弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

千川上水1

2022-05-29 09:24:43 | 杉並世田谷散歩
玉川上水は、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸まで続きます。

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)

私は、2008年11月から2011年1月にかけて、羽村取水口から京王線の明大前までの区間を、4回に分けて踏破してきました。さらに残った明大前から四谷大木戸までを、昨年11月にやっと完了しました。

玉川上水の鷹の台-三鷹の区間は2010年4月3日に歩き、として記事にしました。

       鷹の台-三鷹(クリックすると大きな地図になります)

この区間にある境橋において、玉川上水から分水した千川上水が始まります。
境橋の北東方向に左下写真のように緑地帯が見えます。これが千川上水の始まりです。玉川上水事典の千川上水によると、
『(千川上水は)玉川上水の完成から42年後の元禄9年(1696)に開削された。開削の目的は、湯島聖堂、上野の東叡山、小石川の白山御殿、浅草寺御殿への引水にあった。』とあります。
その後、何回も廃止・再開を繰り返したようです。最後は昭和41年(1966)まで使用していました。
『かつては、産業用水として、明治8年(1875)創業の王子製糸をはじめ、板橋浄水場にあった陸軍の火薬工場、王子村紙幣寮抄紙工場へ用水を利用。その外、水車による精米、小麦やそばの製粉、農業用水は20ヵ村に波及し水田面積100㌶、取水制限の際には、「番水約定」のもと、樋口には水争いを避けるため村役人も昼夜立ち会うのである。
平成元年(1989)高度下水処理水を日量1万㌧放流、水量の70㌫は善福寺川へ、30㌫は板橋に至り、流末は石神井川である。』
右下の写真で千川上水の始端に水が流れている様子が見られます。この水が、遠く板橋の先で石神井川まで流れ着いているのです。
 
千川上水

下の図は千川上水の全体図です。青抜き部は開渠、黄色部は暗渠を意味します。


玉川上水の境橋で千川上水の起点を眺めて以来、いつかは千川上水も踏破したいものと考えていました。そして今回、その計画が現実のものとなりました。

まずは5月25日、千川上水の起点である境橋から、環八との交差点までの約8kmを歩くことができました。以下がその記録です。



私は歳で体力が落ちているので、余計な徒歩区間を極力減らそうと考えています。わが家から境橋までについては、中央線の武蔵境駅からバスを利用して移動しました。

境橋の交差点で玉川上水の側から、千川上水の開渠の起点方向を見たのが下の写真です。前方の緑地がそうです。写真の手前から緑地までの間の地下部分に、昔は玉川上水からの分水の暗渠が走っていたのでしょう。




開渠のスタート地点(下写真)の近くに、上写真の石碑が建っています。上記平成元年の放流開始を祝った石碑でしょう。


千川上水起点(境橋)から関前5丁目交差点までの間には、蛍橋と樋口橋があります。


蛍橋に至るまでの水路が、上写真と下写真です。


関前5丁目交差点において、上水は暗渠として地下を流れています(下写真)。


関前5丁目交差点から武蔵野大学前交差点までの間には鎮守橋があります。下の3枚の写真は、鎮守橋の手前部分の水路です。






武蔵野大学前の交差点を過ぎてすぐのところに、下写真にあるような石橋供養塔と庚申塔があります。

説明書には「五日市街道と千川上水が交わるこの地に、古くから橋が架けられていまた。天保12年(1841)に、石橋に掛け替えられた。その完成を記念して、石橋供養塔が建てられた」とあります。五日市街道は、新高円寺付近から西進し、ここ武蔵野大学前の交差点に至っています。

武蔵野大学前交差点から関前橋交差点までの間には、葭窪橋、千川橋があります。
下の2枚の写真は、武蔵野大学前から葭窪橋までの間の水路です。


この区間、下の写真のような構造が何カ所か作られています。何を模したものか不明ですが、分水の分岐点を模したものかもしれません。調べたけれどわかりませんでした。


千川上水は、関前橋交差点を経て電通研究所前交差点までは、大きな通りと並行して走っています。電通研究所前からは、大きな道路とは並行しない流路となります。電通研究所前交差点から更新橋交差点までの間には、三郡橋、西窪橋があります。
下の写真は、三郡橋と西窪橋の間の区間です。


トイレに行きたくなりました。どうも千川上水の流路には公衆トイレが設置されていません。更新橋の交差点で南に下り、トイレを探しました。交番で聞いたら、近くの体育館にトイレがあるとのことです。近くの運動場(武蔵野陸上競技場)ではどこかの学校の運動会が開かれていました。


