弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

パソコンの変遷とエヌビディア

2024-02-28 17:16:55 | サイエンス・パソコン
日経平均「バブル最高値超え」で4万5000円突破の現実味
2/24
日経平均株価がバブル最高値を超えました。
日本株価上昇の原動力は、アメリカの株価上昇だといいます。
そしてアメリカの株価上昇の原動力は、たった一つの会社の業績向上とそれに基づくその会社の株価上昇、時価総額の上昇だといいます。
そのたった一つの会社とは、半導体メーカーであるnVIDIA(エヌビディア)です。

エヌビディアは、AIに特化した半導体の独占的なメーカーであり、最近のAIの進歩に伴って業績が急速に伸びているといいます。

私は、エヌビディアの存在については、2007年頃から知っていました。
以前、パソコンのOSがWindows95に代わった以降、パソコンの拡張ボードにグラフィックボード(ビデオボード)が接続されているのが常でした。ウインドウズの高解像度の画面を制御するには、それ専用の半導体が必要とされ、グラフィックボードによってその機能を満たしていたのです。

1998年以降の私のパソコンについて、グラフィックボードの変遷をたどってみました。以下に、M/Bと書いたのはマザーボード、 CPUと書いたのはいわゆるCPU、そしてGPUと書いたのがグラフィックボードを意味します。GPUは「グラフィックスプロセッサーユニット」の略です。

1998年から2007年にかけては、グラフィックボードのメーカーとしては、Creative Labs、Diamond、Matrox、Canopus、NVIDIA、ASUSなどが入り乱れています。
2008~2013の時代、NVIDIAの一人勝ちになりました。
2013年以降は、CPUの性能が向上したのでしょう。グラフィックボードは搭載されないようになりました。

以上のように、2008~2013に私が所有していたパソコンにおいて、グラフィックボードはエヌビディアの一人勝ちである、というのが私の印象でした。よっぽど傑出した技術を保持していたのでしょう。

数年前、またエヌビディアの名前を聞きました。クルマの自動運転のニュースです。クルマの自動運転の開発において、エヌビディアのGPUに関する技術が役立っている、というニュースでした。パソコンのグラフィックスの技術を持っているのだから、それが理由だろうと納得していました。

それがこの1,2年、エヌビディアの技術がAIで役立っているというニュースに取って代わりました。
たった1社の業績によって、世界の株価が多大な影響を受けている、という事実には驚くばかりです。

以下に、私が所有していたパソコンの構成をリストアップします。
1998
CPU Pentium(MMX) 200MHz
GPU Graphics Blaster Exxtreme (Creative Labs)

1998
CPU AMD K6 232MHz
GPU Diamond Stealth 3D 2000Pro

1999
CPU Pentium(MMX) 200MHz
GPU Matrox Millennium G200 SD PCI

2007
M/B P3B-F
CPU Pentium III 1000MHz
GPU Canopus SPECTRA5400 Premium Edition

2007
M/B P4B533-V
CPU Pentium4 2542MHz
GPU MSI MS-StarForce GeForce4 MX 440/MX 440SE (NVIDIA GeForce4 MX 440/MX 440SE)
2007
CPU Dual Pentium4 2600MHz
GPU ASUS RADEON A9200SE Secondary

2007
M/B P4V800D-X
CPU Pentium4 2542MHz
GPU ASUS RADEON A9200SE Secondary

2007
M/B P4V800D-X
CPU Dual Pentium4 2600MHz
GPU Canopus SPECTRA Light G64

2007
M/B P5B
CPU Dual Pentium III 2137MHz
GPU NVIDIA GeForce 7300 GS

2007
M/B P5B
CPU Core2 Duo E6420
GPU GeForce 7300GS 256MB

2008
M/B P5B
CPU Dual Pentium III 2137MHz
GPU NVIDIA GeForce 7600 GS

2009
M/B P5Q PRO
CPU Core 2 Quad
GPU NVIDIA GeForce GTS 250

2011
M/B P8P67
CPU nVIDIA GeForce GTX 550 Ti
GPU

2013
M/B Inspiron 17R Turbo(7720)BTX
CPU Core i7-3630QM
GPU NVIDIA GeForce GT 650M GDDR 2GM

2013
M/B P8Z77-V
CPU Core i7-3770
GPU なし

2019
M/B ASRocK B360M
CPU Core i5-8400
GPU なし

2023
CPU Core i5-10500
GPU なし
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情報通信研究機構上席研究員 笠井康子さん

2022-08-21 16:30:42 | サイエンス・パソコン
日経新聞夕刊のシリーズ「人間発見」、8月15~18日の週は、情報通信研究機構上席研究員 笠井康子さんの特集です。
『最先端電磁波の研究者であり異能人材育成の政策を進める行政官、宇宙に挑む起業家と多彩な顔を持つ。一貫するのは常に新しい世界に挑み、科学で社会をよくしたいという思いだ。』科学でE・マスクに挑め(1) 2022年8月15日
『東京・渋谷に生まれ、同町田市に転居した。幼いころから負けず嫌いで好奇心が旺盛だった。』科学でE・マスクに挑め(2) 2022年8月16日
『進学した東京工業大学では化学を専攻、大学院では電波望遠鏡で宇宙を探った。』科学でE・マスクに挑め(3) 2022年8月17日
『抵抗していた総務省への出向だが、行ってみると行政の面白さに目覚めた。』科学でE・マスクに挑め(4) 2022年8月18日
『研究や行政の経験からデータサイエンスの重要性を説く。』科学でE・マスクに挑め(5) 2022年8月19日

まずは経歴をたどってみます。
1965 東京・渋谷に生まれる。町田に転居。
     小学校から高校まで自宅に近い玉川学園に通った。
     東京工業大学に進学
1995 東京工業大学理工学研究科博士課程修了
     東京大、理化学研究所を経てNICT(情報通信研究機構)入所
2016 現職
 他、内閣府上席政策調査員、東京大学や筑波大学の客員教授、等

