弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

東京はコロナ第5波の準備ができていなかった

2021-09-29 22:49:47 | 歴史・社会
自宅・施設療養中、206人死亡 東京、第5波で急増 8月時点 朝日新聞社全国調査 2021年9月25日 朝日新聞
『新型コロナウイルスに感染し、自宅や高齢者施設での療養中に亡くなった人が、8月末までに全国で少なくとも200人を超えることが朝日新聞の調査でわかった。第5波が本格化した8月が最も多く、中でも東京で急増していたが、大阪、兵庫では第4波の4、5月に集中し、第5波では増えていない。専門家は「大阪が第4波で得た教訓を東京は生かせず、医療体制の拡充が足りなかった」と指摘する。』
記事には、各県別、1~8月の月別で、自宅で療養中などに亡くなった感染者の人数をまとめています。
それによると、大阪と兵庫合計で、4・5月(第4波)の死亡者は43人、8月(第5波)は3人です。
それに対して東京は、4・5月(第4波)の死亡者は2人、8月(第5波)は44人です。

記事で専門家が指摘するとおりですね。
第4波、大阪は本当に大変でした。しかし大阪は第4波で学び、しっかり対応しました。4月初めに約2千床だったコロナ患者用の病床数は8月末に3100床余りに増加。自宅療養中の相談窓口体制も拡充しました。
東京都では3月末に約6千床だった病床数が8月でも約6400床にとどまりました。第4波で大阪が大変な目に遭っているとき、東京は自分事として学ぶことができなかったのですね。残念なことです。
最近の小池東京都知事は、見ていると何か元気がありません。気力が減退しているように見受けます。東京都が危急存亡の時に、残念なことです。
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ジョブズ説得術と報連相

2021-09-28 17:37:38 | Weblog
没10年ジョブズ氏、発明の内幕 側近に学ぶ上司説得術
2021年9月27日 日経新聞朝刊 シリコンバレー支局 奥平和行 
『人気ゲーム「フォートナイト」の開発元である米エピックゲームズが米アップルを訴えた裁判で一審判決が出た。エピックが控訴の方針を示しておりスマートフォンのアプリ配信サービスが独占に当たるかどうかを巡る争いの先行きは不透明だが、証拠開示の手続きのなかではっきりしてきたことがある。
「スティーブ、上記の目標に同意してくれますか」。アップル幹部が結びにこんな文言を記した電子メールを送ったのは2007年10月のことだ。宛先は最高経営責任者(CEO)だったスティーブ・ジョブズ氏。この幹部はアプリ開発を外部企業に解放することを求め、ジョブズ氏を説得しようと試みた。』

上記の話は、「外部企業のアプリを配信するサービスの発明者は、ジョブズ氏か他の人か」という議論です。
記事は更に、『周囲はどのように「頑固で気難しい」と言われたジョブズ氏に再考を促したのか。』というテーマに移ります。
その第2点
まず結論を伝えるのではなく質問の形を取ることで、そのアイデアを自分で思いついたように仕向ける手段も有効という。

これって、日本で知られている「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)と通じています。
「ほうれんそう」は、サラリーマンが身につけるべきマナーのように言われていますが、私はそうではなく、「面倒な上司に自分が思うように動いてもらう手管」だと思っています。
上司は、突然に部下から意見具申され、それが自分が考えている方向と異なっていたら、あるいは自分の意見が全く準備されていなかったら、まず否定してしまう懸念が大きいです。「面倒な上司」ならなおさらです。
それに対して、部下が上司にこまめに報告・連絡していれば、上司はその案件についてある程度頭の中に準備ができているでしょう。そこで最後の「相談」です。部下は「こうすべきだ」と結論を述べるのではなく、「相談する」ことが肝要です。上司は、相談を受けて一緒に考え、部下が糸口を披露すれば、「こうすればいいんじゃないか?」というアイデアに導かれます。そのアイデアは実は部下が準備し、上司の思考をその方向に導いたのですが、上司にしてみれば、自分が思いついたアイデアのように感じていますから、アイデア実現に積極的になるでしょう。
こうなればしめたものです。部下は上司の賛同を得て、自分が実現したい方向に邁進することができます。
ただし、実現の暁には、上司が「これは俺のアイデアだ」と自慢することになります。それを受け入れる、即ち「名より実を取る」というスタンスが部下にない限り、難しいものがあるでしょう。

いずれにしろ、場所が日本だろうがアメリカだろうが、そして相手が普通の上司だろうがジョブズだろうが、「上司説得術」は同じである、ということを感じることができました。
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中国の貧富の格差

2021-09-25 11:23:31 | 歴史・社会
中国では、恒大の破綻危機と、習近平による「共同富裕」が話題になっています。

恒大危機と共同富裕は同根、共同富裕は第2文化大革命ではない 2021.9.22 
宮家 邦彦 キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹
『中国政府が恒大集団を破綻させるにせよ、救済するにせよ、その理由は、市場経済の合理性ではなく、「共同富裕」という新たな概念を踏まえた政治判断だと思うからだ。』
『「共同富裕」という概念自体は決して新しいものではない。毛沢東が「共同富裕」を提唱したのは、中華人民共和国建国直後の1953年だった。ちまたには、この概念を、鄧小平が唱えた「先富論」と相対立するものと見る向きもあるが、それは必ずしも正しくない。確かに鄧小平は「先富論」により、一部の集団がまず豊かになる中国経済発展の必要性を説いてはいたものの、同時に「共同富裕」は常に究極的な目標と考えていたようだ。
いずれにせよ、この「共同富裕」なる概念に新たな命を吹き込んだのは習近平氏である。「社会主義市場経済」という虚構の下で、実際には新自由主義的経済発展を進めてきた中国は、案の定、都市と農村、沿海部と内陸部などの間で経済格差が深刻化した。その対策として習近平氏が2021年8月17日の中央財経委員会第10回会議で発表したのが、中国の深刻な経済格差の是正を目指す「共同富裕」政策である。』

中国の貧富の格差がどんなにひどいものであるか、という点について、私は以下の書籍で知りました。
 大地の咆哮 元上海総領事が見た中国

そして、以下の2つの記事を書きました。
杉本信行著「大地の咆哮」2006-12-17
四川大地震と中国の学校校舎 2008-05-18

この本の後書きは2006年になっています。そして四川大地震は2008年です。従って、杉本氏の著書は2006年頃の中国の実態を述べており、四川大地震で明らかになったことは2008年当時の中国の実態を示しているのでしょう。

杉本氏の著書から、貧富の格差についての記述を見ると以下の通りです。
上海を核とする長江デルタ地域は、日本企業の投資額の6割以上を占め、際だった存在感を示しています。その理由は、中国がさまざまな優遇策を出していることに加え、インフラが整備され、他の地域に比較してリスクが少なく、さまざまな部材を1時間以内で調達できるような便利さが実現しているためです。単純労働力のコストは相変わらず安く、有能で勤勉な労働者が容易に調達できます。

