久しぶりに贈りものの品定めにデパートをのぞきました。
男物のスポーツ・シャツを眺めていたら、近寄ってきた店員さんに、「セールに入っていますので、お値段もお手頃ですよ。」と勧められました。
こうした買い物をしばらくしていない私にとって、値頃かどうかは、こちらの財布の中身にかかわるもの。5700円という値段は、「お手頃」よりは高額に思えたのです。
「お手頃」ということで、こだわってしまいました。確かに”手に余る”ほどでも、”手の届かない”値段でもなかったのですが、また出直しますと引き下がって、お手頃の頃合いを考えてみました。程々、程合い、頃合い、相応、と、すぐ浮かんでくる同類の日本語も多彩です。
これらは数値的な量も、質も示すものではありえません。極めて曖昧なもので、それでいて、何か人を納得させる通念のような性質を携えています。ただ私の今日の買い物の場合のように、人によってその「お手頃」は異なる厄介なものです。
契約書や取扱説明書に使われるような表現では、生活の場での会話は成り立たないのは勿論ですが、受け手にとってさまざまに解される表現というのも、生活の言語としては困りものです。にもかかわらず、この頃の朧の月同様、やわらかく、あからさまでない言い方を私たちは従来評価し、好んで使ってきました。
その一方で、コミュニケーションの手段であるからには、相手に正確に内容が伝わる必要があります。正確に伝えるためには、曖昧な意味を出来るだけ明らかなものに置き換える努力をしなければならないという矛盾の中で生活しているわけです。
私でも、自分の中に分相応の度合いを計る目盛りは持っているつもりですが、川面に投げるのに手頃な石は、計れても、度を過ごさぬ程度の程々は、お酒の場合と同様、その場の雰囲気でも動くもので、定めがたいものです。
“いい加減“にしろと、うんざりした顔が浮かんできました。”程々”というのは難しいものです。ということで。「お手軽」なこの項を閉じます。
男物のスポーツ・シャツを眺めていたら、近寄ってきた店員さんに、「セールに入っていますので、お値段もお手頃ですよ。」と勧められました。
こうした買い物をしばらくしていない私にとって、値頃かどうかは、こちらの財布の中身にかかわるもの。5700円という値段は、「お手頃」よりは高額に思えたのです。
「お手頃」ということで、こだわってしまいました。確かに”手に余る”ほどでも、”手の届かない”値段でもなかったのですが、また出直しますと引き下がって、お手頃の頃合いを考えてみました。程々、程合い、頃合い、相応、と、すぐ浮かんでくる同類の日本語も多彩です。
これらは数値的な量も、質も示すものではありえません。極めて曖昧なもので、それでいて、何か人を納得させる通念のような性質を携えています。ただ私の今日の買い物の場合のように、人によってその「お手頃」は異なる厄介なものです。
契約書や取扱説明書に使われるような表現では、生活の場での会話は成り立たないのは勿論ですが、受け手にとってさまざまに解される表現というのも、生活の言語としては困りものです。にもかかわらず、この頃の朧の月同様、やわらかく、あからさまでない言い方を私たちは従来評価し、好んで使ってきました。
その一方で、コミュニケーションの手段であるからには、相手に正確に内容が伝わる必要があります。正確に伝えるためには、曖昧な意味を出来るだけ明らかなものに置き換える努力をしなければならないという矛盾の中で生活しているわけです。
私でも、自分の中に分相応の度合いを計る目盛りは持っているつもりですが、川面に投げるのに手頃な石は、計れても、度を過ごさぬ程度の程々は、お酒の場合と同様、その場の雰囲気でも動くもので、定めがたいものです。
“いい加減“にしろと、うんざりした顔が浮かんできました。”程々”というのは難しいものです。ということで。「お手軽」なこの項を閉じます。
何か?魂胆があるのではないか・・なんて疑念も。
逆に、ユニクロの一枚千円のシャツではどうでしょうか?