笠井さんは私の17年後輩に当たります。

『何でも試してみないと気がすまない性格です。
目の前を塞がれたり邪魔されたりするのが大嫌い。』
『電柱に登っても「すごいね」と褒めてくれた母でしたが「男の子じゃないか」と悩んだことがあったそうです。』
『玉川学園は個性を尊重する校風で、授業は先生が教えるのではなく生徒が分からないことを先生に聞くスタイルでした。』
運動が得意、また読書が大好きで1年に読んだ本は100冊以上。
勉強に興味がわかず落第しそうになったことがありますが、「勉強もちゃんとやる」という約束で進級し、翌年はほとんどの科目で最高評価の「5」をとりました。それまで手を抜いていたことがばれてしまいました。(2回目)

『小学生のときに地球儀を眺めていて、南北アメリカと欧州・アフリカなど海を挟んだ大陸の形が似ていることに気づき、パズルのようだなと思いました。昔は小さかった地球が膨らんで大陸がバラバラになったというストーリーをひとりで考えていました。』(2回目)
今では大陸移動説で説明される現象(南北アメリカと欧州・アフリカの大西洋側海岸が同じ形をしている)を、小学生の当時に気づいていた、ということですね。
私が小学生時代、「なぜだろうなぜかしら」という小学生向けの科学の本の中に、大陸移動説が載っていました。ですから私は、この現象(南北アメリカと欧州・アフリカの大西洋側海岸が同じ形をしている)を、自分で気づく前に本で知らされてしまいました。それも大陸移動説の証拠として。
私が小学生の当時、大陸移動説は学界では忘れ去られていました。プレートテクトニクスの発見で大陸移動説が復活したのはその後ですが(ウェゲナーの大陸移動説 2008-03-29 )、笠井さんの小学生時代がちょうどその頃だったような気がします。

『東工大は単科大学でマニアックなところが子どものころから何となく好きでした。ただ進学すると女性がほとんどおらず、広い本館に一つしか女子トイレがありません。
学生のときに専攻した量子化学は実験も解析も面白かったのですが、伝統のある分野です。前例のあることをやるのは嫌で、大学院博士課程では誕生して間もない電波天文学の研究を始めました。長野県野辺山にある電波望遠鏡まで通って、宇宙にある生命のもとになる分子などを観測。鉄と一酸化炭素の化合物が特殊な結び付き方をしていることを明らかにして、国際学会で注目されました。』

私は、東工大修士卒で笠井さんの18年先輩に当たります。(笠井さんの東工大学部卒は確認できませんでした。)
私が東工大に進んだ理由も何となくで、笠井さんと似ているかもしれません。
私の頃は、学部入学が約800人で、そのうちに女子が1~2名しかいませんでした。
女子トイレの数は記憶にありませんでしたが、笠井さんの時代にも本館に1箇所しかなかったのですね。

その後、笠井さんはSMILESプロジェクトに出会いました。
『SMILESは国際宇宙ステーション(ISS)に観測装置を設置。それまで不可能だった大気中のごくわずかな分子の動きを詳しく調べ、気候変動の研究などに役立てる目的だった。』4Kの極低温を用いる超電導受信機を宇宙船に乗せるもので、そのための冷凍機も開発しました。
SMILES(宇宙からのテラヘルツ大気観測)には、
『「超伝導サブミリ波リム放射サウンダ」(SMILES: Superconducting Submillimeter-Wave Limb-Emission Sounder) は、 625 GHz と 650 GHz のテラヘルツ波を使って、成層圏などの大気中の、 オゾンを始めとする微量な分子の量を測定する装置です。 2009年9月に HTV (「こうのとり」1号機) に載せて打ち上げ、 国際宇宙ステーションの日本実験棟 (「きぼう」)に取りつけて観測を、 2010年4月まで行いました。』
と紹介されています。
観測は装置が故障するまでの7カ月間のみでしたが、『とれたデータは涙が出るくらい美しかった』とのことです。『このときのデータから10年たった今も新発見が生まれています。』
2016年の笠井さんの論文

笠井さんらは、テラヘルツ波を使った観測の推進に尽力し、欧州が中心になった木星とその衛星の探査計画「JUICE」に採用になりました。ところが、NICT内において予算が認められません。辛抱強く応募を続け、周囲を説得しました。

2014年、NICTを管轄する総務省に出向しました。総務省の研究開発のとりまとめなどをする技術企画調整官の仕事です。
2014年、独創的な人材を発掘、支援する「異能vation」を作りました。
内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)において、文科省から内閣府に出向していた迫田健吉さん、国交省から出向していた広瀬昌由さんらとの出会いが、今でも笠井さんの宝になっています。

2021年から始めた月探査プロジェクト「TSUKIMI(ツキミ)」は、超小型衛星を使って月のどこにどれだけ水があるかを調べます。月の表面に水がある可能性は少なく、資源として期待できるのは表面から数十cmくらいの浅い地下です。探索にはテラヘルツ波が威力を発揮します。

この7月にギリシャで開かれた科学者団体の会合に出席、コミッションの議長を務めたところ、若い研究者が笠井さんのことを知らなかったのです。これには衝撃を受けました。この8年、官庁の仕事が主で学界には参加しなかったのがその原因です。
研究をリードし、その後は行政をリードしてきた笠井さんです。『私もこれから人生の新しいフェーズを作っていく時期に入ったのだと思います。』
『だれも見つけられない宝物をこれからも探し続けたいと考えています。』

また1人、異能の日本人女性科学者を知ることができました。これからも、笠井さんのご活躍を心から応援しています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