すぐ近くに説明書きがありました(下写真)。説明によると、戦前・戦中はこのあたりに中島飛行機の武蔵製作所があり、当時の中島飛行機の運動場が、現在の陸上競技場になったとのことです。




更新橋交差点から吉祥寺橋までの間には、西北浦橋、北浦橋、桂橋、東北浦橋があります。下の写真は西北浦橋です。


吉祥寺橋付近で、千川上水は左に折れ曲がります。下の写真で、後方の緑地が折れ曲がった下流部分、近い方の緑地が折れ曲がる前の流路部分です。


この付近において、千川上水の北側は広い畑地となっています(上写真、下写真)。


吉祥寺橋から石神井西中交差点までの間には、上水のすぐ北岸が私有地であるような地域があります。そのような場所では、上水に私有の橋がかかっています(下写真)。


この付近の水路です(下写真)。


石神井中交差点から関町1丁目交差点までの間には、田中橋、久山橋、竹下橋があります。下の写真は久山橋と竹下橋の間です。


関町1丁目交差点で、千川上水は青梅街道と交差します。そして、この交差点の上流側は原則として開渠でしたが、この交差点から下流側はそのほとんどが暗渠となり、千川上水をたどることができなくなります。「千川上水緑道」としてたどれる場所は迷いません(下写真)。


そこから先は、道路名が「千川通り」とあることのみが頼りです。
左手に上石千川児童公園が現れました。

上の写真にあるように、この場所には昭和40年頃まで水車が回っており、区内でも一番最後まで、上水を利用し、粉が碾かれていたのです。公園内には水車の形をした遊具もあります(下写真)。


通りの南側に、水タンク塔とおぼしき建造物が見えてきました(下写真)。千川上水と関係があるのか不明ですが・・・・。


千川通りが西武新宿線の線路を横切る踏切において、忽然と千川通りが開渠として出現します。

上の写真は、下流側から上流側を見た写真です。夏草が生い茂って分かりづらいですが、この生い茂っている部分が開渠です。同じ場所から下流側をみたのが下の写真です。線路の下を開渠がくぐっています。


踏切をわたって線路の北側へ行くと、下の写真のように、「千川上水橋梁」の下をくぐり、その場で暗渠にもぐってしまいます。


ここから先、千川上水の開渠を見ることはできず、さらには「千川上水緑道」すら見ることができません。
下の写真は、井草4丁目交差点までの間、通りの北側の風景です。この先に「ちひろ美術館」があるようです。


今回は、井草4丁目交差点を過ぎ、千川通り沿いにさらに環八との交差点まで歩きました。起点からの全体距離は8km弱と思います。最寄りのバス停(八成橋)から荻窪駅までバスで移動し、そこからは電車で帰宅しました。
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レッド・ストーム・ライジング再読

2022-05-27 23:25:51 | 歴史・社会
トム・クランシー著「レッド・ストーム作戦発動(ライジング)」(
文春文庫 1987年第1刷
この本が出た直後に読んでいたと思います。今から35年前です。
当時のソ連とNATO軍の間の全面戦争(通常兵器)を描いたものです。
なぜ全面戦争になったのか。アゼルバイジャン人の反政府グループ数名により、ソ連の石油精製基地と大油田が破壊され、ソ連での石油供給が危機的な状況に陥りました。この危機に際し、ソ連中枢の政治局は、「それでは戦争を起こしてNATO諸国を屈服させ、その上で中東の石油を頂戴すれば良い」との結論に至りました。
主戦場は、東ドイツ国境から西ドイツになだれ込んだソ連陸軍と、NATO陸軍との陸戦です。
第2の戦場は、米国から欧州への軍需物資海上輸送を舞台とする、米海軍(空母、巡洋艦、原子力潜水艦)とソ連空海軍(長距離爆撃機、潜水艦)との戦いです。
第3の戦場は、アイスランドです。

現実に起こっているウクライナ戦争との関連で、何か得るところがあるのではないか、ということで、この本を読み直してみました。35年も経っているのに、戦争の実態は現代とさほど変わらないように感じました。
気がついたところを列挙してみます。

《ソ連における重要な政策の決定メカニズム》
政治局会議に、政治局員と政治局員候補が出席します。この小説の主人公の1人が、政治局員候補のセルゲトフです。セルゲトフは、まだ対NATO戦争が計画されていることを知らされていません。
国防大臣が話し始めました。「ペルシャ湾を奪う前に、まずやるべきことがある。政治的および軍事的勢力としてのNATOを除かねばならないのだ」
さらに外務大臣の発言を聞き、セルゲトフは、すでにKGBが中心となって政策が決定済みであることを理解しました。
セルゲトフが発言します。「われわれにNATOを打ち破る力があるのですか?」
「もちろんだ」と国防相が答えます。「何のために軍があると思う? われわれはすでにおもだった司令官と協議した」

