団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

渚のドライブ

2017年05月17日 | Weblog

①    ロシア サハリン 幻の高速道路

②    旧ユーゴスラビア 高速道路

③    北海道道106号稚内天塩線

①  テレビで石川県能登半島の千里浜なぎさドライブウェイを車で走行しているのを観た。拙著『ニッポン人?!』の“サハリン高速道” を懐かしく思い出した。  

【舗装道路が切れて、サハリン特有の凸凹道が始まった。とにかくひどい凸凹である。補修されないまま放置された道路のミイラである。運転していたリンさんが、「わたし心配です。この間、北へ行ったときにスプリングが壊れてしまって、前の両側のスプリングを捨ててきました」と、言った。ダットサントラックは、ぎしぎしと音を立てながら、道路の信じられない凸凹をそのまま素直に拾っていた。「昔わたしは、ソ連製の車を持っていました。そのスプリングがうちのガレージに二つあったので、自分でつけました。ちょっと硬いですね」 ふと私は、目を左右非対称のワイパーに向けた。それを察したリンさんが言った。「そう、それ右側韓国製、左側はロシア製。ダットサンの私の日本製ワイパーは二本とも盗まれました。ロシア人はほんと悪いやつらです」

 東の空が少し赤くなって、鉛色の空にも柔らかさが増してきていた。時計を見ると五時だった。オホーツクの海はそろそろ干潮の時間だ。急に、リンさんはハンドルを切って、ちょっとした小高い砂丘を越えて波打ち際に向けて浜を下った。「高速道路で行きましょう」 そういうと、エンジンをふかして走り出した。ガクンとシフトを四駆から二駆に戻した。振動も無くなり、ダットサンは唸りを挙げて快走した。「ここの砂は、干潮になると硬くなります。この道が、サハリンで一番スピードを出せるいい道です」 嬉しそうに六十九歳のリンさんが言った。めったに入れたことがない五速にいれ、さらにアクセルを踏み込んだ。凸凹道に辟易していたわたしも、実に気分がよかった。鼻歌が出そうになるほど、スムースで心地よいドライブになった。

 私は世界いろいろな土地で高速道路を車で走った。サハリン高速道路は最高だった。リンさんが“高速道路”と言った気持ちが良くわかる。たった三キロぐらいの短い距離だったけれど、リンさんと走ったあの明け方のサハリン高速道が忘れられない。リンさんがいろいろな部品を組み合わせ、自分で調整し、すでに百万キロ走ったスーパーダットサンの、あの嬉しそうなエンジン音の唸りを忘れない。】

②    私たち夫婦が旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードに住んでいたのは、経済封鎖を受けていた時だった。クロアチア、スロベニアを抜けてイタリアに通じる高速道路があったが、交通量が少なかった。それは、まるで飛行場の滑走路のようだった。ついついスピードを出してしまった。警察の取り締まりもなかった。ただ道路わきに「地雷に注意」の看板が不気味だった。経済封鎖は外国人の私にも大きなストレスを与えた。空いた高速道路を思い切り飛ばすことはストレス解消になると思ったが、一般市民はガソリンさえ買えないのに抜け駆けしているようで、それもまたストレスになった。私が自分で車を運転してあれほどのスピードで走ったのはあの時だけだった。北朝鮮と旧ユーゴスラビアの経済封鎖の違いは、北は核を持ち、旧ユーゴスラビアは持っていなかった違いはあっても、一般市民の困窮は同じであろう。

③    日本に帰国して10年以上たつが、日曜祭日特にゴールデンウイークのような大型連休は外に出ないようにしている。どうにも道路の渋滞に耐えられそうもないからである。ネパールの道路はいつも渋滞が激しかった。セネガルはダカールから出れば道路は空いていた。でも悪路が多かった。チュニジアのチュニスは渋滞も酷かったが、道路交通法が無いかのような運転が怖かった。結局事故に遭い大けがをして車をダメにした。でもチュニスを出て砂漠へ行くと道路はどこも空いていた。ただ砂嵐に出会った時は、もうだめかと思った。サハリンにいた時、休暇でフェリーに乗って稚内へ行き、レンタカーを借りて北海道を回った。ここは日本かと思うほど道路が空いていた。サハリンの悪路に辟易していたので北海道のドライブを心ゆくまで楽しめた。素晴らしい自動車での旅だった。その時寄った天塩で食べたシジミ丼が美味かった。

旅行社から送られたパンフレットに能登半島の千里浜なぎさドライブウェイへ行くツアーを見つけた。妻の夏休みに行こうと思っている。サハリンでリンさんと走ったサハリン高速道路を思い出すために。


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