このように中国の明るい部分を描いた後、杉本氏は中国が抱える負の部分について詳細に語ります。著書の中で、この部分の記述が最も詳細です。都市住民と農民との間に生じている圧倒的な格差、農民の生活の困窮の実態が語られます。国家、省、県、市、郷鎮など各段階ごとに存在する無駄な行政機関と役人の存在により、国が政策を立案しても末端では全く実施されません。
農民は、国から耕作地を割り当てられている一方、生活最低保障、失業保険、医療保険など、都市住民が受ける社会保障の対象外となっています。逆に、地方政府からさまざまな制度外費用を徴収されます。
中国社会は、都市住民と農民との差、豊かになった沿岸部と内陸部の格差、都市の中における貧富の格差、この「三重の格差」が構造問題となっていました。

中国では、富める都市が貧窮する農村を搾取する実態があるようです。また、先に富を蓄積した富裕層は、ろくに税金を納めていません。富の再配分がまったくされていないのです。これが共産主義国家だろうかと目を疑います。日本の方がよっぽど社会主義国家です。

杉本氏は、中国の田舎における学校については以下のように述べています。
「中国の郊外の農村を視察してすぐに気づくのは、ほとんどの小学校で校舎の老朽化が甚だしいことだ。1950年代、60年代に建てられた、いまにも朽ちそうなオンボロ校舎の中に汚い椅子と机が置いてあり、他に何もなく、電気すら来ていない。」
「『危ないので、私たちの小学校を建て直してください。』
地方の村からそういった要請があるたびに、私はランドクルーザーに乗って、現場に出向いた。電灯もないようなところがほとんどである。なかには、校舎に天井がなく、空が見えていて、いつ崩落してもおかしくないような学校すらあった。」
「中国は・・・教育費に対する予算付けがあまりにも貧弱であることを指摘しておきたい。」

杉本氏は、「草の根無償資金協力」を通じて中国の田舎に300以上の校舎を建ててきました。
91年からスタートした「草の根無償資金協力」とは、1千万円程度の規模までの対中資金協力であり、中国地方政府からの要請を受け付け、日本大使館の判断で実行できるようです。中央政府を通さないので、地方で本当に必要とされる施設を建設することができます。また、それぞれが地元の人たちからは大歓迎され、本当に喜ばれました。

「こうした田舎では、1千万円もかければ、コンクリート製のかなり立派な三階建ての校舎を建てることができ、1千万円の価値に驚かされることがたびたびあった。」
日本だと、1千万円では戸建て住宅すら建つかどうか怪しいです。

杉本氏は、2006年に至る頃の中国の農村の貧困状況を肌に感じ、それを、杉本氏の権限でできる範囲で日本の援助で改善していたのです。
本来であれば、中国は都市部の経済成長で大もうけしているのですから、はやくそれを吸い上げて貧窮している農村部に再配分すべきだったのです。中国政府がそれを全くやらず、代わりに日本大使館の杉本氏が日本のお金で農村に300もの学校校舎を建設した、中国としたら恥ずかしい限りでしょう。

杉本氏の著書の2006年から現在まで15年が経過しており、その間に貧富の格差の是正は少しは進んだのかも知れません。さらに習近平が最近になって「共同富裕」を強調し、貧富の格差の是正に乗り出したということですが、「当然のことだが遅すぎた」と言いたいです。
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新総理は内閣人事局を封印すべし

2021-09-23 11:47:07 | 歴史・社会
内閣人事局ができる前、日本の政治は、「官僚内閣制」と呼ばれていました。国権の最高機関たる国会が方向を定めるのではなく、実質、官僚によって牛耳られていると。そしてその官僚、政治の方向を「国益」で判断するのではなく、自分たちの「省益」を最優先していると。
その点に関し、このブログでは2010年頃、問題意識を持っていました。
公務員制度改革の進捗 2010-01-17
原英史「官僚のレトリック」 2010-08-24
古賀茂明「日本中枢の崩壊」 2011-07-15

その後、日本の「内閣官僚制」を改めて正しい「議院内閣制」を実現すべく、内閣人事局が設立されました。ところが、それが日本の政治を良くするのではなく、逆に悪くし始めているのです。このブログでは2018年頃から問題視してきました。
内閣人事局はどうなる? 2018-03-25 で以下のようにコメントしました。
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最近、「内閣人事局」の評判が悪いようです。高級官僚が安倍総理と総理夫人に「忖度」しているのは、内閣人事局に人事を握られているからだと。

官僚たちの行動をゆがめている原因の一つは人事権です。
内閣人事局は本来、それまでは官僚に牛耳られていた政治の主導権を、本来の議院内閣制に戻すための政策の筈でした。
それなのになぜ、目の敵にされる事態となったのでしょうか。その原因の一つとして以下を上げました。
第1
お役人はそもそも、自らの人事権を持っている人事権者には頭が上がらない、上ばかりを見るいわゆる「ヒラメ役人」が大勢を占めているかもしれません。内閣人事局ができるままでは、省内の事務方トップ(次官)が人事権を握っていたため、省内の事務方トップ(次官)の意向を常に忖度して政策が立案されていました。
内閣人事局ができた結果、人事権者が省内事務方トップ(次官)から官邸に移行しました。ヒラメ役人たちは従来通り、人事権者に忖度する態度をとり続けた結果、今度は官邸に忖度することになってしまった、ということではないかと。
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その後も、安倍長期政権において内閣人事局がゆがめた日本の政治について言及してきました。
内閣人事局の功罪 2020-05-31
検察を官邸忖度型に 2020-06-01
安倍長期政権で霞ヶ関がガタガタ 2020-09-12
そして、菅次期政権による霞ヶ関支配 2020-09-14 で以下のように述べました。
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私は「安倍長期政権で霞ヶ関がガタガタ」(2020-09-12)において、
『安倍長期政権では内閣人事局を過って運用し、その結果、ちょうど良い「議院内閣制」が生じるのではなく、逆に振れた「官邸忖度内閣制」が生まれてしまったようです。
安倍長期政権には多くの功と罪があるように思いますが、内閣人事局の乱用により、霞ヶ関を機能不全に陥らせてしまったことは最大級の罪と思っています。』
と論じました。
安倍政権による、霞ヶ関に対する強権政治により、まずは官僚が官邸忖度となり、森友問題では「安倍案件」というだけで官邸からの指示もないのに森友側に優遇を図りました。そしてそれが公になると、今度は公文書改竄という恐ろしいことまで行いました。
片山善博氏(元総務大臣)曰く『かつての官僚組織には問題もありましたが、プロフェッショナルとして国民に奉仕するという気概を持った方もたくさんいました。内閣人事局が悪用されている現在よりも過去の方が相対的にマシです。
役所のいいところを潰してしまいました。今の霞が関の雰囲気はこうです。国民のためではなく政権に言われたことをやる。それで失敗したら官邸のせいにして留飲を下げる。国民のためにならないのであれば、直言する気骨が失われてしまいました。』
そしてその弊害は、コロナ対策において顕著な弊害として現れました。コロナにおいては、厚労省が一丸となって強力な政策を打ち出すべきところ、厚労省は何もなしえませんでした。
舛添要一氏(元厚労大臣)曰く、舛添氏が厚労大臣のとき、『優秀な官僚を抜擢して厚労省の大改革を断行した。2009年夏の総選挙で政権が民主党に移り、その後2012年12月の総選挙で自民党が政権に復帰した。民主党政権下でも、私が抜擢した優秀な幹部官僚は大活躍したが、その後を継いだ安倍政権は「民主党政権に協力した」という理由で、彼らを左遷してしまった。その結果、厚労省は幹部に人材が欠け、今回の新型コロナウイルス対策でまともな対応が取れないのである。』