共産党一党支配のソ連時代と、プーチン専制の現代のロシアとで、誤った情勢判断のもとでの誤った政策決定がなされる様子がよく似ていることを感じました。

《戦闘の計画》
国防相は、「目的は二週間で、たぶんもっと早く達成できると推定している。しかしNATO軍の力もかなりのものだろうから、推定日数を二倍にして30日と見よう。」とします。
ソ連軍は今から4カ月間で完全に戦闘作戦準備を整え、突如としてNATO軍に対して奇襲を仕掛ける計画です。

この小説の主人公の1人が、ソ連の南西戦域軍副司令官のアレクセーエフです。南西戦域軍総司令官との会話での発言です。「奇襲に失敗すれば、われわれは大規模な消耗戦を余儀なくされるでしょう。1914年から18年にかけての戦争のハイ・テクノロジー版というわけです」
ソ連海軍がアメリカからのNATOへの再補給を阻止できること、という条件もくわわります。

以上を読んでいて、プーチン専制ロシアの政策決定の様子と、当初は短期決戦を目指しながら実現せず、消耗戦に陥っている現状とあまりにも似ているのでびっくりします。

《米国フリゲート艦 対 ソ連潜水艦》
アメリカ海軍対潜フリゲート艦<ファリス>のモリス艦長は、この小説の主人公の1人です。
フリゲート艦と、艦搭載の対潜ヘリコプター、P3Cオライオン対潜機の共同作戦で、ソ連のフォックストロット級潜水艦を1隻、撃沈しました。
「(フリゲート艦の)艦橋要員はみんな笑顔を浮かべていた。・・・彼らにはまだ、自分たちと同じような青年を100人も殺すのを手伝った、北大西洋のものすごい水圧でその生命を絶ったのだ、という意識はなかった。」(上・433)

日本のニュース番組は、ウクライナ戦争のニュースで、ロシアの戦車が破壊されている写真を何気なく放映しています。砲塔が外れるほどに破壊された戦車では、搭乗していた4人の兵士は遺体も残らない状況で死亡しているはずです。死亡したロシア兵にはそれぞれ母親がいます。ニュース放映は、死亡したロシア兵とその母親を悼む気持ちが皆無であることに、私は違和感を覚えます。

《ハンブルグ郊外での戦闘》
計画では36時間でハンブルグ郊外へ達するはずでしたが、いまだにぜんぜん達していません。ソ連軍の損害は予想の2倍に近いです。NATO軍も兵器をいちじるしく消費しています。(上・488)

(ソ連側の評価)「北部はこのところ膠着状態です。現在もっとも深く侵入している距離はわずか100kmあまりにすぎません。予定はすっかり狂い、損害は予想をはるかに上回っています。双方ともですが、わが軍の方が甚大です。われわれは、NATO軍の対戦車兵器の恐るべき性能を過小評価していました。砲兵隊がそれを充分に阻止できないので、わが軍は大きな突破口を開くまでにいたりません。」(上・569)

『眼下に広がる破壊はすさまじいものだった。あらゆる道路に焼け焦げた戦車かトラックがあるように思われた。・・・航空機、車両、そして人間の黒焦げの残骸が、絵のように美しいドイツの田園をハイ・テクノロジー兵器の廃品置き場と化している。・・・一つ一つの道路、一つ一つの小村に攻防戦の跡があった。・・・村そのものは、砲撃とそれに伴う火災とでほぼ完全に破壊されていた。』(上・570)

ウクライナ戦争を報じる戦況写真とぴったり同じです。

《西ドイツ上空の制空権》
『(空軍の将軍の説明に)「いまの話だと、NATO軍が制空権を握っているということだな」とアレクセーエフが言った。
「いや、そんなことはない。双方とも握っていない。戦線上空を敵が支配することはわれわれの地対空ミサイルが拒んでおり、われわれによる支配は敵戦闘機が--彼らの地対空ミサイルと、それから味方のミサイルに助けられて!--拒んでいるのだ。戦場の上空はどちらのものでもない」死者のものだ、と空軍の将軍は思った。』(下・17)