凧形二十四面体と正八面体

2022-06-22 19:50:24 | サイエンス・パソコン
昨日、このブログのりゅうぐうの磁鉄鉱は凧形二十四面体 2022-06-21にて、
「磁鉄鉱の結晶は正八面体といわれているのに、はやぶさ2がりゅうぐうから持ち帰った砂の中に、凧形二十四面体の磁鉄鉱が発見された」
と発言しました。
その後、凧形二十四面体と正八面体の図形をつらつら眺めていたら、その2つが結構似ていることに気づきました。

左上の凧形二十四面体(赤色)と右上の正八面体(黒色)を重ねたら、下の絵のようにぴったりと重なりました。
ひょっとすると結晶学的にも、凧形二十四面体と正八面体とはいとこ同士ぐらいの近さがあるのかも知れません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

りゅうぐうの磁鉄鉱は凧形二十四面体

2022-06-21 22:54:50 | サイエンス・パソコン
はやぶさ2 砂のアミノ酸は23種 リュウグウ起源は「氷天体」の新説 2022/6/10
この記事に載っている写真には、24面体の結晶がたくさん写っています。「磁鉄鉱」粒子だとのことです。

この24面体はなんだろうか。調べた結果、「凧形二十四面体」(偏方二十四面体、四辺三・八面体)(ウィキ)に間違いありません。
しかし、磁鉄鉱の結晶は正八面体(ウィキ)である、ということになっています。

「はやぶさ2がりゅうぐうから持ち帰った砂の中に、凧形二十四面体の磁鉄鉱が発見された」
という事実は、ネットで検索したのですがぜんぜんヒットしません。
一体どうなっているのでしょうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

在宅勤務のためのリモート接続

2020-12-26 16:51:51 | サイエンス・パソコン
私の自宅パソコン環境は以下の通りです。
ディスプレイに三菱電機製25.5インチRDT261WH仕様)(1920×1200)を用いています。入力はDVI-I端子とDVI-D端子、D-Sub15ピン(VGA)であり、DVI-I端子とDVI-D端子はHDCP対応です。
キーボードは親指シフトキーボード(Rboard Pro for PC)でPS/2端子接続です。

パソコンはショップブランドのWindows 10パソコンです。ディスプレイ出力はDVIとVGAの2端子です(と思い込んでいたのですが、たった今調べたら、DVIとディプレイポートの2端子でした)。

この春、まだコロナ禍が始まる前ですが、職場が希望者に対して在宅勤務のリモートワーク環境を準備してくれることとなり、私も手を上げました。自宅に職場から新たなPCの貸与を受け、そのPCと職場の私のPCとの間をリモート接続します。
職場から届いたリモート用PCは、古いタイプで、ディスプレイ出力はDVIとVGAの2端子です。
自宅のPCは、個人用のPCと職場リモート接続用PCの2台体制になるのですが、ディスプレイとキーボードは上記従来から使っている一組のみとしたいところです。

そこで、パソコン自動切り替え機を導入することとなりました。
ディスプレイの接続としては、2台のPCとディスプレイに共通するDVIを採用し、キーボード端子にはPS/2を採用します。
職場から届いた切り替え機は、ディスプレイエミュレーション対応DVIパソコン自動切替器(SW-KVM2DXN)でした。

接続の結果、うまく作動しました。キーボードで「Ctrl→Ctrl→Enter」と押すと、PCを切り替えることができます。マウス(USB接続)も共通化することができるのですが、これだけはどうも安定性に欠けます。そこで、マウス(ワイヤレス)は2台のパソコンそれぞれに準備することとしました。

自宅のリモート用PCは古いものであり、新型にリプレースすることとなりました。ところが、新らしいPC(Endeavor ST190)は、ディスプレイ端子がVGA, ディスプレイポート(DP), HDMIの3つであり、肝心のDVIが搭載されていません。事務所からは、DP(オス)-DVI(メス)変換ケーブルが送られてきました。
そこで、パソコン自動切り替え機のパソコン側端子(DVIオス)と変換ケーブルのDVI(メス)を接続し、変換ケーブルのDP(オス)をパソコンのDP端子に接続しました。
パソコンを立ち上げてみると、画面は表示されるのですが、画面中にノイズが乗っていることが分かりました。一番多く使う白の背景や黒い文字にはノイズが乗っていないので、まあ、業務には使えそうです。ところが、何回か使っているうち、画面全体が消えたりついたりする現象が起き始めました。これではとても使えません。

パソコン自動切り替え機を介さず、
 ディスプレイ~DVIケーブル~DVI/DP変換ケーブル~PCのDP端子
という接続にしたところ、ノイズは発生せず正常な画面表示となります。
従って、変換ケーブル単独の不具合ではなく、パソコン切り替え機と変換ケーブルの両方を用いたときのみに発生する不都合のようです。

さて困った。以下の3つの対策が思い浮かびました。
(1)職場に頼んで、リモート用PCとしてDVI端子を搭載したものに変更してもらう。
(2)2台のPCとディスプレイの共通する端子はVGAなので(思い込み)、VGAに対応したパソコン切り替え機に変更する。
(3)変換ケーブルとして、DVI/DP変換ケーブルではなく、DVI/HDMI変換ケーブルに変更し、パソコンのHDMI出力端子を用いる。
アマゾンで検索したところ、まずはVGA, PS/2対応パソコン変換器の安いやつを見つけました。「エレコム KVMスイッチ 自動切替機能 PS/2 VGA スピーカー 2台KVM-KP2」です。USBの切り替えは備えていませんが、今でもマウスは各PCそれぞれに接続しているので、USBは必須ではありません。736円と激安だったので、迷わず購入ボタンを押しました。
さらに検索したら、「HDMI - DVI-D変換アダプタケーブル 20cm HDMI(オス) - DVI-D(メス)(HDDVIMF8IN)」が見つかりました。ネットで調べたら、DPとDVIの相性より、HDMIとDVIの相性の方が良好である可能性が高いと考え、こちらも購入しました。

