活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

初一念4

2017-03-27 04:00:00 | 

「暁の鐘声に応じて天地開く」

というお言葉があります。

 

即ち、暁の声に応じて天地が鐘の声に成ってしまった

ということです。

分からなかった天地が皆分かって来たということです。

 

その暁の鐘を聞くという一念の天地です。

そこです、何処までいってもその時の世界です。

 

思うのは一念です。

自分の心です。

「心鏡」です。

心鏡が出て来ているのです。

 

何処までも何処までもそれが「今の一念の相続」です。

 

初一念が好ければ第二念は悪いのでしょうか。

これはどちらも間違っているのです。

 

念のままで自己はないのです。

主人公はいないのです。

 

二念三念も同じく前後を認めずに

「一々(いちいち)脱落」していくのが修行の要訣です。

 

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初一念3

2017-03-26 04:00:00 | 

「念」は作り出したものです。

その「無始無終」が一念となって来ているのです。

 

禅語に、

「一念普く観ず無量劫、無量劫の時即如今(にょこん)」

とあります。

 

時間があれば空間があります。

ですから、「一念普く無辺量」ということも出来るのです。

 

この一念は「無始無終」の打ち通しなのです。

何処まで行っても念念相続しているのです。

死んでも生きても同じものです。

 

この念は始め終わりを認めたら駄目だということです。

「百千万の念もただ一念」なのです。

 

好い声だなと思うのも一念です。

好い声だなという時は、その声ばかりで自己がない故に

好い声の世界なのです。

 

悪い声のときは、悪い声の世界なのです。

その時の念が一念です。

分別のない念です。

 

それを聞くという時の分別のない所を失ったら駄目なのです。

そこを失ったら世界を損なうのです。

 

 

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初一念2

2017-03-25 04:00:00 | 

悟っても「初一念」というものを認めたら「迷い」になるのです。

 

最初から「無始無終」だから、それに融合しなければならない

のです。

 

始まりというものがあるでしょうか。

そこが大事です。

 

自分が聞いたり見たりするのは意識の想像欲です。

意識が決めるのです。

 

意(意識)に何もない時が主人公です。

何物もない、大掃除した大広間のようなものです。

 

我々の主人公はそこにはいないのです。

主人公があったら衝突してしまいます。

 

或る覚者は、

「見聞覚知の上に主人公があると思って追い廻るは、

犬が自分の尾を咬むのと同じだ」

と言っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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初一念1

2017-03-24 04:00:00 | 

「主なくして見聞覚知(けんもんかくち)する人を生仏(しょうぶつ)

と我は云ふなり」

というお言葉があります。

 

多くの人は見聞覚知する主人公があると思っているのです。

これは「邪見」です。

見聞覚知の上に主人公を認めるから「邪見」というのです。

 

これは「因縁生」です。

「因縁生空なり」です。

 

主人公は何処にあるのでしょうか。

「主人公っ」と一声出す外に主人公が何処かにあるでしょうか。

 

何者が「主人公っ」と言っているのでしょうか。

ここが大事な処です

 

「初一念」というお言葉があります。

「初一念」という別のものがあるのでしょうか。

 

これは「無始無終」のものです。

「無始無終の念」だから更に見るを要しないのです。

「不生不滅のもの」です。

 

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一念2

2017-03-23 04:00:00 | 仏教

どうしても修行して「自己の正体を見極める」必要があるのです。

 

「一念」を起こすと、その念が次から次へと様々な念を呼び起こして

とめどもなく流れていってしまいます。

 

「一念」が天地の隔たりを生ずることになるのです。

 

そこで、「修行」とは「一念の生ずる根本を見極めなければいけない」

ということをいっているのです。

 

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一念1

2017-03-22 04:00:00 | 仏教

ほんの少しの「隔たり(距離)」があっても、ものと一体には

成れません。

 

そのものの「真の姿」というものは、本当にものと一体に成らなければ

分からないのです。

 