ウクライナ上空の制空権がときどき話題になります。「ロシアは制空権を確保していない」ということです。小説における上記記述は、陸上戦闘を支援するに際しての制空権の実態をよく説明していると思いました。地対空ミサイルが跋扈している地域では、どちらも制空権を確保することができないのですね。

《ソ連軍の前線司令部》
『(ソ連軍の)師団本部では、作戦士官が師団への無線連絡網を使って新しい命令をあたえはじめた。
川のむこう側5キロのところで、155ミリ砲を擁するドイツの砲兵1個中隊が満を持していた。かれらは鳴りを潜め、通信傍受の専門家が敵師団本部の位置を突き止めるのを待った。そして砲手はすばやく目標データを射撃管制コンピューターに入れ、ほかの者が高性能炸薬の詰まった砲弾を装填した。中隊のすべての砲が同じ箇所に狙いを定めた。つづけざまの射撃が始まり、大地が震動した。
ものの2分と立たないうちに、師団本部の中や周囲に100発の砲弾が落下した。幕僚の半数が即死した。』(下・63)

ウクライナ戦争で、ロシアの参謀総長が最前線を視察した際、ウクライナ軍によって指揮所が砲撃され、参謀総長は難を逃れたが負傷、指揮所の200人がやられた、というニュースがありました。この小説における上記情景と同じことが再現されたのでしょうか。

《NATO軍の対戦車ミサイル》
(アレクセーエフ)「問題はあの軽量の新しい対戦車ミサイルだな。3名の乗るジープは、道路を疾走し、さっと狙いをつけて、ミサイルを1発か2発発射すると、こちらが反撃する前に去っていき、数百メートル離れたところで、同じことを繰り返す。以前、防御火力はあんなに強くなかった。」(下・170)
「四輪車に3人が乗り、1人が運転、1人が装填、そして1人が発射を受け持ちます。道路の曲がり角の木に隠れて、待ち受けるのです。わが軍の縦隊が見えると、そうですね、2kmの距離からミサイルを発射します。かれらは指揮官の戦車--アンテナを立てたやつ--を狙うように訓練されています。ミサイルが命中して、それが最初の警報になることもしばしばです。かれらはもう1回発射してさら1台破壊し、こちらが砲撃せよと連絡する前にさっと逃げていきます。5分もすると、今度はべつの場所から同じことをやるのです。」(下・192)

ウクライナ戦争では、携帯型対戦車兵器ジャベリンが大活躍しています。1人が肩に背負い、もう1人が操作します。自動追尾なので正確に狙う必要がなく、その点で小説の対戦車ミサイルと相違します。一方、小説の対戦車ミサイルは、訓練を積んだ射手が射撃すれば甚大な効果を発揮するわけで、その点ではジャベリンの現代と同じような効果を発揮していたようです。

《ドイツの戦車部隊》
「同行の歩兵部隊はスティンガー対空ミサイル隊を配置し」(下・446)

ウクライナ戦争でスティンガー対空ミサイルの話を聞きますが、35年前にすでに実戦配備されていたのですね。

この小説の「著者のノート」によると、著者のトム・クランシーは1983年、ウォー・ゲーム「ハープーン」を考案したラリー・ボンドと知り合い、さらに「ハープーン」のシステムを使った「会戦」マクロゲーム「コンヴォイ-84」を使って「北大西洋の戦闘」を戦わせることを話し始めました。このアイデアに基づいてできあがったのがこの小説です。
もし現代版のウォー・ゲームがあれば、ウクライナ戦争についても極めて正確なシミュレーションができそうです。
しかし、ニュースでの解説を聞いていると、40年近く前のウォーゲームの方がよっぽど、正確に戦闘の状況を予測しているように思われます。
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私の履歴書・里中満智子さん

2022-05-22 13:05:50 | Weblog
日経新聞の5月の「私の履歴書」は、マンガ家の里中満智子さんです。
5月21日の「(20)国際交流 ソウルで深めた相互理解 アジア各地で毎年サミット」2022年5月21日 日経新聞
に、おもしろい記事が掲載されていました。
95年、韓国のマンガ家から、「ソウルに来て大臣に会ってもらいたい」と頼まれました。日本の漫画の海賊版が多くて困っているのだが、改善されないので、日本の作家から直接、政府に働きかけてほしい、ということでした。里中さん1人では力不足と思い、ちばてつやさんと一緒に行きました。そこでのエピソードです。

