は「まよい」です。

惑は「思惑(しわく)」の惑です。

 

ですから、「迷惑せず」とはそのままでいいということです。

そういう自分の様子そのものが「道中」ですから、道の外に

出ているということは毛筋ほどもありません。

 

知らない(識らない)のも、道です。

迷うのも道です。

苦しむのも道です。

 

そのままうなずければよろしいということです。

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仏教における方便

2017-11-16 00:00:00 | 仏教

「方便」というものは仏教語です。

 

広辞苑に拠れば、

①「衆生を導く巧みな手段、真理に誘い入れるために仮に設けた教え」

②「目的のために利用する便宜の手段」

と記されています。

 

本来、仏教における「方便」というのは、「その人(その人の今いるところ)」

から「成仏の道」は一番近い道を選んだのを「方便」というのです。

 

ですから、「方便」というのは、好い加減なことではなくて、

「今の人、それぞれの人」がそれぞれの立場にいるわけですから、

その立場における一直線(最短)の「良い道(成仏の道)」を

「方便」というのです。

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悟りの道・迷いの道3

2017-11-15 00:00:00 | 道元禅師

誰でも真面目に「道(法)」を求めておられるに違いありません。


それだから、その求め方というものは、考え方で、とにかく

自分の考えでどうにかしようとすることを行ってはいけないのです。

 

道元禅師はこういうことを云って居られます。

 

「自分の考えをもって修行しようとする、そういう態度は

迷いの道ですよ」と。

 

そして、「ものの方から(環境から)此の物(自分自身)へ

入って来る、そういうあり方は悟りの道ですよ」と。

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