貰い手はboa家より庭掃除のヘルプ要請あれば、それを着用して参じましょうかね。
やはり安物では拙いですな。
そう言う意味では、そのお値段は贈物としては手頃、そう、最適だと思います。
貰っても心の負担はなし。店員さんの言葉は的確。
風さそう(風に散る) 花のいくへは 知らねども おしむ心は 身にとまりけり =西行の名歌が今週の短歌
このケースは金のいくへは重々承知、惜しまず使いましょうか?
しかし、タイミングは重要でしょう。筍狩をする頃合を見計らって・・。
誰ためか明日は残さむ山ざくら こぼれて匂へ今日の形見に 清原元輔
何の魂胆も思惑もない贈りものです。近しくしていただいて、よく気をつけてくださるお方です。
「お手頃」とお墨付きが出たからには、決めてきますか。
食べてなくなってしまう物にしようとおもったのですが。
お手頃に惑わされ、 つい手を出します。 値頃感は自在に変化するものですね。 飛びついて後悔もします。 買わずに帰った方が良かったか。
絵筆を何処で置くか… 計れません。 的確なboa!さんに決めて頂きたい。 いつまでもいじっているので、 いい加減にしろ!と 門前の小僧に言われています。
備前焼、 この色合いは火加減の程合いが良かったのでしょう。 炎の色の、 微妙な変化に惹かれます。
自分の作品を並べて、「残しておくもの」を選択しているらしき連れ合いの徳利、使い込んだものはいい色になっています。
お酒の頃合いが、日によって、相手によって適量が異なることに気がついて、作品に敬意を表して一枚いただきました。
濃い色の大きい徳利は、紫蘇色と呼んで、中々でないのだそうです。私は「ゆかり」と呼んでいます。
火の加減の程合いは料理の場合でもポイントですし、これがコントロールできたら、「陶芸家」とよべるのでしょうね。
備前は登り窯ですから焼きは師匠にお任せでした。
蛙さんの油絵の擱筆は、筆にお任せてください。よしと思う瞬間がきっとおありでしょう。それ以上は欲張りです。
やわらかな感性が光るいい絵ですよ。
備前焼を再興させることに成功し「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育てた弟子の中に金重素山~現代の藤原慶に至る。多くの人間国宝を生み出したが陶磁器ぐらい曖昧な物は無い。
作陶家が目指した美をどこまで理解できたか視覚で捉えるのか心で捉えるのか曖昧です。また価値を金銭に判断する基準は買う人の高いか安いか手頃な値段か判断に迷います。
審美眼なども計測する物が無いのですから之も曖昧に成ります。物の価値判断って難しいですね
手元に置いて,いつくしんだ分、目が、手が楽しんだのをよしとするほかありませんね。
お茶のお道具は鑑賞する「作品」とは別の存在であることが多く、付加価値の意味もありますから、なおさら「お手頃」が難しくなりますね。
目が利く紫草さんでも、嘆きがおありでしたら、「感じ」だけで物が見えない私の失敗は当然でしょうね。それでも、「骨董は買ってみなければ解らない」と申します。手痛い失敗を繰り返すうち、私のようなものにも少しは見えてくる時が訪れるのでしょうか。
平成初期の頃からは、陶磁器だけでなく、株も絵画も同様で5分の1ならまだいいほうかもしれません。
備前焼も筆頭の金重陶陽となると、お値段もそんなに変動することはないと思うのですが・・・・。
藤原啓さんは近所でしたから、何度か立派な記念館でお会いしたことがありますが、やきものよりも、お話が面白く、小柄で、気さくな方でした。どこかにいただいた色紙がある筈です。
形の奥に秘められた、作家の追及した魂にまで迫ることは到底叶いませんが、表現しようとしたものは形になって現れているはずで、美しいものは説明抜きで美しいと信じています。
どうしても手元に置きたいものには、手頃の判断は意味を失ってしまいます。ただし、財布が拒否しますので、もっぱらこの中で一つだけなら、どれにするかで、真剣に展覧会場を歩きます。買ってみることが出来ない私は、依然として"見えない”ままではありますが、悲しいことに、目だけは体同様、たっぷりふくらんでいます。