『歓迎会で聞いた韓国のマンガ家の話も興味深かった。彼らの多くは日本の漫画に親しんで育ってきたが、それが日本人の作品だと知ったときは「ショックで一週間くらい落ち込んだ」という。
「日本人は鬼だと聞かされて育ったから、これほど感動的な漫画を描けるとしたら日本にいる同胞だろうと思った。でもマンガ家が全員、同胞というのもあり得ない。悩むうちに気づいた。自分は人から聞いた日本人像に囚われて、リアルな日本人を知らないのだと。そこで思い切って日本に行って、日本人と話をするうち、日本人イコール鬼ではなく、当たり前の人間なのだと分かった」と言われた。』

韓国における反日教育がいかに徹底しているかがこれでわかります。このエピソードは95年に聞いた話ですが、現在でも反日教育が同じように続いているのだとしたら、韓国人の過半が、「日本人は鬼だ」と心から信じていることになります。
大統領が反日の人から親日の人に代わったとしても、韓国という国が親日に変わることはできないでしょう。国民が許しません。

今回の「私の履歴書」にはもう一つ、おもしろい話題が掲載されていました。
上記、韓国のマンガ家との交流がベースとなって、「アジアMANGAサミット」がスタートしました。
『台湾の漫画研究者にこう言われた。「日本の漫画のヒーローに世界が感動するのは、自分と関係のない人のために命を懸けるからだ。他の国のヒーローは、国家や友人や家族など自分と関わりのある人のために頑張る。」漫画から国際的な相互理解が深まることは大いにある。』
ヒーローが命を懸ける動機には、日本と諸外国の間にこのような相違があったのですか。これは新しい気付きでした。
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第2次上海事変と南京事件

2022-05-14 12:17:41 | 歴史・社会
阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ」については、このブログで第1回第2回として記事にしました。

その第2回でも記載したとおり、第二次上海事変については、その後の泥沼の日中戦争の発端となったし、また直後の南京大虐殺の契機にもなった事変でしたが、日本ではさほど知られていませんでした。
このブログでは、『上海での第百一師団(2007-08-28)』、『加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)(2009-01-29)』において、第二次上海事変の戦線に送り込まれた日本軍兵士たちがどのような体験をしたのか、秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)」の記述に基づいて言及しました。
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)
 なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第101師団がその好例で、上海占領後の警備を担当するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水の中で加納連隊長らが戦死した。
 『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞い込む戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れた加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さに耐えかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
 日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目覚めた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。
 ・・・
 ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。」
《第2次上海事変状況図》

第2次上海事変が起きたのは、蒋介石が「日本軍と闘って日本を上海から追い落とす」という明確な意思を持っていたからです。
ドイツに指導された強固な縦深陣地を、上海市を取り囲むように築き、同じくドイツ製の最新兵器で武装した精鋭部隊を配置しての戦闘開始でした。少なくとも上海で守備に就く日本海軍特別陸戦隊を殲滅する目標は有していました。その目標は達せられませんでしたが。

それでは上海戦前、日本はどのような戦略を有していたのでしょうか。
孫氏の兵法に従うのであれば、「敵を知り己を知る」ことが重要です。蒋介石が上海の周辺に強固なトーチカ陣地を構築していること、その陣地及び蒋介石軍は、ドイツの指導とドイツからの輸入兵器によって強力な戦闘力を保持するに至ったことを、日本軍は知っていたのか知らなかったのか。阿羅健一著書によると、ドイツの指導及び陣地の構築を、日本軍はうすうすは感づいていたものの、その実力が非常に高いレベルに到達していたことには何ら気づいていなかったようです。

簡単に済むと思っていた上海戦でこのような苦戦を強いられたことは、日本を逆上させました。戦闘は上海で終わらなかったのです。
上海戦は最後、11月5日に日本の第10軍が杭州湾に上陸することによって大きく動きました。中国軍は、杭州湾への日本軍上陸を知って一気に崩れたのです。中国軍は潰走しました。
杭州湾に上陸した第10軍司令官の柳川平助中将は、独断で南京攻略に進撃しようとします。その上の中支那方面軍司令官の松井石根大将ももともとは南京攻略論者でしたから、柳川中将に引きずられていきます。参謀本部は当初南京攻略に反対でしたが、結局は現地軍の意向に引きずられ、南京攻略を許可してしまいます。
そしてその南京で、南京虐殺が発生してしまいます。
秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)」の記述
ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。

石射猪太郎氏は、大正から昭和初期の外交官です。
石射猪太郎著「外交官の一生 (中公文庫BIBLIO20世紀)」については、こちらこちらで紹介しました。
このブログの石射猪太郎日記(3) 2008-11-30に、以下の内容を紹介しました。
石射猪太郎日記
石射 猪太郎
中央公論社