次の総理総裁となる菅さんが、9月13日にテレビ番組で発言したようです。
菅氏、内閣人事局は変えず 「政策反対なら異動」 9/13(日) 共同通信
『自民党総裁選に立候補した菅義偉官房長官は13日のフジテレビ番組で、中央省庁の幹部人事を決める内閣人事局に見直すべき点はないと明言した。政権の決めた政策の方向性に反対する幹部は「異動してもらう」とも強調した。石破茂元幹事長、岸田文雄政調会長と出演したフジテレビ番組で発言した。
内閣人事局は2014年5月に内閣官房に新設された。幹部人事を掌握するため、官邸主導の意思決定を後押しする一方、官僚の忖度を生む要因と指摘される。』

本来、議論においては、異論を排除することなく、意見を述べさせなければなりません。議論の末に方針が定まったら、異論を述べた官僚であっても、決定された方針に従って政策を実行していかなければなりません。
従って、政策決定後にその政策実行をサボタージュする高級官僚がいたら、それは左遷されてしかるべきです。
ところが、安倍長期政権では、議論の段階で菅官房長官に異論を述べただけで、高級官僚が左遷されているのです。これは明らかに間違っています。霞ヶ関が機能不全になることは目に見えています。
コロナ対策においても、10万円給付の申請をオンラインで行うことには無理があると知っていながら、総務省はその点を官邸に伝えることをしませんでした。『政権の決めた政策の方向性に反対する幹部は「異動してもらう」』を恐れたからでしょう。
マスコミはこの点について強力に報道していかないと、菅新政権における霞ヶ関に対する人事権の乱用は続くことになります。これでは、国として機能していかないことになるでしょう。
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以下の記事に書いたように、農水省についても同様の惨状であることが示されました。
霞が関官僚の惨状 2020-12-29
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『ある農水省OBはこう嘆く。
「菅総理が官房長官時代、農水次官に『壊し屋』とあだ名された奥原正明氏を送り込み、敵対する幹部を根こそぎ排除した結果、まともな人材がいなくなった。残っているのは官邸と大臣の顔色ばかり見て、国民や業界のことなど顧みないヒラメ官僚だけだ。能力的にも、今では農林族議員への根回しなどをまともにやれるような事務官も払底していて、先は暗いと言わざるを得ない」
菅氏は総理となっても、自らの意向にそぐわない官僚を異動させると公言し、霞が関全体を恐怖で支配している。「官僚というのは給料が半分になっても昇進したい生き物」(全国紙政治部記者)なだけに、各省幹部級職員の「ヒラメ化」が急速に進んでしまうのはやむを得ない。
昭和の時代のように、官僚が圧倒的な権力を持つのもおかしいとはいえ、近代国家という枠組みが続く限り、官僚のレベルが社会の質に直結することも事実だ。』
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「強すぎる官邸」黙る霞ヶ関 2021-01-13

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以上明らかにしてきたように、安倍長期政権での管官房長官、菅政権での菅総理が、内閣人事局の権限の濫用によって霞ヶ関官僚を萎縮させ、忖度させ、日本の政治実行力を極めて毀損していることが明らかです。
そこで次期総理には、次のことを提案します。

総理になったら、「内閣人事局は伝家の宝刀であると認識し、濫用は慎み、本当に必要なとき以外は、原局から上がってきた人事案を極力尊重する」と宣言するのです。

これを聞いた霞ヶ関官僚は、安心して官邸に対して政策を献策し、あるいは官邸の示した方向が正しくなければ意見をするようになるでしょう。
また、片山氏が言うような、『今の霞が関の雰囲気はこうです。国民のためではなく政権に言われたことをやる。それで失敗したら官邸のせいにして留飲を下げる。国民のためにならないのであれば、直言する気骨が失われてしまいました。』という状況から脱することができるでしょう。
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中村哲「天、共に在り」(2)

2021-09-20 10:23:41 | 歴史・社会
2013年に発行された中村哲さんの著書「天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い」から、中村さんがアフガニスタンで行ってきた事業についてピックアップします。
まずは簡単な年表です。
1973年 九州大学医学部卒業
1984~90年 パキスタンのペシャワール・ミッション病院で勤務。赴任をきっかけにペシャワール会が発足
1991年~ アフガニスタンにダラエヌール診療所はじめ、3診療所を開設
2000年~ アフガニスタンが大干魃に襲われ、井戸掘り事業を始める
2003年 用水路建設を開始(マルワリード用水路)
2005年 2診療所撤退
2007年 用水路第1期工事13kmが開通、さらにガンベリ砂漠を目指すことに
2008年3月 治安の悪化を肌で感じ、日本人ワーカー全員の帰国を決定
     8月 伊藤和也氏が誘拐・殺害され、日本人全員が帰国
2010年 モスクとマラドサを建設
      ガンベリ砂漠まで用水路が開通
      豪雨による大洪水
      JICAとの共同事業となる
2013年 カシコート=マルワリード連続堰が大方の基礎を終えた
書籍の記述はここまでです。2019年、中村さんは武装勢力に銃撃され死去されました。

昆虫少年だった中村さんは、1978年、ヒンズークシュ遠征隊に参加しました。アフガニスタンの大部分が、ヒンズークシュ山脈にすっぽり包まれています。
『その後の数々の出会いの連続が、自分をこの山に呼び戻したと言ってもよい。』
1983年頃、たまたま日本を訪れたパキスタンのペシャワール・ミッション病院の院長が、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)に医師派遣を要請しました。JOCSから中村氏に声がかかり、「あそこなら、一度働いてみたかった」と名乗り出て赴任が決まりました。中村氏の赴任をきっかけに発足したのがペシャワール会です。
ペシャワールに下見に行った際、ドイツ人医師からハンセン病治療に協力して欲しいと懇請を受けました。中村氏は赴任するとすぐ、「ハンセン病棟担当」を申し出ました。
ペシャワール(パキスタン)もアフガニスタン東部も、住んでいるのはパシュトゥン人であり、中村氏の病院にはアフガニスタンの患者も訪れます。アフガニスタンは当時、ソ連軍が侵攻して激烈な内戦の中にありました。
ハンセン病が多いところは同時に他の感染症の多発地帯です。中村さんたちは、内戦が下火になった暁には診療所をアフガン山村に建設し、一般診療を行いながらハンセン病も診療を行うことを決めました。まずは、アフガン住民の青年たちの中から20名の人材を集め、2年間の「診療員」養成をはじめました。
1991年になって内戦が下火になると、アフガニスタンのクナール川に近いダラエヌール渓谷に診療所を開設しました。

2000年、中央アジア全体が未曾有の干魃にさらされました。アフガニスタンの被害が最も激烈で、400万人が飢餓線上、100万人が餓死線上にあるとされました。
『この状態の中で、死にかけた幼児を抱いた母親が診療所にくる姿が目立って増えた。・・・生きてたどり着いても、外来で列をなして待つ間にわが子が胸の中で死亡、途方に暮れる母親の姿は珍しくなかった。』(84ページ)
こうして2000年7月、「もう病気治療どころではない」と、診療所自ら率先して清潔な飲料水の確保に乗り出しました。