同じ日に、2つの購入品が到着しました。まずは(3)からトライします。これでうまくいけば、VGAという前近代的な方式を用いずに済みます。
パソコン切り替え機のDVI端子に購入した変換アダプターの一端を接続し、他端をパソコンのHDMI端子に接続してパソコンを立ち上げたところ、きれいに画面表示されました。問題は解決したのです。

DVI/HDMI変換ケーブルを用いてパソコンのHDMIとディスプレイのDVIを接続した場合、いくつかの制約があります。
解像度は1920×1200までしか対応しませんが、私のディスプレイがまさに1920×1200なので、問題なしです。
ディスプレイ側でHDCP対応が要求されますが、私のディスプレイのDVIはHDCP対応です。

ということで、リモート接続用のパソコンのリプレースはうまくいき、毎朝のパソコンの立ち上げに要する時間が短縮されたので快適です。下の写真で、右下に3台並んだパソコンが、左(黒)が個人用PC、中央の小さいのがリモート用の新しいPC、一番右が今まで使っていたリモート用のPCです。机の下、足台の上に載っているのがパソコン切り替え機です。


同じ日に届いた「エレコム KVMスイッチ 自動切替機能 PS/2 VGA スピーカー 2台KVM-KP2」の出番はなくなりました。そもそも、個人用PCにVGA端子が設けられているというのは私の思い込みで間違いでした。購入価格が736円ですからよしとしましょう。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書 IIJ 鈴木幸一氏 (2)

2019-11-10 12:34:43 | サイエンス・パソコン
日本経済新聞の「私の履歴書」IIJ会長の鈴木幸一氏の記述について、前々回報告しました。そこでは、インターネット発展期である1992年から1994年にかけて、日本がどのようにして世界の潮流から取り残されてしまったのか、という点にスポットをあてました。

その後も、「私の履歴書」は10月いっぱい続きました。鈴木さんの足跡を追いかけることで、日本のインターネットがどのように進展してきたのかを追体験することができました。以下にポイントを列記します。

NTTが1994年にネット接続サービスに参入する計画を発表しました。当時のネット接続業者はいずれも小さな会社です。あるとき彼らの代表がやってきて、「日本のネットの先駆者である鈴木さんが先頭に立って、郵政省や世論に『NTTの参入反対』の旗を振ってほしい」と要請されました。鈴木氏は即座にお断りしました。「役所の力を借りないと事業ができないなら、はじめからやらないほうがいい」
NTTが始めた接続サービスはOCNという名称でしたが、鈴木氏は「OCNの父」という別名を頂戴しました。
「NTTやソフトバンクの参入は競争激化をもたらしたが、一方ではネットを利用したビジネスが立ち上がるために不可欠の前提条件でもあった。」(第16回)

IIJがサービスを始めた翌年の1995年、私が弁理士受験生から卒業してインターネットに再度接触した年ですが、日本を揺るがす2つの出来事がありました。1つは阪神大震災、もう1つはオウム真理教による地下鉄サリン事件です。

大災害が発生したとき、電話はあっという間に麻痺します。電話というのは、通話一つが1本の通信回線を占有してしまうからです。
それとは対照的に、インターネットは途切れることなく情報を運び続けました。インターネットでは情報がパケットとして細切れで、かつ多数の人のパケットが混在して、1本の回線を流すことができるので、時間はかかりますが、通信途絶のリスクは格段に低いからです。
IIJは、ネットの強みを生かして被災地の力になりたいと考えました。まずは、被災者の安否などを自由に書き込めるサイトをネット上に開設しました。現地の人から寄せられた生々しい写真やメッセージもリアルタイムで載せました。
『「個人が世界に情報を発信できる新しいメディア」としてのインターネットの可能性を多くの人がこの時、実感したのではないか。』
オウムについては、サリン事件が起きるかなり前に、警察からオウムのネット利用状況を監視するよう依頼を受けましたが、通信の秘密保護を理由に断りました。『その後サリン事件が起こり、「あのとき、どうすべきだったか」を考えることが時々ある。』(私の履歴書第17回)

1998年には日本のインターネット利用は順調に伸びていました。しかし鈴木氏は不満を持っていました。「当時の企業のネット活用といえば、ほとんどが社内のメールやホームページの作成にとどまり、ネットを使って事業モデルを大胆に作り替えようという動きがほとんどなかったからだ。」
そのような状況を変えるため、IIJ自身がネットを使った新サービスを起こせばよい、と考えたのです。そして、ネット証券の立ち上げに関与しました。
当初、既存の大手証券会社に話を持ち込みましたが、冷ややかな対応でした。そこで住友銀行の西川頭取(当時)に相談すると「おもしろそうじゃないか」となって、事業が立ち上がりました。「当該市場にしがらみのある会社は保守的になり、異業種の人がチャンスをつかむ。ネットが産業の地殻変動をもたらす仕組みがよく分かった出来事だった。」
ほぼ同時に、旧知の松本大さんにも声をかけると、松本さんはソニーの出資も得てマネックス証券をつくりました。
「彼らの旗揚げが日本のネット証券の出発点だったことは確かだ。私もいささかなりともそれに関与できたのは、誇らしい思い出である。」(第18回)

1990年に私がインターネットを最初に利用したとき、不思議だったのは「大陸間の回線を使用する回線使用料がなぜ無料なのだろうか」ということでした(インターネット初め)。
今回の「私の履歴書」でも、「鈴木氏が始めたIIJは、日本国内、大陸間の通信回線を、自社で構築したのだろうか」という点がはじめから疑問点でした。私の履歴書第21回でその点が語られています。
当初、IIJは「特別第2種電気通信事業者」であって、自分自身は光ファイバー網などの通信回線を所有せず、NTTやKDDなどのいわゆるキャリア(第1種電気通信事業者)から回線を借りて、サービスを提供していたのです。