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昭和13年1月6日
○上海から来電,南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ。

南京でなぜこのような惨事が発生したのか。上記に述べたとおりです。
盧溝橋事件が収束に向かっていたとき、蒋介石は上海で日本の海軍陸戦隊に対して戦いを挑んできました。第2次上海事変の勃発です。日本は増援部隊として、陸軍を派遣し、上海の北の海岸に上陸しました。日本陸軍は、上海付近の中国軍は弱小であると見くびっていたのですが、実はドイツの指導でドイツ製の武器を装備し、縦深陣地を築いて待ち受けていたのです。
日本陸軍は思いもしなかった激戦で甚大な被害を被り、1万5千人からの戦死者を出しました。思いもしなかった損失で生き残った日本兵は復讐心に燃え、そのまま南京に向かって惨事を引き起こしました。

さて、第2次上海事変とそれに続く南京虐殺の話、現代のウクライナ戦争に繋がります。
ロシアは戦車隊によってウクライナに攻め込みましたが、その戦法たるや、一本道を一列縦隊で進行するのみです。「優勢な敵に遭遇するはずがない」との前提がなければ成り立ちません。ところがウクライナ軍は、アメリカ提供のジャベリンなどを装備し、一列縦隊の戦車に襲いかかったのです。ロシア軍の被害は、ウクライナが公表する映像から明らかです。見えるのは、破壊されたロシアの戦闘車両ばかりです。戦車の砲塔が吹き飛んでいれば、乗員4人は遺体も見つからないでしょう。戦死者は、第1次上海事変の日本軍の戦死数を上回っているようです。
思いもかけぬこのような惨状に遭遇して、ロシア軍の兵士が逆上して残虐になったとしたら、それは第2次上海事変当時とよく似た状況といえます。
ウクライナが公表しているロシア軍による残虐行為は、プーチンが命じているわけではなく、司令官が命じてもいないと思われます。現地の末端の兵士たちの精神が正常ではなくなった結果として行為が発生し、上官はそれを黙認している、というのが実態ではないでしょうか。

ウクライナにおける今回の悲劇は、プーチンによるロシア軍のウクライナ侵攻がその原因ですが、惨状を大きくしているのはウクライナ軍の善戦でロシア兵に甚大な被害が発生したことに起因しています。

「戦争は、起きてしまったら泥沼である。戦争が起きないように最大限の努力を払うべきだ。」という点を、今回は身にしみました。
プーチンの侵攻を思いとどまらせるため、アメリカとウクライナはNATO加盟を目標としないことを明らかにすべきだったし、アメリカは参戦するかしないかをあいまいにしておくべきでした。
それに加えて、ウクライナ軍がどの程度に強力化しているのかについて、プーチンにわかるように明確化しておくべきだったと思います。強力な軍隊を保持する目的は、実際に戦争をして勝つためではなく、「抑止力」を発揮するためであり、抑止力になるためには、相手方に当方が強いことを認識させることが必須だからです。
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知床遊覧船とアマチュア無線

2022-05-11 21:24:09 | 知的財産権
日常的にアマチュア無線使用、電波法に抵触も 観光船「KAZU 1」運航会社
5/10(火) 日テレNEWS
『北海道の知床沖合で観光船が沈没した事故で、運航会社が船との連絡手段として、本来は業務での使用が認められていないアマチュア無線を日常的に使っていたことがわかりました。』
『一方、不備が指摘されている連絡手段について、観光船「KAZU 1」の運航会社は、事故以前にも日常的にアマチュア無線を使っていたことが関係者への取材でわかりました。
アマチュア無線を業務で使うことは電波法で禁じられています。
国交省は、小型旅客船への緊急対策として、全国の事業者に運航基準の徹底と、常時通信可能な通信設備の確実な積載を求めることを表明しました。』

知床連絡船事故とアマチュア無線の関係について、やっとニュースが出始めました。
私が「知床遊覧船の通信手段 2022-04-30」で記事にしたように、沈没したカズワンはアマチュア無線機器を搭載し、当時知床連絡船の事務所はアンテナが折れていて無線が繋がらなかったが、同業他社の人がその人の施設に設置したアマチュア無線機器でカズワンの船長と連絡が取れ、その同業者が118番通報した、という事実が報道されていました。その後、「アマチュア無線」というニュースが出なくなっていたのですが、今になって再度出始めました。