私たち衆生は、普通、「見聞覚知(けんもんかくち)する働き」を

認めて「生きている」といいます。

 

それは「生きているということの説明」に過ぎません。

 

「自己の正体」を見極めないと、すべての働きと自己との間に

「隔たり(距離)」が出来るので、「自己の正体それ自体」は

どんなにしても分かりません。

 

したがって、思慮分別し手探りの状態で、「自己の正体」を探すように

なるのです。

 

憶測とか妄想で安らかになれず、いつも不安定な状態でいなければ

ならなくなる訳です。

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正念2

2017-03-21 04:00:00 | 

どこまでも進まなければなりません。

自分の世界ですから怠れないのです。

進んで退かぬという世界が何時もなければなりません。

 

「般若」というのはそれをいったのです。

「一念の心」を大悟したのが「般若」です。

それが本当の「智慧」です。

 

「本当の智慧」をいうのは、「一念」というものをしっかり掴んで

力あることを発見し、それを「体得」することです。

生活そのままに成り切る時が「大悟徹底」です。

「心の実證」です。

 

即今「心」の一字に徹する時、絶大な力が得られるのです。

只「心」に成り切ればよいのです。

 

その時その時が徹底です。

「世界は心ならざるはなし」それが「般若の智慧」です。

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正念1

2017-03-20 04:00:00 | 

r一念の中に己れがないことを「無念(無の念)」といいます。

それがなければ一念は時間空間を超越しています。

これを「正念(しょうねん)」といいます。

 

「月一つ 影いろいろの 踊りかな」という句があります。

職業は種々ありますが、念は同じ念です

生命は同じものです。


拵(こしら)える必要はありません。

「縁」に随っていけばよいのです。

何になっても同じことです。

 

造作したら能率が減ります。

これは「人生観の極地」です。


その場その場に一念というものを本当に観ずればよいのです。

「正念相続」していけば、その境遇は何でもよいのです。

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五濁3

2017-03-19 04:00:00 | 仏教

「煩悩濁」とは、見方のわるいところから「三毒(貪・顚・痴)」等の

煩悩妄想を起こし、自分も苦しみ、人をも苦しませてしまうのです。

 

「衆生濁」とは、衆生が「見濁」「煩悩濁」の結果として、人間界の

果報が漸く衰え、心が鈍く、体が弱く、闘争常に絶えず、苦多く

福少なきをいいます。

 

「命濁」の「命」とは、寿命及び生活力のことです。

生活が不正となり、従って寿命も短くなるのです。

長生きしても生き甲斐がないので、短命ということも出来るのです。

 

「劫(ごう)濁」の「劫」とは、劫波、時代ということです。

今の時代は「五濁」を以って成り立っている時代です。

 

時代が濁っているということです。

何人も皆、時代の影響を蒙(こうむ)っています。

ただ、私たち衆生は「泥中の蓮」と成って「五濁」の影響を

蒙らないような人格者と成らねばなりません。、

 

おシャカ様の「正、像、末」の時代を説いた裏面の

「大慈、大悲」を実践しなければなりません。

 

 

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五濁2

2017-03-18 00:00:00 | 仏教

「天」あり、「地」あり、「人」ありです。

「人」に男女、貴賤、苦楽、昇沈があるのです。

 

即ちこれは、「四大の家の因縁生」によって生じる真理で、

その間「自我の実体」はあることなしなのです。

 

それ故に相融和して、共存共栄を許さなければならない

道理なのです。

 

元来一体の上の分かれだからです。

どうしても相衝突し、反目することを許さないのです。

 

経に曰く、「一切は男子は皆我が父、一切の母は皆我が母、

六道(りくどう)の衆生は皆我が父母、一切の地水は是れ

我が先身、一切の火風は是れ我が本体なるが故に」。

 

つまり、本体の一つなることを知らずして「差別(しゃべつ)」の

「隔歴(かくりゃく)」に迷って融和すべき「霊力(れいりき)」を

物質的に衝突させてしまう結果を生ずるのです。

 

即ちこれが「見濁」です。

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