われわれインターネット利用者は、接続サービスプロバイダーに月額料金を支払うだけで、世界中のどことどれだけのデータ通信を利用しても、回線利用料が別途かかることはありません。この間の謎は謎のままですが、プロバイダーが利用者から徴収した月額料金の一部が、回線所有者に使用料として支払われているのでしょうか。

さて、「自前のインフラを持とう」ということで、IIJの鈴木氏は散々苦労したのですね。
自分で光ファイバー網を構築するのではなく、他社の光ネットワークの「区分所有」で、郵政省から1種として認めてもらう作戦をとります。トヨタ自動車系の新電電(テレウェイ)が「区分所有」契約に同意し、さらにトヨタとソニーが出資して「CWC」という会社を立ち上げました(第22回)。
バックボーン回線はトヨタ系新電電から調達できましたが、各家庭やオフィスにデータを届ける「ラストワンマイル」がありません。東電の通信子会社などとの経営統合協議に入りましたが、様々な不運が重なり、結局はうまくいきませんでした(第24回)。
2003年8月、CWCは資金繰りに行き詰まり、会社更生法適用を申請しました。民事再生法でなく会社更生法を選んだのは、サービスの継続に万全を期すためでした。
NTTは最大のライバルでしたが、NTT相談役の宮津純一郎さんから声がかかり、「CWCのコンセプトは100点満点だが、インフラづくりは貧乏な会社のやることではなかったよ」との言葉を受けました(第25回)。

2008年のCWCの破綻に連動して、IIJも危機(債務超過)に陥りました。
再生のために必要なのは資金であり、鈴木氏はNTTに支援を持ちかけました。その結果、NTTグループが31%の出資比率で出資を受けました。
これを機に、IIJは、技術志向から利益重視にカジを切りました。そして、事業の主眼をインフラの整備や加入者の獲得競争から、もっと上位のサービスフレイヤーでの独自性追求に切り替えました。結果として、決算が黒字に転じました。
CWCもNTTコミュニケーションズの傘下に入りました。そして、鈴木氏がこだわり抜いて作った横浜と川口の2つのデータセンターは今でも現役で活躍中です(第26回)。

鈴木さんが前のめりでインターネットの進歩を推し進めようとするのに対し、日本のその他関係者が一歩遅れでついてきた、その辺の事情を見ることができました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書 IIJ 鈴木幸一氏

2019-10-20 10:54:52 | サイエンス・パソコン
日本経済新聞の「私の履歴書」、現在はIIJ会長の鈴木幸一氏が登場しています。

IIJ(インターネット・イニシャティブ・ジャパン)という会社、私が1995年頃にインターネットサービスプロバイダを選択しようとしたとき、その選択肢の一つとしてすでに知っていました。日本のインターネット界で先頭を走っている、という印象は持っていました。

今回、鈴木幸一さんの私の履歴書を読んでいて、1990年から1995年頃にかけての日本のインターネット界がどのような状況にあったのか、それを知ることができ、非常に興味深く読んでいるところです。

私がインターネットにはじめて接したのは1990年です。その当時のことについて、すでに「インターネット初め」として2006年に記事にしています。

1990年頃、私はパソコン通信のNIFTY-Serveに参加し、NIFTY-Serve会員同士のメールやフォーラムでの議論を楽しんでいました。今と違い、メールのやり取りはNIFTY-Serve会員同士の間に限られていました。
職場の同僚が米国に留学し、BITNETなるネットでメールを始めたことを知りました。世の中には(主に米国ですが)BITNET(Because It's Time NET)の他に、CSNET(Computor Science NET)やJUNET(Japan University NET?)などが存在し、それらのネットが「インターネット」なるものでつながっているらしいこともわかってきました。
私が加入するNIFTY-Serveは、当時まだインターネットとつながっていませんでした。しかし、私が同時に参加していた米国のパソコン通信Compuserveはすでにインターネットとつながっていたのです。私は、xxxxx.xxxx.compuserve.comなるメールアドレスの持ち主でした。
そこで、Compuserveからのインターネットメール送信手順を調べ、米国の大学にいる同僚にメールを送ってみたところ(英語のみ)、見事に送ることができました。ただし、Compuserveのアクセスポイントは米国ですから、日本から米国までの通信回路を確保する必要があります。当時、私はTimeNetにも加入していたので、TimePassで米国につなぐことができましたが、1分70円の高額でした。Compuserveのチャージも1分20~30円だったと記憶しています。
いろいろ工夫して、日本語メールが送受信できる環境を私自身で構築しました。詳しいいきさつは「インターネット初め」をご覧ください。
東北大学にも留学している同僚がおり、JUNETでメール可能であると聞きました。そこで、70円/分かけて米国のCompuserve(20円/分)にアクセスし、ここからJUNET宛にメールを出しました。そこから先は無料で東北大学までメールが届きました。このときの「インターネットは通信費が無料」はどうしても不思議でした。

このとき、扱うのはもっぱら文字情報のメールばかりでしたが、インターネットの本質を私自身が垣間見たことになります。

以上のように、すでに1990年にはインターネットが機能しており、世界中とつながることが可能になっていました。そして、「インターネットの通信費用はただ(無料)」という環境は当時すでにできあがっていたのです。
ただし、インターネットが圧倒的な有用性を獲得するのは、その後のワールドワイドウェブとウェブブラウザの登場によってです。
CERNのバーナーズ=リーは、ハイパーテキストとインターネットを結合してワールドワイドウェブを創出しました。ワールドワイドウェブはクライアントサーバモデルに基づくシステムです。
マーク・アンドリーセンらは文字だけでなく画像なども扱える革新的なブラウザ Mosaic を開発し、ネットスケープに至りました。