「携帯電話」「衛星携帯電話」も無線による通信ですが、ここで「無線」という場合、携帯や衛星携帯は意味せず、狭い意味での「無線通信」が該当します。会話を行う双方が、特定の周波数で電波通信を行うトランシーバーを設置し、トランシーバー間で直接に通話を行うやつです。携帯のように間に基地局を介さず、衛星携帯のように間に人工衛星を介していない点で相違します。
アマチュア無線も、「無線」の一種です。ただし、操作できる人はアマチュア無線技士資格取得者に限られ、会話の内容に業務連絡を含むことはできません。従って、カズワンが事務所との業務連絡にアマチュア無線を用いていたのであれば、明らかに違法です。
しかし、アマチュア無線というのは魅力なのですよね。簡単に入手でき、しかもトランシーバーが安価です。違法に手を染めたくなる気持ちはわかります。

合法的な無線通信手段は、おそらく「国際VHF」と呼ばれている無線の規格でしょう。船舶側が「船舶局」、陸側が「海岸局」として認められる必要があります。5W規格の船舶局の運用には3級海上特殊無線技士(3海特)、海岸局、25W規格の船舶局の運用には2級海上特殊無線技士(2海特)の資格が必要です。

今から20年ほど前、私が山口県で暮らしていた頃、私が関係していたヨットハーバーで、無線機器を正規のものに整備しようとの話が持ち上がりました。そのヨットハーバーを拠点とするヨットクラブで、海上のモーターボート(指導・救助船)と陸側の待機所(ヨットハーバー)の間での無線通信を目的とします。まずは、海に出る関係者の全員が3海特の資格を取得しました。全員が1ヶ所に集まり、1日の講習と検定試験で資格を取得することができます。次に、ヨットハーバーを運営する団体の職員2名が2海特の資格を取得しました。ヨットハーバーに設置予定の海岸局を運用するためです。
ところが、海岸局の設置がなかなか進みません。ヨットクラブ側としては、自分たちのヨットクラブの仲間内での通信を目的としています。ところが、聞いてみると、海岸局というのは、私的な集団が仲間内で使うような運営は許されず、設置する海岸を含む沿岸での半ば公共で用いる無線局が要請されていたようなのです。ヨットハーバー側にはもともとそんなつもりはありません。行政側と連絡を取りながら計画を進めていたはずなのですが、行政もその点に気づくのが遅かったのかもしれません。
結局、私が関係していた期間内には、そのヨットハーバーに国際VHFの海岸局、船舶局は開設されませんでした。3海特、2海特の資格だけは取得したのですが・・・。
ちなみに私も1日の講習で3海特を取得し、「これだったら勉強すれば上の資格も取得可能だ」と気付き、勉強して資格試験を受け、1海特を取得してしまいました。

船舶と陸側との間で正規の無線を運用しようとすると、以上のようなめんどうなことが待っているようです。こっそりとアマチュア無線に手を出してしまう気持ちもわかるというものです。

私は子供の付き添いで、ジュニアヨットの大会出場のために各地のヨットハーバーを回りました。琵琶湖大会では、地元の琵琶湖ジュニアヨットクラブが世話をしてくれました。使っていた無線機器は、市民バンドでした。これなら合法です。しかしうわさでは、市民バンドというのはトラック野郎に独占され牛耳られている、ということでしたが、実態はどうなのでしょうか。
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知床遊覧船事故

2022-05-03 14:22:36 | 歴史・社会
先日、遭難した知床遊覧船の通信手段について記事にしました。
船には船長の携帯電話が備えられていましたが、遭難して沈没する直前、船長の携帯は圏外で通話不可でした。同業他社の人が自分の施設で(アマチュア無線らしき)通信手段を用いて船長と連絡が取れ、緊急事態ということでその人が118番通報しました。ドコモは通話できたらしく、船長はドコモの携帯を所有している乗客から携帯を借り、ごくわずかな通信を行いました。
確かに通信手段は極めてお粗末でしたが、では、本来装備していた衛星携帯電話(事故当時は故障で使用不可)が機能していたら状況が好転したかというと、結論的には何の助けにもならなかったでしょう。船が水没するまでの僅かな時間、アマチュア無線や乗客の携帯での通信実績とほとんど変わらない程度の通信しかできなかったはずです。