本格的な「井戸掘り事業」がナンガラハル州全体の渇水地帯に展開されるようになりました。
昔から井戸はありますが、渇水で地下水の水位が下がっていました。掘り進むと途中に巨礫の層があります。削岩機で巨岩に穴を開け、爆薬を詰めて粉砕する方法が奏功しました。
『日本人青年たちは地元の若い職員数十名を率いて、翌2001年までには660カ所となり、・・・最終的に2006年までに約1600ヶ所に達し、数十ヶ村の人々が離村を避け得るという大きな仕事に発展していった。』
だが、飲料水があるだけでは生活できません。

2001年、9・11が発生しました。
テロ特措法成立前の2001年10月、中村さんは国会で話をすることを求められました。干魃の実態を伝え、食糧配給計画をアピールするには千載一遇の機会と考え、快諾しました。国会では「NGOなどを守るために、自衛隊を派遣する」という議論が行われました。中村さんは、「よって自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消こそが最大の問題であります。」と発言しました。
ペシャワール会で「緊急食糧支援」を訴えると、最終的には6億円が集まりました。
ペシャワール側で小麦粉などを買い付け、空爆前に送りつけたいところでしたが、10月7日、ジャララバードが空襲されました。この中で、志願した職員が食料の輸送に当たりました。

中村さんは、食糧配給の訴えに寄せられた基金6億円を投じて、農業復興に全力を尽くす方針を固めました。
第一弾として、クナール川のジャリババからナンガラハル州シェイワ郡まで13キロメートルの用水路建設(最終的にはガンベリ砂漠まで約25キロメートルに延長)を決めました。
リーダーが医師の中村氏、そして実行部隊は現地の農民たちです。用水路建設の専門家は皆無です。
コンクリートを用いた現代技術を採用するのではなく、現地の農民たちが補修することのできる、昔ながらの工法を採用しました。特に、日本において、江戸時代に建設されて現代まで生き残っている施設を参考にしました。

大きな川から取水する用水路において、取水口が非常にやっかいなのですね。通常に取水できるだけでなく、大洪水が起こっても破壊されない取水口であることが必要です。日本で江戸時代から現代まで生き残っている用水路、特に福岡県朝倉市に現存する山田堰という取水口が参考になりました。
用水路については蛇籠工が採用されました。水路壁の蛇籠工は、現地で施工する立場から見ると、技術的にはるかに易しく、維持補修も容易です。これと柳枝工を組み合わせれば、さらに強靱となります。
日本側では、ペシャワール会が血のにじむような努力で、年間3億円の募金を集め続けました。
こうして2005年4月、第1の標的の用水路が開通し、480町歩の灌水が開始されました。たちまち人家が無人の荒野に建ち並びはじめ、20年以上消えていた村々と緑の田畑が忽然と姿を現しました。2007年4月、第1期工事13キロメートルが開通するまで、1200町歩を超える広大な田園が復活しました。

アフガン農村の特質は、それぞれの部族が独立割拠しながらも、「イスラム」と共通の不文律を戴いて秩序を形成しています。各村自治体の長老が金曜日に地域の中心にある「大モスク」に礼拝で集まり、多くのもめごとがここで解決されます。「大モスク」は普通、マドラサという伝統的な教育設備を備え、地域の教育の中心でもあります。
ところが、砂漠化していた場所に建設予定地はありますが、誰も手を出しません。当時、「マドラサはタリバンの温床」との認識が在り、建設すれば攻撃を受けるかも知れないと皆恐れていました。
そこで中村さんは、州の教育大臣、全国組織の州境委員会も加わり、モスクとマドラサの建設に踏み切りました。

2008年3月、中村さんは種々の情報から治安の悪化を肌で感じ、日本人ワーカー全員の帰国を決定しました。しかし、撤退を進める途中の8月、伊藤和也氏が誘拐・殺害されるといういたましい事件が発生し、このあと日本人ワーカーが全員、帰国することになりました。現地には中村氏のみが残りました。

用水路工事の作業員は常時400名で、チームは育っていました。それまでに完成した用水路がしばしば鉄砲水や洪水にさらされ、改修を余儀なくされたものの、その強さが実証され、職員・作業員たちは自信を深めました。工法も次第に洗練されました。

第1期工事で建設した用水路のさらに先に、ガンベリ砂漠があります。中村さんは、このガンベリ砂漠まで用水路を延ばし、砂漠を農地化する計画に進みました。

用水路はクナール川に沿って建設され、その途中では大きな谷を横断します。集中豪雨になれば信じられない水量の鉄砲水が谷を下り、砂漠に注ぎます。用水路は一撃で破壊されるでしょう。中村さんは、大きな貯水池を設け、鉄砲水を貯水池で受けて用水路に流す方針を採りました。谷にダムを建設して貯水池とします。盛土量は、ダンプカーで推定約2万台分になりました。
2009年8月、全線が開通し、用水路の終端まで水が到達しました。
マルワリード用水路は、一日送水量40万トン、灌漑面積3120ヘクタールとなりました。総工費14億円は、全てペシャワール会に寄せられた会費と募金によって賄われました。

2010年7月、現地は長期間の豪雨に見舞われました。
Q2貯水池には大量の水が谷を下り、池に注ぎ込んでいます。中村さんは現場に立ち尽くしましたがなす術がありません。しかし、ダムは崩れませんでした。

2010年3月、JICAカブール事務所の新任所長、花里信彦氏から視察の申し入れを受けました。そして、これ以降、周辺地域の取水設備の整備が矢継ぎ早に「共同事業」として実施されることになりました。共同事業は、年々安定灌漑地を増やし、計16500町歩の耕地復活を目指し、65万人の農民の生活安定を保障すべく、一大穀倉地帯が復活しつつあります。

『2013年3月、10年にわたる試行錯誤と努力の集大成と呼ぶべき「カシコート=マリワールド連続堰」が大方の基礎を終えた。これによって、両岸併せて約5000町歩以上の安定灌漑が約束された。2013年夏、数度にわたって、2010年を更に上回る洪水がクナール河とカブール河本川沿いに押し寄せたが、どの取水口も被害を免れた。「洪水にも渇水にも強い堰」は、多くの人々を救った。時を同じくして、作業地全域で爆発的に水稲栽培が拡大した。みな、途切れぬ水が来ることを信じたからだ。PMSの導入した取水システムによって、安定灌漑が地域の人々に確実な収穫を約束したのだ。
山田堰と出会って10年、2000年来描いてきた夢は、今現実化しつつある。』

中村さんが、パキスタン・ペシャワールの病院に赴任したのも、ハンセン病に取り組むことにしたのも、パキスタンの隣国アフガニスタンの山中に診療所を設けたのも、また、最終的にアフガニスタンの灌漑事業に邁進したのも、最初から計画したことではなく、それぞれの時点での人との出会い、現場でのニーズに発したものでした。
また、アフガニスタンの大干魃に起因する大飢饉から人々を救うための灌漑事業です、当該国が貧乏であれば、国際協力で資金を調達するのが普通でしょう。それが中村さんの場合、2010年までは私的な募金組織であるペシャワール会への寄付のみを基にした事業であったということに驚嘆します。

一介の医師に過ぎない中村さんが、自分の活動に向けての個人の寄付のみを頼りに、専門外の外国の灌漑事業に心血を注いだ、という物語でした。

中村さんは凶弾に倒れましたが、このような人が現代の日本にいらしたことを誇りに思い、忘れることなく記憶に留めておきたいと思います。
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米軍、カブール誤爆認める