しかし私は、1993年に弁理士受験勉強を開始し、その後1995年に合格するまで、世間から隔離された生活を送ることになりました。結果として、インターネットの進歩を全く知らずに1995年に至ったのです。
1996年にWindows95パソコンを購入しました。そのパソコンには、ネット経由でネットスケープをダウンロードすることが可能であり、モデムでネットに接続したパソコンに約30分かけてネットスケープをダウンロードしました。
ネットの世界を覗いてみたら、そこは情報の宝庫となっていることが分かりました。ただし、英語情報限定です。
今でこそ、日本語であらゆる情報がネット検索できますが、当時の日本語ネット情報は極めて貧弱でした。

ということで、1992年から1995年にかけての日本でのインターネットの発展状況を、リアルタイムでは見ていませんでした。

そこで、私の履歴書IIJ会長の鈴木幸一さんです。

1992年、鈴木さんは東京・虎ノ門に借りた小さな個人事務所で、気楽な「よろず屋」稼業をしていました。そこに、慶応大の村井純さんとアスキーの深瀬弘恭さんが訪ねてきました。2人は「一緒に商用ネットの会社をつくろう」と持ちかけてきたのです。「じゃあ会社が立ち上がるまで応援しよう」となって、インターネットシニシャティブ(IIJ)が創設されたのです(私の履歴書第11回)。
しかし、日本の関係者の意識は低かったです。(確か)NECに、「インターネットの根幹となるルーターを開発しよう」と持ちかけましたが、全く興味を示しませんでした。その後、ルーターはアメリカのシスコシステムズに独占されることとなります(第12回)。

IIJは、ネット接続企業として「特別第2種電気通信事業者」の登録を受けようとしますが、郵政省が無理難題をふっかけてきました。「通信は公益事業で、倒産は許されない。当初の計画通り設備投資をし、一方で3年間1件も契約が取れないと仮定しても、会社が潰れないという財務基盤を示せ」というのです(第13回)。
郵政省との堂々巡りは94年まで続きます。その間、金策に尽きて、自己破産まで現実味を帯びました。94年になると郵政省が軟化し、住友銀行、富士銀行、三和銀行から計3億円の融資保証を得ることによって、94年2月に郵政省の登録がおりました。しかし、1年数カ月を浪費してしまいました(第14回)。

1994年3月から日本初の商用インターネット接続サービスを開始すると、注文に供給が追いつかない状況が出現したのです。それにしても、IIJが郵政省と不毛な折衝を続けている1年半足らずの間に、世界の現実はずっと先に進んでしまっていました。
ウェブブラウザを創出したアメリカのモザイク社は1994年に産声を上げましたが、実はその少し前に「モザイク社にIIJも出資して、日米で協力関係をつくらないか」という話が持ち込まれたというのです。当時は郵政省の承認が下りる前で食うや食わずであり、当然出資話もお断りしたと言うことです。
「IIJがこの大切な時期を傍観者として過ごさざるを得なかったのは、我が社にとっても日本全体にとっても大きな損失だったと思う。」(第15回)

私は、上述のように、弁理士受験生として1993~1995年を過ごしたので、その間はインターネット空白期間となりました。

一方、鈴木幸一さんがIIJで苦労した後をたどると、日本にとっても1992~1994年はインターネット空白期間だったのですね。
1995年に私がブラウザを道具に再びインターネットに触れたとき、日本語ネット情報はほとんど蓄積されておらず、英語ネット情報のみが充実していましたが、その理由がわかりました。

それにしても、ベンチャー企業であるIIJ以外に、1992年当時にインターネット接続サービスを開始しようとする大手企業が全く存在しなかった、という点については、日本企業の感覚の鈍さに驚くばかりです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳内物質の特性と日本人の気質

2016-11-13 11:48:36 | サイエンス・パソコン
11月12日の日経新聞に気になる記事が載りました。
「憲法と私 公布から70年」という連続もの?に脳科学者の中野信子さん(41)が「日本人気質、理解し議論を」という記事を載せています。

「脳内物質の特性からみると、日本には共同体意識が強く、よそ者や逸脱者を排除しようと攻撃する傾向の強い人が他国より多くいます。前例を覆したり、自ら意思決定したりすることを好まない遺伝的資質の人も多数派です。
集団になると、他人の顔色をうかがうあまり異論を言えなくなったり、逆に主張の強い人に引きずられて極端に過激になったりする現象が知られています。」

言われてみれば、「日本人の傾向」としては、確かにそのような傾向が感じられます。
そして中野氏によれば、そのような「日本人の傾向」は、脳内物質の特性によるというのです。そのような話を始めて聞いたので、びっくりしてしまいました。日本人に特有の脳内物質の特性とはどんなことなのでしょうか。

ネットで検索すると、主に中野氏の発言として引っかかってきました。
日本人はサッカーに向いてない?脳科学が解明する驚きの特性に原因が! 09/29/2014
(27日放送のテレビ東京『FOOT×BRAIN』「脳科学から看るサッカー上達法」脳科学者・中野信子氏が語る)
以下のような話が載っています。
《セロトニンの量と心配性》
セロトニンは、安心感をもたらし心身の安定に関与する神経伝達物質であり、将来の心配をしないで楽観的に物事をみたり挑戦していくという精神性の人、本番に強い人の脳の中でよく出ているといいます。
セロトニントランスポーターは、セロトニンの量を調節するタンパク質ですが、日本人はセロトニントランスポーターの機能が低く、セロトニン自体も少ない民族のため、心配性の人の割合が高いです。
心配性の人の割合は、欧米で45%以下、南アフリカは約28%なのに比べ、東アジアは約70%以上。特に日本は、約8割の人が心配性という”心配性大国”。

中野氏によると「人間の意思決定システムは、反射的に意思決定するXシステム(reflex)と、正確に計算して意思決定するCシステム(calculate)の2通りありますが、心配性な日本人は反射的に判断することにブレーキをかけ、正確性を最優先したCシステムに従おうとする。」といいます。