今回の極めて悲惨な水難事故は、「当事者が海を甘く見ていた」ことに尽きます。
○ 他社の遊覧船はまだ営業しておらず、当日は当該船のみが運行していた。
○ 出港時は穏やかだったが、知床岬から折り返した頃に予報通りに強風と荒波に襲われた。最寄りの港(ウトロ港)は遠く、自力でたどり着くことは困難。
○ 沈没前に船外に脱出しても、海面を漂うしかない。水温は5℃以下で、1時間程度しか生存できない。
○ 天気予報に対応して、漁船も出航を見合わせており、付近には救助に向かえる船が皆無だった。
これでは、どんな通信手段を備えていても、乗客乗員が助かる可能性は皆無です。また、同社の運行基準に基づいて運行管理者(社長)が事務所に勤務し、無線連絡手段が生きていて定点連絡を実施したとしても、午前中に港に戻るように引き返さない限り、今回の遭難は防げませんでした。

船長はなぜ出港し、社長はなぜ出港を認めたのか。またなぜ早々に引き返さなかったのか。おそらく、船長も社長も、海の恐ろしさを知らなかったのでしょう。
社長が海の恐ろしさを知らなかったら、船長を任命するに際し、たとえ船長が海の恐ろしさを知らなかったとしても、任命してしまうでしょう。
今回の遭難事故の原因は、突き詰めると以上に集約されてしまいます。

今後、事故の再発防止のための制度作りが始まるのでしょう。
議論は、「マニュアル作り」の方向に進む可能性があります。しかし、船長やその任命者が海の恐ろしさを知らない場合に、マニュアルだけで事故を防止することは困難です。もしやろうとしたら、極めて安全サイドのマニュアルしかできないでしょう。そして、マニュアル通りに運用したら、遊覧船はほとんど出航できなくなる可能性もあります。
今回も、同社の運行基準には、「予報などで波高が1.0メートルに達する恐れがある場合は出航を中止」と定めているにもかかわらず、出航したのですから、マニュアルを作っても守られなければ何もなりません。

ところで、カズワンの前任の船長が語ったという記事があります。
知床遊覧船沈没 前船長の悲痛告白「引継ぎもろくにできないまま」桂田社長の“散財”、社員との衝突、そして解雇通告… 4/30(土) 文春オンライン
前船長が同社に入社したのは約12年前のこと。同業他社の船長や地元の漁師たちに操船を教わりました。前船長が初めて舵を握るまでに、3年の月日を要したといいます。
「僕の他にもう1人の船長、営業担当、事務員、駐車場係など計4名の顔なじみのスタッフがいました。その方たちと一昨年のシーズンまで、遊覧船『KAZU I』と『KAZU III』を運航してきました」

2017年5月、高齢となった創業社長が、約4000万円で事業を譲渡。その経営権を買い取ったのが、地元のホテルチェーン「しれとこ村グループ」の代表取締役社長・桂田精一氏(58)でした。
2021年3月、前船長とその他の従業員が解雇されました。
「前船長の後を継ぐことになったのが、甲板員になってわずか3カ月の豊田徳幸氏(54)だった。」
「突然の解雇だったため、引継ぎもろくにできないまま、ウトロを後にしました。それまで豊田さんには、船の操縦や機器の使い方を説明したこともありましたが、僕がかつて教わったように、つきっきりで指導したわけではありません」

遊覧船の船長が具備すべき資格については以下の記事があります。
船舶に二種免許はないのか? いまザワついている船の疑問にバスマガ記者が解説! 5/2(月) ベストカー
小型船舶とは総トン数20トン未満の日本の船舶のことで漁船は除き、基本的に船長一人で操縦できる船舶だ。小型船を操縦するには小型船舶操縦士の免許が必要。
小型船舶操縦士の免許は一級と二級、特殊小型(水上オートバイ)の3種に分類される。航行できる区域の違いで二級は平水と海岸から5海里以内で一級には制限がない。
免許の区分はこれだけ(年齢による限定免許等は除く)だが、旅客船や遊漁船の操縦をする場合は特定操縦免許という免許が別途必要。試験はなく小型旅客安全講習を受講すれば取得できる。この講習はほぼ1日かかり、海難時の救命や本物の救命いかだを使用して内部の艤装品(備え付けの備品)を知り、その後の漂流にともなうサバイバル術を学ぶ。

今回の事故では、遭難後のサバイバル術では生還できない状況です。出航する/しない、途中で撤退する/しない、の判断のみが重要でした。

私は、1990年発行の四級小型船舶操縦士免許(旧四級)を持っています(失効中)。旧四級は現二級に対応するようですので、免許を更新して有効化した上で、小型旅客安全講習を受講すれば、私も知床遊覧船の船長資格が得られるのですね。それだけで、海水温5℃以下の知床の海に、乗客20人を乗せて船長として出港するなど、あまりに無謀すぎます。
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