2021-09-19 11:06:42 | 歴史・社会
米軍、カブール誤爆認める 犠牲10人、ISと無関係 白い車、テロ誤認
2021年9月19日 朝日新聞
『米中央軍は17日、アフガニスタンの首都カブールで8月29日に実施した無人機(ドローン)による空爆が、民間人への誤爆だったとして謝罪した。米軍の対テロ戦争での誤爆は繰り返し指摘されてきたが、米軍撤退が注目を集めるなかでの失態は、ずさんな情報をもとにした攻撃の内実を浮き彫りにした。』
『これまでも無人機による誤爆や民間人の巻き添えが問題視されてきた。・・・米軍アフガン政府軍などの空爆で死亡した民間人は約3800人にのぼる。現地で反米感情を生む要因となってきた。ただ、米軍は今後も無人機などを活用した対テロ作戦を続ける方針を示している。』
『タリバンは被害のあった村に勧誘係を送り、戦闘員を集めた。空爆被害は「米軍は侵略者だ」と唱えるタリバンの「聖戦」に一定の説得力をもたらした。
米軍の空爆は、トランプ前大統領の就任後に急増した。』

米国はアフガニスタン戦争を始めてからこの20年間、同じ間違いを繰り返してきたことになります。
2008年当時の当ブログ過去ログ
参議院外交防衛委員会での中村哲氏 2008-11-08
『○アフガンを蝕んでいるのは暴力主義。治安は悪くなる一方で、パキスタン北西部を巻き込んでいる。
対テロ戦争という名の外国軍による空爆が、治安悪化の原因。
かつてなく、欧米諸国軍への憎悪が民衆にうずまいている。
○アフガニスタンで復讐は絶対の掟である。


1年前国会での伊勢崎賢治氏参考人発言 2009-01-16
『まずアフガンの治安問題。
国際部隊がテロリストせん滅のためにピンポイント爆撃を行うと、その周りの、戦闘員には絶対になり得ない女子、子供が巻き添えになるという
、これは今大変な数に上っています。これがアフガン世論の反感を買っており、南東部では一般の農民がタリバンの方に寝返ってしまう。』

そして、昨日の当ブログ記事
中村哲著「天、共に在り」 2021-09-18
にも書いたように、2013年に発行された中村哲さんの著書「天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い」でも、
『日本でまとこしやかに報道された「ピンポイント攻撃(テロリストの場所だけを攻撃して市民に被害を与えない)」の実態は、無差別爆撃であった。』(88ページ)
『いかに粉飾しようと、この戦争のツケは、暴力的報復として、やがて現れるだろう。爆風で散乱した肉親の死体を拾い集め、両親の屍に取りすがって泣いていた子供たちの姿がこころに焼き付いて離れない。彼らが長じたとき・・・、不憫な思いと共に、うそ寒いものを感じざるを得なかった。』(101ページ)
と記述されています。
2003年に中村さんたちの用水路建設現場が機銃掃射を受けました。当局は「疑わしきは攻撃してから、確認する」と述べました。『さらに、「戦死した戦友を思う気持ちを分かって欲しい」と付け加えた。当方は「空爆で肉親を失った人々の思いを分かって欲しい」と言い返したかったが、報復を恐れて公言できなかった。』
今回の誤爆も米国は、「ISの自爆テロで死亡した13人の米兵を思う気持ちを分かって欲しい」と言いたいのでしょう。

2001年に米国が開始した20年間にわたるアフガン戦争で、アフガニスタンの人々がアメリカに対して復讐心を募らせていった実態がよくわかります。「アメリカ傀儡の現政権か、タリバン政権か」と迫られたとき、タリバンを選んだとしても全然不思議ではありません。
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中村哲著「天、共に在り」

2021-09-18 18:59:45 | 歴史・社会
2001年にアメリカが主導して始めたアフガン戦争は、当初はあっという間に当時のタリバン政権を打倒して民主政権(実はアメリカ傀儡政権)を樹立したものの、20年後の今年にタリバンに軍事力によって政権を奪還され、アメリカの敗戦で終わりました。
この20年間、実はアフガニスタンではどのような状況であったのか、私はこのブログを読み返し、以下の3つの記事を掲載しました。
タリバーンがアフガンを制圧 2021-08-16
タリバーンがアフガンを制圧(2) 2021-08-17
駐留20年の教訓 2021-08-21

最初の2記事は、主にアフガニスタンで活動されていた故・中村哲さんの発言と、同じくアフガニスタンで武装解除で活動した伊勢崎賢治さんの発言をもとにしたものですが、いずれも2008年から2009年にかけてのアフガニスタンでの実情であって、今から13年も前のことです。
そこで、それよりも以降におけるアフガニスタンでの実情を知るべく、探した結果として、中村哲さんの以下の書籍(2013年発行)を読むこととしました。
天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い

1973年 九州大学医学部卒業
1984~90年 パキスタンのペシャワール・ミッション病院で勤務。赴任をきっかけにペシャワール会が発足
1991年~ アフガニスタンにダラエヌール診療所はじめ、3診療所を開設
2000年~ アフガニスタンが大干魃に襲われ、井戸掘り事業を始める
2003年 用水路建設を開始(マルワリード用水路)
2005年 2診療所撤退
2007年 用水路第1期工事13kmが開通、さらにガンベリ砂漠を目指すことに
2008年3月 治安の悪化を肌で感じ、日本人ワーカー全員の帰国を決定
     8月 伊藤和也氏が誘拐・殺害され、日本人全員が帰国
2010年 モスクとマラドサを建設
      ガンベリ砂漠まで用水路が開通
      豪雨による大洪水
      JICAとの共同事業となる
2013年 カシコート=マルワリード連続堰が大方の基礎を終えた
書籍の記述はここまでです。2019年、中村さんは武装勢力に銃撃され死去されました。

まずは、この書籍から読み取ることのできる、2013年に至るまでのアフガニスタン東部山岳地帯での治安状況についてピックアップします。

『アフガニスタン復興は、今も茨の道である。この国を根底から打ちのめしたのは、内戦や外国の干渉ばかりではない。最大の元凶は、2000年夏以来顕在化した大干魃である。この農業国は、往時は完全な食糧自給を果たし、豊かな農産物を輸出して富を得ていた。それが、急速に進行する農地の砂漠化で廃村が広がり、流民が急増、食糧自給率はわすが5年で半減した。干魃はなおも進行中である。しかし、派手な戦争報告を他所に、このことはほとんど伝えられていない。』(12ページ)

国というと、中央集権の法治国家をイメージしますが、アフガニスタンは違います。一方、地域の自治性がいかに強くても、部族、民族が入り乱れて争っていても、共通した不文律が「アフガニスタンという天下」にまとまりを与えています。
不文律で代表的なものが「客人接待」と「復讐法」です。
アメリカが対タリバン・アフガニスタン戦争を開始したのは、「タリバンがアルカイダと提携し、頭目のビンラーディンと同盟している」ことによりますが、ビンラーディンはタリバンにとって客人であり、「客人を理由なく売り渡さない」は不文律に従ったものでした。

1978年、左翼青年将校のクーデターで急進的な共産政権が誕生しました。反政府的なイスラム主義者の激しい弾圧が行われ、反乱が全国に拡大しました。政権が危機的とみたソ連は、1979年に大部隊を侵攻させました。ソ連=共産政府は、村落ぐるみの徹底的な破壊を行いました。ソ連軍が撤退する1989年まで、200万人が死亡したと見積もられ、国外に避難する大量難民が生まれました。パキスタンに270万、イランに150万以上が難民化しました。
ソ連軍撤退後も内戦はますます混迷を極めました。
1991年に共産政権が倒れると、地方に割拠していた各政治勢力がカブールに集中、戦場が農村から都市に移ると、難民はただちに爆発的な帰郷を開始しました。パキスタンから200万人が帰還しました。
2000年、中央アジア全体が未曾有の干魃にさらされました。アフガニスタンの被害が最も激烈で、400万人が飢餓線上、100万人が餓死線上にあるとされました。
『この状態の中で、死にかけた幼児を抱いた母親が診療時ににくる姿が目立って増えた。・・・生きてたどり着いても、外来で列をなして待つ間にわが子が胸の中で死亡、途方に暮れる母親の姿は珍しくなかった。』(84ページ)
こうして2000年7月、「もう病気治療どころではない」と、診療所自ら率先して清潔な飲料水の確保に乗り出しました。

2001年 9・11が勃発します。アメリカによる報復戦争が始まり、10月7日にはジャララバードが空襲されました。
『日本でまとこしやかに報道された「ピンポイント攻撃(テロリストの場所だけを攻撃して市民に被害を与えない)」の実態は、無差別爆撃であった。』(88ページ)
『いかに粉飾しようと、この戦争のツケは、暴力的報復として、やがて現れるだろう。爆風で散乱した肉親の死体を拾い集め、両親の屍に取りすがって泣いていた子供たちの姿がこころに焼き付いて離れない。彼らが長じたとき・・・、不憫な思いと共に、うそ寒いものを感じざるを得なかった。』(101ページ)

『多くの救援団体は首都カブールだけに集中し、学校教育の在り方、男女平等の徹底などを論じる傍らで、多くの人々がその日の糧にも喘いでいることを知っているとは思えなかった。
教育や男女平等が無用と言うのではない。死にかけたわが子を抱きしめて診療所に急ぐ母親、一家の働き手を空爆で失って途方に暮れる主婦、延々数キロの道のりを水くみで往復する農村の女性たち、彼女らの声が反映されているとは言えなかった。』(103ページ)

2002年、アフガニスタンでは復興支援ラッシュの結果、大インフレとなりました。さらに、医師らは、カブールに行けば5~10倍の給与を保障されることから、中村さんらが開設する診療所から去って行きました。アフガニスタン奥地に開設する3診療所のうち、2つを閉鎖せざるを得ませんでした。

2002年、治安は悪化の一途をたどり、米軍の「アルカイダ掃討作戦」はいたずらに反米感情を煽るばかりで実が上がりませんでした。外国軍の「掃討作戦」は粗雑なもので、モスクや学校の誤爆が後を絶たず、反感と復讐心を人々の間に増幅させました。
『ISAF(国際治安支援部隊)が「地方展開」を始めてから、治安は坂を転げ落ちるように悪化の一途をたどった。彼らが進駐するところ、ただちに戦火が広がった。』(160ページ)

『2009年3月、用水路の沈砂池に「養魚池」を作る計画が、PRT(米軍・地方復興チーム)から農業省を通して伝えられた。そんなものができれば、水量調節ができなくて用水路が台無しになり、流域農民が迷惑する。だが通告が高圧的で、有無を言わせぬ態度だった。』(184ページ)
PRTというと、ゴール県のチャグチャランで日本人文民4人が従事した活動を思い出します。4人のうち2人は女性(今井千尋さんと石崎妃早子さん)でした。
アフガニスタン奮闘記 2011-12-10
アフガニスタン奮闘記(2) 2011-12-12

以上のように眺めてみると、2001年に米国が開始した20年間にわたるアフガン戦争で、アフガニスタンの人々がアメリカに対して復讐心を募らせていった実態がよくわかります。「アメリカ傀儡の現政権か、タリバン政権か」と迫られたとき、タリバンを選んだとしても全然不思議ではありません。

また、今回のタリバンによるアフガニスタン制圧で、女性の権利が失われていることが世界的に非難されています。それはその通りなのですが、カブールを一歩離れて地方の農村地帯に行けば、アフガニスタンの女性たちがこの20年間戦乱でどれだけつらい思いをしたか、そして現在も続く大干魃でどれだけひどい目に遭っているか、そこにもきちんと目を向ける必要があります。
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ノモンハン事件での火炎瓶攻撃

2021-09-14 00:09:09 | 歴史・社会
サイダー瓶でソ連と戦った 五輪後にノモンハン従軍、元選手の証言 2021年9月13日 朝日新聞
『華やかなオリンピックの舞台の後、待っていたのは戦場だった――。戦時下の中国東北部(旧満州国)で、日本陸軍が関わった作戦について、元将校らが証言した戦後のインタビュー音源が、米国の大学図書館に残されている。36人、計178時間におよぶ録音の中に、かつて世界記録を打ち立てた元水泳選手の証言があった。』
『戦場の様子を淡々と語る声の主は、1936年のベルリン五輪に出場した故・野上博氏』
『証言録音によると、満州に駐屯した陸軍の部隊「関東軍」で、歩兵第26連隊に所属した。主計少尉として、軍の会計事務を担い、戦場では食料や水の補給役だったという。
五輪から3年後の39年、根上氏はモンゴル東部の草原地帯に派遣された。当時、関東軍とソ連軍がぶつかるノモンハン事件が勃発。ソ連は戦車を中心とする機械化部隊を送り込み、日本にとっては初めて経験する本格的な近代戦だったとされる。』
『野上氏が調達したものの中に、サイダー瓶があった。』
『空き瓶にガソリンを注ぎ、敵の戦車に突進させる。急ごしらえの火炎瓶攻撃が繰り返された。関東軍が独断で広げた戦闘で、日本側は壊滅的な打撃を受けた。根上氏が受けた空き瓶の調達命令は、無謀な戦いの一端を示すものだった。』

このブログでは、「ノモンハンの戦い 2006-04-13」を書いています。
1939年当時、満州国とモンゴル人民共和国の国境線の一部は、ハルハ川に沿っており、さらにその一部において、満州国側はハルハ川が国境と主張し、モンゴル側はハルハ川から20~30km東のノモンハン付近が国境であると主張する国境紛争地域がありました。このハルハ川東岸の国境紛争地域において、1939年夏に日・満軍とソ・モ軍との間で行われた戦闘がノモンハン事件です。
戦闘は以下のように、(1)から(4)までの戦いが断続的に行われました。
(1)5月10日~31日、ハルハ川東岸地域での両軍の小競り合いの後、ソ・モ軍の退路を断とうとしてハルハ川東岸沿いに南下した東中佐指揮捜索隊(大隊規模)が壊滅的打撃を受ける。
(2)6月27日~7月13日、日本軍(複数連隊規模)がハルハ川を渡河してハルハ川西岸台地のソ連砲兵陣地を攻撃しようとするが、撃退される。
(3)7月23~24日、日本軍砲兵兵力で攻めようとして不成功に終わる。その後、ハルハ川東岸に日本軍陣地を構築する。
(4)8月20日~31日、ソ連軍が圧倒的兵力でハルハ川をわたり、東岸の日本軍陣地を包囲攻撃し、日本軍(師団規模)はほぼ殲滅する。ソ連軍は彼らが主張する国境線で進軍を止める。その後、日本とソ連との間に停戦協定が結ばれる。