「世界で一番、準備や努力をする民族で、予測能力が高い」のも、日本人が一番貯蓄額が多いというのも、心配性によるものなのだそうです。
日本の鉄道が時刻表通りに運行されるのも同じです。

《ドーパミンと失敗を嫌う傾向》
日本人が失敗を嫌う理由は、「ドーパミンレセプターの機能が高いことにある」そうです。ドーパミンレセプター(受容体)は、神経細胞にありドーパミンと結合することによって情報を伝達します。受容体の機能が高いと満足しやすく(日本人)、低いと満足を感じにくく次々と刺激やリスクを求める(欧米人)ようになるといいます。
満足を感じにくい人の割合が、特に高い南米で40%、アジアは数パーセントで、日本人は1%未満なのだとか。そのため、チャレンジすることを嫌う、回避するという特性となり「日本人は、成功することが満足でなく、失敗しないことが満足」だそうです。
会議などで発言するチャンスを逃したり、自己主張出来ない人は典型的な日本人の脳で、南米の人は逆に「チャレンジしないことがストレス」になるのだとか。
---以上------

セレトニンと日本人の心配性、ドーパミンと日本人が失敗を嫌う傾向についてはわかりました。しかしこれでは、日経新聞の
「脳内物質の特性からみると、日本には共同体意識が強く、よそ者や逸脱者を排除しようと攻撃する傾向の強い人が他国より多くいます。前例を覆したり、自ら意思決定したりすることを好まない遺伝的資質の人も多数派です。
集団になると、他人の顔色を窺うあまり異論を言えなくなったり、逆に主張の強い人に引きずられて極端に過激になったりする現象が知られています。」
の説明にはなっていないように思われます。

また、「日本人はセロトニンが少ない民族」「日本人は心配性の割合が高い」というのは事実なのだと思いますが、ここでいう「心配性」というのはどのような評価なのか、セロトニンの多寡と直接関係している評価パラメーターなのか、という点が不明でした。

ネットで検索しても、中野信子氏の発言しか出てきません。まだ、中野氏のみが唱える少数意見に止まっているのでしょうか。

「本番に弱い」という点はうなずけます。私は、ピアノ発表会で演奏すると、普段の演奏の半分ぐらいの力しか発揮できません。「本番に弱い」です。恐らく、セロトニンの量が少ないのでしょうね。

ps 11/12 以下の記事を見つけました。やはり中野信子さんです。
◯脳のはなし#88 中野信子 #45 「インターネットの悪いところと、脳に与える影響」 #tbsradio #中野信子 2016年11月12日10:06
『オキシトシンの良い面と悪い面
日本人のマインドは、郷土意識が強い。「みんなと一緒」だということを心地よく感じる民族。共同体意識がとても強い。これはオキシトシンの良い面の表れ。オキシトシンの良い面は、仲間意識を強める効果。
逆に「炎上」は悪い面の表れ。オキシトシンの悪い面は、仲間ではない人を排除することを強める作用。
ネットはその両面が顕著に見える。』
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「炉心溶融、使うな」東電社長が指示

2016-06-17 21:26:18 | サイエンス・パソコン
<福島原発事故>「炉心溶融、使うな」東電社長が指示 ◇第三者委が報告書
毎日新聞 6月16日(木)20時33分配信
『東京電力福島第1原発事故で、核燃料が溶け落ちる「炉心溶融(メルトダウン)」の公表が遅れた問題で、東電の第三者検証委員会(委員長・田中康久弁護士)は16日、清水正孝社長(当時)が「炉心溶融」の言葉を使わないよう指示したとする報告書をまとめ、東電に提出した。指示は電話などで広く社内で共有していたと認定。首相官邸の関与については「炉心溶融に慎重な対応をするように要請を受けたと(清水氏が)理解していたと推定される」と指摘した。
・・・
清水氏の記憶はあいまいで、第三者委は当時の官邸にいた政治家には聞き取りを実施しておらず、「官邸の誰から具体的にどんな指示、要請を受けたかを解明するに至らなかった」としている。
東電は今年3月に弁護士3人による第三者委を設置し、経緯や原因を調査。事故対応に関わった社員約60人からヒアリングした。』

報告書の内容を、当時の時系列で並べ直すと以下のとおりです。
------------------------
2011年3月13日午後2時ごろ、清水氏らは官邸で菅直人首相、枝野幸男官房長官(ともに当時)らと会談。清水氏がその後、報道発表については事前に官邸の了解を得るように幹部に指示していた経緯があった。

14日午後8時40分ごろ、清水氏は記者会見していた武藤栄副社長(当時)に対し、社員を経由して「炉心溶融」などと記載された手書きのメモを渡し、「官邸からの指示により、これとこの言葉は使わないように」と耳打ちした。
------------------------

この内容は、当時、原子力安全保安院の記者会見をずっとフォローしてきた私の印象と合致しています。

このブログで今年2月、「炉心溶融の判定基準発見」として記事にしました。以下のとおりです。
2011年3月12日午後2時、原子力安全・保安院の中村幸一郎審議官は、福島第一原発1号機で原子炉の心臓部が損なわれる「炉心溶融が進んでいる可能性がある」と会見で発表しました。発電所の周辺地域から、燃料の核分裂に伴うセシウムやヨウ素が検出されたことによります。
ところが、同じ12日、17時から始まった会見で、官邸との協議を終えた中村審議官の口ぶりは重かったのです。
「詳しいことについて、東京電力に確認できていないので何も申し上げられない」「(炉心溶融が起きているか)予断をもったことを申し上げるのは適当ではない」
ある記者は「これまでは今後の可能性も含めて詳しく説明してくれていたのに、まるで別人のようだ。何か官邸に言われたのか」といぶかしんでいました。

以上から、早くも3月12日の14時から17時の間に、原子力安全・保安院に対して官邸は、「炉心溶融とはいうな」ときつく言い渡していたことが目に見えるようです。
ですから、その翌日の13日午後2時に、東電の清水社長(当時)が官邸で会談すれば、官邸から同じことを言われていて当然です。

