
「ニッポン人?」と白人男性が声をかけてきた。自信はなかったけれど、この男性を私はホームレスかもしれないと直感した。ホームレスかどうか見極める時、私はその人の靴を見ることにしている。多くのホームレスは、生き延びるために歩き回らなければならない。私に声をかけてきた男性の靴、スニーカーは、あちこち擦り切れていた。服装は、それほどひどくなかった。ハワイでTシャツ短パンに裸足でいても、だれも不審がらない。靴を見なければ、その辺の住人が散歩でもしているかともとれる。「あなたと話してもいいですか?」ワイキキの中心街から離れた海岸の公園に近いハイキングテーブルのある日陰だった。ハワイ中央図書館へ行くためにバスに乗った。空港行きだったので混んでいた。ホテルの執事カウンターで教えてもらった停留所でバスを降り、図書館目指して歩き始めた。ワイキキ中心街と違って観光客もおらず、歩いているのは私だけだった。「ニッポン人?」の質問に「そうです。ワイキキ中央図書館へはこの道でいいのですか?」と答え、質問をつけ加えた。男性は木陰のハイキングテーブルのイスに座っていた。太陽は容赦なく照りつけていた。6メートルぐらい離れた柱の陰にスーパーのショッピングカートに黒いビニール袋や全財産が積まれていた。カートの反対側に寝袋が日干しされていた。よく見ると公園のあちこちの木立の下にホームレスがいた。暑さを避けるためと、この男性と話してみたいという私の押さえ切れない好奇心で立ち止まった。男性はテーブルに私を招いて座るよう促して、自己紹介した。
男性はキースと名乗った。よく見ると50歳から60歳の間に見える。もっと若いかもしれないが、生活環境が老けさせているのだろうか。いろいろ話を聞いた。ハワイでホームレスがどのような生活をしているか、食べ物、トイレ、洗面、シャワー、ホームレス同士の争い、地元住民とのいさかいなど詳しく話してくれた。男性は「日本の3月の大地震はどうなの?すこしは復興されてきているのですか?」と尋ねる。正直面食らった。この男性は、ホームレスだ。毎日の生活が精一杯で、外国の災害にまで考えが及ぶだろうか。
その彼が続ける。「私はカルフォルニア州からここへ来た。大学院まで行って、修士を取った。結婚もしてそのままずっと順調にアメリカンドリームの一部となって生きていた。私の人生は、突然“ツナミ”に襲われた。解雇された。再就職しようと駆けずり回っていたら、リーマンショックが襲った。収入がなくなった。家も車も家具もヨットも全てローンで買ってあった。何もかも一瞬で失った。家族も」 私は真っ青な海を見たり、山側の最近アメリカ大リーグ野球選手イチローが何億円だかで分譲物件を買ったという高層マンションに漫然と視線を向けていた。
キースは続けた。「アメリカの会社は、アジアの日本、韓国、台湾、中国に生産させ、製品をアメリカに持ち込み、上前だけをはねて利益を上げる。最初は日本、その後、アジアからの一斉輸出攻勢にさらされた。アメリカの失業率は9%を超えている。日本を呪ったこともある。あんな国、地震や台風の災害でひどい目に会えばいいと。でもその日本が今度は、経済不振に陥っている。今は思う。どこの国に暮らしても、ずっと成功しつづけることなどできないんだと。私はやっと自分を許せる気がした。人間の力ではどうすることも出来ないことがこの世にはある。だから今の私は、寒さを恐れることなく常夏のハワイでストレスのない生活を送っているうちに、以前よりずっと自分を知ることが出来る。カルフォルニアからハワイに逃げ込む前は、日本を始めとしたアメリカの労働者から仕事を取り上げたアジアの国々を妬んだ。自分を解雇し再就職の機会を与えないでその上リーマンショックを起こしたアメリカ社会を怨んだ。私を捨てて子どもを奪った妻を憎んだ。すべてから逃げようと移り住んだワイキキは、予期せぬことに憎くい日本人やアジア人の観光客だらけだった。もともとハワイ州の人口の中で日系人が一番多い。私はそんなことも知らないで移ってきた。こうして公園の芝生で寝て、夜、満天の星を眺めていると、何もかも他人の所為にしているこの自分の卑しさ小ささにいてもたってもいられなくなってきた。そこへ3月日本の大地震と原子力発電所事故だ。自分がどん底の時、あれほど悪態ついて呪ったことが実際に起こってしまった。罪悪感でしばらく打ちひしがれていた。突然私にこんな話をされて、あなたは迷惑に違いない。どうしてもニッポン人と話したかった。そして直接ニッポン人にならだれにでもいいから“ごめんなさい”と言いたかった。今日あなたに会えてやっと気が晴れた。何か方法を考えて、生まれ故郷に帰って再出発しようと考えている。日本の被災者の不屈の生命力を聞いて、自分にもできると思えるようになった。アリガト」 私はキースの真剣さに返す言葉もなく圧倒され、頷くだけだった。
私は別れ際、キースに「取材協力費」と言って50ドル渡そうとした。彼は「アリガト」と言って受け取った。そして迷いもなく、再びその全額を私に向け、「この金を日本の被災者に届けてくれないか?」と札を私の手に置いた。世界中から善意の応援が東北の被災者に集る。その貴い志のひとつに直接ワイキキで出会うことができた。最初ちゅうちょしたがやはりこの旅行に参加してよかった。苦労して私をカナダへ留学させて英語を学ばせてくれたことを両親に感謝した。帰国して5000円を早速ある東北の救助活動の団体に振り込んだ。振込み人の欄にキースの本名を書いて。
(写真:キースの全財産をのせたカート)