(1)(4)は日本の負けです。「日本軍がソ連から徹底的にやられた」というのは、(4)の戦いです。それに対して(2)の戦いでは、最終的には日本軍が撃退されるのですが、その過程で、ソ連軍の戦車が日本軍歩兵の火炎瓶攻撃で大きな損害を受けました。
7月3日からの日本軍ハルハ川渡河作戦は、最初奇襲に成功します。渡河を察知したソ連軍は、歩兵の援護をつけないままで戦車隊を急派します。ソ連軍戦車(ガソリン使用)は日本の歩兵が投げる火炎瓶で次々に炎上し、100台近くのソ連軍戦車が破壊されたようです。歩兵の援護がない戦車は敵歩兵に対して脆弱だということですね。そしてガソリン戦車は火炎瓶に弱かったということです。

以上の通りですから、ノモンハンの戦いにおいて、日本軍の火炎瓶攻撃はソ連軍戦車に対して威力を発揮していたのです。朝日新聞の記事は、その点で事実誤認があります。(1)から(4)までの戦いの末、(4)で日本が壊滅的にやられたのですが、途中経過の(2)では火炎瓶でソ連軍戦車を破壊させていたのです。

(4)の戦いで最終的にソ連は勝利したものの、全体として甚大な被害を受けました。
日本側の戦没者は一説によると18000人です。一方ソ連側も、戦死と行方不明合わせて8000人に上るようです。
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2007年頃のイラク国内の実態

2021-09-11 13:25:54 | 歴史・社会
(9・11から20年)ウソの密告、米軍に殺された家族 「協力者」頼みの反米武装勢力掃討 2021年9月7日  朝日新聞
『甲高い犬の鳴き声、そして、兄弟の断末魔が耳にこびりついている。
2007年9月24日未明、バグダッド北部の農業地帯。サミア・ハリルさん(49)はヘリの騒音で目覚めた。通りを挟んで数十メートル離れた実家の上空に、ヘリが旋回していた。実家は兄弟9人がそれぞれの妻子らとともに暮らしていた。米兵がヘリから降り立ち、実家に一斉に突入した。』
15~30歳の兄弟5人、そして、親類一人が殺害されました。
なぜ米軍は兄弟らを狙ったのか。米軍が突入する数カ月前、同じ地区の人から米軍を支援する民兵団に入隊しないかと誘われましたがそれを断りました。
「だから、誰かが『やつらは反米武装勢力だ』と米軍に密告したんだと思う」、とサミアさんはいいます。兄弟は誰一人として反米闘争に関与していなかったといいます。

『バグダッドの大学生、サアダラ・イブラヒムさん(23)は、米軍に姉らを殺害されたという。
サアダラさんはサミアさんと同じ地区の出身。・・・
07年8月初旬のある日、午前3時ごろだった。
ヘリの轟音に飛び起きたサアダラさんは当時9歳。数百メートル先に、旋回する2機の大形輸送用ヘリを見つけた。ロープをつたい、次々に兵士たちが降下していく。
米軍の急襲だった。突入先は姉アズハールさん(当時24)とその夫アマフドさん(当時29)らが暮らす家だ。』
姉、アマフドさん、同居していたいとこが死んでいました。
『事件後、両親から聞かされたのも、アマフドさんらが「反米武装組織の一員だった」という密告が米軍にもたらされていたらしい、ということだ。』
『サミアさんやサアダラさんが住んでいた地区はイスラム教スンニ派が多数を占める。』
--新聞記事以上-----------------
バグダッド北部で、イスラム教スンニ派が多数を占める地区というと、スンニー派トライアングルが思い出されます。ウィキによると、バグダッドを南東頂、ティクリートを北頂とする、一辺が200キロ程度の三角形地帯です。底辺(南辺)の中心付近にファルージャがあります。

イラク戦争は、米軍主体の軍隊が攻め込んだのが2003年3月、5月にはブッシュ大統領が「大規模戦闘終結宣言」を出しました。フセイン大統領が拘束されたのはその年の12月です。
米軍がファルージャに攻め込んで多数の民間人死傷者を出したのが2004年4月、同年の11月には同じファルージャの市街包囲掃討作戦があり、ファルージャは徹底的に破壊されました。

今回記事の悲劇があった2007年は、イラク戦争の一応の停戦から4年、ファルージャの激戦からも3年が経過しています。2007年に、イラクではどのような状況だったのでしょうか。

2007年頃、イラクはますます危険な国に変貌し、私が頼りにしていた酒井啓子先生の著作続報は出ないし、日本のジャーナリストも現地に入れず、情報が途絶えていました。唯一、バグダッドに住むハンドル名リバーベンドという女性のブログ記事が頼りであり、それを本にした「いま、イラクを生きる―バグダッド・バーニング〈2〉」で情報を入手していました。また、その頃出版されたパトリック・コバーン著「イラク占領―戦争と抵抗」(緑風出版)も読みました。

以下、私のブログ記事「リバーベンドが語るイラクの現状 2007-02-15」より
リバーベンドとは、バグダッドに在住し、当時20代後半の女性で、イラクの現状をブログで発信し続けている人物でした。ただしその本人が誰であるかは不明で、実は全くの他人がなりすましている可能性も否定できません。
しかし彼女の文章を読む限り、イラクの現状について真実を語っているように思われました。

私は、この頃になって彼女のブログ記事を日本語に訳した著書(バグダッド・バーニング2)をはじめて読み、07年2月4日2月11日に記事にしました。

リバーベンドのブログから、2006年から7年にかけて、イラクがどんどん悪い方向に転がり落ちている状況を見て取ることができます。

彼女の2006年12月29日のブログ記事から
「平均的イラク人の1日の生活は、遺体の身元確認や、自動車爆弾を避けることや、監禁されたり、追放されたり、誘拐されたりしている彼らの家族たちを探すことだけに明け暮れている。
2006年は、はっきり言ってこれまでで最悪の年だった。間違いないわ。」
「この年は特に転換点だった。ほとんどのイラク人が多くのものを失った。本当に多くのものを。この戦争と占領によって私達が喪失したものを言い表すことなんて不可能だわ。毎日40体ほどの、切断され腐敗した様々な状態の遺体が見つかっていると知っていることから湧き上がってくる気持ちを言い表せる言葉なんてありはしない。イラク人ひとりひとりに覆いかぶさっている恐怖の黒く厚い雲を埋め合わせてくれるものなんてありはしない。手に負えなく怖しいものは、名前が「スンニ的」か「シーア的」かなんて馬鹿げたことで区別されること。もっと恐ろしいもの-戦車に乗ったアメリカ兵、地域をパトロールする黒いバンダナに緑の旗を持った警察、検問の黒い覆面をしたイラク軍兵士。
バグダードはシーアが立ち去ったスンニ地域と、スンニが立ち去ったシーア地域とに引き裂かれていっている-ある地域は脅迫のもとで、またある地域は襲撃の恐怖のうちに。人々は検問で大っぴらに銃撃されたり、ゆきずりの車から撃たれて殺されていっている...多くの大学では授業を中止した。何千人ものイラク人たちはもはや子供たちを学校にやってはいない-安全ではないからだ。」