東電第三者委員会の今回報告を聞いて、当時の菅直人首相、枝野幸男官房長官はともに、「そんなこと言っていない」と憤激しているようですが、すべての証拠は、「そう言っていた」ことを物語っております。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

炉心溶融の判定基準発見

2016-02-25 20:35:46 | サイエンス・パソコン
久方ぶりに福島原発事故関連です。

炉心溶融の判定基準発見 東電、3日後に公表可能だった
朝日新聞デジタル 2月24日(水)21時21分配信
『東京電力は24日、福島第一原発事故当時の社内マニュアルに、核燃料が溶け落ちる炉心溶融(メルトダウン)を判定する基準が明記されていたが、その存在に5年間気付かなかったと発表し、謝罪した。東電は事故から2カ月後の2011年5月まで炉心溶融を公表しなかったが、基準に従えば3日後の3月14日には1、3号機について判定できていたという。』

考えれば考えるほどアホらしい話です。
福島原発事故が発生した直後、日本中の原子力の叡知が注目していたはずです。そのような状況下、『社内マニュアルに気づいていれば「炉心溶融」と発表できた。気づかなかったので発表が遅れた。』との言い訳には唖然とします。叡知が結集しても出せなかった結論が、誰が書いたか解らないような一編のマニュアルの記述のみで出せるなんて。

当時、官邸・保安院・東電による言論統制は酷いものでした。「間接証拠に基づいて推論するとこのようになっている蓋然性が高い」といった議論は御法度です。「直接証拠が現れない限り、その事象は発生していない」という態度で終始していました。東電社員の誰かが今回見つかったマニュアルをその当時に引っ張り出したとしても、「そのマニュアルは根拠が不明確である」として一蹴されたでしょう。

事故発生直後の私のブログ記事を読み返してみました。

2011年3月12日福ちゃん!がんばれ!!
『昨日(地震発生日)の夜から、東京電力福島第1原子力発電所でトラブルが発生しているらしい情報が入ってきました。それも、付帯設備の火災などではなく、炉心に関連しているらしく、嫌な予感はしていました。
それが本日の午後3時、「爆発音が聞こえた。原発の1号機建家が鉄骨を残して外壁がなくなっている。」という報道です。またそれ以前から、冷却不足で燃料棒の溶融があったらしく、それが「炉心溶融」という不吉な言葉で報道されていました。
これは大変なことになった。スリーマイル、チェルノブイリ、チャイナシンドロームなどの映像が浮かびます。
何とか、最悪の事態を避けて解決して欲しい。
現地では、多くの専門家たちが叡智を傾け、不眠不休の努力をしているはずです。私にできることといったら声援を送るぐらいです。』

2011年3月23日原子力安全保安院はどうなっているのか
こちらの記事によると、地震発生翌日の12日、経済産業省原子力安全・保安院の中村幸一郎・審議官が、「(1号機の)炉心の中の燃料が溶けているとみてよい」と記者会見で明らかにしたところが、菅首相が中村幸一郎審議官の“更迭”を命じたというのです。
「菅首相と枝野官房長官は、中村審議官が国民に不安を与えたと問題視し、もう会見させるなといってきた」(経産省幹部)
たしかに、福島第1原発「炉心溶融が進んでいる可能性」 保安院
『2011/3/12 15:30
 経済産業省の原子力安全・保安院は12日午後2時、東京電力の福島第一原発1号機で原子炉の心臓部が損なわれる「炉心溶融が進んでいる可能性がある」と発表した。発電所の周辺地域から、燃料の核分裂に伴うセシウムやヨウ素が検出されたという。燃料が溶けて漏れ出たと考えられる。炉心溶融が事実だとすれば、最悪の原子力事故が起きたことになる。炉心溶融の現象が日本で確認されたのは初めて。』
という記事がありました。写真には『記者会見する経済産業省原子力安全・保安院の中村幸一郎審議官(12日午後)』となっています。
しかし12日のこの発言、今になってみれば全然違和感がなく、だれもが「うん、その通り」と認める内容です。
どうもこのときから、官邸の圧力により、原子力安全保安院は真実をフランクに語ることをやめてしまったようです。
この点については、NB-OnLineの記事原子力保安院密着ルポ 「伝言ゲームの参加者が多すぎる」からも読み取れます。
『3月12日、17時から始まった会見で、官邸との協議を終えた中村幸一郎審議官の口ぶりは重かった。
「詳しいことについて、東京電力に確認できていないので何も申し上げられない」「(炉心溶融が起きているか)予断をもったことを申し上げるのは適当ではない」
結局、再度会見を設けることで記者側と合意。ある記者は「これまでは今後の可能性も含めて詳しく説明してくれていたのに、まるで別人のようだ。何か官邸に言われたのか」といぶかしんでいた。』
3月12日、14時の記者会見では「炉心溶融が進んでいる可能性」と率直に述べたのに対し、17時までの間に官邸から強い圧力がかかったのでしょうね。
そして中村審議官は更迭され、西山審議官が後を継ぎ、現在に至っているというわけです。』

原発事故発生の翌日である3月12日、保安院の中村幸一郎審議官はしっかりと炉心溶融の発生を確信し、その点を記者会見で述べていたのです。しかし、当時の管政権はこのような見解を押し潰してしまいました。

本日の新聞記事もどうかしています。5年前のことを忘れてしまったのでしょうか。よくも新聞1面でしゃあしゃあと、「マニュアルの存在に気づかなかったことが問題だ」などと述べられるものです。

《原発事故関連ブログ記事の目録》
xls-hashimotoさんが、東電福島原発事故調査 私説集の中で、私説0007 ブログ「弁理士の日々」の東電福島原発事故まとめとして私のブログにおける福島原発事故記事の目録を作成してくださっています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする