只如是3
2017年04月06日 | 禅
只かくの如し、何物が来ても只かくの如し。
かくの如しに理窟はありません。
お経の初めには「如是(かくの如し)」書いてあります。
本来は一番終わりにつけなければならない文法なのですが、
それを最初から間違いないということを「阿難(あなん)」は
證明しています。
おシャカ様の声とかわらないことから、あまりよく似ているものだから、
おシャカ様は阿難におなりになったのではないか。
又、或いは阿難が法螺を吹くのではないか、と疑う者があったそうです。
阿難は確かに間違いなくどこまでも「如是我聞(かくの如く我れ聞く)」
と言いました。
経文は確かにおシャカ様の声であって間違いはないというのでした。
昔、中国の或る人ですが、いつでもどこでも「只 好し好し」
と言っていた人がいました。
隣の奥さんが自分の亭主が死んでしまったといって泣き込んで来たのですが
それでも、「只 好し好し」というのです。
彼の細君が気の毒に思って、
「死んだといって悲しんでいるのに、只 好し好しということはないではないか。
何とか言葉がありそうなものだ」
というと、
「汝の言も亦た 好し好し」といったのです。
何でも「只 好し好し」。
ここまで「修養」が出来れば大したものです。