リバーベンドがイラクを脱出した 2007-09-19
4月26日以降、リバーベンドのブログはずっと新しい記事がアップされていなかったのですが、9月6日の記事がアップされていました。
リバーベンドとその家族はとうとうイラクを脱出しました。
自動車に乗ってシリアとの国境を越え、シリアに脱出したようです。なぜシリアかというと、ビザ無しに入国できる国がシリアとヨルダンだけだからです。ヨルダン人は避難民に対して酷くあたるようになっているので、シリアを選びました。
リバーベンドが脱出先に選んだイラクは、その後、内乱の地獄となってしまいました。リバーベンドはその後、どのように暮らしているのでしょうか。ウィキによると、「そのシリアでも紛争が始まり、第三国への移住を考えていると投稿した2013年を最後にブログの更新は止まり、現在の消息は不明である。」ということです。

イラク戦争が始まる前、リバーベンドはバグダッドに住みコンピュータ技術者として生活していた20代後半の女性でした。われわれは「フセインの恐怖政治」が行われていると理解していましたが、バグダッドの一般市民は平穏な生活を営んでいたことになります。イラク戦争が始まり、そして主要な戦闘が終了しましたが、2007年、そのイラクから逃げ出さなければならないほど、バグダッドは人が住む町ではなくなっていたということです。
冒頭の新聞記事に描かれていた悲劇は、まさに同じ頃にバグダッドの北部農村地帯で実際に起こった悲劇でした。

アメリカと賛同国が始めたイラク戦争の結果として、フセイン政権が崩壊したのみならず、イラクという国そのものが破綻国家となってしまいました。イラク戦争前はバグダッドに平穏に暮らしていたリバーベンドとその家族も、身の危険からシリアに脱出せざるを得ないことになったのです。
一時期のIS(イスラム国)も、イラク北部のスンニー派地帯の混乱が原因で拡大したものです。

9・11で逆上したアメリカとアメリカ人は、アフガニスタンとイラクに攻め入り、その両国を平和にするどころか、両国を破壊して両国人に塗炭の苦しみを被らせることになってしまいました。それが現在に続いているということです。
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アフガニスタンからの退避失敗

2021-09-07 15:33:12 | 歴史・社会
日本出遅れ、退避失敗 現地スタッフら500人運べず アフガン 2021年9月1日 朝日新聞
『アフガニスタンから日本大使館や国際協力機構(JICA)の外国人スタッフらを連れ出す日本政府の「退避作戦」は、失敗に終わった。想定外の速さで首都カブールが陥落するなか、自衛隊派遣の決断の遅れが響いた。』
『タリバンによってカンダハルが陥落したのは8月13日。そのころ、外務省内では「2,3日で事態が急変することはない」(幹部)との見方が強かった。
15日、首都カブールではタリバンが大統領府を制圧した。
カブールの日本大使館は即日、閉鎖された。日本人大使館員12人はカブールの空港へと移動。米軍機で退避する計画だったが空港内は混乱しており、米軍機の発着所にたどり着けなかった。結局、12人は2晩を空港ロビーで明かした後、英軍機で国外へ脱出した。

大使館員のアフガニスタン人スタッフが、8月上旬に退避計画づくりを進言した際に返ってきたのは「心配しなくていい。他の国が退避のアクションを取れば日本も続くから。」との言葉。懸念は現実のものとなった。

米側から外務省には「自衛隊機を出した方が良い」との考えが伝えられていた。・・・空港の混乱ぶりに同省幹部は「自衛隊員が命を落とせば、政権が吹っ飛ぶ」として慎重に検討していたと明かした。
防衛省は独自に派遣検討を進めていた。20日に入り、外務省は防衛省と派遣に向けて詰めの協議に入った。
23日、岸防衛大臣が派遣命令を出し、同日夕にはC2輸送機が入間基地を出発した。

韓国も日本と同様に大使館員を国外退避させていたが、4人の大使館員を現地に戻し、米国が契約する現地のバスを確保させた。タリバンの検問は米国人に同乗してもらい通過した。国外へ逃れたのは25,26日で400人近くにのぼった。

(日本は26日)カブール市内の集合場所から午後6時までにはバス27台で分乗し、空港に向かう計画を立てた。空港に向かおうとした矢先、空港付近でイスラム国(IS)による自爆テロが発生。作戦断念を余儀なくされた。』

その後国内では、「自衛隊機の派遣の判断がもう少し早かったら」との議論があります。今回は、カブール空港から国外への空路輸送が問題だったのではなく、カブール市内から退避当事者をカブール空港まで移送するところに問題がありました。
自衛隊員が進出できるのは、あくまで米軍が掌握するカブール国際空港内限りであって、空港外のカブール市内に武装した自衛隊員が進出できる可能性はゼロでしょう。当該国の許可が必要です。しかし、国が崩壊しており、交渉相手がいません。
ここは、駐アフガニスタン日本大使館員がバスを手配し、タリバンの当事者の了解のもとに退避者をバスでカブール市内から空港まで移送する手はずを整えることが唯一の手段と思われます。従って、自衛隊機の派遣決定の遅れが問題だったのではなく、一番鍵を握る現地の日本外交官が働けるか否か、がポイントだったはずです。
日本人外交官が携帯電話を持ってカブール空港内に配置されてさえいれば、日本大使館まで出向かなくても、退避計画を実行できた可能性もあります。
「韓国外交官にはできたのに、なぜ日本外交官にはできなかったのか」厳しい問題です。

アフガニスタンの日本大使館員が国外退避したとき、駐アフガン日本大使は任地を不在にしていたとのことです。あの緊急時に、大使は任地を離れてどこに行っていたのでしょうか。

菅首相、アフガンの邦人1人退避「良かった」 9/1(水) 毎日新聞
『菅義偉首相は1日、イスラム主義組織タリバンが実権を掌握したアフガニスタンに自衛隊機を派遣し、日本人1人を退避させたことについて「今回のオペレーションの最大の目標は邦人の保護だ。その意味では良かったと思っている」と述べた。』
本当に恥ずかしいことを言及する日本国総理ですね。

「自衛隊員が命を落とせば、政権が吹っ飛ぶ」
この決まり文句、もうやめにしませんか。
海外の紛争地で命を落とす日本人(公務で派遣)は、決まって自衛隊員ではない人たち(文民警察官、外交官など)です。「自衛隊員を死なせてはならない」という不文律があり、自衛隊員は安全な場所にしか派遣しません。派遣後にその地域がちょっと危険になったら、隊員たちは安全に守られた基地内にほぼ引きこもり状態になります。
しかし、自衛隊員というのは、お国のために危険を顧みずに行動することが任務です。そのような崇高な任務を遂行するからこそ、われわれ国民が敬意を表しているわけです。この点は、火災に立ち向かう消防士、危険に立ち向かう警察官の方々と全く同じです。消防士や警察官が毎年殉職されていますが、そのたんびに政権が吹っ飛ぶようなことはありません。自衛隊員も同じに考えなければならないと、私は思います。
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